23 洗礼
*
「ねぇ。あんた洗礼受けたのに名前変えさせなかったって聞いたけど、本当?」
厨房で鍋の中を見つめていると、そんな声が背後の出入り口から聞こえてきた。隣の調理台で芋の芽をとってくれていたロザロニアが、視線だけをこちらに向けてくる。
私は振り返らずに、低い声で答えた。
「本当よ」
靴音高く近づいてきたダリエルは、「はぁ、なんで?」と問いを重ねてきた。長くて太い三つ編みが視界に入る。彼女がすぐ横に来ていた。
横目で見遣ると、上半身を包む暖かそうなケープの裾から白い紙製の箱がはみ出している。
こちらにしてみれば、今日は食材を発注していないはずなのに、なんであなたがここにいるのと聞きたいところなのだけど。
「だって、名前が変わっちゃったら“カールロット家の魔女”だってことがわかりにくくなるじゃない」
「そうじゃなくて、なんでフラウリッツはそれを認めてんの? 名付けは、それまでの真っ当な人間だった過去と、これから魔の道に進む未来を切り離す区切りだってのに。それに何より、師匠が決めたら弟子に拒否権なんてないもんよ」
「……ダリエル」
私が心の声を抑えて答えたことは、的外れだったらしい。たしなめるように口をはさんだロザロニアは、ダリエルに睨まれて口をつぐんだ。
そう。
本来なら、私の名前は“レダリカ”ではなくなるはずだった。
しかし、今でも私の名前は変わっていない。どこかでそれを聞きつけたダリエルは私がフラウリッツにワガママを言ったのだと思い、物申しにきたのだろう。
鍋の蓋を少しずらして置く。がち、と金属がぶつかる荒い音がした。ダリエルが鼻をならして矛先を変える。
「ロザロニアも、なんか言いなさいよっ。あんただってきっぱり呼び名も名乗りも、フラウリッツにもらった名前に変えたじゃないの」
「……フラウリッツがレダリカの希望を尊重すると決めたんなら、それこそ私が口出すものじゃないだろ」
肩をすくめたストロベリーブロンドの魔女に、ダリエルは「かーっ、甘いんだから!」と頭をかいた。
「……でも、名前を変えるのは戒律で決められてるわけじゃないでしょ」
ぼそっと呟いた私に、なんのことだと言いたげな二人の目が向けられる。
指を何度か鳴らしてかまどの火を調節しながら、私は朝食後に行われた『魔女の洗礼』を思い出していた。
*
「生まれてから死ぬまでに受ける“魔女の秘蹟”は三つ。魔女として生まれ変わるための“洗礼の儀”と、一人前と見なされる“餞別の儀”。それから、亡くなるときの“臨終の儀”」
「……なんだか教会で受ける秘蹟と似通ってるわね」
連れてこられた城の片隅に、四方を木々に囲まれた小さな東屋があり、六角形の屋根の下には大理石で作られた大きな水盤があった。
底がカーブを描く水盤へ指示通り蜂蜜酒を注ぎ淹れる私に、フラウリッツは抱えてきた鍵付きのケースから出した銀色のゴブレットを磨きながら「そうかもねー」と軽く応じた。
「教会が行う成人の儀が、こっちでいう餞別の儀みたいなものと考えればね。ま、餞別もいずれ行うけど、王都での成人祝いみたいな華々しさは期待しないでおくれ」
「しないわよ」
「よかった。あ、でも、レダリカの成人の儀はちょっと見たかったな。貴族の女の子はみんな真っ白なドレス姿で、舞踏会が開催されるんでしょ? 綺麗だったろうねぇ」
さらりと言われたことに顔が火照った。つい「白は、あんまり似合わないのよ。翌年のルゼの方が様になってたわ」と、かわいくないことを言ってしまった。
私の態度にフラウリッツは複雑そうな笑みを作ると、ゴブレットを渡してきた。空になった酒瓶をベンチに置いて受け取る。植物の模様が側面を覆っているが、至ってシンプルな杯だ。
「レダリカはさ、洗礼しても、名前は変えたくないんだろ」
ゴブレットの飲み口を指でなぞっていた私は、その言葉に弾かれたように顔をあげた。
「それは、まあ」
口ごもるのは、それが許されることではないと薄々感じていたからだ。フラウリッツはそんな私の心の内を知ってか知らずか、普段と変わらない穏やかな瞳を向けてきた。
「昨日言ってた気持ちは変わってない? 長生きする気ある?」
その確認は、どういう意図だろう。疑問はわいたが、素直にうなずく。……できるかどうかは、また別問題だと思うけど。
「そう。じゃあ名前、そのままにしとこうか」
あっさり受け入れられたことに驚く私を置いて、フラウリッツはコツコツと水盤の縁を指先で叩いて注意を促した。
「洗礼の方法だけどね。僕が呪文を唱えると、この中の蜂蜜酒が赤くなる。それをゴブレットで掬って飲んでくれ。量はご自由に。ただし、必ず一口は飲み込むこと」
説明するフラウリッツはいつも通りだが、私はいよいよだと思ってにわかに緊張してきていた。覗きこんだ水盤は、黄金色の酒に満たされている。
「洗礼って言うけど、別に蜂蜜酒を浴びるわけじゃないのね、よかった」
「浴びるよ」
「え?」
「気を付けてほしいのは、儀式を始めたら僕が『もういいよ』って言うまで、一言も話さないこと」
「えっ? えっ?」
「じゃ、いくよ。黙って」
制するように手を向けられて、私はそれこそ魔法にかけられたように言葉を失った。それを確認したフラウリッツの手のひらが、水盤の上に移動した。
「『魔法使いフラウリッツより、古き精霊へ送る。汝この声をたどってきたならば、』――」
低い声が紡ぐ呪文を聞くのは、初めてだ。フラウリッツは今までどんな魔法を使うときも無言で済ませていたから。
こっそり聞き惚れていた私だったが、意識はすぐに耳から目へと移った。水盤の中心から、ぼこぼこと気泡が生じ、蜂蜜酒が徐々に赤く染まっていったのだ。息を飲んで見守る、というより呆気にとられるうちに、蜂蜜酒はワインより濃い赤の液体に変わった。
……私、これを飲むの?
触るなとは言われていないのに、私は液体が手につかないよう、慎重に掬った。すると磨かれた銀製のゴブレットは、液体が触れた部分だけが黒々と変色していった。
……これ、毒じゃないの?