あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り328回です。
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り3647回です】
十歳の誕生日、視界の下にそんなメッセージが見えるようになった。目を瞑ってもこすっても、その文字は消えない。
「かずき、お誕生日おめでとう。今日はかずきの好きな生姜焼きにしたからね」
母が笑顔で、作りたての料理を食卓に並べる。豚の生姜焼きとこふき芋、だし巻き卵の入ったおにぎり。
僕はなんの気なしに、いつも通り料理に箸をのばした。生姜のきいた豚と、控えめに味付けされたこふき芋――大きなおにぎり。
そしてそれらを食べ終わる頃、僕はその異変に気付いた。
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り3646回です】
「あれ?」
数字がひとつ減っている。僕は首を傾げた。母が不安そうな顔をする。
「どうしたの? 生姜焼き、おいしくなかった?」
「ううん、そうじゃなくて……数字がね」
母親の手料理を食べられる回数が減った。十歳の僕は、母にそれをうまく説明できなかった。「母親の手料理」という言葉にもいまいちぴんと来ていなかったのだろう。
その頃はまだ、親の手料理なんていくらでもいつまでも食べられると信じ込んでいたのだ。
……けれども僕は、その根拠もない自信を少しずつ疑い始めた。
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り3645回です】
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り2851回です】
母の手でつくられた食事をとるたびに、数字がひとつずつ減っていく。一食食べるごとに、ひとつ。食事ではなくおやつでも――たとえばホットケーキミックスで作られたマフィンを食べても、やはりそれは手料理としてカウントされた。
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り1652回です】
――親の手料理は、いつまでも食べられるわけではない。
だって、いつか親と「離れる」時がくるのだから。
やがて。僕はひとつの、確信的ともいえる仮説にたどり着いた。
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り999回です】
――この数字がゼロになった時、母は、死ぬ。
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り328回です】
三食きちんと食べたとして、数字がゼロになるまで残り四カ月を切った頃。僕はついに、母の手料理を食べなくなった。数字がゼロになれば母は死ぬ。ならば、僕が母の手料理を食べなければいいのだ。
僕は徹底して、母の出す食事に口をつけなかった。自分で料理するようになったし、面倒な時はカップ麺やスナック菓子で済ませた。「それじゃあ身体に悪いから」と母が用意してくれたおにぎりでさえ、手を付けずに流しに捨てた。あるいはトイレに捨てて食べたふりをするようになった。
食べたふりをするために、食事の時は自分の部屋にこもり、両親の前には姿を出さないようにした。
ある日、トイレに行こうかとリビングの前を通りかかった時、母が父に相談しているのを聞いた。
「かずきがね、私のご飯をぜんぜん食べないのよ。お弁当も要らないって言うし……」
「反抗期なんじゃないか?」
父は、母の相談を重く受け止めていないようだった。かずきももう中学生だしなあ、と明るく笑い飛ばす。母はどこか納得していないようだったが、そんなものなのかしらと呟いた。ただ、悲しそうな顔をしていた。
そうじゃない、と声を大にして言いたかった。僕だって本当は、母の手料理を腹いっぱい食べたい。玉ねぎを多めにいれた肉じゃが。市販のものよりコクのあるカレー。豚の生姜焼きとこふき芋。焼き菓子。具を多くいれるせいで少しいびつになるおにぎり。
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り328回です】
だけど僕がそれを食べるたびに数字が減るんだ。ゼロになれば、母は死んでしまうんだ。
父も母も当然そんなことは知らなくて、特に父はのんきな顔をして母に言った。
「そういや母さん、最近なんか痩せたか? あごがすっきりして見える」
「そう? ダイエットの効果が出たのかしら」
僕はそっと、その場から離れた。違うのに違うのに違うのに。ただ、そう思い続けた。
僕が母の手料理を食べない理由も母が痩せている理由も、そんなのじゃないのに。
結局、父も母も僕の話を一度たりとも真剣には聞いてくれなかった。僕はそのうち、母が今生きているのは僕のおかげなのだとすら考えるようになった。やがて本当に両親に反抗するようになって、彼らとはほとんど口も利かなくなっていった。
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り328回です】
数字が減らなくなってから九年。内定先の会社の都合で、僕は家を出ることになった。正直ほっとした。これでもう両親と顔を合わせることもないし、「うっかり母の料理を食べてしまう」危険もなくなる。
母は寂しそうに笑いながら、荷造りを手伝ってくれた。たまに出てくる仕様もないおもちゃを見ては「これは誕生日の時に買ってあげたやつね」と言ったり、卒業アルバムにいる僕を懸命に探したりする。僕の顔を撫でる母の指先は、優しい動きをしていて。
――母の背中はこんなに小さかっただろうか。
ふと、そう思った。
「引越センターが大体のことはやってくれるし、あとは自分でできるから。引っ越し先まで来なくていい」
ぶっきらぼうにそう言う僕に、母はタッパーのようなものを差し出した。
「これ、移動中にでも食べて。あんたすぐになにも食べなくなるから」
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り328回です】
「……ああ」
僕は奪いとるようにしてそれを受け取り、車に乗り込んだ。走り出す車に、母はいつまでも手を振り続ける。角を曲がって完全に僕の姿が見えなくなるまで、ずっと。
道中にあったコンビニに車をとめ、母がくれたタッパーを開いた。コンビニのおにぎりよりもひとまわり大きいおにぎりがふたつ、ラップにくるまれ入っている。なんとなく具の想像はついた。僕が一番好きだった鮭と、母特製のだし巻き卵だろう。くたくたになった海苔は、いくぶんラップに張り付いているように見える。
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り328回です】
僕は。
母のくれたそれを、コンビニのゴミ箱に、捨てた。
それからは、ただただ時間が過ぎていった。僕は実家に電話することも帰省することもほとんどなく、目の前の仕事に没頭した。食事は、コンビニやファストフードで済ませることも多い。味気ない食事も、慣れてしまえばなにも感じなくなるものだ。
母からは毎年、年賀状が届いた。デジカメを買ったらしく、自分で撮った写真を年賀状にも使用している。一年で両親の容貌が劇的に変わることはなく、けれど五年前のものと比べればやはり老けたと思ったりもした。
たまに実家から送られてくる野菜なんかは、職場の人に配ってまわった。少しでも数字を減らさないよう、少しでも母が元気でいられるよう。
ある日、母から送られてきたみかんを受け取った同僚が、早速その皮をむきながら言った。
「望月さあ、ちゃんと飯食ってんの? やつれてんぞ」
「最近ちょっと食欲なくて。でも元気だから」
「そうかあ? そういや、こないだの健康診断はどうだった?」
「ああそういえば……なんかの項目に引っかかってさ、再検査要って書かれてた」
みずみずしい温州みかんのかおりを嗅ぎながら、僕は答えた。もともと血糖値が低かったり貧血だったりするため、健康診断ではいつも何かしらの項目で引っかかる。だから僕は今回もなんとも思わず、深く考えず、衝撃も受けていなかった。
けれど。
「――スキルス性のがんです。若い分、進行も早い」
僕は。
「……望月さん」
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り328回です】
「余命、三か月です」
その言葉の本当の意味を、知った。
『自宅』と登録された番号を探し、通話ボタンを押す。そこに電話するのは二十年ぶりだった。昔から変わらない呼び出し音が何度か続いたあと、ぷつりと音が途切れる。
『――もしもし? かずき?』
電話の向こうで懐かしい声がした。いや、昔より少し声が低くなっているような気もする。
僕が何も言わないものだから、母がもう一度声を出した。『もしもし?』
「……久しぶり。元気にしてんの」
平静を装うつもりが、上ずった声が出た。けれど、母は気にならなかったらしい。高揚したような――どこか嬉しそうな声が聞こえてくる。
『元気よう。お父さんも元気。ちょうどね、そっちに遊びに行ってみたいわあって話してたところなの。なんていうんだったかな、ほら、そっちで流行ってるパンケーキあるでしょ。この前テレビで観てね、お父さんが珍しく食べてみたいって言うから――』
母が息継ぎをするところで適当に相槌をうちながら、僕は「その意味」を考えていた。
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り328回です】
これは、あと三百二十八回母の手料理を食べれば、母が死ぬという意味ではない。
けれど恐らく、僕が死ぬという意味でもない。
ただ単純に、純粋に。「手料理を食べられる回数」を示しているだけだ。
……テレホンカードの残度数と同じようなものなのだろう。残っているのが五十度なら、あと五十回電話することができる。けれど五十回電話した後は、誰かが死ぬわけでも公衆電話がなくなるわけでもない。ただ、そのカードが使えなくなるだけ。電話ができなくなるだけだ。
そして。
たとえ度数が残っていたとしても、そのカードを「紛失」「破損」してしまうことだって、当然あり得るのだ。
カードの持ち主が死んでしまう、その可能性も。
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り328回です】
「……母さん」
ひとりでに盛り上がっていた母の話の腰を折る。母はそれを不快に感じなかったのか、いつもと同じ口調で「どうしたの」と聞き返してくれた。
「今度、俺そっちに帰るから。……なんか作ってよ」
主語が抜けた。けれど母には通じたらしかった。『なんかって……』と狼狽したような声が聞こえてくる。二十年以上、母の手料理を受け付けなかった息子が急にそれを要求してきたことに動揺しているらしい。
『今度っていつよ』
「もうすぐ」
『もうすぐ!? な、何が食べたいの』
「なんでもいいよ」
『よくないわ。好きなもんたらふく食べさせてあげないと。あんたは放っておいたらすぐに食べなくなって痩せちゃうんだから』
母が笑って、僕も笑った。視線の先に見える自分の左手は、以前よりも不健康に見える。「どうにかしてごまかさないと」という思いと「母の料理を食べて少しでも健康的になろう」という気持ちがごちゃ混ぜになっていた。
残り三か月で、僕は、母のご飯をどのくらい食べられるのだろうか。
『――……それで。かずき、何が食べたいの?』
少しばかり不安げな声がした。僕はそうだなあ、と返す。
「肉じゃが」
『玉ねぎ多めね?』
「カレー」
『隠し味にコーヒーね。グリンピースはいれちゃだめ』
「豚の生姜焼き」
『こふき芋と一緒に食べるのが好きなのよね、かずきは』
「ホットケーキミックスで作るマフィン。実はあれ好きだった」
『あらあ、懐かしい。チョコチップと――ホイップクリームもいるわね』
【あなたが母親の手料理を食べられる回数は、残り328回です】
「……あと、おにぎり。妙に大きくていびつなの」
『……中身は鮭と、だし巻き卵?』
泣いているような、笑っているような母の声が聞こえて。
僕もようやく少しだけ。
笑って、笑って、泣いた。