2 回想
『いいことレダリカ、誰よりも賢く、誰よりも美しい女におなりなさい。どんなときでも動じずに、優雅に微笑んでいなさい』
ああ、お母様。私は、レダリカは何をしてしまったのでしょう。私は冷たい石の床に座り込んで、呆然と幼い頃の記憶を反芻していた。
『あなたはカールロット公爵の娘なのだから。この国の、未来の王の妻にと、誰よりも望まれてしかるべき人間とおなりなさい』
ああ、お母様、ごめんなさい。そんな怖い顔をしないで。
これは七歳のとき、一つ年下の異母妹であるルゼが屋敷に迎えられた日にお母様から言われたこと。それまで一人娘のことには無関心だったのに、突然私を呼び出してこう諭してきたのだ。静かに、何度も、何度も。それ以外に何を言われたか思い出せないくらい、同じことを言っていた。……というより、それ以外に言われたことが特にないのだ。お母様が一年後に事故で亡くなるまで。
もともと、国内でも指折りの名家に生まれた以外には大して取り柄もない私だった。引っ込み思案で消極的で、親しく話せる友人もほとんどいなかった。お母様の暗い情念ともいえた望みは、私には尊大すぎる野望だった。
しかし私は反論しなかった。できなかった。お母様の変貌はお父様が隠し子を連れてきて、かつその子を私より気にかけていたからだというとことは、幼心にもなんとなく察したし、同情したからだ。
そして何より、そのときのお母様の視線に込められた怒りと恨みと憎悪が、私の心をきつく縛り上げたのだ。
カールロットの正妻の娘が、愛人の娘に遅れをとるなんて論外。その気迫のこもった目は、以降もたびたび夢に見た。
かくして、身分以外に何も持っていなかった私は、それから血のにじむような努力に向き合うこととなった。この国のすべてを手に入れるのにふさわしい、王妃となることを望まれる女になるために。
それはお母様の死後も、解放されることはなかった。私は夜明けと共に、いや、冬は夜明けより早く起き出して本を開き、靴擦れを無視してダンスの練習に明け暮れ、美容にいいと聞いた化粧水はどんな遠方からでも手にいれて片端から試していった。
王太子妃に選ばれる女になれ。その言葉が、お母様から唯一受け取った思い出だったからだ。
十年ほど続いたそんな生活は、お父様が幾人もの家庭教師を呼び寄せてさらにお膳立てしていったせいもあって、いつしか苦に感じるいとまもなくしていた。無我夢中だった。
分刻みのスケジュールに忙殺されていたお陰で、貴重な、ほぼ唯一と呼べる友人とも、いつの間にか疎遠になっていた。もうどんな子だったかも思い出せないが、私は言葉にならない喪失感から目を背けてピアノの練習に励んだ。
その間、当の妹ルゼはほったらかしにしてしまっていた。お父様は彼女には公爵家として必要なだけの教育を施したようだが、私ほどには詰め込まなかった。
いや、私は何度か、一緒に勉強しないかとルゼを誘った。姉妹で話せる時間を作れない代わりになればと、そう思ってだ。母が憎んでも、妹だった。
が、その度にルゼは愛らしい笑顔で「お姉様と違って、ルゼには必要ありませんもの」と言って庭へと走って行ってしまったのだ。揺れる金髪が、庭の緑によく映えて、ことさら眩しかった。私は羨ましさと寂しさに蓋をして、歴史書や家系図録を机に積んだ。
そんな私の努力は、別にお父様に誉めてもらえるわけでもなかったが、成果は王太子であるヴァンフリート様との婚約内定という形で現れた。
当時、私は十七歳、殿下は十八歳。昨年のことだ。
それは、自分のしてきたことは間違っていなかった証明だった。全部肯定された瞬間だった。未来の王妃として国に望まれた、お母様、あなたの望んだ通りのレダリカになった!
――それを喜ぶお母様の顔をうまく想像できなかった。見たことが無いからだが、それについて自分を振り返る時間なんてもちろんなかった。
なにせ、王太子の妻に、ヴァンフリート様の妻になるのだから。
その身分の尊さはもとより、彫刻のように端正な容貌の方だった。高くて貴重な化粧品を、顔の部位やその日の天気で細かく使い分け、なんとか作り上げた顔でどうにか『王国の黒曜石』と言われる私とは根本が違った。
それどころか、武芸に秀で頭脳明晰、自信に裏打ちされているからか、立ち居振舞いも堂々としている。『獅子の王子』と呼ばれるのも納得の佇まいだ。
こんな方の妻になるのだと思えば、自然と背筋に力が入った。人前に立ち並ぶとき、王太子を熱く見つめる令嬢の視線が一人や二人ではないと気がつけば、明日は朝食を抜いてもっときつくコルセットを締めようと心に決めた日もあった。とりとめもない雑談のさなかで殿下が興味を示した事柄について、勉強を欠かさなかった。予習していないことを自責さえした。その場で聞くなど『私は無知です』と宣言しているようなものだと思った。
何より気を遣ったのは、どんな焦燥も努力の痕跡も表に出さないようにしたことだった。そんな無様は晒せなかった。逆に、人前で歯を見せて笑うこともまた、人前で泣きわめくのと同じくらい無作法だったから、楽しい話題の時であっても一分の油断もできなかった。
次はあれをやらなきゃ。これをやらなきゃ。頭の中はいつもそんな考えで満たされていた。生活は息つく間も無く、満たされていた。楽しかったかどうかは関係ない。幸せだった。努力の末に望みが叶う。こんな素晴らしい人生ほかにあろうか、いやない。
――それなのに、今は暗くて冷たい地下牢にいる。
ああ、お母様、私は、いったい、どこで、どう間違えたのでしょう。