特設水上母艦 飯豊
1945年3月18日 シンガポール
海軍予備中佐、来島義男は座り心地の悪い椅子に座りながら、窓から見える景色をじっと眺めていた。窓の外にはセレターの港に点々と浮かぶ船達の姿があった。この頃、日本はソロモンでの敗北を切っ掛けとし、トラック、マリアナ、パラオと、次々とその勢力圏を縮小させ、二ヶ月近く前にはついにレイテでの戦いでも敗北している。フィリピンの失陥も間近であると噂されている。フィリピンの損失は日本の国力を支えている南方の回廊を遮断されることにつながる、ここを失われたら日本の敗北は確定する。
だが、フィリピンの存在如何に関わらず南方から内地に向かうことは今や死にに行くことと同義となっていた。というのも、オーストラリアやハワイ、ウルシーなどを拠点とするアメリカ海軍の潜水艦部隊が浸透してきたうえに、大陸側からはアメリカ空軍の爆撃機が飛んでくると言うダブルコンボがあり、いまや南シナ海や東シナ海・・・それもルソン島と大陸との間に位置する海峡は地獄への玄関となっていた。
だが、だからといって行かないわけにもいかない。内地では油、鉄、アルミ・・・いや、それどころかなどありとあらゆるものが不足していた。実は意外なことかもしれないが、1940年当時より日本は食糧自給率はそれほど高くはなく、外地より一部を輸入して賄っていたのだ。そのため、いまや南方からの資源輸送は急務であった。特にフィリピンを失う前に、少しでも多くの資源が!そのため、南号作戦と呼ばれる作戦計画が立案、発動されることが決まった。これはシンガポールなどの南方に残るタンカーや貨物船に出来る限りの資源や人員を詰め込んで、内地に回送するというものであった。そして、そのために海軍は可能な限りの護衛艦艇をさいたらしい。
が、それにもかかわらずタンカー達は護衛艦艇を着けたにもかかわらず次々と消耗していった。そして、アメリカ軍の沖縄上陸が近いと判断された今、決戦に備えるためにも余計な兵力を展開させるわけにはいかないということで、最終便として動けるタンカーや貨物船をひっかき集めて船団を組織し、内地に向かうようにという命令が出た。かくして、3月上旬をめどに内地行きの船団がシンガポールにて編成されることになった。その中に一隻の大型船の姿があった。その名を飯豊という。排水量10000トンの大型艦であった。
「全く、一体どうしてこうなったのやら・・・」
海軍予備中佐、来島義男はそう呟いた。呟いた場所は飯豊の船橋、その船長用の椅子であった。彼が艦長を務める飯豊は今回この船団の旗艦として運用されることになっていた。だが、義男の顔に浮かんでいたのは高揚はなく、むしろ諦観や皮肉であったと言えよう。
「存在しないはずの船の存在しないはずの船長・・・か。」
義男はそれだけいうと視線を飯豊の戦隊に移した。ボロボロではない。が、新品というわけでもない。そこに、不釣り合いに豪華なカタパルトに砲、艦載機、それらを手慣れていないのかのろのろと整備する作業員達・・・ひじょうに釣り合いの取れていないちぐはぐな観がこの船であった。
というのもこの飯豊、元々は日本で建造された船などではない。それどころか一応海軍籍に入ってはいるものの正規の軍艦というわけでもない。何の因果であろうか?この船は元々は敵国たるアメリカで建造されたT2タンカーと呼ばれる戦時標準船であり、その後イギリスに渡ってエスケープベロシティとかいう厨二心溢れる名前となり、運用されていたのだが、1943年の終わりに日本海軍によって拿捕されちまった船だった。拿捕した当初はイングランドの船長が強引に逃げようとしたために、砲撃戦となってボロボロになっていたのだが、外洋航海が可能な船が極端に不足していた日本はこの船を何とか再生したいと考え、ドックに放り込まれた。そんななか、一つの案が浮かび上がった。『この船は折角大きな船なんだし、水上機母艦として運用するのはどうだろう?』当時、日本は水上機母艦の千歳型を空母に改造したり日進や秋津州を損失した結果、水上機をゆそうするための水上機母艦そのものが著しく不足していたのだ。が、いざ修理をしてみると今度は資材が足りず、その資材も戦闘艦艇にもってかれてしまい、修理がいつまでたってもできなかったのだ。と言うわけで、その巨体をむなしく浮かべていたのだが、因果とは不思議なもので、日本の苦境がこの船を救った。
数ヶ月前に生起したレイテ湾会戦において損傷を負った多数の艦艇がシンガポールに錨を降ろしたのだが、中にはキールをやられて航行不能になった艦艇もいた。そのため、そうした艦艇から資材をはぎ取ってこの船を再生しようと現地の技術士官は考えたのだった。戦闘艦艇の部品を元とは言え商船に使う・・・内地のお偉方が効いたら目をつり上げるような行為であるが、現実的に考えればそれがベストであった。ということで、資材を手に入れた飯豊は大車輪で修理改造が行われ、今年の初めにようやく就役したのだった。艦載機も、シンガポールに停泊していた海軍艦艇からかっぱらってきた。どうせ動けないのだ。ならば別に持って言っても文句は言えない市言わさない。
かくして完成した特設水上機母艦飯豊は基準排水量10000トン、速力12ノット、カタパルト一基、艦載機・・・零式水観4、12センチ単装高角砲4門、14センチ単装砲2門というそれなりなレベルであった。
そして、その艦長には来島義男が任命されることになった。と言っても、こいつは別に海軍に入ったわけではない。こいつは商船学校に進み、一般の商船乗りとしてタンカーや貨物船に乗っていた。で、戦争が始まっちまい、当時大連航路をいく貨物船の船長だったこいつは死にたくないからさっさと行方をくらまそうとしたが、果たせず哀れ仮装巡洋艦や給油艦に乗り込んで、戦場をあちこち這いずり回る羽目になったのだった。そして、挙げ句の果てがこれであった。義男は未来を変えたいとか考える気にはならなかった。だってもうズタボロなんだもの。財産は大戦勃発前にドルと外国株に変えて、欧州に行った際にスイス銀行に預けてある。戦争が終わればそれで一財産築いて悠々自適に生きるつもりだった。あくまで、生き残ることが出来れば・・・だが。
「全く、装備だけは優秀と言ったところか・・・」
義男はフウと溜息をついた。装備は豪華なのだ。この船はレーダーだって着いている。それも、日本製のボロなどではなく、驚くことにアメリカ製の高性能品である。ちょっと色々あって放棄されたアメリカの艦艇からかっぱらってきたのである。測距儀だって軍艦からはぎ取ってきたものだし、それなりに使えるはずだ。
「だが、これでもないよりは遙かにマシだ・・・違うかね?」
義男が振り向くと、そこにいたのは宮崎俊介少将であった。この船団の指揮官であった。
「あ、指揮官・・・失礼しました・・・と言うべきでしょうか?」
民間の商船乗りの敬礼をした義男に宮崎は海軍式のきちっとした答礼をした。
「いや、いいさ・・・今更だ。それより、どうかね?」
宮崎はそう言うとウィスキーのボトルを取り出した。ニッカなどの日本製ではない。純粋なスコッチウィスキーだった。シンガポールはイギリスの領土であっただけに、大量のスコッチが確保することに成功していた。おかげで、スコッチは南方帰りのお土産品の定番となったとか言う変なお話がある。
「よろこんで・・・」
義男はニヤッとほほえみ、戸棚からコップを二つ出した。
そして、注がれた琥珀色の液体を一気に煽ると熱い液体が喉を通過した。強いアルコールに義男は思わず咳き込んだ。
「コホッ・・・結構効きますね」
「それが本場というものだ・・・君は商船乗りの予備士官だったね?」
「ええ、スコッチも何度か飲みましたが・・・最近はご無沙汰でしたからね」
「そうか・・・確かにアルコールは回りやすいな。私は少し酔ってしまったようだ。」
ふと、宮崎が言った。
が、彼の顔は全く赤くはなっていなかった。
「だから、ここで話すことは全て戯れ言だ」
「・・・と、いいますと?」
「正直なところどうかね?」
宮崎の眼鏡の奥が怪しく光った。
「・・・帰るようにするのが我々の任務です」
「だが、私は長く戦場から離れすぎた・・・何しろ日露戦争時代の人間だよ君?」
「・・・正直の所、一隻帰れればいい方でしょう。」
「そんなにかね・・・?」
「ソロモンよりかはマシですがね。特にルソン島と台湾との間が不味いです。潜水艦と航空隊の攻撃を受けるでしょう。間違いなく。その時、我々はどんな状態か・・・海にスコールはあるか・・・それで状況は変わるでしょう」
「・・・」
「この戦争は負けですよ。それも盛大な・・・ね」
義男はそれだけ言うとスコッチをあおると、酔っちまいましたので、外で風に当たりますよ・・・とだけいって環境を後にした。
宮崎は何も言わずただスコッチをなめるだけだった。
翌日、船団は内地に向けて出港した。
船団に加入するのは、飯豊の他にタンカーが4隻、貨物船が3隻。
他に護衛の海防艦が4隻に駆逐艦の天津風と朝雲が加入した。
それなりの規模を誇る船団であるが、それはあくまで書類上でしかない。
飯豊はタンカー改造であるし、海防艦も武装は貧弱、駆逐艦2隻もいずれも損傷を受けておりその性能を十全には出せない。特に天津風に至っては艦首を損失し、仮の艦首をつけていた。朝雲はレイテ海戦で西村艦隊に加入していたのだが、艦上構造物の大半が破壊されており、かろうじて機関が無事であったために離脱することが出来たのだった。その後、シンガポールで仮の構造を搭載し、旧式高射砲を仮の備砲として搭載し、船団に加入していた。
出港した船団は飯豊を中心に輪形陣を作り、潜水艦を警戒して陸地ぎりぎりを航行することにした。大陸側の航空隊の支援も受けられるからだ。船団はかろうじて嫌いに触れることなく、最初の目的地として入港することに成功した。ここでサイゴン泊まりの貨物船三隻を切り離し、代わりに護衛艦を一隻加え、次の目的地である海南島に向かうことになった。
サイゴンを出港した船団はいったん沖合に舵を切った。そして朝日が昇る頃、飯豊の甲板では水上機の発信準備が整いつつあった。やがて、飛び出した零式水上観測機は船団の周りをぐるぐると回り始めた。目的は対潜哨戒である。水上機は低速であるがその代わり滞空時間がやや長い。水上機をかわりばんこに発進させて船団の周囲を哨戒させる。こうすることによって潜水艦を水上にいさせなくする必要があった。別に撃沈が目的ではない、水の中では潜水艦のスピードは遅い。8ノットもあればいいほうだろう。それに対して船団の平均速力は約10ノット・・・これならば日中潜水艦からの攻撃は受けにくい。これなら十分に振り切れるため、時間のかかるジグザグ運動は必要ない。代わりに、夜間は潜水艦の近づきにくい陸地に近づく。座礁の危険はあるが、それでも物資や船、乗組員がまとめて失われるよりは遙にマシだ。夜間ならば航空機の爆撃も受けにくい。それは予想通り功を奏した。船団は何とか海南島の喩林に到着、ここで先行したものの壊滅した船団の生き残りの護衛艦3隻と合流、海防艦7、駆逐艦2、水上機母艦1というこの時代の船団にしてはやけに豪華な護衛艦隊となり、船団は一路香港を目指すことにした。途中、何度かスコールや陸の陰に隠れつつ、ついにルソン島の側までやってきた。この頃、ルソン島では陸軍と米軍の熾烈な戦いが続いていた。
ついでに、ここから内陸は連合軍の勢力圏内だ。つまり、上空支援は期待できない・・・
そして、恐れていたときがついに来た。
「西方より機影多数!距離三〇〇!」
電探が敵の爆撃機を捕らえたのだ。
「艦長・・・」
「対空戦闘準備!機関一杯!」
今にもゲロを吐きそうなくらいに青い顔をした義男が叫んだ。
周囲の船も次々と対空戦闘の準備を整えていく。
やがて、西の空の果てから多数の爆撃機がやってきた。
B24コンソリデーター・・・この方面でよく見る爆撃機である。
数はおよそ30。
b24は鈍重だが、まともな戦闘機を持っていない船団にとっては軽く死ねる数の爆撃機だった。
最初に犠牲になったのはタンカー阿蘇川丸(7000トン)だった。
反跳爆撃で爆弾をまともに食らったのだ。
阿蘇川丸に積まれていたのは航空用ガソリンである。ただでさえ発火性の高い燃料を積んでいるのに爆弾をまともに食らったものだから・・・答えは分かるだろう。
激しい轟音と共に火柱が立った。
黒煙と紅蓮の炎が一瞬で船全体を包んだ。
「救助は・・・できませんな」
義男は宮崎に尋ねると、宮崎は頭を振った
「・・・そんな余裕はない。それに、今やるべきことは新たな被害を防ぐことだ・・・!」
義男は暫く燃えさかる阿蘇川丸をみつめていたが、やがて爆撃機が接近してきたという知らせを受けて再び式に専念することになった。
次にやられたのはタンカー鳳南丸だった。
こちらは重油を搭載していたため火災はそれほど激しいものではなかったが、浸水してしまったうえに、機関まで故障してしまった。
宮崎はこれ以上の復旧は不可能だと判断し、鳳南丸に積まれていた物資の一部と乗組員を飯豊に乗せると、朝雲に魚雷で処分するように命令を出した。だが、この命令が履行されることはなかった。
空襲で受けた被害はこれだけだった。こちらが上げた戦果は偶然護衛の海防艦130号の機銃が命中し、一機を損傷させただけであった。
だが、船団は一息つく魔も与えられることはなかった。
この後直ぐに今度は水中から突然数本の白い筋が専断に向かって突っ込んできた。
潜水艦からの魚雷だった・・・。
対潜哨戒がおざなりになっていた隙を突かれたのだ・・・いや、おそらくアメリカ海軍のウルフパックに捕まってしまったのだろう。
魚雷は停止していた鳳南丸に命中した。
5000トンと大型の鳳南丸であるが、爆弾を受けて浸水していたこともあって、破滅は一瞬だった。
船体が大きく割れ。真っ二つになった。
一瞬船首と船尾のスクリューが起立するが見えたが、その後両方ともすぐにスルスルと海中に没していった。乗組員も大半が残った状態で・・・である。
直ぐに海防艦や駆逐艦が爆雷を投下し始めるが、義男をはじめ誰もが無理だと思っていた。
今や大西洋で鍛え上げられたノウハウを持つアメリカ軍である。日本の貧弱な対潜機器では威力は低いだろうから・・・
さらに今度は5000トンのさわらく丸が魚雷を受けた。
魚雷は機関部に命中し、一瞬でさわらく丸の足を止めてしまう。その後はもう言う必要はないだろう・・・乗組員こそ救助することには成功したが、さわらく丸そのものは米潜水艦の滅多打ちに合い、数時間後、海中にその身を横たえることになる。
かくして、生き残った商船は海興丸ただ一隻となった。尤も小型であったが故に狙われにくかったのだ。船団はかろうじて香港に入港できた。が、ここも安住の地ではなかった。
船団が入港してきた翌日にいきなりアメリカ軍の爆撃部隊が香港を襲ったのだ。
これによって海興丸は大破し、着底。戦後の1952年まで撤去されることはなかった。
かくして、壊滅した船団であるが、まだ飯豊には8000トンの重油が積み込まれている。
これは日本にとってよだれが垂れるくらい重要な物資だった。なので、絶対に帰ってこいという命令を受けた。
義男と宮崎はそろって「まァ、分かっていたよ・・・」と、諦めモードで出港を命じた。そして、朝雲、天津風、他海防艦3隻の他に、香港で生き残った甲子丸(2000トン)と第二東海丸(850トン)の二隻の貨物船と共に夜間に紛れて出港したが、途中のマカオ沖合で潜水艦からの攻撃を受け、甲子丸と海防艦134号を失った。その後、基隆をへて船団が門司の港に入港したのは1945年4月5日のことであった。
生き残ったのは戦闘艦艇であった駆逐艦二隻と特設水上機母艦、そして途中加入の貨物船だけだった・・・これをもって南方の航路は実質閉鎖。この船団は南方からの帰ってきた最期の船団となったのだった。
なお、飯豊が持って帰ってきた燃料は数週間後の大和、榛名からなる第二艦隊の沖縄攻撃に使用されてしまったりする。そして、飯豊はその後西日本も危ないと言うことで日本海側に避難することとなった。それから数ヶ月後、日本は8月15日を迎え、敗戦した。飯豊はイギリスの元の業者に返還され数年間にわたって重油輸送についた後、1948年にスクラップとなっている。
義男は戦後、復員し、得意のマネーゲームで儲けた金で一隻の中古の貨物船のオーナー兼船長となり、別府海運という小さな海運会社を作り、朝鮮戦争やベトナム戦争での輸送に携わってそれなりに成功したらしい。今でも社屋が別府に存在しているので良かったら見に行ったらいいかもしれない。そして、その社長室にはT2タンカーの写真と模型が大切に飾られている・・・ということで物語を終了しよう。
皆様こんばんは、あるいはこんにちは。
小説書くのも久しぶりです。ついでに企画に参加するのも。
今回は特設艦艇ということで、最初は特設巡洋艦にしようと思ったのですが、なんかありきたりですので、思い切ってタンカー改造の水上機母艦にしました。ベースはアメリカのT2タンカーです。初期ロットが完成したのが1943年頃ですので、丁度いいなと思いインド洋で日本海軍に拿捕されたという設定にしました。神威や野登呂とコンセプトは同じです。中央のブリッジを撤去し、そこに重巡洋艦から引っぺがしたカタパルトを乗せ、クレーンを強化したらはいできあがり!すごく簡単です。
当初はこいつでインド洋の商船狩りでもしようかと思ったのですが、時局的に船団護衛に投入したら面白そうだと思い、いざ書いてみたのですが・・・うん、すごく鬱になってしまい、結局途中で半ば放り投げたような形になりました・・・イベントも最期の一押しが出来ませんでしたし、最近上手くいきません。
今度は駆逐艦の物語でも書いてみようかな・・・何て考えていたりします。