無極流兵法 ― 無手勝流 ―
無極流兵法の泥之助と、同門の雷蔵とのお話しです。
唐土への憧れが垣間見えます。
ハーメルンにも投稿しています。
無極流兵法 ― 無手勝流 ―
享保八年(1723) 五月。夜が明けると、前日の雨が嘘のように晴れ渡っていた。
土子泥之助は、長屋の戸を全て開け、風を通した。朝一番の清々しい空気が、日本橋の荷降ろしの活気ある声を運んで来る。
泥之助は、あちこちに痛みの残る体をほぐす様に、大きく肩や腰を回した。
「あいつ、凄い漢だったな」
泥之助は声に出して呟いた。それは、昨日水戸屋敷近くで仕合った、大和拳法の使い手、折野隆龍の事である。無手での打ち合いで自分と互格だったのは、彼が初めてである。大概の侍は、無手の時には柔で投げようとして来るので、泥之助の牽制の一撃で伸びてしまう事が多い。勿論、投げや極めも出来るので、相手は手の内を読み切れず、初手の突きが決まってしまうのである。泥之助は陰では「不用二打」の二つ名を冠されている。
泥之助は腹で大きく息を吸うと、細く長く吐きながら、"気"を全身に巡らせる。手足の先から熱を帯び、やがて全身が温かくなる。息を吐き切った時には、体の痛みはかなり治まっていた。土子家秘伝の「行気養生法」である。
「長い伸びだね」
声を掛けられて、初めて人がいるのに気付いた。はす向かいの大工の女房である。
「うちの宿六が寝坊してさ、朝ごはんも食べずに仕事に出て行っちまったんだ。余りもんで悪いけど、良かったら食べておくれ」
女房が差し出したのは、結構大きな魚の干物である。
「こんな立派な干物を頂いて良いのでござるか?」
「是非食べとくれ。どうせあの瓢六玉には味は判んないしさ」
女房が笑って言うので、泥之助も笑って受け取った。
「それでは、お言葉に甘えて」
泥之助は干物で贅沢な朝餉を終えると、四畳間の真ん中に座り、刀を引き寄せた。抜こうとすると、少し引っ掛かる。泥之助は、顔をしかめながら刀を抜いた。
彼の四尺刀は、切っ先二寸が無くなっていた。断面の左側が少しめくれているのが、鞘の内で引っ掛かるらしい。神道春雨流の間垣に、見事に切り落とされた。泥之助は改めて、間垣の腕を認めると共に、己の油断を恥じた。
「さてと、行くか」
泥之助は刀を納めると、腰に差して家を出た。
空は五月晴れであったが、地面はまだ昨日の雨の名残で、所々に水たまりがある。朝日を受けてきらめくそれらを避けつつ、泥之助はまず神田に向かった。
神田は通油町の仕出し料理屋 「魚十」へ行くと、名物の甘い玉子焼きを二人前買った。
そこから今度は上野に向かって道を取る。寛永寺の五重塔を望みつつ、不忍池を北へ回る。山王院辺りは、春ともなれば桜目当ての花見客でごった返す名勝地であるが、葉桜の今はゆったりとした散歩道である。池を渡る風が心地良い。
山王院脇の小道を少し奥に入ると、民家から離れた林の中に、『但馬』の看板を揚げた鍛冶屋がある。裏寂れた風情だが、腕が良いので常連客が多く着いている。
「裏寂れてて、悪うござんしたなあ」
その声に泥之助が振り返ると、浅黒い武骨な男が立っていた。ざんぎり頭に白い物が目立つ。
「すいません三木さん。聞こえましたか?」
「独り言にしては大きすぎるで」
三木はそう言って笑った。彼は本名は辰造というのだが、播磨の三木から来た、という事で、皆から「三木さん」と呼ばれている。江戸に来て二十年以上になるが、今だに播州弁はそのままである。播磨なのに何故但馬なのか、と尋ねたら、出所(生まれ)が但馬だからだと返された。
「あ、これお土産です」
泥之助は、玉子焼きを三木に差し出した。
「お、魚十やな。この甘いのがええねん」
「二人前ありますから、しっかり食べて下さい」
「ありがとう。堪能するわ」三木は笑って玉子焼きを受け取った。「そう言えば、三日程前やったかな、ヘキさん来はったで」
「おろ、ヘキさん江戸に来てるのでござるか?」
泥之助は目を丸くした。「ヘキさん」とは、泥之助の十三歳上の従兄で、真壁雷蔵という。元は豪農の息子だが、泥之助の父に才能を見出され、一羽流に第子入りした男である。
「一緒に連れて来たのが、唐土の武人とか何とか言うとったで。何でも、長崎で武芸を見世物にしてたんやて。でな、あちらの武芸の剣を研いで欲しいいうて、見た事無い剣を持って来よったで。ほら、これや」
三木は、すぐ横に置いてあった剣を取り、スラリと抜いた。打ち出した鉄板を研いだような両刃の剣である。
「そうでござるか。あの人も不思議なご仁でござるな」
「ところで、お土産まで持って来て、そんな雑談をしに来た訳や無いやろ?」
三木が笑って言うのに、泥之助は黙って刀を抜いた。途中で少し引っ掛かる。
刀を見た三木は、暫く絶句した。
「何をどうしたら、刀がこないなんねん!」
「そう言わんで下さい。拙者も反省しているのでござるよ」
「折角の備前の業物が大無しやな」
「この刀、銘が無いのですが、判るんですか?」
「まあな。わしも長船で修行したさかい、少なくとも備前とそれ以外は見分け付くで」
「そうですか…」
「とりあえず、これを直せっちゅう事やな」
「お願いしたいでござる」
三木は頷いて刀を受け取った。
「二十日は見といてくれ」
「判りました」
「替わりの差し料は…」
三木が工房を見渡している間に、泥之助は手近にあった刀を掴んだ。
「拙者はこれで十分でござる」
泥之助はそう言ってその刀を腰に差すと、振り返らずにその場を去ってしまった。
「おいおい、それ、竹光やで?判るやろ?」
三木は大声で言ったが、泥之助はそのまま行ってしまった。
三木の工房を出た泥之助は、山王院の門前で後ろから声を掛けられた。
「あら、泥さんどうしたの、こんな所で」
泥之助が振り向くと、そこには大仲屋恵が包みを抱えて立っていた。
「おろ、恵殿。拙者はこの先の鍛冶屋に用があって来たのでござるが、恵殿こそどうしたのでござるか?それも供も無しで」
恵は、日本橋に店を構える呉服問屋『大仲屋』の看板娘である。
「私は、この山王院のご住職に頼まれた、金欄のお袈裟の修理が済んだから、お届けに来たの。今日はお届け物が多くて、お供の子達も出払っちゃってるの」
「また荷物があるのでござるか?」
「また新しいお袈裟をお預かりしたの」
「商売繁盛でござるな」
「貧乏閑無しよ」
恵はそう言って笑った。
と、不忍池の方からざわめきが聞こえて来た。
二人が騒ぎの方へ行ってみると、弁天宮の遥拝所近くで人だかりがあった。
十人ほどのやくざ者達が、二人の男を取り囲んでいる。地面には、二人の男が倒れていた。そのうちの一人は、右肘があらぬ方向に曲がっていた。
その光景を目にして、泥之助はこめかみを押さえた。
「全く、何をやっているのでござるか」
「泥さん、お知り合い?」
「従兄でござるよ」
泥之助は溜め息混じりに言うと、恵をそこへ留めて、騒ぎの中心に向かって歩き出した。
「ヘキさん」やくざ者達の頭越しに、泥之助は声を掛けた。「何をやっているのでござるか?」
「俺は何もしてねえよ」真壁雷蔵は大きく首を振った。「このちんぴら共が、俺の連れのウーさんに難癖をつけやがったんだ」
ちんぴら呼ばわりに、やくざ者達の中で怒気が膨れ上がった。
「お侍さん、あんたにゃあ関係のねえこった。お引き取り願おうか」
頭目らしい男が、泥之助を睨めつけた。
「それが、そうも行かないのでござるよ。不肖の従兄なもので」
「不肖って言うな」
雷蔵が文句を付けた。
「そのウーさんは、唐土の方でござるか?異国からの客人なら、手厚くもてなすのが礼儀なのでは?」
そう言った泥之助の顔に、手の甲が飛んで来た。泥之助は顔を小さく動かして避け、右手で把み受けると、流れるように相手の肘に左手を添え、逆を極めつつ地面に引き倒した(※1)。男は後頭部を強打して、気絶した。極められた肘も外れ、ヘンな方向に曲がっている。
「済まぬな。いきなり来たから、手加減が出来なかったでござる」
泥之助は澄まして言った。
その顔を見て、頭目が目を細めた。
「あんた、どっかで見た顔だな」
「どこにでもある顔でござるよ」
しれっと答えた泥之助に、別の男が殴り掛かった。大振りの拳を潜りながら被せるように右腕で押さえ、脇を絞る(※2)。ゴリッと音がして、あっさり男の肩が外れた。
「おい、お前ら、俺とのケンカじゃなかったのかよ」
雷蔵は言いつつ、一気に相手との距離を詰める。匕首を持った男が突いて来るのを紙一重でかわしつつ、その動作のまま肘を腹に打ち込む。男は吹っ飛んで俯せに倒れた。
「相変わらず、ヘキさんの『頂』は間合いが近い」
泥之助がそう呟いた時、唐土の男にちんぴらが殴り掛かるのが見えた。
唐土の武人とは、どんな技を使うのか?
泥之助は思わず見入る。
武人は相手の右拳を左手刀で受けつつ、右の踵で下腹を蹴り抜いた(※3)。腰砕けになった相手の後頭部に右手刀を振り下ろす(※4)。ちんぴらは地面に叩きつけられ、気絶した。
「てめえっ!」
匕首を持った男が武人を突いた。武人は冷静に左に踏み出しつつ左掌で切り下とすように匕首を逸らせる。その左掌が翻って男の脇の下を打つ。同時に武人の腰が廻り、左足を支点にして男の体を引っくり返した(※5)。男は後頭部から地面に落ち、これも気絶した。
「凄い!」
泥之助は素直に感心して、それが言葉に出た。
「唐土の技は、突きと投げが連係してるんだ。すげえだろ!」
雷蔵が興奮ぎみに言った。
「あーっ、お前!」
急に頭目が大きな声を出したので、その場の全員の動きが止まった。
「どうしたのでごさるか、大声を出して」
そう言う泥之助の顔を、頭目はまじまじと見詰めた。
「間違いねえ。あんた、市松組を解散させた、土子泥之助だな?」
「まあそうでござるが、良く知っているでござるな」
「俺は市松親分の下にいたんだよ。もうあんたとは関わりあいたくねえ。おいお前ら、帰るぞ」
頭目は、手下どもを促して逃げるように去って行った。
「何だい泥、お前有名人じゃないか」
雷蔵がからかい口調で言う。そこへ、恵が駆け寄って来た。
「泥さん大丈夫?それにそちらのお二人も」
「ああ。こちらは全然。それより泥」雷蔵は更ににやけ顔である。「可愛い娘じゃねえか。お前のコレか?」
雷蔵は下司に小指を立てる。
「そうです」
泥之助の答えを待たず、恵がそう言うと、泥之助の肩に小さな頭を乗せる。
「おや、泥も隅に置けねえな」
雷蔵の言葉に、一瞬固まっていた泥之助は、顔を赤くしながらそっと恵から離れた。
「それよりも、その異国の人は一体何者でござるか?見事な武芸の持ち主だ」
泥之助は照れ隠しに早口で尋ねた。大いに興味をそそられたのも事実である。
「ああ、この人はウー(呉)さんって言ってな、うちの小作人なんだ」
雷蔵の説明によると、ウーさんは元々は長崎の出島で、家業でもある武芸を見世物とする大道芸人であったが、そのまま日本に住むようになり、知人を頼って江戸崎まで流れて来たらしい。穆斯林、即ち回教徒である。
「さっきの技、見ただろ?凄い技だ。色々な流派で教えを受けたが、日本ではあまり類を見ないものだ。回族、つまりウーさんの一族の秘伝武術で、査拳って言うらしい」
「確かに見事な技でござった」
「だろ?今から、その技を教えて貰おうと思ってな」
「ところで、ウーさん」泥之助は素朴な疑問を口にした。「そなたは、唐土から来たのでござるな。彼の国にも、そなたの査拳以外にも武術が色々とあるのでござるか?」
「あります」ウーさんは頷いた。「威継光という人が、和寇に対抗する為に集めた。たくさんウーシューがある」
「ウーシュー?」
「唐土の言葉で、武術の事だ。俺は、それをこの目で見てみたい。いつか、唐土へ渡ってみたいもんだ」
雷蔵はそう言って笑うと、ウーさんを促して歩き出した。
「じゃあな、泥」
「へキさん、夢が叶うと良いですね」
泥之助は、立ち去る雷蔵の背中に声を掛けた。雷蔵は背中越しに手を振った。
そんな二人を見送って、恵がにこやかに口を開いた。
「ねえ泥さん、お店まで送って下さらない?だって、何だか物騒なんだもん」
終
20181015了
註
※1 無極流兵法 「肱蔓」
※2 無極流兵法 「枝違」
※3 査拳 「右 蹬脚」
※4 査拳 「右 劈打」
※5 査拳 「白鶴亮翅」(股打の用法)