誘い
「俺が、教師に?」
山崎さんは相も変わらず楽しそうな笑みを浮かべて口を開く。
「そう、教師に。教員免許は持ってるでしょ?」
「……あ、持ってたわ」
完全に忘れてた。全く使わないし、普通の職種の履歴書に書いても意味が無い資格だ。
別に欲しいと思ってたわけじゃないけど、大学卒業した時に貰えたんだっけ。とは言っても、普通の教員免許じゃない。
「音楽の教員免許ですよ……他の科目教えれないですって」
持っているのは『音楽』の第1種教員免許なのだ。国語や数学などという広く浅く使える教員免許じゃない、枠がくっそ狭くてしかも採用試験も難関だらけの全く使えない教員免許だ。
「うちの高校、今年で音楽の先生が定年されるから代わりの先生が欲しかったんだよ」
なんとまぁ、虫のいい話だ。音楽教師を目指してる輩なんて腐るほどたくさんいるのに何故俺なんだろうか。
絶対裏がある、この心底楽しそうな笑顔の裏には絶対どす黒い何かがある。
「……その笑みの裏側には、何があるんですかね?」
単刀直入に訊ねた。
「うちの学校ね、吹奏楽の強豪校なんだよ。今の音楽教師もかなり有名な方でね、その後釜に入ろうなんて人は少ないからね」
そんな重要な役回りを俺に任すか?絶対この人阿保だ、恩人だけど言わせてもらう。阿保だこの人。
「無理です、絶対無理です、俺には無理です、どう足掻いても無理です」
吹奏楽を強豪まで導いた高名な教師の後釜を俺が賄える筈がない。
例えるなら、輸送機に載ってMSを難なく撃墜して無傷で生還したアムロの代わりをしてみろって言われたようなもんだ。
俺はアムロじゃない、竜くらいなもんだ。怪我して無理して動いて死ぬみたいな立ち位置だ。
「いやぁ、君ならできるよ」
どうしてこの人はこんなに楽観視できるんだろうか。まあ職にありつけるだけありがたいが、まず採用試験が無理だ。
「確か、音楽教員の採用試験ってピアノもありましたよね?俺の専攻はトランペットですよ?」
「ピアノも少しは弾けるでしょ?」
「ほんと少しだけですよ……猫ふんじゃったが限界です」
マジでピアノは猫ふんじゃったしか弾けない、ピアノはそれほどに難しい。
まず右手と左手、それぞれ別の動きをしなくちゃならない。左手は主に低音、右手は主に高音といった役割だけど、曲によっては全く別の役割まで担う。それだけで頭の中がパンクする。
そして3本のペダル。全体の音を伸ばす、特定の音を伸ばす、音色と音量を変えるといった役割なのだが、そんな器用な真似はできない。
その二つの要素を繊細に織り込み、ありったけの感情を籠める事でやっと綺麗な音が出る。
ピアノが弾ける人は本当に凄い、よくもまぁあんな難しい作業を難なくこなせるもんだ。トランペット何て咥えて吹くだけなのに。
「じゃあ、実技の内容をトランペットにしておくよ。校長権限ってやつだね」
それは……如何なものでしょうかね?職権乱用じゃないですか。やっていいんですか。
「一言もやるって言ってないですよ……」
拗ねたように呟いたその時、
「いや、やるべきだ!君のためにも!」
突然、何か大きな感情を含んだ声で叫ばれた。
先ほどまでの楽しそうな笑みは一瞬で消え失せ、真剣な面持ちだ。
その態度に、思わずたじろぐ。
……俺のため……ねぇ。
初めて他人にそんな事を言われた。俺のためか、本当にそうなのかね。
「……まあ、いきなり言われても困る気持ちも分かる。少し時間をあげるよ」
山崎さんは煙草を灰皿に入れると、ニコッと笑ってまた一言。
「いい返答を、待っているよ」
そしてどこかへ向かって歩いて行った。
俺は山崎さんが見えなくなるまで、ずっとその背中を眺めて立ち尽くしていた。
『いや、やるべきだ!君のためにも!』
さっきの言葉がまだ、脳内で反響している。
あの温厚な山崎さんが、あんな真剣な表情で言ったんだ。
本当に、俺のためなんだろう。俺自身が分かっていなくても俺のためになるんだろう。
どうしていいかわからず、上を向いて空を眺めた。
ビル群に遮られて、少しだけしか見えない空は碧く、雲は自由に浮かんで風に流されている。
『いや、やるべきだ!君のためにも!』
まだ、あの言葉が引っ掛かっている。風に吹かれ形を変えた雲が苦しそうに流されていく。
……どうすっかねぇ。