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HELP!  作者: たいちうみ
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第六話 My Home



 仕事当日。待ちあわせの駅から一度乗り換えを経て、合計一時間弱で蕗野駅に到着した。志織が住んでいたころとは駅舎も様変わりしていた。記憶と一致しない現実に、志織は少々寂しさを感じてしまった。

 改札を出たところにあるロータリーで、みさきは立ち止まった。

「なんか、ちょっと落ちつかないね?」

 控えめな表現だった。屋外で昼間、青空も見えている。ごちゃついた印象はなく、遠くには豊かな緑も見えた。それなのに空気が悪い。不純物だらけのようだった。うろついている霊もおびただしい数だった。そして、異様な臭いが懐かしかった。厳密に言えば、それらは志織が物心ついたときから慣れ親しんできたものではないが、彼女にとっては忘れられないものであった。

 タクシーに乗り込み、二人は市街地からすこし外れたところにある一軒の屋敷を目指した。その邸宅の主は真嶋という。元は蕗野市一帯の大地主で、いまでも蕗野の住民への影響力をもっている。運転手にも「真嶋の家へ」と言えば通じてしまうくらいに有名な家であった。

 志織が住んでいたのは真嶋家からさほど離れていない場所だ。もちろん、真嶋の存在については知っている。

「何個か上の学年に真嶋さんちの子がいたけど、昔から蕗野に住んでいたところの子はみんな気を使って接してたよ」

 蕗野の一部は新興住宅地となって、余所からの人間が続々と入ってきていた。そのため、代々の蕗野住民である家の子と新しくやってきた家の子で、なんとなくグループが分けられていた。志織は後者だったので、あまり真嶋家とは接点がなかった。実際に遊ぶのは近所の家の子ども同士であったことも関係しているかもしれない。

 戦前ならともかく、現在は真嶋家の怒りに触れたからといって、即座に追い出されることはない。それでもなんとなく配慮されるし、地域の顔役も引き受ける。そういう立ち位置の家だった。

 真嶋家の門扉はそうそうお目にかかれないくらいに立派だ。敷地も広大で、みさきの家よりもさらに規模が大きかった。志織が住んでいたころと比べると変化は少ないが、塀が新しくなったような気がする。

 車を降りた二人は、真嶋邸を見上げて生唾を飲み込む。臭いが強い。うっすらと屋敷を赤い靄が漂っている。視線を交わし、みさきが覚悟を決めたような顔でチャイムを鳴らした。

 使用人に出迎えられ、応接間に通される。意外にも家のなかの空気は外に比べると濁ってはいなかった。いかにも富裕層らしい調度品の数々に、志織はびくびくしてしまう。蕗野に住んでいたときすらこの家にあがることはなかったのに、この地を離れてからこうして訪れるなんて夢にも思わなかった。

 しばらくして、二人の人間がやってきた。中年の男性と二十代と思われる女性。二人は並んで座る。

「お越しいただき、ありがとうございます。私が当主の真嶋要介です。こちらは娘の茉莉香」

 男性が頭を下げ、一つ遅れて女性が頭を下げる。志織は茉莉香という名を聞いて、彼女がさきほどみさきに話していた真嶋家の子だと思い当たった。見覚えがある。茉莉香は無愛想ではあったが、すらりと背の高い、モデルのような美女へと成長していた。ただ、雰囲気は冷たい。ホリブルキャッスルで対峙した女性の霊にどこか似ている。

 要介は、真嶋家の代々の歴史を簡単に語りはじめた。茉莉香はそんな父の話を不機嫌そうに聞き流していた。

「お二人は、蕗野は初めてでしょうか?」

 そこで、おそるおそる志織が挙手する。

「あ、私のほうは以前住んでいました。なので、土地勘は若干あります」

 嬉しそうな顔をした要介の声が大きくなる。

「おや、それは奇遇ですね。どちらですか?」

「秋里です」

 茉莉香は相変わらずの無表情だったが、朗らかそうだった要介も明らかに肩すかしでもくらったような様子だった。秋里は新興住宅地だ。つまり、彼らにとっては余所者の住まう土地である。

 気まずくなって、志織は慌てて会話をつなげる。

「小学校の途中で転校してしまいましたけど」

「ああ、そうですか……」

 要介はさっそく興味を失った様子だった。気まずい沈黙が流れる。茉莉香が場をつなぐ気配もなく、三人の表情を窺ったみさきが口を開く。

「あの、ご依頼内容について確認してもよろしいですか?」

「ええ」

 要介は茉莉香に、件のものを持ってくるように言いつけた。茉莉香は返事もせず立ち上がり、部屋をあとにする。

 みさきと志織が無言でその優美な後ろ姿を見送っていると、要介はげんなりとしたように溜め息をもらした。

「すみませんね、愛想がなくて。我が家で唯一の女の子だからといって甘やかしてしまいまして」

 お恥ずかしい、と要介は苦笑いを浮かべる。つられて、志織たちも同じような表情になる。

 茉莉香はなかなか戻ってこなかった。しびれを切らした要介が使用人に様子を見に行かせ、ようやく彼女は布の包みを持って戻ってきた。

 茉莉香は射るように二人に視線を落とす。霊相手ではないのに、思わず二人ともびくつき固まってしまった。

「お待たせいたしました」

 茉莉香の声はガラスに例えられるような響きだった。そして、白魚のような手で、ところどころが黄ばんでしまった布をするりと落とす。現れたのは、むきだしの鏡だった。現代風のものではない。博物館や教科書でしかお目にかかれないような形だった。志織もみさきも無意識に見入ってしまったが、茉莉香の細い指が鏡をひっくり返すと息をのんだ。

 表面にいくつもの傷があった。針かなにかで引っかいたり突き刺したりしたようで、蜘蛛の巣のような模様が広がっている。部分によっては欠けている。その隙間から、ねっとりと何かが漏れ出ているように見えた。臭気が強い。この町全体にしみこんでしまった臭いが濃縮されて、その鏡を覆っていた。

「これはね、私の親類が借金のかたに手に入れたものです」

 茉莉香に手渡されながら、要介はいまいましそうに鏡を見る。彼の顔が乱れて映される。

「最初の持ち主は明治時代に没落した家だったらしいですけれど、現在は行方がわからなくなったと聞いています。それで、親類も恐慌で大損しましてね、金を貸してほしいと私の祖父のもとにやってきたときについでに持ってきたものです」

 これだけ古いと確かに学者が喜ぶような価値はあるかもしれないが、志織にはその割れた鏡がわざわざ借金のかたになるほどのものには思えなかった。

「あの、それは最初からそうなっていたんですか?」

 遠慮がちに志織が尋ねると、要介は力なく首を横に振る。茉莉香は細く息を吐きながらそっぽを向いた。

「いいえ。つい最近、十年前ほどまでは綺麗なものでした。しかし、ずっと蔵にしまいこんでおりまして、最近蔵の整理をしたときにわかったんです」

 ただ骨董品が割れただけだったら、そのまま処分すればよかった。しかし、そうはできない事情があった。

 これは元の家が自分たちの守り神として崇めていたものだった。要介の親類に預けたときも、差し出してきた者はこう言ったとのことだ。これはありがたい神様なのだから大事に扱うように。そうすればきっと富が得られ、家は栄えるだろう。そして、もしも粗末にしたのなら、逆に祟りが起きるとも。

「そんなに大事なものなら、どうしてこれを差し出したのでしょう?」

 何気ない志織の疑問に、要介は首を傾げる。

「おそらく、もうこれしか残っていなかったのでしょう。家財はすべて処分して、それでもまだ金が足りないということでしたから」

 最後の最後で手放した、守り神の鏡。その情報を得ると薄気味の悪さが増した。

「最も、親類は話半分に聞いていて、信じておりませんでした。金の無心ついでに、そういう曰くつきで面白いからと置いていったのです。私も……はじめはまったく信じておりませんでした」

「では、なぜ今回はこれを……」

 みさきの問いに、ぴくりと反応したのは茉莉香だった。それを志織は見逃さなかった。しかし、みさきも要介も気づかず、話を進める。

「実はここ十年間、蕗野は人口の減少が止まりません。死者が相次ぐし、事故数も不自然に跳ね上がって、別に転勤族でもないのに短期間で去っていく家族も増えました。そうすると、ねえ……」

 要介は言葉を濁す。つまりは、真嶋をはじめとする古くからの住民は新参者を好まないが、いまの時代では彼らがいないと町が寂れて空洞になる。それも身勝手なように志織には思えた。それが、自分が新参者側にいたからかどうかはわからないが。

「まだ表だって騒がれてはいませんが、それでも妙な記者にでも目をつけられたら、それこそこの町が終わってしまいます」

「それは、鏡が原因だと?」

 問われた要介は答えに詰まる。そして、やや薄くなった頭を指で押さえながら返事をした。

「使用人がね、言うんですよ。夕方になると蔵のあたりに人影が見えるって。これもずっとしまいっぱなしだったことからもおわかりでしょうが、あの蔵は価値のないものを入れているだけで、家の者が出入りすることもほとんどありません。それもちょうど十年前からなんです」

 要介の表情がひきつる。偶然にしては妙に一致しているでしょう、と。そして彼は志織に向き直る。

「えーっと、そちらは渡辺さん? あなたはいつ外へ移りましたか?」

 志織は首が締まるような感覚になった。喉が乾く。失礼とは思いながら慌ててコーヒーを飲み込んでも、まったく沁み込んでいかない。

 茉莉香の目が志織に向く。声だけでなく、瞳もガラスのようだった。みさきが心配そうにこちらを見てくるので、志織は一呼吸おいて気持ちを落ち着かせてから、ゆっくりと答えた。

「私も、十年前です」

 要介は言葉を選びながら質問を続ける。

「親御さんの都合ですか?」

「……そうとも言えます。祖父と父が相次いで亡くなって、母と私だけになりました」

 父は、自分が死んだら家を処分して別のところに住むようにと遺言を残していた。さいわい、母には資格があってどこでも働くことができたから、思い切って県外に引っ越すことになった。

 そう告げると、要介の顔が険しくなる。もしも鏡が、いま目の前にいる少女の家族の死にも関係しているならと思うのが恐ろしいらしい。

 志織はこの場で言うかどうか、迷っていたことがあった。しんと静まりかえる応接間の居心地は悪い。それに耐えきれず、つい漏らしてしまった。

「祖父と父が死んだのは、私のせいかもしれないと、そう思っていました」

 要介の呼吸が止まる。三者の視線が志織に集中した。

「しぃちゃん……?」

 みさきは弱々しく首を傾げた。

 志織は胸元に手をやった。シャツごしに感じる、硬質な感触。

「私が……あれと出会った……そのせいだと」

「あれとは?」

 遠慮がちに尋ねる要介と、人形のような顔の茉莉香を交互に見ながら、志織は口を開き、過去に起こったことをかいつまんで説明する。茉莉香はじっと志織を見つめ、要介は俯いていた。みさきは表情を硬くして、無言で話を聞いていた。

「その、男というのはどんなものでしょうか」

 志織の長い話が終わって最初に口を開いたのは、青い顔をした要介だった。

「髪は、肩くらいまでです。赤い着物を着ていて、顔は……面長で目が細くて……」

 最後に姿を見てから約十年。それでも、思い出すのは容易だった。

「見たら絶対にわかります。それだけは自信を持って」

 志織はまっすぐ、真嶋親子を見つめた。その表情は対照的で、要介は動揺が強まり、茉莉香はマネキンが代わりに座っているのではないかと思わせるほどに静かだった。志織と目が合っても、わずかに瞬きをするのみで、瞳すらほとんど動きがない。

「蔵に出るのも男だと聞いています。人相まではわかりませんが。ではまず夕方の蔵をお願いいたします。それまでは……ご自由になさっていて結構です。お二人のお部屋は用意しておりますので。町を見て回りますか?」

 志織たちは顔を見合わせる。

「すこし休ませていただいてからでもいいでしょうか?」

 答えたのはみさきだった。要介はひとまず話を打ち切って、使用人に二人を案内させた。

「みさき、休む? 気持ち悪い?」

 通された部屋で二人きりになると、志織はみさきの顔を覗き込んだ。ここは予想以上に霊が多い。昼間なのにこんなに見えるのは珍しいことだった。みさきにはなかなか厳しい場所のはずだった。

「そう聞きたいのは私のほうだよ」

 みさきは鞄のなかから鏡を取り出して、志織に突きつける。そこに映る志織の顔は、紙のように白かった。志織が息をのむと、みさきは溜め息をついた。

「しぃちゃん、私、しぃちゃんに無理はしてほしくないよ」

 動揺を隠すように、志織はぶんぶんと首を振った。

「大丈夫、大丈夫だよ」

 ここでみさきに心配かけてしまったら、それこそ自分がいる意味などない。志織は何度も手を開いては閉じて、気持ちを落ち着かせる。

 呼吸が穏やかになって顔を上げると、ほっとしたみさきの顔があった。それを見て、志織は彼女に対して申し訳なく思った。

「いつもどおりで行こう」

 みさきはにこりと笑った。

「うん、いつもどおりね」

 二人はそれぞれのベッドに座り、向かい合わせになる。

「みさきは、大丈夫?」

 真嶋邸のなかは不思議となにもいないように見えるが、外にはホリブルキャッスルを思い出すほど大量の霊がうろついている。志織でも気後れしてしまうくらいだから、みさきにはもっと辛いのではないか。みさきは、脱力ぎみに笑った。

「……大丈夫じゃない。例によって……」

 みさきは脇に寝かせていた霧風を握りしめて床に立てる。

「でも、仕事だから」

 みさきは、志織の分まで自分が気を張り詰めていなければと感じていた。それが志織にも伝わってくるから、志織は彼女に申し訳なく思っていた。

 ぎり、と志織は拳のなかで親指の爪を立てた。その痛みで、精神を元の状態に戻す。

 二人は地図を広げる。蕗野はそこそこ栄えているが、面積は周辺の都市に比べるとあまり広くはない。車を持たないのは厳しいが、そこは場所をピックアップするしかない。

 志織は無意識に秋里の地名を探していた。同じ校区だったこともあり、真嶋邸からたどればすぐに見つけられた。胸骨のあたりがちりちりとした。祖父、父、そして近所に住んでいた人々の顔が思い浮かぶ。

(そういえば、雅哉くん、どうしてるだろう)

 彼はまだ熱が続き、結局志織が越すまで入院となってしまった。仲が良かったのに、後にした会話で冷たくしてしまい、プリントを届けるのもいやだと思うようになってしまった。自分は本当に薄情者だと志織は頭を抱えた。仕事が終わったら会いに行こう。会えなくても、様子を聞けたらいい。

 志織は再び、地図上に置いていた指を真嶋邸に戻した。茉莉香の顔を思い出す。先ほどの場では明言しなかったが、あのとき、男に遭遇する直前に志織が目撃した子どもは茉莉香だった。親しくないとはいえ、学校でも目立っていた彼女を見間違えるはずはなかった。

 男と鏡の関係を考える。鏡を見ても、要介の話を聞いても、あの男と鏡に関係があると考えるのが自然だ。しかし、なぜ茉莉香があのタイミングであそこにいたのか。それがわからなかった。

 茉莉香は極力なにも話そうとしなかった。志織のおぼろげな記憶では、昔からそういう人だったと思う。真嶋家の人間で、子どもたちが常に囲んでいるとはいえ、活発な印象は受けなかった。もしも真嶋ではなく別の家の子として生まれていたら、きっと教室の片隅でひっそりと読書でもしていそうだった。

 もっと話がしたい。不運なことに、茉莉香はみさきたちが部屋に通されるのと同時に外出してしまった。とりあえずは、夕方を待って、あの男と真嶋家の因果関係を確かめることを優先する。

「ね、みさき。神様と霊と物の怪は違う?」

 志織は要介の話を思い返す。男が鏡に宿っていたものだとすれば、すなわち神だということになる。確かに、男は他の霊とは違って見えた。しかし、志織はそれが相手の性質の違いなのかはよくわからなかった。他人には見えないものとしてまとめてしまう。

「うーん、そうだな。もちろん違うけど、やっぱりあっちの人って共通する部分はあるよね。それに、結局境目ってわからないんだよ。いきなり変化しちゃうときもあるし、霊だって場合によって悪霊にもなるし、そうでもなくなったりするし」

 言葉が止まる。みさきはベッドに寝転んだ。ふかふかとしていて心地よい感触だ。

「霊よりも神様のほうが強いよね……?」

 志織の問いかけに、みさきは小さく首肯した。

「もちろん。ただね、現在の持ち主である真嶋さんたちがあんな感じでしょ。そういう場合って、神様も力が弱くなるんだよ」

 みさきは霧風を眺める。霊なら問題ない。対峙するのは怖いけれども普段どおり本体を切れば解決してしまう。しかし、向こうが神となると不安だった。相手にしたこともほとんどないし、まだ霊能者としては未熟なところがあるみさきが立ち向かうとなると、いままでになく難しい仕事になるかもしれない。

「単純に悪霊なら、すぐに片がつくんだけど」

 みさきは細く息を吐く。

「悪霊、か……。私のところに来る依頼ってたいていこういうのばっかりだなー」

 そういえば、と志織も過去の事件を思い返した。誰かしらに危害を加えるものばかりだ。まあ、出なければそれぞれの客も依頼などしてこないだろうが。

「霧風が理由なんだけどね。説得して自分の力で成仏する手伝いをするんじゃなくて、問答無用で消滅させたいような相手が主に私のところに回ってくるの」

 志織も自分のベッドに腹ばいになる。そして、疑問をぶつける。

「もしかして、そういう説得で成仏専門の人もいる……?」

「うん。でも、ほとんど私とはかち合わないよ。お互い真逆だからね。それに、あっちは霧風みたいなものを嫌うこともあるし」

 そういえば、結局志織はみさき以外の霊能者を見たことがなかった。なんとなく興味をそそられる。切るだけが除霊ではないのだと、いまさら気づいた。

「私の力不足もあるけどね。私はこんなんだし……」

 いまのみさきでは、ろくな説得もできやしない。相手の背景を知って心苦しくなっても、現在のやりかたしか彼女には選択肢がなかった。

「はーあっ、恨みとか悪霊とか事故とかじゃなくてさ、幸せな感じの案件って来ないかな」

「えー、そういうのって存在するの?」

 みさきは一気に振り向く。

「ほら、座敷童子とか! そうだよそうだよ、座敷童子相手だったら全然怖くないよっ。捜索とかじゃんじゃん引き受けちゃうよ」

 嬉々と依頼を引き受けているみさきの姿が、どうしても想像できない志織であった。そんな話をしていると、だんだんと心がほぐれてくる。普段の二人に戻っていく。そういう空気にしてくれたみさきに感謝しなければならなかった。

 日没まで時間があった。まずは、真嶋邸周辺の探索をすることにした。

 外に出ると、志織もみさきもそれぞれ緊張感が走る。霊の数が多くて泣きそうになるみさき、かつて住んでいた場所を通ることに怯える志織。なんとなく二人の物理的距離が縮まる。お互いに顔を見合せて頷いた。

「ううううううう、しぃちゃんには悪いけど、この町住みたくなぁい」

 このときばかりはなぜか安心する、みさきの愚痴だった。どこもかしこも霊だらけだ。弱いものばかりだが、それでもみさきには辛いのだ。

「結構仕事やってるよね。それでもダメだとね……」

「いや、ね。私もいい加減慣れようとしたんだよ?」

 ホラー映画療法を勝士に提案されたが、初めの十分でもう限界だったとのことだ。その話を聞いて、根本的になにか間違っているような気がした志織であった。

 話しつつ怯えつつで、歩いているうちに秋里へ到着した。ここもちらほらと変わっていたが、道など基本的な部分はそのままだった。

 懐かしかった。家族でこの道を数え切れないほど歩いた。祖父と並んで、母と手をつないで、父とおしゃべりをして。もうそんな一時は二度と訪れない。わかっているはずなのに、あらためてこの場所に立つと切なさにおそわれる。

「しぃちゃん、どう?」

 みさきが言いづらそうに尋ねてきた。彼女の目がきょろきょろとしている。その理由は、志織にもすぐにわかった。

「……ない」

 かつてこの土地は、他のどこよりもあの男の気配に包まれていた。しかし、いまとなってはむしろ他の場所のほうが強い。真嶋邸周辺に比べたら、空気が綺麗だと言ってもよいくらいだった。それでも、元の自分の家に立ち寄る勇気はないのだが。

「話に聞いてたのと、ちょっと違うよね?」

「うん……移動したのかも」

 もう十年だ。その間、志織たちの前には現れなかったが、それが別の土地に行けない理由とするには少し弱かった。

 気配を探れるか。志織とみさきは同時に、気になる方角を指した――それは同じ方向だった。

「行こう」

 珍しく率先して動くみさきだった。彼女なりにまだ志織に気を使っている。歩き出したみさきを、志織が引き止めた。

「待って」

 志織は自分の家に面したものではないほうの通りをたどる。

「みさき、私、ここであの人に出会ったの」

 もちろん、そこには誰もいなかった。秋里自体霊の存在が薄く、他の霊もまばらだった。

 志織は視線をめぐらせ、一軒の家に向かってその表札を見る。それは、記憶していたものとまったく違った名前だった。

「あれ?」

「し、しぃちゃん? どした?」

 志織はまじまじと表札と玄関を見比べる。ここは雅哉の家だったはずだ。しかし、別の家が入っているようだった。

(引っ越しちゃったのかな……)

 志織の心が苦い色に染まる。後悔がどんどん増えていく。それを自分の頬を軽くはたくことで、いま後悔しないようにする誓いとした。

「なんでもない。みさき、行こうか――」

 振り返ると、周囲を見渡していたみさきが思わず霧風を落としていた。志織は思わず構えたが、そこに霊はいない。秋里の住人と思われる女性が、見慣れぬ少女たちを訝しむように眺めながら通りすぎて行った。

「ちょっと、みさき? どうしたの」

「しぃちゃん、いまの人、見て」

 小声で囁かれ、志織はわけもわからず女性を注視する。この町の住人は濃度に個人差があるが赤い靄を身にまとっている者が目立つ。彼女も例にもれず、周囲が赤い。そして、臭いがする。そんな通行人は彼女以外に何人も見かけたが、他人とその女性で決定的な違いがあった。気配が薄い。平時の人間の気配が円だとすると、その一角が欠けているように見えた。

「魂がちぎられてる」

 みさきはそう表現した。普通の霊は人間を害することがあっても、魂の質量や形を変えることはできない。

「あの人、たぶんもうすぐ死んじゃう……」

「え?」

 みさきは苦々しい顔をした。

「魂が何度か……その……食べられているというのがいいのかもしれない」

 志織は愕然とした。女性はそのまま行ってしまう。靄と臭いが空気中に残された。

「それって、あの人のしわざってこと?」

 みさきは明確な返答を避けた。しかし、その表情は暗かった。

「早くどうにかしなきゃね……この町、いままで以上に相性悪いかも」

 その後、二人は感じたままに歩いた――途中、みさきが何度も幽霊に叫びそうになっては志織がその口をふさぐということを繰り返しながら。

 不思議なことに、気配の位置はいつのまにか変わっていた。もうここまでくれば見つかるかもしれないと思うところで、こつぜんとまったく別のところに気配が移動する。ただ歩き回って体力を消耗するだけだった。

 夕方になれば蔵で待機しなければならない。二人は体力温存も考えて、真嶋邸に戻った。

 自分たちにあてがわれた部屋に戻り、志織は札の確認をする。これだったら志織程度の人間でも武器として扱えるが、完璧には使いこなせない。あくまでも補助の品に留まる。

 これで何度目になるか数えるのもわずらわしい、歯がゆさ。本当に志織には能力がなかった。それでも、自分にできることをやるだけだった。

 待ち望んでいた夕方は、思っていたよりも早くやってきた。それで志織は秋を実感していた。桐の木や植え込みの影に隠れて息を潜める。みさきよりも自分が震えていた。鏡はとっくに蔵の棚に戻している。罠を張るように蔵に札を貼り、待ち伏せる。

「き、来たああぁ」

 間抜けな声でみさきが言う。塀をすり抜けた影があった。志織は目を見開いた。瀕死のごとき弱さはなかったが、確かにあの男だった。生唾を飲み込む。

 男はまっすぐに蔵へと向かって行った。しかし、そこで立ち止まる。空気がぴりぴりとしはじめた。

 男が振り向く。うつろな目だった。二人は固まり、先にみさきが飛び出し、志織がそれに続いた。男はにやりと笑う。その視線はまっすぐ志織に向いていた。とっさにみさきが志織に重なるように前に立つ。

 風が吹く。志織は初めて彼と出会った日を思い出していた。必死にすがってきたあのときの面影はもうない。悲痛な苦しみも強くない。あるのは攻撃性だけだ。敵意を直接向けられ、吐き気がした。

 男の姿が揺らぐ。瞬きをした次の瞬間、すぐそこまで迫っていた。

「しし、しぃちゃん、下がって!」

 言いながらみさきは霧風を前に出した。金属を弾くような音。霧風ごしに、男の真っ赤な顔がすぐ近くに見える。

「ひぃいい!」

 みさきはそのまま向きを変えていなす。男はそのまま制止する。

「こ、来ないでぇ」

 生まれて間もない小鹿のように、がくがくとみさきは震えた。志織はそんな彼女の背中に手を当てて支える。

 男が一歩踏み出す。みさきが一歩下がり、つられて志織も下がる。

「は、ははは、ははははは!」

 彼は歯を剥いて、急に笑いはじめた。明瞭な声だった。みさきがびくりとする。男は腹を抱えるように身を折り、肩を震わせた。その瞬間、一気に炎が噴き出して、志織たちに降り注いだ。見た目に反して熱は感じなかったが、思わず目を閉じる――閉じたはずだった。

 桐の木のすぐそば、急ごしらえのような粗末な小屋に連行される彼が見えた。即席の祭壇には、鏡が光っていた。周りを取り囲む人々が刀や鉈を構える。男が胸を切りつけられた瞬間、志織もまた胸に熱が走るのを感じた。見ても傷はついていない。それなのに、じわじわとくる痛みが消えない。

 腕、肩、脚、背……人々は男の身体を刻んでいく。床に血が広がった。彼が痙攣しながらも手を伸ばす。

「どうかお助けください」

 返事の代わりに手の甲を切られ、男は悲鳴をあげる。

「お許しください、なにとぞ、なにとぞ」

 その場にいた全員が、彼を冷たい目で見下ろしていた。志織はぞっとした。

「もう良いでしょう。出ましょう」

 男を残して、彼らは去っていった。

「お待ちを。お願いします、待って、助けて」

 そのうちの何人かが立ち止まり、ちらりと男を見た。男は必死にすがろうと目で訴える。しかし、その思いは届かなかった。言葉のひとつもかけられず出て行き、扉は無慈悲に閉められた。彼は呻いた。男は捕縛されていなかったが、もう這う気力すらもなかった。その姿は最初に会ったときのままだった。彼の内にわいた絶望が大波のように襲ってきて、溺れそうになる。

 煙が立ち込めた。小屋の隅に炎が上がる。彼は叫んだ。叫ぼうとしたが、もう声もろくに出せなかった。

「お助けください」

 絞るような声だった。

「助けてください」

 何度も叫んで呼ぶ。けれど、応える者はいなかった。小屋に煙が充満し、床にも壁にも屋根にも炎が絡む。油の臭いと焦げる臭いが混ざる。そうしてようやく、志織は全身に高い熱を感じて、悲鳴をあげた。

 小屋は燃え続けた。全てが、男の身体さえも灰になるまで。たったひとつ残ったのは、炎に包まれたにも関わらず美しいままの、あの鏡だった。鏡の鏡面に引き込まれる。男の魂がそのなかにあった。

 気がつくと男の姿はなく、目の前にあるのは蔵だけだった。二人は顔を見合わせる。志織だけではなく、みさきも真っ青な顔だった。

 みさきは息を吐きながら芝生にへたりこんだ。その腕には、切りつけたような傷があった。

「ちょ、みさき? どうしたの?」

 跪こうとした志織は、ちくりとした痛みでバランスを崩した。みさきほど大きなものではないが、手の甲が裂けていた。

「……しぃちゃんも見たの?」

 志織の傷を見ながら、みさきは掠れ声で尋ねた。

「え?」

「あの人が切られて、焼かれたの……」

 苦々しく頷くと、みさきはこめかみの部分をおさえた。

「みさき? なにが起きたかまったくわからないよ……」

「霊の背景って見たことない? まさにいまのだよ」

 霊と対峙したとき、みさきがその霊の過去になにがあったかを察知することはあっても、志織が同様に見ることはほとんどなかった。志織は呆然とした。いつもはみさきが過去を見て、それを志織に説明する。自分がさきほど目にしたものがそれだとは思えなかった。

 周辺を見渡す限り、男の気配はどこにもなかった。靄も薄くなっている。志織は、その赤さが炎のようで気持ち悪く思った。

 お互いを引っ張りあうようにして、二人は屋敷に戻った。使用人から話を聞くと、要介も茉莉香も不在だった。茉莉香はまだ帰ってきておらず、要介は仕事で急に呼び出されたという。報告は翌日で結構とのことだった。

 二人の食事の支度はもう出来ていたが、食欲はなかった。残すわけにもいかずどうにか口に入れたが、胃が落ち着かず違和感ばかりが残った。

「しぃちゃん、同じものを見たということ前提で言うね」

 気まずい沈黙を打ち破るように、みさきは口を開いた。

「小屋のすぐそばにね、桐の木があったでしょ」

「うん」

「多分あれは、この敷地の出来事だと思うよ。さっきの桐の木じゃないかなって思うんだけど」

 志織は目を見開く。背筋をなにかが撫でていく。

「でも、あの男の人が、神様なんだよね? どうしてこの場所? 元の家の人のところでもなくて?」

 志織は混乱する。なにがなんだかさっぱりわからなかった。みさきは絨毯を見つめながらじっと考え込んでいた。自分に比べたら落ち着いているその態度は、過去視に対する慣れなのか、それとも自分には見えなかったものも彼女には見えたのか、志織はまったく窺えなかった。

「今夜は遅いらしいけど、明日、少なくとも要介さんは午前中は家にいるって。そのときまでにこちらで話しあいたいこと、聞きたいことをまとめよう」

 みさきはノートとペンを取りだす。志織は彼女の綴る字を見つめたが、気持ちは安定しなかった。

「助けて」

 まだどこかで、彼が訴えているような気がした。



 平時であれば、高級なベッドでの睡眠はさぞかし快適だっただろう。しかし、こんな状況で満足に眠ることはできなかった。二人はぼんやりとした頭で起床し、簡単に身支度を整えた。

 客間を出て階段を下りると、前日と同様、要介と茉莉香が並んでいた。彼らはもう食事を済ませているらしかった。志織は真嶋親子をちらりと観察する。あまり親子らしさを感じない。自分と父は仲が良かったから、なおさら志織の目には不思議に映った。それは、要介が原因ではなく、茉莉香が他人に興味がないような印象を受けた。

 紅茶を飲みながら、みさきが簡単に昨日の報告をする。収穫はあまりなかったが、男との接触は行ったと。要介は冷や汗をかきながら、それを聞いていた。

「それは、渡辺さんが十年前に出会った男で間違いないのでしょうか」

 志織が頷くのを見て、要介は唇を噛んだ。ふと志織が視線を彼からそらすと、茉莉香と目が合う。濃い茶色の瞳に、志織の姿が映っている。そして彼女はつまらなそうに、時間が経って濃くなったポットの茶をカップに注ぎ、ミルクを入れた。何度も何度もかき混ぜる。

「私も伺っていいですか、真嶋さん」

 志織の言葉に、要介はぴくりと肩を動かす。唾を飲みこむ音が聞こえた。

「その鏡には、なにが宿っていたのですか? 本当に神様なんですか?」

「ど、どうしてそんなことを聞くんです」

「恐らく、あれはそう古い人ではありませんね。多く見積もっても、百年くらい前の人です……蕗野の人」

 みさきの言葉に、要介は卓に肘をつけたまま項垂れた。みさきはテーブルに置かれた鏡を見やり、前歯をかちかちと鳴らした。

「私も、詳しくは聞いていないんです。ただ、守り神と」

「もしも知っていることがあれば、どんな小さなことでも構いません。それが解決の鍵になります」

 みさきが念を押すように言い、要介は自分の娘よりも年若い少女たちに圧された。彼は茉莉香を見るけれども、彼女は父がどうなろうと無関心と言いたいような態度だった。むしろ、少し笑っていた。志織たちの二人の視線に耐えきれず、要介は大きな溜め息をついた。

「……元の家には、独特の風習があったと聞きます。決まった年に、鏡へ生け贄を捧げるというのです」

 生け贄。血なまぐさい言葉に、二人は同時に眉をひそめた。そして、昨日見た光景を思い出す。

「六十年に一度。生け贄を捧げれば、その後六十年の安泰が確約されます。生け贄が鏡に宿った守り神になるというのです」

 要介は立ち上がるような勢いでまくし立てる。

「けれども、私は、そんなことしていません! 現に、これも蔵に入れてずっと――」

 ほとんど叫びに近い声になったところで、要介は我に返った。決まりが悪そうに座り直す。

「すみません、先ほどお二人に嘘をつこうとしました。あれが何者なのかわかっております。それに、元の家が没落した原因も」

「生け贄を差し出すのを……拒否した?」

 志織の言葉に、要介は抵抗を見せつつ首肯した。

「とある代の当主は、自分の家の風習を嫌っておりました。それで、六十年に一度の儀式をしなかったのです。それから次の六十年を迎える前に、時代の波に乗れずにその家は傾いてしまったそうです」

「真嶋さんの親戚の方は?」

「あまり評判のいい男ではなかったと聞いております。没落してもなお生け贄を拒んだ例の家は、その男に売ることで、金をもらうだけでなく厄介払いできると思ったようです。そのときに、これがどういうものか一応は伝えたらしいのですが、彼は信用しませんでした。その後起こった恐慌でも、祟りだと思わず偶然だと思っていたようです。それで、私の祖父に金の無心ついでに面白がって持ってきたようです」

 その後、要介は口ごもる。くすりと笑い声が漏れた。その主は茉莉香であった。

「それで、お父様? 二人にも続きを話したほうがいいんじゃない?」

 初めて彼女が感情を見せた。面白がっている。綺麗な微笑みなのに、志織もみさきも寒気がした。

 要介はやけになったように語る。

「親類も、渡す相手は選んだようですね。祖父は鏡の由緒に興味を持ちました。そして、ちょうど生け贄を捧げるべき次の六十年目はそんなに遠くなかった。その年を迎えた祖父は――教えのとおり生け贄を捧げました。いまから七十年ほど前の話です」

 さっと血の気が引いていくのを志織は感じた。

「真嶋も世間の例に漏れず、戦争でさまざまなものを失いましたが、その後はむしろ戦前以上の財産を獲得いたしました。事業がうまくいったのもあの鏡のおかげ。祖父は陰でそう言っていました」

「生け贄は……」

「集落の、真嶋に反抗的だった若者と聞いています」

 要介は一度席を立ち、どこからか一枚の写真を持ってきた。そこに写っていたのは、まちがいなくあの男だった。

「彼が生きた証はすべて処分されたはずです。これは、たまたま残っていたものを、私がこっそり貰い受けました」

 生きていたころの彼は、生気にあふれた笑顔を浮かべていた。志織は心苦しさを感じた。

「そうして、我が家は儀式を成功させたのですが、十年前にまたその年が訪れました」

 要介は、どうして自分の代なのかと呪った。実際彼の父は、自分のときでなくてよかったと漏らしたことがあるらしい。

「私は、悩んだ末、儀式を行いませんでした。そして、手放すのもそれはそれで怖かった。だから蔵の奥に隠したのです。そうしたら、このたった十年で――」

 彼はそれ以上なにも言えなかった。テーブルに突っ伏すようにした要介に、くすくすと笑う声がかぶさる。要介も志織もみさきも驚いて声の主、茉莉香に注目する。

「お父様、大丈夫よ。だって、ちゃんと鏡は働いてくれているから」

 要介は、自分の娘が何を言っているのか理解できなかった。志織は勇気を出して、彼女に問いただした。

「茉莉香さん、昨日、私はお話ししましたよね。秋里で最初にあの人と会う直前に、子どもと出会ったって。それは……あなたではないかと」

 茉莉香は口の両端を上げる。

「茉莉香?」

 要介が震える。手元にあったカップが倒れ、わずかに残っていた中身がテーブルに広がった。

「渡辺さん、なにを言うんですか? 確かにこれは他人からは悪く見られがちですが、本当は――」

「何月何日かは覚えていないけど、秋里には行ったわよ……鏡を持っててね」

 要介は口をぽかんと開けた。自分の娘のはずなのに、目の前にまったくの他人に見えた。呼吸が荒くなる。心臓のあたりが苦しい。

 そんな父の様子を眺めた茉莉香は実に楽しそうだった。

「だって、お父様も言ってたじゃない。あいつらが目障りだって。だから追い出してあげようと思ったのに」

 邪気のない微笑みだった。要介は茉莉香の肩をつかんで揺らす。

「どうして、どうして……」

「他にも新参者の住む場所はあったと思います。どうして、秋里だったんですか?」

 志織に対し、茉莉香は笑みを崩さない。

「秋里に住んでた子でね、いきなりぶつかってきた子がいたの。もう、びっくりね。しかも、謝罪が軽くて、みんなで怒ってもへらへらしてて」

 そのエピソードを、志織はどこかで聞いた。そして、無意識に口から声が漏れる。

「雅哉くん……」

 茉莉香は思い出したように手を叩いて、頷く。

「あ、そんな名前。生意気でね、やっぱり新しいところの子ってダメだなーって思ってたんだ。そうしたら、生け贄の話が出たでしょ。ああ、あの子しかいないってそう思ったの。どうせ余所者だし」

 儀式の日が刻一刻と迫っていて、親族間では連日話し合いが行われていた。それを立ち聞きした茉莉香は、彼を生け贄にすればいいと思いついた。

 茉莉香は、いままでの無愛想な様子はなんだったのかと思うほど饒舌に語った。大人の目を盗んで鏡を持ち出し、下校する雅哉の後をつける。そして、彼の家の前で鏡をコンパスでめちゃくちゃに傷つけた。そうすれば、きっと呪われて儀式が完了するはずだと思ったから。

「それ、間違ってますよ」

 みさきはいつもよりも低い声で告げた。茉莉香は要領を得ないといったような顔を見せた。

 志織は、こんな言いかたをするみさきに違和感があった。笑ったり泣いたり怯えたりは、もう何度も目撃している。しかし――。

「だったら鏡がずっと綺麗なままでいるわけないでしょ。あの鏡はそんなことで生け贄を得ません。ほかに正しい方法があるんです。そうでしょう、要介さん?」

 冷たく鋭い視線を要介に送る。要介はおののきながらも同意した。茉莉香は二人を見比べて、呆けた表情を浮かべた。

 みさきは茉莉香を力いっぱい睨んだ。志織は、本気で怒ったみさきを初めて見た。誰かに対して軽く怒ったり文句を言ったりしたことはあっても、こんなにもはっきりとした感情を誰かに向かって表すことが彼女にあるなんて思わなかった。

 茉莉香は、そんな様子も気にも留めない。

「なんだ、だったらそうしたのに」

 瞬間、突風のような音と弾ける音が連続して鳴り、茉莉香の顔が跳ねた。一瞬の出来事に志織も要介もあっけにとられ、みさきが茉莉香を引っぱたいたと認識するまでに時間がかかった。

「あなたね、自分がなにをしたのか考えなさいよ!」

 破裂するような声で、みさきは茉莉香を罵った。霊と対峙するたびに怖い怖いと狼狽する、普段の彼女の面影などなかった。思わず志織はみさきの腕をつかむ。

「み、みさき……落ち着いて」

「しぃちゃん、止めないでよ! この人のしたことわかってるの?」

 みさきの呼吸が荒くなる。いまにももう一度殴りかかりそうな勢いだ。

 みさきは霧風での修練を欠かさないので、見た目よりも手がずっとごつく、腕力もある。テーブル越しだったから威力が殺がれただけで、もしも本気で手を出したら、茉莉香の細い身体など思いきり飛ばしそうなほどだ。

「それで、その雅哉くん? 彼はどうなりましたか?」

 みさきの言葉に志織ははっとして、茉莉香を見る。茉莉香は薄く笑った。

「死んじゃった。ちょっと時間がかかって、他の人に先こされてたけどね」

 志織は目眩がした。崖から突き落とされたように錯覚する。みさきの腕がもう一度唸ろうとした。それを見た志織がとっさに羽交い締めにして止めたが、乾いた音が響いた。

 茉莉香はきょとんとしている。声を押し殺しながら泣いていた要介が、彼女の頬を叩いたのだ。

「お父様、どうして?」

 みさきはともかく、父が自分をぶったわけが、茉莉香にはわからなかった。

「あんなに余所者嫌がってたじゃない。お金のためでも、こういう時代が嫌だって。だから、私頑張ったのに」

「本気で言ってるのか?」

 こくりと肯定する茉莉香に、要介は絶望してそのままへたり込んだ。重々しい静寂が室内を包む。

 要介はそのまま志織とみさきの方に向き直り、土下座した。茉莉香は止めようとするが、彼は頑として顔を上げなかった。

「お願いします、娘の処遇はこれから当家できちんと処理します。ですから、あれを、あれの被害をこれ以上広げないでください」

 志織はその姿を見下ろして、胃のあたりが熱くなった。父として、財産家として、その姿はとても哀れだった。

 みさきも志織も返事ができなかった。志織は膝をついて、要介の身体を起こす。

「とりあえずは、解決を最優先にしたいです。そのあとは……」

「そのあとは、真嶋家の問題で私たちが関わるものではありません。この子の言うとおり、問題の解決を第一に考えますが」

 みさきは眉をひそめて茉莉香に目をやる。茉莉香はまた感情のない表情で、父親とみさきを見つめていた。その顔が不気味だった。

「話を元に戻しますね。座りましょう」

 率先して席についたのは茉莉香だった。志織は遠慮がちに、要介は半分魂が抜けたような様子で座る。

「あの鏡は、捧げられた生け贄を神様として六十年間縛りつけるものです。その六十年というのが、本来は前の生け贄が完全に力を失うまでの期間ですね。そして、鏡は新しい生け贄を取り込んで前の生け贄を食らって消す。しかし、鏡はもう使いものになりません」

 志織はあの陰惨な儀式の様子を思い出す。そのときに見た鏡に比べると、傷ついた現在のものはどこか空虚とすら思えた。

「あの人は解き放たれてしまいましたが、鏡のなかに戻ろうしていても戻れません。だから、蕗野市内を徘徊しているんです。無差別に人々を少しずつ襲いながら」

 みさきは窓の外に視線を移す。

「ああいうものは同じ霊を食らうケースも多いんですけれどね。もしかしたら、元は家につく悪霊を食らうものだったのかも。私としては大変残念ですが、この町をうろついている霊の数が異様に多いです。どちらかというと、生きた人間を狙っているのかと」

「だって、そうやって呪ったもの、私」

 茉莉香が口を挟む。そのどこか得意げな様子に、みさきの怒りが再燃しそうになる。

「要介さん。事故や死亡者……新しくやってきた人の割合はわかりますか?」

 尋ねられた要介は口ごもる。

「いまとなっては、元の住人のほうが少ないくらいですから……」

 その返答にみさきは小さく溜め息をつく。立ちあがった彼女は、志織を引っ張って自分たちの部屋に戻った。

「みさき……」

 みさきが自分の荷物を漁りながら支度を整えている最中に、志織はぽつりとこぼした。

「怒ってくれてありがとう」

 それを聞いて、みさきは振り返る。

「お礼を言われることじゃないよ……。あそこで誰が怒らないでいられるの? しぃちゃんが怒らないのが不思議だよ」

 確かにそうだった。しかし、もうなにがなんだかわからなくなっていた。茉莉香を憎めばいいのか、あの男を憎めばいいのか、自分を責めればいいのか。

「あの人が何もしなければ、お父さんもお祖父ちゃんも雅哉くんも死ななかったかな」

 自分で選ぶ権利すら与えられなかった可能性を幾通りも想像してみると虚しい。

「しぃちゃん、私はそうだと思ってるよ」

 みさきは霧風を何度か素振りする。これまで何度霊とやりあってもけっして欠けることもなかったそれが、いまはさらに力強い存在に感じた。

「しぃちゃん、行こうか」



 真嶋邸から離れて捜索する。男の気配は掴みにくかった。先ほどまでは頼もしかったみさきであったが、一歩外に出て霊とすれ違うと、急に弱気になった。そのギャップにある種の安心感をおぼえながら志織は、そんな彼女の支えになるよう努めた。

「霊的な理由で空気が悪くなると、その分集まりやすいんだよぅ……。早く……帰りたいね」

「うん……」

 この町に戻ってきたものの、なかなか生まれ故郷を愛しいと思う気持ちがわかなかった。さきほどのことがあったから、なおさら鬱々とする。どこもかしこもいやな思い出につながっているような気がした。

 どれくらい歩いただろうか。昼ごろに出たはずなのに、いつの間にかずいぶん日は傾いていた。市内のあちこちを巡っていた二人は市街地を経て、シャッターが目立つ通りに移動した。洒落た店が立ち並んでいた跡が残っているが、人気がなくて寂しい空気が満ちていた。

 そのときだった。臭いがして背中がちりちりとした。二人は同時に振り返る。彼がいた。とっさにみさきはがちがちに固まった腕で霧風を構える。男はそんな彼女を嘲笑する。

「な、なぜ」

 みさきの声が震える。

「なぜ人を襲うんですか?」

 しばしの沈黙のあと、彼は答えた。

「人が、憎いから……。それ以上の理由はない」

 男はみさき目がけて右腕を振り上げながら走り寄ってきた。みさきは立ちすくみそうになる足に力を入れてその腕めがけて切りかかったが、それはいとも簡単に避けられた。男は彼女の背後に回り込んでそのうなじを狙おうとする。

 志織はいつものように荷物から札を取り出して、彼に叩きつけようとする。けれども、弾かれてしまう。反動で尻もちをついた志織を男は見下ろす。色が濃くなった夕日の強烈な光がその肩に差し込む。ぞくりとして、志織は次の行動がなにも思いつかなかった。

 男が横に飛ぶ。みさきが再度彼を切ろうと攻め込んできたのだ。男は志織の傍らに回ると、その首筋に手を置いた。

「鏡を……」

「わ、渡さない!」

 みさきは霧風を構えながら叫んだ。声が裏返ってしまっていた。

 男は手を斜めに下ろす。薄い痛みがあった。顔をしかめて、志織は倒れる。襟からネックレスがはみ出て、地面に落ちた。それを見つめる男が逆光となって目がくらむ。フラッシュのような光が何度か発せられた。思わず志織は目をつむる。閉じた瞼でも閃光は感じられた。刺激で目も痛む。

 数秒経って、それが急に止んだ。ゆっくりと志織は目を開けて驚愕した。目の前に、父の姿があった。それが前日と同じ過去視なのだと理解するのに時間がかかった。

「お父さん」

 志織の声に、父が振り向くことはなかった。父はじっと前方を見つめていた。そこには、あの男がいた。志織は息をのむ。父は手に持っていたもの――志織のネックレスについている飾りをポケットに入れて、頭を下げた。

「どうかお願いします」

 男は無言で父を見つめていた。志織への憎しみがありありと周囲の空気に満ちていた。

「妻と娘だけは見逃してください。娘は何の力もない子どもです。あなたを殺した真嶋の人間でもありません」

 それでも憎いというのなら、と父は顔を上げる。

「代わりに私の命を差し上げます。それで娘をお許しください」

 志織は心臓が止まりそうだった。父がなにを言っているのか理解したくなかった。しかし、要介と目の前の父が重なる。娘のために懇願するその姿に、胸が壊れて張り裂けそうだった。

「お父さん、そんなこと言わないで。ダメだよ……お父さん!」

 志織は呼びかける。けれども父には聞こえていないようだった。駆け寄ろうとするのにできない。なにかが動くことを阻んでいた。

 夜の道は暗く、外灯がちかちかと瞬いていた。ほとんど影になった男は笑ったように見えた。そして、その心にもう志織がいなかった。彼は父に狙いを定めた。

「しぃちゃん……しぃちゃん!」

 みさきの、悲鳴のような呼びかけで、志織は我に返った。みさきの顔は涙でぐしゃぐしゃだった。気づけば、志織自身も泣いていた。

「大丈夫?」

 一拍遅れて、志織は力なく頷いた。空はもう暗い。さきほど見た光景と同じだ。まだ自分が現実にいるのか幻覚に閉じ込められているのか判別がつかなかった。頭が痛く、激しい呼吸が止まらない。涙も際限なくあふれる。

 彼はまた消えてしまった。みさきはそれ以上何も言わず、タクシーを拾って真嶋邸に戻った。気まずいのか、今夜は在宅しているはずの要介が出迎えることはなかった。

 部屋に戻って横になっても志織は回復しなかった。泣きすぎて目が痛かった。父の懇願する姿が目に焼きついている。志織はなぜ父が死に、それ以降は母と自分に害が及ばなかったのかを理解した。父が志織をかばい、自分の命を差し出した。彼はそれを了承した。その事実を突き付けられた。

「みさき、見た?」

 志織のベッド脇に置いた椅子に座っていたみさきは一瞬迷ったあと、わずかに頷いた。

「やっぱり……私のせいなんだ……」

 みさきも同じ光景を見たのなら、認めたくないがこれが事実だ。みさきは志織の袖を摘まむ。

「しぃちゃん、そんなことないよ」

「どこが! 少なくとも、お父さんは私のせいで死んだようなものじゃん! 自分が身代わりになるからって……」

 つい声が大きくなってしまう。この感情をどう受け入れたらいいのかわからなかった。父はなにも落ち度がない。志織が約束を破らなかったら、祖父も父も死ぬ必要はなかった。自分こそが死ぬべきだった。そうとしか思えなかった。どうしてあのとき彼に近寄ってしまったのだろう。後悔の海に放り出されて、どんどん沈んでいく。息ができなくなっていく。

「軽蔑したでしょ? 私、バカだから、みさきのような人みたいに自分にもなにかできるもんだと思ったんだよ。それで、こうなったんだよ」

 自分が無力なのは何度も実感した。しかし、今回ばかりは本気で自分を憎んだ。茉莉香に押しつけたかった責任が、すべて圧しかかる。父は妻子のために自分を犠牲にした。彼の志織への怒りを自分に向けさせて、自分が身代りになることで志織を守ろうとしたのだ。

「いいな、みさきが羨ましい」

 志織は自分の腕で目元を隠す。こんなに泣いても、まだ涙が出てくる。干からびてしまいそうだった。

「私、本当にあの人になにもできない。私のせいでお父さんが死んだのに……」

 口にすると、無力さも空しさもよけいに高まった。こんなことをみさきに吐露してもしかたないが、言わずにはいられなかった。

 志織は自己嫌悪と後悔でなかなか起き上がれなかった。そんな己にまた苛立つのであった。

「ごめん、こんなんで。本当、なにやってるんだろう」

 時間に余裕があるわけではない。二泊という期限があった。一刻も早く彼を除霊したい。それなのに、まったく身体が言うことを聞かないのだ。幽霊への耐性が強いことが取り柄だというのに、足を引っ張っている。みさきに申し訳なかった。

「幽霊と直接やりあえないなら、こんなときだからこそ、せめてみさきの力になれって自分でも思うよ……」

「大丈夫。しぃちゃんはここで休んでて。いまから、私一人で行くよ」

 突然、みさきは唇を真一文字にして立ち上がった。

「みさき? なに言ってるの。一人じゃ」

 起き上がると天井がぐるりと回転した。志織はふたたびベッドに沈む。みさきはそんな相棒を見て苦笑した。

「そんな身体の人をつれていくほど、私も鬼じゃないって。平気平気、これでも、しぃちゃんと出会う前から一応仕事はしてたんだよ。それに、最近はわりとしっかりしてるでしょ?」

 志織が慌ててもう一度身を起こすが、みさきはその肩を押さえてゆるやかに布団に戻す。

「心配しないで。こんなことくらいでバイト代も引かないから。まずはじっくり休んでてよ。それでね……」

 みさきは、口の両端をわずかに左右に広げて笑う。

「もしもちゃんと一人で仕事して帰ってきたら、そのときは褒めてくれる?」

 もちろん、と志織は言おうとした。しかし、突然眠くなって、自分でも何を言っているのかわからないまま眠りについた。みさきはそれを見届けると、霧風を担いで真嶋邸をあとにした。

 志織は自分が情けなかった。わざわざみさきに弱音をぶつけるような状況でも立場でもなかった。本当は自分のほうがよほどみさきに甘えていたのがよくわかる。それなのに、普段の仕事でみさきが怖がりであることを理由に、彼女のほうが自分に甘えているのだとどこかで錯覚していた。

 自分の弱さへの嫌悪が、じわじわと浸食していく。何度も自分を責める。特に夢は見ていないはずなのに、不快な浮遊感だけはやけに鮮明で、うなされた。

 目を覚ますと、窓から見える景色は既に暗くなっていた。

(何時だろう)

 時計を見ると、まだ八時にもなっていなかった。たった一時間くらいなのに、朝まで寝ていたような気がした。

 服は汗で濡れていた。いざ起きあがってみると、倦怠感はあるものの、動けないことはない。むしろ、今度は少しでも動いたほうが、不調が取れていく気がした。意識もだんだんと靄が晴れていくような感覚だ。

 みさき。志織は替えの服に手を取った瞬間、彼女のことを思い出した。すぐに着替えて部屋を飛び出し、手近にいた真嶋の使用人をつかまえる。

「す、すみません! みさ、祝さん戻ってますか?」

「いいえ、まだですけれど」

 すぐに追いかけようとする志織を、使用人が止める。

「祝様から頼まれています。今日はお休みください」

 志織はとっさに振り払った。思いのほか力が出て、お互い驚いて固まってしまったが、志織は謝ってそのまま玄関を通って前庭を抜けて、門の外へと飛び出した。

 涼しい空気が肺を出入りする。世界はすっかり秋だ。夏の名残はもう欠片も感じられなかった。志織は目を閉じて、男の気配に意識を集中する。昼間よりははっきりとしていた。きっとみさきもそこに向かっているだろう。志織は自分の感覚を頼りに走りだした。



 ちょうどそのころ、町外れの工場街にある廃ビルで、みさきは男と対峙していた。正直、まだ震えている。これまではいつも一緒にいた志織がいないから、なおさら恐怖が全身に満ちていた。けれども、強がりを言って志織を置いてきたのはみさき自身だった。

 みさきはみさきで、志織をつれてきてしまったことを後悔していた。ただでさえ過去に苦しんでいたのに、その傷口をえぐってしまった。いつもそばにいてくれる彼女に対して、あんな思いをさせてしまったことが申し訳なかった。

「いいいい、いったい、なにが目的なの? もうあの子の代わりにお父さんを食らったんでしょ? しかも、真嶋の人間でないのもわかってたんでしょ?」

 こんなときくらいびしっと決められないのかと自己嫌悪する。そんなみさきを前にして、男はにやつきながら首をかしげる。

「もう真嶋かどうかは関係ない」

「え?」

「死んだ人間はもういい。生きた人間の魂がほしい。そうすれば満たされる」

 志織が遭遇したように、彼は最初、不完全で力なき存在だった。それは、真嶋家が伝承どおりに儀式を行ったとはいえ、元の家とまったく同じというわけにはいかなかったせいでもあった。前の生け贄は消え、彼の魂は瀕死の状態のまま鏡に取り込まれてしまった。

 苦しみや痛みが消えない。死の直前の状態がずっと続いていた。そして、飢えていた。それは鏡に宿る神の常だった。真嶋に取り巻く悪霊、悪意、妬み、恨み――それらをいくら食らえども飢えは消えなかった。

 いつまで続くのだろうか。もう永遠にこのままだろうか。鏡に捕らわれた彼は絶望した。そんななか、急に光のもとに放り出された。

「余所者を呪っていいのよ……ここの人はみんな殺していいの」

 見知らぬ誰かが呟き、そして去っていく。その背中から真嶋の匂いがした。その瞬間、死の間際の記憶がよみがえった。

「お待ちください」

 男は呼びかけた。しかし、彼女は振り向かない。眩しい光のほうへ歩いていく。真嶋はあのときと同じように自分を見捨てていく。

「お助け、ください……」

 力が入らず、そのまま顔も地に伏せる。真嶋に傷を負わされ、また誰からも救いの手が差し出されることなく見捨てられることへの絶望に心が浸っていく――そのときだった。

「どうしたの?」

 自分を見下ろす影があった。先ほどの子どもが戻ってきてくれたのだと思った。男は必死に腕を伸ばした。

「お助け……ください……助け……」

 彼女はその手を取った。その瞬間に、彼は救われた気がした。しかし、握られた手を通していきなり相手の恐怖が逆流して入ってきた――それは自分への嫌悪でもあった。

「ごめんなさい」

 彼女はいきなり走り去っていく。ああ、まただ……。また行ってしまう。

「お待ちください……」

 必死で呼びとめようとするが、彼女は悲鳴をあげて行ってしまった。彼は悲しみに震えた。この苦しみをいつまで繰り返せばいいのか。真嶋に逆らっただけでこんな地獄に落ちるのか。炎に焼かれるように、憎しみが自分の魂を焦がした。

 そのときだった。また一人、子どもが目の前を通った。今度はこちらを気に留めて見ることすらない。

 また見捨てる――男は憎んだ。彼の肉体ではなく、その若い魂を反射的にえぐり取る。それが自分のなかに吸収されたとたん、あれだけ飢えていた我が身がすこしだけ満たされた。あの儀式から長い時を経ていたが、こんなことは初めてだった。

 もう一度魂をえぐる。またすこし満たされる。その瞬間、男は悟った。満たされるには生きた人間でないとならない、と。それから彼はひたすら生きた人間を食らった。いつしか飢えはなくなり、力にあふれるようになった。

 はじめは自分を見捨てたあの真嶋の家の者を食らう予定だったが、彼女は真嶋ではなかった。代わりに父親だという男の魂をもらいうけたから、もうこだわる必要はなかった。むしろ、魂を食らっているうちに真嶋自体への関心が薄れた。たったひとつ、あの言葉だけが心に留まっていたが。

「余所者を呪っていいのよ……ここの人はみんな殺していいの」

 無意識に蕗野と縁が薄い魂を選んでいた。その意味は自分でもわからなくなっていた。さいわい食料はどんどん補充される。彼はただ食らうことを考えるようになった。

 みさきはそこまでの流れを知ると、寒気がした。茉莉香のしたことは取り返しがつかない。そして、この男はまだ人の形を保っているが、もう人ではない。邪神、あるいは鬼。もうそういう種類の存在だった。

 同情すべきところはたくさんある。そんな魂を成仏させられたらいいが、自分には手がおえない。そして、一刻も早くこの彼をどうにかしないと、蕗野が終わってしまう。みさきは覚悟を決めて霧風を握り直す。

 もちろん恐怖はある。歯が合わず、がたがたと音を立てる。怯えるを通り越して、もう叫ぶことすらできなかった。

 たった一人で対処しなければならない。重圧が両肩にかかる。いまは頼る人間などいない。今度こそ自分だけでどうにかしなければならないのだ。みさきは自分の器と無力さを知る。

 みさきは思い切って前に踏み出し、地面を蹴る。霧風で横に薙ぎ払うが、それでは男に届かない。彼は身軽だ。みさきを嘲笑うようにひらりひらりと舞う。そして、わずかに隙でも見せれば、容赦なくその身を魂ごと削っていく。

 彼が迫るたびにみさきは泣きたくなる。この期に及んでも心が弱い自分に嫌悪感が高まった。霊も物の怪も、この世のものではない存在なんて大嫌いだ。それでも戦わなければならない。

 声をあげながら、みさきはもういちど切りかかったが、それは止められた。そして、男は霧風を受けとめながらも、もうひとつの腕でみさきの身体を払いのけた。

 みさきは後方へ飛ばされた。全身を打つ。力比べではまったく適わない。さすがの霧風も、現状では彼を即座に断つことができなかった。隙をついて確実に当てなければ弾かれてしまう。

 みさきは無意識に涙を流していた。こんなときに泣いている場合ではない。よけいに自分が情けなかった。

 男が近づいてくる。立ち上がらなければならない、それなのに起き上がれない。みさきは唇を強くかむ。血の味がした。苦い。

「みさき!」

 志織が駆けこんでくる。男の注意が志織に向いた。みさきはその一瞬を狙って、霧風を振るった。男の上腕をとらえ、彼はバランスを崩した。

「しぃちゃん、どうして来たの!」

 志織に答える暇などなかった。男が一気に距離を詰めて迫ってくる。それを避けるので精いっぱいだった。手刀が志織の胸元を掠める。その瞬間、ネックレスの鎖が切れて、遠くの床に落ちて滑っていった。

 志織はそれを取りにいこうとしたが、背中に熱い衝撃が走って、その場に倒れる。目の前に影が落ちる。いつの間にか男は刀を手にしていた。博物館で出会った姫のような短刀ではなく、霧風と同じくらいの長さで、まるで鏡のような刀身に志織の顔が映った。

 刀を真上に振りかぶる。切っ先がきらめいた。志織は、ここで自分が死ぬのだと思った。

 男はそのまままっすぐ下ろそうとしたが、急にその刃の行先を変えた。間髪入れずにみさきが横から飛び込んできて、その刃を霧風で叩いた。霧風のまとう気配が揺らぐ。

 みさきは一秒の間もおかず、彼の腰を狙った。しかしそれもかわされる。

 志織はその隙に身を起こそうとしたが、手が震えた。なかなか思うように身体が動かせない。

 そんな志織をかばうように、みさきは霧風を振るいつづける。博物館のあと、修練に力を入れるようになったものの、みさきの太刀筋はまだ安定していない。まだ霧風をやみくもに振り回しているも同然だった。

 せめて勢いだけでも。みさきは一度引いて、反動をつける。そして横薙ぎに切りはらおうとしたそのとき、手から霧風が抜けて行く感覚があった。

(まずい!)

 集中力が途切れる。すんでのところで握る力を強くして手から離れずに済んだが、次の動作が遅れた。崩れた体勢を直そうとしたと同時に、脇腹がえぐれるような痛みを覚え、同時に吹き飛ばされた。

 うまく呼吸ができず、みさきは咳き込む。霧風を支えにして立ち上がろうとするが、力が入らなかった。男がみさきに狙いを定める。それを見た志織は這うように移動して男の脚にしがみついた。

 彼に触れた部分が火傷するように痛む。それをこらえて志織は荷物から札を取りだす。せめてこれだけでもと男の身体に押し当てようとした。

「きゃ!」

 志織の手のなかで、それはいとも簡単に燃えてしまった。男の笑い声が降ってきて、志織は蹴りを入れられて再び床に叩きつけられた。

「しぃちゃん!」

 志織よりもみさきを優先しているのか、男は倒れた志織を横目にみさきのもとへと進んでいく。みさきはようやく両の脚で立つかどうかというところで、思うように身構えられない。

 その様子を見て、志織は即座に上半身を起こした。頼りになる札は彼には全然効かない。無意識に周囲を見渡した志織はそばに落ちていたネックレスに目を留める。剣の形をした父の形見――自分のお守り。

「いざというときは志織の力になってくれる」

 父はそう言った。志織は考えるより先にそれを手に取った。

(お父さん……)

 父を思い浮かべる。娘の代わりに自分をと彼に言った父。志織は目の前が真っ白になった。そして、叫び声を出しながら走り寄り、ネックレスの剣で、横から男の腕を思いきりえぐった。

 男は悲鳴をあげる。その反応に志織は驚き、立ち止まる。彼は身を折り、歯をむき出しにして志織を睨んだ。それに躊躇しそうになるが、志織はさらに一歩踏み込んで、男の脇腹を狙って突き刺す。男が仰向けになって倒れる。

 男は志織を見つめる。口をわずかに動かし、何かを言おうとする。一瞬怖気づくが、志織は目をつむりながら彼の胸に突き刺した。男の身体が跳ねる。その様子を見て、志織は儀式を思いだして吐きそうになったものの、なんとかこらえる。

「みさきっ!」

 みさきはどうにか気力を振り絞って二人のもとに駆け寄る。霧風が唸り、彼の首をはねる。血は流れず、落ちた男の頭が転がり、すこしして停止する。

 ぱくぱくとなにか喋ろうとするが、まったく聞こえない。そして男の顔から力が抜けた。一瞬だけおだやかな顔を見せ、男は消えていった。

 その瞬間、その場を強い光が支配した。たくさんの光球があふれ出た。そのうちのふたつが志織たちの身体に入り込む。色とりどりのそれらはふわふわと踊りながら、天に上ったり彼方へと飛んでいった。志織とみさきはそれを呆然と見送った。

「あれ、きっとみんなの魂だ。ずっとあの人のなかに溜まってた」

 ぽつりとみさきが呟く。あれだけの魂が男のなかにあったのだ。光の数だけ、人が死んだ。志織は震えながら、その美しい光景を眺めた。死んでしまった人は、誰も戻らない。戻すことはできない。あれだけの肉体が失われた。

 吹く風や漂う空気には、もうあの臭いも色もなかった。どこか懐かしく感じるそれを、志織は胸いっぱいに吸い込んだ。

「う……く……」

 みさきがいきなり呻く。びっくりして志織が振り向くと、涙と鼻水で顔が濡れていた。

「ふええええええええええ、しぃちゃーん」

 みさきは抱きついてくる。もう足腰に力が入らないようだった。志織は、ちいさな子にしてやるように、ぽんぽんとその背中を叩いてやった。

「怖かった、怖かったよぅ……」

「大丈夫って言ってたじゃん」

「それでも、やっぱり怖かった、うえっ、ふっ」

 みさきの顔を見て、こんな状況なのに志織は笑ってしまった。

「よだれ垂らしてるよ」

 志織はハンカチを差し出す。みさきはそれを受け取ると、遠慮なく顔全体を拭った。

「……鼻かんでもいい?」

「それは勘弁して」

 志織は苦笑しながら、空を見る。手に持っていたネックレスがなんとなく熱い。

 彼を刺してしまった。それでよかったのか志織にはわからなかった。元は彼も哀れな存在だったから。

 志織はまだ残っている魂の光を目で追う。彼らが向かう先になにがあるのかはわからない。まだ志織のなかにある罪悪感は消えない。せめてそれぞれの死者にもあの男にも安らぎがあってほしいと、そう願った。



 翌日、二人は改めて要介に事の次第を報告した。たった数日で、すっかり彼はやつれてしまったように見えた。

 もう鏡にはなんの力も残っていないから、地域の神社に納めてしまえばいいとみさきから聞くと、わずかに安堵したようだった。

「あの、茉莉香さんは……?」

 要介は落ちくぼんだ目で、空っぽの自分の隣を見つめた。

「あれは遠くにやります。しばらく表に出してはならないでしょう。医者にも見せようと思います」

 要介の声は震えていた。

「茉莉香は、なにかの罪に問われますか」

 みさきは首を横に振った。

「たとえ茉莉香さんが今回の直接の原因だったとしても、それが誰にでもわかる証拠というものはないんです。だから裁くとか法律とか、そういうものとは無縁です」

 要介は途方にくれた様子だった。これから彼らはどうやって生きていくのだろう。志織は疲れ果てた要介の姿が悲しかった。

 こうして二人は真嶋邸をあとにした。霊の数はだいぶ減っていた。

「く、空気が良くなってきたから、よそに行ったみたい。これから平和になるんじゃない……一般レベルでは。真嶋さんみたいなおうちは知らないけど」

 少なくなったとはいえ、霊がいる限り、みさきの恐怖心は消えない。志織にしがみついて移動する。

「あー、やっぱりしぃちゃんいると落ち着くわー。もう私、しぃちゃんいないとダメだ」

「じゃあ、そばにいようかな……バイト代が出てるうちはね」

 みさきはぱっと顔を上げる。目がまたうるむ。

「い、いじわるぅ……」

「冗談だよ。みさきが呼んでくれるんだったら、いつでもつきあうって」

 みさきは嬉しそうに笑う。志織はそれを見て、たとえ自分が無力であっても、彼女が必要としてくれる限りは力になりたいとあらためて感じた。





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