30 沈み星のショール
勘違いかもしれない。
そう思ってあらためて窓の外を窺えば、赤い看板のパティスリーも、馬車のマークの帽子屋も、行きつけだったジャクロス・フェルマイナー……隠れ魔法使い、違う、隠れ魔女ベネスの仕立屋も、記憶の中の姿と寸分も違わない。
そして何より、その奥で空に向かってそびえ立つ灰色の鐘楼と、寄り添うように並び立つ白い尖塔。
「……間違いなく、王都の大聖堂と、王宮ね」
「そうですよ」
自分を観念させるための独り言に、上品な声が返事をくれた。お茶がはいったようだ。
「カールロットのお嬢さんには懐かしい街並みでしょう。どうです、久しぶりに、馴染みの方にお顔を見せてきては」
摩りガラスの向こうから見つかるはずもないのに、私はフードを被ったまま早足で窓から離れた。店の奥、濃紺のショールを巻き付けたマネキンの横のテーブルへ着くと、目の前のすました顔に向け、苦々しさを隠しもせずに言い返した。
「ご冗談を。もし私が街を歩けば、衛兵が押し寄せてくるわ」
「あら、なら“沈み星のショール”はいかが。夜空に飲み込まれた星を見つけるのが難しいように、使用者を“探す者”から隠してくれて、誰にも邪魔されずに動き回れますよ」
流れるような仕種でポットを傾けていたヴィエリタの、口の端が上がる。マントを脱いで膝に置いた私はそれを訝しみ、そしてぎょっとした。隣のマネキンからひとりでに離れたショールが、目の前に這いよってきたのだ。しゅるりと、蛇のように。
「ちょ、急に何を……」
「ただ貴重な品ですから、あまり安い値段では渡せませんね。でも、あなたが望むなら、そうね、ここまでは値引きいたしましょう」
慌てる私をよそに、ショールがテーブルクロスの上で輪を作る。その輪の中心に、ぼんやりと数字がにじみ出て、溶けるように消えた。そしてまたすぐにそれより小さい数字が浮かび上がる。ちょうど、さっき契約書で見た数字。持参した呪具の、買取金額だ。
「……ずいぶん見くびられたものね、私も」
私は相手の意図に気がついて、自然と声が低くなった。誘惑するように首を――蛇に例えたらたぶん首に当たるだろう部分をもたげたショールを、退けるようにテーブルの端に寄せる。
「代金はほとんどフラウリッツの作った分の対価じゃない。人のお金で勝手に買い物するほど、私は恥知らずじゃないわ」
「あら、フラウリッツはきっと怒りませんよ、今回も」
私は短い時間、女店主を睨み付けてから、「彼の寛容じゃなく、私の矜持の問題なの」と言って目の前に置かれたカップに手を伸ばした。
「あらお上品なこと。いいの? 次に来たときは、他の魔女に買われているかも」
「気遣いをどうも。けれど私以外みんな動物になれるのに、なぜ人の目を欺くショールを買う必要が?」
「あらあら、そうね、動物になれない魔女は今のところ、あなたくらいでした」
「……なるほど、カールロットの娘がお嫌いね?」
一口飲んでから皮肉げに口角を上げてやると、ヴィエリタは口を手で覆ってころころと笑った。
「そりゃ、わざわざ好いてはいませんけど、別に父親を理由にあなたを差別するわけでもありませんよ。だいたい魔女と非魔女を見分けることもできない魔女狩り公爵など、私たち本物の魔女が何を恐れる必要がありましょうか。ここ最近国王側に捕まった本物の魔女といえば、魔女ジュールシアこと、フラウリッツのお師匠ぐらいでしょう」
「そ、そう」
品良く笑いながらズケズケと断じる様子に気圧されてしまった。ロザロニアやダリエルとは違う意味で、この魔女も正直なものだ。
無意識にマントを胸で握りしめていると、それに気づいた女店主は「あら、もうお帰りの時間?」と聞いてきた。私はこれ幸いとそれに乗ることにする。
「私としては、いい商品を持ってきてくれて、さらにうちの商品を買ってくれるなら、なにも文句などありませんよ。またのご来店、お待ちしていますわ、魔女レダリカ」
「……ありがとう。ごちそうさま、魔女ヴィエリタ」
来たとき同様の優雅な笑顔に見送られる。裏口を通って中庭に出ると、赤茶の壁に大きな穴があいていて、ずっと先の光の点まで闇が続いていた。消えたはずの洞窟にまた挨拶をして、私は帰路についた。
抱える籠から、チャリチャリと音がする。皮袋に包まれた金貨と銀貨が擦れる音。
なるほどね、魔女はこうして生活費を稼ぐわけだ。
「……あのショール、もう少し値引きしてもらえないかしら」
誰もいない暗闇のなかで、私はぽつりと呟いた。