一国一城のわらしべ長者
ご都合主義は、作家にとって、唾棄すべきです。
現実的でなければ、物語の没入感が薄くなるためでございます。想像をすることが容易ではなくなるのです。主人公補正も同じでしょう。主人公に自己投影をしつつ読み進めるなら、事が現実的でなければ、受け入れ難くなるものです。
何の取柄もない引きこもりの男が、唐突に部屋に押しかけて来た美少女に世話をされて、自堕落な生活を続けていく。現実で言ってしまえば、在り得ず、受け入れ難くもなるでしょう。物語性もなく、酷くつまらない展開です。
しかし、背反することに、作家は自らにとって、もしくは読み手にとって都合の良い結末を届けなければなりません。そのためにあの手この手で工夫を凝らします。
例えば、段階を踏むことで、都合の良い結末を持ってきます。
先の例を重ねましょう。
男は昔、その美少女を助けたことがあったのです。彼女がかつて戦火に巻き込まれ、すべてを失った時、男は財を投じて彼女を助けました。その後、度重なる戦で精神を疲弊させた男は、堕落してしまったのです。かつての恩を返したいと、彼女は手を助ける。
これは限りなく自然になるでしょう。
こと、わらしべ長者という昔話は、段階を踏む物語として優れます。
わらしべ長者。男は最初に稲を掴み、稲でアブを捕まえます。アブを欲しがった少年と、みかんを交換しました。渇きで道倒れた女性にみかんを渡すと、上質な絹を頂きます。途上で死にかけた馬と困り果てた旅人がおり、強引に絹と馬を取引させられます。男が何とか馬を介抱すると、馬は元気になります。馬で道を進めば、民家の前を通りかかります。その民家は長者の家で、その長者は「旅に出るから、その馬を譲ってくれ。代わりに私の家と田んぼを渡しましょう。」と言います。そうして、男は長者となるのです。
わらしべとは稲のこと。
長者とは裕福な者のこと。
妥当に思える物々交換のストーリーは、現実の物語として受け入れ易く、主人公としての自己投影を容易にさせます。物語上の成功体験を、自らの物語とできるのです。
その快活さ故、わらしべ長者とは現代まで語り継がれます。
現代まで語り継がれる要因は、物語としての簡単さと、洗練された構造です。作者が優れていたと申しましょうか。叙述の遺伝に関わる優れたメカニズムと認めましょうか。
私はひとつの答えを知っています。
どうして、わらしべ長者が現代まで語られるのかということです。
私は作者の努力にこそ、要因があると結論付けます。
昔話は、時代と共に変化する物語でございますから、わらしべ長者も例外ではありません。しかし、わらしべ長者は始りの形態から、ほとんど姿を変えていないことを、私は保証することが可能なのです。わらしべ長者の原話(元ネタ)を、私は知っているからです。
わらしべ長者は、平安時代の今昔物語集、または鎌倉時代の宇治拾遺物語に収録されています。しかし、そこに収録される段階で、すでに口伝の物語として完成していたことに注意されたいのです。私が保証するのは、宇治拾遺物語に収録されるよりも前からの話なのです。
原話を語らせて頂きましょう。
むかしむかし、あるところで、ひとりの男がおりました。
男は信心深くありつつ、しかし同時に、怠惰でもありました。困っている人がいれば助けようとする一端の義勇を持ち合わせておきながら、普段は賭博に明け暮れます。非常に一般的な善良性を持ち合わせた男と言いましょうか。
男の特徴を挙げるとすれば、あぶく銭を躊躇いもなく消費することでしょう。仮に一年と遊んで生きられるほどの銭を得たならば、人はすこしくらいは躊躇うことが普通です。しかし、男はそれを躊躇いなく使います。
浮いて得た銭なのだから、浮かせて流せばいいだろうと言うのです。
そんな男は最近、ハマっていることがありました。占いです。
決して、占いを信じていたわけではないのです。明日はああなるだとか、こうなるだとか。何をすれば幸福になるだとか、不幸になるだとか。心の底からは信じていなかったのですが、しかし、心の表面で一度だけ信じてみるという遊びをしていたのです。
幸福の占いが当たれば、良かったではないか、と喜ぼう。外れれば、悪態を吐こう。不幸の占いは注意してみよう。外れれば、良かったではないかと喜ぼう。
日常に散らばる幸せの欠片を、占いという不鮮明な言語化で、浮き彫りにする試みに興じていたのです。
その日も、先日の賭博で得たあぶく銭を持って、男は占い師の前に立ちました。その占い師を当たるのは初めての事でしたが、男はためらいもなく頼みました。
「どれどれ、ふむふむ。なるほど。あなたの未来が分かりました。あなたが今日、はじめに掴んだ物を信じなさい。そうすれば、忽ちあなたは長者となるでしょう。」
大仰に、もったいぶって、占い師は告げる。
いつもとは毛色の違う占いの結果を聞いて、その目新しさに、男は大変面白がりました。さて、何を掴もうかと、ようようと道を歩き、やがて村の外に出ていきました。
黄金色の田んぼの傍を歩きつつ、そう安いものは手で掴むまいと心に決めていたのです。手は平に広げて、切る風の心地まで繊細に注意を払いました。
周囲に目配せをします。その心地はまるで、童心に帰ったようでした。宝があると聞き及び、宝を探して歩く心持なのです。しかし、つい足元をおろそかにした男は、幼子の様に情けなく、あえなく転んでしまうのでした。
手に掴んだのは稲の穂です。
こんなもので、長者になれるものかと、一瞬訝しげに顔を顰めたものの、その掴んだ物を離す気にも、なかなかなれなくて、結局のところ茎から千切り、持ち歩きます。
アブを捕まえたりなど致しません。黄金色の穂先で遊ぶだけなのです。
次第に、森に入ります。行商の者が歩くために整備された土道が森を縦横に切り開きます。偶に足軽とすれ違うことのある道ですが、この時はまったく会いませんでした。
森は不気味なところです。警戒心を持つ人なら、そうやすやすと入りません。野生動物など脅威ですし、野盗など恐怖です。木の葉の擦れる音ひとつにも、耳をそばだててしまうほどなのです。
その時ばかりは、森は非常に静かでした。清廉な空気が漂います。男はその空気を味わいたく思い、鼻で大きく息を吸って、肩を上げるほど息を吸って、口から息を吐きました。男は心中、非常に穏やかでした。それも、この音を聞くまでです。
誰かの呻き声が聞こえました。
茂みの向こうです。肩が跳ねるかと思うほどに驚き、男は自身の息が聞こえなくなるほどに静かになりました。そうしてみると、呻き声は苦しそうです。
男は怖くなりましたが、もし人が倒れているのでしたら、手を貸さなければなりません。勇気を切って、男は茂みをかきわけ、声の方へと向かいます。
血泥で濡れた武者が緑の芝生で倒れ伏しているのです。息も絶え絶えの様子、血で染まった甲冑は死に行く彼を守れそうもありませんでした。
慌てて男は近づき、声をかけます。
「大丈夫でございますか。」
到底、喋れる様子ではございません。
介抱のため、男を仰向けに転がします。手探りで留め具を外し、何とか甲冑を外していくと、ようやく武者の呼吸も落ち着いてきます。顔色は相変わらず悪いままで、今にも命の灯が絶えそうです。武者は何とか唇を震わせて、小さな言葉を紡ぎます。
声を聞くため、男は唇に耳を近づけます。
「…シ。メシ。」
うわ言のようにそう繰り返します。
男はつい夢中で、その辺に放ってしまっていた稲穂の一粒一粒をはがします。そうして武者の口にまとめて放り込むのです。これが良いのか悪いのか、後から思い返せばサッパリですが、この時ばかりは良い行いだと思っていました。
まごまごと、口を動かし、何とか涎を出して、飲み込んだ様子です。
「あり、がとう。」
感謝の言葉を告げ、武者は目を閉じました。
死んでしまったかと思われましたが、幸いにして、寝てしまったようでした。このまま野ざらしにしておくわけにもいかず、男は武者を村まで運びました。
目を覚ますと、武者は忽ち、土下座をする勢いで感謝を示します。
「ありがとうございます。貴方様がおられなければ、私は野垂れ人でおりました。この御恩は今後一生、忘れることはございません!」
男は多少の感謝は欲していたものの、ここまで真に迫られてしまうと、恐縮してしまいます。恐縮の言葉ばかりを並べ、興奮した武者を落ち着かせようとすれば、武者はひとつの大きな御恩を返します。
「そうだ。貴方様ほどのお方ならば、きっと、このような生活をしているべきではないのでございます。私について来てくだされ、きっと良くさせて頂きます。」
数日を経て、復活した武者に男は連れられて行きます。
ほう、これが長者になる道ということかと、そうボンヤリと男は承諾したのです。
後に知れることですが、武者は大層偉い人でした。武者ではなく、御家人と呼ぶべき身分をされたお方だったのです。それこそ、何十という武者を束ね、どこの城を誰に与えるとか、そんなことを決められるほどなのでした。
「貴方様は百姓などしていてはなりませぬ。お上に申し立てて、武者としての身分をご用意させましょう。そうして一国一城の長となってください。」
そうして、男は自身の城を手に入れました。
身分は武者となり、貴重な武具で身を包む光栄を許されたのです。城を運営するための部下も手に入りました。巨万の富と安泰の身分を手に入れたのでございます。
わらしべが、城に化けたのです。
子族ともどもの長者が約束されたのです。
「いや、そうはならんやろ。」
男もとっさに、そうこぼしたとか、こぼさなかったとか。
そういう史実なのでございます。
さて、わらしべ長者の物語はすでにクライマックスを迎えております。
この後は助長かと思われますが、しかし、私が最初に論じていた内容をお覚えでしょうか。わらしべ長者の物語が完成されているのは、作者の努力なのであるという論でございます。はてさて、先ほどまでの物語がわらしべ長者の元ネタなのだというならば、確かに大きく話が違いましょう。あまりの幸運は現実味をなくすレベルであり、主人公の自己投影を許さんばかりのものでございます。大味の物語を、マイルドに整えた作者の手腕は、努力と呼んで差し支えないと思われますが、しかし、そうではないのです。
わらしべ長者の物語はまだ続きます。語られないエピローグがあるのです。
男は城を受け取りましたが、男の人生という物語はまだ続きます。
もうしばし、お付き合いくださいませ。
男は降ってわいた身分に、大変恐縮しました。
根が小市民でございましたから、部下ができるという経験もしてこなかったため、部下にも腰深く接しました。得てして、そうした善性が認められ、民との関係も良好に進められました。
その結果に御家人の主人も、満足していましたし、男の部下も、上司の存在をだんだんと受け入れていきました。現状を受け入れられていなかったのは、男だけだったのです。男は現状を、まるで胡蝶之夢が如くと思っていました。
目を覚ましたら、下等な布団が敷かれている気がしてならないのです。
いえ、決して怖がっていません。むしろ恋しがっているのかもしれません。男は城主となってから一切、サイコロを握っていませんでした。神と同様、多くの人を導く立場にある者は、往々にしてサイコロを振ることを許されないものです。明日はどうしようなどと、たった明日の事にすら頭を悩ませて、占いに一喜一憂する時代がなくなったのです。
男は上手くやっていました。
握ったことのない刀も、師事をいただくことで、何とか触れるようになりました。もちろん、戦のための準備でございます。しかし、いざ戦と言われても、男にとって戦う理由は希薄だったのです。もちろん、男が目の前に倒れ伏す人を助けるほどの、義勇を持ち合わせるのは変わりません。しかし、彼が守るべきと定められる民は、彼の目の前で倒れているわけではないのです。
そんな曖昧なままに、男が出陣する日が来ました。
他国が攻め入って来たと言うのです。追い返さなければなりません。すでに敵の侵略は進んでおり、ひとつの領土が攻め滅ぼされたと聞きます。これはいけないと、誰もが思いましたし、男も続きました。
男が馬を駆るまで、そう時間はかかりませんでした。部下を引き連れて、最前となり進みます。最初にその惨状を目にしたのは男でした。
村が焼かれていました。燃えが悪いのか、黒い煙がもくもくと昇ります。大量の人死にが目の前にありました。男は自身の喉を締め付けられるような気分を味わいました。
やがて会敵します。平原の広い場所で、両者が睨み合います。ひとつのきっかけがあって、両者はぶつかり合いました。男は大将ですので、後ろからその様子を眺めていたのですが、それはもう怖く思えたのです。逃げ出したくなる気分でした。
死。死。死。
やがて、男の目の前に、矢を縫うような働きで敵が躍り出ます。男は驚いて、躊躇いますが、瀕死の敵を刀の錆としました。手に死が馴染むような感触がしたのです。
一国一城の長になるというのは、こういうことなのかと。そうして男はようやく、自分が得たものの重さというものを知ったのでした。男にとっては大きすぎて、重すぎたのです。それでも、良識を持つ男は、固唾をのんで、現状を飲み込みます。
すでに戦場です。弱気など吐けません。
男は大金星を挙げました。いうなれば、優れた部下のおかげでしたが、それは上司の評価にも繋がるもので、男は連勝の長となりました。男にとって、平凡な勝利と思えてならないそれは、城主としては優れた有終の美として映えるのです。
侵略されていた領地を取り戻すため、更に進みます。
やがて占領された城に辿り着きます。
城攻めとは困難なものです。それはもう幾日もかけて行われるほどのもので、兵糧攻めや人海戦術を駆使する他、取れる戦術と言えば限られます。男はもちろん、戦に関して初心者ですので、戦術と言われて多くは思い浮かびません。
しかし、その城では、捕虜が囚われていると聞きます。本来の持ち主である城主も、ここにいるというのです。城攻めで城を壊してしまえば、後から難癖をつけられるかもしれません。しかし、男にとっては非常に簡単な解決策がありました。
大声を出して、敵に勧告します。
「投降したまえ。貴君らはすでに包囲されている。助かる手立てなどないと思え、そのまま籠城を続ければ、我らは城に“火”を放つぞ。投降すれば、情状酌量をお上にかけあうと約束しよう。繰り返す、投降したまえ!」
ざわざわ、と。
門の後ろからざわめきが聞こえます。
しかし、答えは返ってこないまま、静まり返りました。それこそが、返答なのだろうと、誰もが判じます。男はためらわず号令をかけました。
「矢をつがえろ!」
兵士は火を先端にかけた矢を構えます。
門を超えて、遥か先に届くよう、斜め上を向けています。
「放て!」
その戦は簡単とはいかずとも、普通に城攻めをするよりは、遥かに簡単に事が進みました。幾人かの犠牲が現れるたび、男は胸を痛めつつ、そうして捕虜を救い出したのです。
捕虜を救い出した頃には、城は焼け落ちていました。
捕虜の中には、城主の父と娘がいました。
大胆に取られたその作戦により燃え行く城を、城主の男は茫然とみつめます。轟々と音を立てて燃え盛り、崩れ去る城を眺めては、悲観に暮れている様が痛々しいです。
遅れる敵の増援が来るものですから、男はその領地で集められるだけの民草を集めて、その城主の父娘と共に自身の城へと逃げ帰るのでした。
城を燃やされる必要性を理解してか、しかし、それでも溢れる葛藤があってか。城主の父は、奥歯に物が挟まったような面持ちで、感謝の言葉を告げようとします。
しかし、それよりも前に、男が先手を取って、軽い頭を下げました。
「この度は、貴方様のお城を無事にお返しすることができず、大変申し訳ございません。お詫びと言っては何でございますが、貴方様の民草は私の城下で町をつくれるよう手配をしますし、貴方様に相応しい待遇を用意させていただきます。どうかお好きなだけ、このお城をお使いくださいませ。この度の愚行を、お許しをいただければと、お願い申し上げます。」
男は父と娘を前にして、平に謝りました。
城主の父はたじろぎます。あれほどの大胆な作戦をとってしまう男が、こうして何の躊躇もなく頭を下げられるものだろうかと、自身と照らし合わせて思慮を巡らせます。彼は男を、尊敬すべき人格者であるようにすら思えました。しかし、その男の計画は、尊敬されるようなものではありませんでした。
男は彼を城に置いて、幾らかの年月を経ます。
彼のことを次第に働かせ、男の右腕において、そうして次の戦に行く前にこう言ったのでした。
「俺がこの戦で戻らなかったら、お前が城主を務めて欲しい。部下をよろしく頼む。」
かくして、男は戦から戻ることはなく、彼は再び、城主へと帰り咲きました。
皆が男は死んでしまったのだと思われたが、しかし、戦自体は勝ちを収めていたのでした。不可解なその状況に混乱するものの、城主の父は場をうまく収めてみせます。
男は、逃げていました。
度重なる戦で、精神を疲弊させた男は、自身が城主に相応しくない人間であると理解していました。だからこそ、元から城主である人間を招き入れて、そうして明け渡したのです。城に火をつけたところから、計画的な犯行だったのです。
男は野を歩き、腹を空かせました。
目の前には、稲穂が育っています。
かつて、男を取り立ててくれた御家人に、僅かばかりの穂を食べさせたことがありました。男は気になっていたことを確認するため、穂を口に放り込みました。苦虫をかみつぶしたような味わいがしました。かみつぶして、唾を何とかねん出して、何とか飲み込みます。大変ありがたがってくれた彼の御仁と、同様の人種になることはできないのだと、つくづく思ったのです。
男は村に行きました。
村では農作業を営む百姓で溢れていました。かつて男もそうしたように、今の男も腰を下ろして収穫の作業を手伝います。そうしてわずかの食料をいただきます。長屋も貸し与えられて、寝床に困ることもありませんでした。しばらくすると、仲良くなった村人と卓を囲み、サイコロを振りました。大いに笑い、楽しみました。月日はそうして、矢の如く過ぎていきます。
貧相な家の、貧相な藁に寝転がります。
木枠の窓から差し込む月明かりが印象的です。太陽の光とはまた異なった、優しい絹が肌を包み込んでくれるようです。秋風の優しさが骨身にしみます。
男は、たいして変わらない生活に想いを馳せます。
男は結局、一国一城の長となっても、清貧の生活をしていたのです。畳はありましたし、布団もありましたが、食事こそ変わらなかったものです。豪華な食事を胃が受け付けなかったためです。見える月夜も、吹き抜ける風も、変わりません。
男はかつて、城から逃げ出す前の、最後の夜を思い出します。
「また戦に行かれるのですか?」
蝋燭の火を揺らします。
障子越しに、娘が話しかけてきたのです。今は姫と呼ぶべき人です。
娘は他に類をみたことがないほどの別嬪で、絹のようでいて宝石のように鈍く輝きを持つ黒髪が特徴的でした。事あるごと、娘は男に話しかけます。しかし、娘が夜に訪れることは今までありませんでした。今までと異なる空気を覚えてか、娘はそうして来たのでした。女とは、勘に優れるところがあります。男ももちろん、そのことを承知していました。だからこそ明日の計画を見透かされているのではないかと、心配したものです。
「父に、城を託すご覚悟と、聞きました。」
娘はそう言います。
「それほど大きな戦なのだと見受けます。」
娘は言葉を紡ぎます。
「討ち死にする、ご覚悟なのでしょうか?」
より一層、悲壮感を漂わせ、娘は尋ねます。
安心をさせたくて、男はとっさに「違う」と口走ります。それは失態であったことを、男はとっさに思い返して、口を覆います。「そうだ」と首肯するべきでした。明日の計画を思えば、そうするべきでした。
「私は、私自身が死ぬのが怖いのではない。浮いて生まれたこの命だ。誰かのためになれるなら本望だ。しかし、他人が、私のせいで死ぬのが、ひどく怖いのだ。ただ、それだけなのだ。」
ついで言葉を零す。すべて本心です。
男はここで、ひとつの得心がいきました。
ああ、だから、私は明日逃げ出すのだ、と。
だから、私は城を、彼に渡すのだ、と。
相応しくない私よりも、彼が良い、と。
「お慕いしております。どうか、ご無事でいて下さい。」
障子越しに、娘はそう言います。
「君もどうか、健やかでいてくれよ。」
その言葉もまた、本心でした。壮健な父と健気な娘です。民草のためにあろうとする、その誉れは本物で、尊敬すべきであると、素直に認められました。男はこの親子が、悲劇の内に死なないことを、信心から祈ります。特に娘に対しては、父性のようなものすら感じていたのですから、守られて欲しいと思っていました。
月の下で、思い返していたのです。
コンコンと、戸が叩かれる音がします。
こんな時間に誰だろうと、懸念を抱きつつ、男は薄い戸を開けます。
「申し訳ございません。旅の途中で雨に降られたものですから、もしよろしければ泊めて頂ければ嬉しいのですが。お礼ももちろん…あっ。」
そこに立っていたのは、月下美人でした。
巧妙に男装をした麗人だったのです。土で頬を汚してみても、されど、長かった髪の毛を短くしていても、けれど、男には一目で分かったのです。姫でした。
呆気にとられた顔をした後、にやりと、姫は顔を崩して笑います。城にいた頃は、至って真面目そうな顔ばかりをした深窓の令嬢でしたから、そのような崩した顔をみたのは初めてでした。笑顔も初めてでした。
「ようやく、ようやく見つけましたよ。」
咄嗟に驚いてしまったのは男も同じでした。
しかし、観念したように、眉を下げます。
「よく、お越しくださいました。まあ、旅疲れもございましょう。どうぞこちらへ。…お父様は、どうされていますか?元気にされていますか?」
貴重な燈火を焚いて、水を差しだします。
「ええ、貴方様のおかげです。城も、城下町も、随分と発展致しました。民は安心して生きていける場所を得られましたし、今となっては通商の要となっております。」
火が、あの夜のように揺らぎます。
沈黙がありました。
男は何を話したものかと思案します。どの話も、どうにも藪を突くような心持に思われたからです。いえ、これは言いすぎでしょうか。男の心持は、悪事がバレた悪童のようではなく、澄んだ水面にさざ波がたったようでございました。
「どうして、気づかれたのでございましょう?」
「何をでしょうか。」
「私が生きていることです。」
お互い穏やかに言葉を運びます。
「それはまあ、不自然だらけでしたから。まず、貴方様の死体がありませんでした。それに、そもそもですが、敵が攻め入って来たという報告のひとつもないのです。血の跡すらござません。後で捕虜の方々に聞くと、そちらも知らないというのですから。…それでも、死んだと言って聞かない者もいましたが、私は信じていたのでございます。貴方様が生きているという事を。固く信じておりました。」
姫は恋しがるように、湯呑を揺蕩う水面を眺めます。
そこには火が映し出されていました。
「どうして、貴方様が逃げ出されたのか。私は何とはなしに、理解しています。間違っているかもしれません。これから語ることを、私は赤面して、撤回するのかもしれません。それでも、私の考えを聞いていただけますか?」
「もちろんです。姫様。」
真摯な面持ちで男は応えます。
「貴方様は、他者が自身のせいで、死ぬのが怖いと仰っていました。度重なる戦場を潜り抜けてきた貴方様でも、そのようなことを気にするのかと、その時の私はひどく驚いたことを覚えています。しかし、思い返してみれば、貴方様は死者への黙祷の度に、顔を歪めておられましたね。心痛の面持ちでございました。よく覚えています。」
姫は悲し気に目を伏せました。
「貴方様は忘れることが怖いのではありませんか?人は死ぬものですし、戦となれば言うまでもありません。私にとって、黙禱の時の貴方様は、まるで必死に顔を思い出そうとしているようにすら見えたのです。貴方様にとって、死者に対する当然の礼儀は、覚えていることだったのではないでしょうか。それが果たせなかったから、貴方様は城を渡すという選択肢をした。財を失った私たちに、財を渡すという救済をくださった。」
姫の眼が潤んでいるように、男は見えます。
男は白状します。
「ああ、私の心の中を見透かされているようでございます。」
諦めたように云います。
「私は、怖かったのです。あの夜の事を覚えておられるでしょうか。私は、自身が死ぬことを大して恐れていません。他者が死ぬことも、ひとえに自然的なことだとも思います。しかし、私は城主であったのです。民草を気にかけなければなりませんでしたし、民草を守らなければなりませんでした。そのために部下を遣わせなければ、ならなかったのです。」
全てを打ち明けます。
「人の死について考えたことがあるでしょうか。人はどう生きて、どう死ぬのか。私にとっては、人は人の中でしか生きられません。誰からも忘れられてしまえば、人は生きた痕跡がなくなるのです。生きた痕跡を無くすという行為は、家を焼く事よりも酷い行いにみえました。私は、最初に切った相手の事を、顔すら思い出せません。そもそもですが、彼が何者なのか、知りもしなかったのです。私は初めて人を殺しました。生物としてだけではなく、荀子が語る、霊長として殺したのです。私は、その後すぐに、死んでいった部下のことを思い出そうとしました。しかし、思い出せなかったのです。部下も私の中で死にました。そうして、私はきっと、城主に相応しくないのだろうと思ったのです。それが理由です。すべての理由です。」
罪を告白したようでした。
今まで心の中で築き上げてきた、自分自身を責める論を、こうして口にすることができることが、これほどまで幸福なことだとは思わなかったのです。解放されたようでもありました。
「私を、城主様に報告しますか?」
男は問います。
姫は首を横に振り、否定します。
「いいえ、しません。私は、私のお返事をいただきに来たのです。」
返事とは何の事だろうと、男はいぶかし気な顔をします。
「お慕い申し上げます。優しい貴方様。私は貴方様のおかげで、救われました。生きてゆくことができました。ですから、今度は私に貴方様を救わせてください。」
男は、恐らく、今までの人生にないくらいの、素っ頓狂な顔をしていたと思います。あの夜に聞いた言葉を思い出しました。その言葉は尊敬の念が籠っているものであると、男はそう捉えていました。しかし、どうも湿ったその口調は、そうは思えなかったのです。
ようやく、面と向かって口にされたそれは、男のものとは毛色の違う告白でした。
男は知らず知らずのうちに、頬の上で涙を流します。
「こんな私で、いいのですか?」
了承のような声でした。
「優しい貴方様だからこそ良いのです。」
泣きながら、幸福に泣きながら、男は姫の手を掴んだのです。
その後は大変でした。夫は自堕落な生活になれていましたから、妻と合わせてどうにか自堕落から抜け出そうと懸命になります。しかし、だらけると止まらず、そのたびに妻はまったくと困り眉をするのです。しばらくは世話をされるようでした。
しかし、時が経つにつれて、ようやく夫は甲斐性をみせ始めます。
幾らかの畑を開拓してみせて、そうして種をまき、実を集めます。努力の甲斐あって、村で一番の長者になります。すると、村の長を任せようという声があがります。夫は不安に思いましたが、妻の次の言葉で、引き受けることを決心するのです。
「忘れるのが怖いのでしたら、筆で書きとどめておきましょう。そうすれば、忘れることはございません。誰かが生きた証を、書き連ねてあげると、きっと何十年と、何百年と、もしかしたら千年も、誰かが生きた証を伝えることができましょう。」
夫妻は村を盛り上げることに、熱心になりました。
事あるごとに、紙で物事を書き留めて、夫はよくそれを読み返しました。
夫が体験した、摩訶不思議なわらしべ長者も、書にしたためます。村人の生きざまも書にしたためます。村の行事や出来事、天候の数々もしたためます。
村が発展すると、琵琶法師が村にやってくるようになります。
もちろん、村一同で歓待します。そうすれば、返礼のため、琵琶法師がお話を語るのです。そのお話も、忘れないように幾つも、幾つも、彼らが来るたびにしたためます。
ある時に来た、琵琶法師が、非常に面白いお話を語りました。そのお話は、今昔物語集に収録されていると聞く、わらしべ長者の物語です。奇妙な偶然を大変面白く思った夫妻は、これもまた書にしたためました。
晩年。夫が亡くなります。
妻はこの時、初めて夫が忘れることを怖がった事を、真に理解しました。今までの幸せな日々を思い出すように、村の記録の数々を読み返します。夫と共に聞いた、琵琶法師の物語を読み返します。妻もまた忘れることが怖くなっていました。
しかし、同時に、忘れられることが怖くなっていたのです。
「何十年後に私たちは忘れられているのでしょうか。何百年後に私たちは忘れられているのでしょうか。千年後に、私たちは忘れられているのでしょうか。」
せめて、忘れられたくありません。
時代の石流が、大洪水の如く、世界を洗い流したとしても、夫と過ごした日々を自慢したく思いました。だからこそ、二人の成果ともいえる収集物を、編集することとしたのです。琵琶法師から聞いた説話を、かき集め、そうして宇治拾遺物語を完成させたのです。
彼女は、伝わるように努力をしました。
文章の構成を考えました。文字の易しさに配慮しました。物語を簡単にしました。昔から伝わる書籍を参考に、時には踏襲して、時には真似ました。
彼女はもちろん、人ですから、六十年と生きませんでした。彼女は何十年後、何百年後、もしくは千年後まで自分達のことが伝わっているのか、知りません。
お付き合いいただき、ありがとうございます。
さて、皆様は私の論をお覚えでしょうから、三度は繰り返しませんとも。かくして、この物語は成功したのです。彼女の努力によって、もしくは姫の努力によって、というべきでしょうか。約八百年の時を経て、彼の物語は忘れられていません。
しかし、非常に残念なことに、彼女の試みの一部は失敗に終わっています。こうして私が表に出すまでは、夫妻の存在を誰も知らなかったわけです。ですが、夫妻が自慢げに公表した物語の数々は、知られるところとなっていますから、すべてを失敗と断ずるわけにもいきません。拍手を、ひとつ、お送りしましょう。
忘れられないための書物でございました。
時代の下で、儚い人類ですが、こうした細やかな抵抗を誰かがしてくれるのです。我々ができる手助けと言えば、歴史を紡ぐこと、ただそれだけなのです。日本語と言う言語が繋がれば、この物語が忘れられることはないでしょう。誰かが再発掘をし続けるのです。
いずれ、人類が宇宙船を開発したとして、太陽系の外に進出したとして、天の川銀河の端々まで人民を行きわたらせる偉業を成したとして。愚にもつかないかつての物語が、手つかずにならず、読まれているかもしれません。
ロマンを感じたのであれば、あなたも一つ筆を執ってみるのはいかがでしょう。
忘れることを拒み、忘れられることを恐れた、あの夫妻のように。
まずは自分自身を刻んだ日記でも。
などと誑かしてみたところで、本日は締めとさせて頂きます。
お読みいただき、ありがとうございました。