プロローグ
―2024年3月、氷雨滴る夜。
疲れた。暗いし、寒い。
今のボクにはこれ以上の言葉思い浮かべる余裕はない。
今夜のボクは、そんなに煽りたくもないアルコールに、仕事の都合上、仕方なく浸って頭と体が少しフラフラとしている。雨が降る三月の夜更け過ぎ、傘もささずに。
雨粒が街灯の明かりをキラキラと反射させているのに、耳からの情報は一切感じ取れない。
何ら特別な意識もなく、駅の改札から出てすぐのロータリーに目をやると、家族待ちと思われるエンジンが掛ったまま停車している車や雨が当たらない軒下で傘を持って誰かを待つ人なんかがポツポツと点在しており、こんな終電時刻の回った夜更け過ぎでも、人の絆を感じる。
ボクはそんな情景を横目に見ながら、初春の寒空の下、一人うつむきながらゆっくりと歩を進め始める。スーツの袖口は冷たく湿っている。
夕刻まで絞めていた、お気に入りの色鮮やかな水色のネクタイは、どうやらどこかに置いてきてしまったらしく、首元は寂しく空いている。歩く足元も、はじけ飛んでくる水で濃紺のスラックスが、膝下くらいまで濡れてしまっている。アルコールで火照っているボクには、なんだか心地よいような気にもなってくる。
(何もかもくたびれた自分には、これくらいがちょうど良いさ。)
捻くれたボクが、自分にしか向けることができない皮肉を差し向け、勝手に心の中の暗がりを広げていく。そして、また広がる。
(ボクを待つものはいない。だからボクは…。)
言葉にもならない、感情にも表現できない気持ちが胸の奥底から這い上がろうとしてきては、上手く形成されずに霧となって、ただ暗く心の中を徘徊するだけだ。
漠然と心に陰る自己批判にも似たこの感情は、ボクを一層自分勝手な感傷へと誘い込む。こういう帰り道では、いつもそんな暗鬱とした自分勝手な歪んだ気持ちが浮いては消えていきながら、下を向いて歩くのが常だ。
でも、ボクは今の今まで、この瞬間まで、自分が歩んできた人生を悔いたことはない。ボクが歩いてきた道、歩かなくてはいけなかった道、選んできたと思いたい道、どれを振り返ってもボクはボクのできる最善を尽くした、と思っている。どんな状況に陥ったとしても、ボクは常に懸命に考えることを諦めず、そして行動し、今この道を歩いている。
この気持ちはただの自己弁護であることはボク自身も分かってはいる。けれど、そうやって与えられた境遇、運命をさも自分が選び、果敢に遂行してきたと思わなければ、きっとボクの自我は崩壊し、立つことさえもできないくらいには精神に異常をきたしていたはずだ。
だから、こんな寒く暗い、湿った夜にいつも下を向いてトボトボと歩きながら短い言葉で噛みしめる。
(ボクは頑張った。)
普通の定義が無くなってきている今の時代の中であっても、ボクは決して普通の人生と明確に区別できる道を歩いていた。そんな妙で些細な自負がボク自身にはあった。
故に、ボクはこれまでの自分の行動とそれに伴う結果について後悔していなかった。でもずっと、ボクは思っていた。時間の歩みはみんな平等で、その平等な時間の中では必ずしも平等に目で見える豊さは与えられず、ボクは与えられない側の人間だ、と。
そうやって与えられていないと嘆く反面、違う側面から見たら何かは与えられている人生にも見える、ということはボクも理解はしていた。
そうだとしても、やはり与えられているモノの何かは平等ではなく、常にどこか満たされない不満やあてもない羨望のような感情に浸ることがあった。今夜は、ボクにとってそんな思春期に抱くような感傷を呼び起こすような日だった。そんな冴えないボクの頭の中に、ふと昔の情景が呼び起こされる。
サラサラとした肩に届くくらいの長さの黒髪、そしてハッと息を飲むような透き通った白い肌で、明るい表情で笑いかけてくる君の姿。
その姿の背景は、君と過ごした大切な思い出のスクラップ写真を、何枚も何枚も入れ替えて映し出される不思議な感覚。どんな背景の君も、ボクにとってはいつまでも大切な君とのひと場面だ。
「また、君に会いたいよ。今も耳から離れない。君の声が懐かしい」。
暗がりの中をフラフラと歩くボクはボソッと、つい言葉に出してしまう。これはボクなりの君に対する感嘆の表現であり、現在のボクの心内に対する悲哀の表現でもある。
ボクの頭の中で姿を見せてくれる君は、いつまでも若々しい姿のまま。君はボクにとっては最初から完成した存在で、時が経ったとしても何ら色褪せることのない、そんな存在。そんな、存在のまま。
ボクは、しっとりとした雨が降り続く暗がりの中、立ち止まり、雨を見上げた。
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作者の神 伊織です。
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