魔法のケトル
I
僕は彼女といつも行く安い居酒屋で飲んでいた。
「私はジャスミンハイで」
「じゃあ僕はアラジンハイで」
僕がアラジンのヒロインであるジャスミンにかけたボケをすると彼女は「ディズニー好きしかツッコメないボケをするな」と優しくツッコんでくれた。
帰り道、彼女はすっかり酔ってしまい、歩くのもままならなくなってしまった。仕方なく僕は彼女をおんぶして帰ることになった。「ったく、これじゃ僕は魔法の絨毯ってか?」そう呟くと、背中でグデグデの彼女が「ディズニー好きしかツッコメな…」と、ツッコミの途中で寝てしまった。僕はやれやれといった顔で、夜空を見上げた。ダイヤモンドみたいに星が煌めいていた。
お酒を飲んでグデグデになった彼女をおんぶしてロフト付き1Kの我が家についた。
いつも僕に偉そうに服を散らかすなだの、布団を畳めだの、色々と小言を言うくせに酒を飲むといつもこうだ。フローリングに彼女を放ると、彼女は這いつくばりながらトイレに入って行った。僕は帰り道におんぶをしたせいで流石に腰が疲れたのでロフトにある全く使っていなかったマッサージ機を取りに行った。ロフトでマシンを探していると、ギシギシと音が聞こえる。下を覗くと、ボサボサ髪の彼女がゆっくりとまるでゾンビのようにハシゴを登ってきていた。「うわぁ!ゾンビだ!」僕はたまらず大声を出して驚いた。するとその声にビックリした彼女はハシゴから手を離し、背中から倒れ、落ちて行ってしまった。
落ちていく彼女がスローモーションに見えた。目を開き、口を大きく開け、ゆっくりと落ちていく。そして、先ほどトイレで吐き残したであろう一口程度の吐瀉物が口から溢れ、空中にキラキラと舞った。
彼女は背中から着地し、彼女の一口吐瀉物もまた、彼女と一緒に着地した。
「痛い!!」
彼女の大きな声が狭い部屋に響き渡った。
しかし僕は少し安心した。
僕が畳んでいなかった布団、そしてその上に散らかしていた服の上に落ちたからだ。
僕のだらしなさを咎めていた彼女は結果的に僕のだらしなさに助けられたのだ。
僕のだらしなさを表す布団、服の上に、だらしない彼女と彼女のだらしなさを表す吐瀉物が重なっている。
だらしないミルフィーユが完成された。
最悪のミルフィーユだ。
「大丈夫!?」
僕は急いでハシゴを降りようとした。
しかしハシゴに急いで下ろした足がつるんと滑り、足から落ちてしまった。彼女の一口吐瀉物の一部がハシゴの足場に付いていたのだ。なんとか彼女を踏みつけることなく、着地できた。しかし、僕の足の裏に彼女の汚物がついた。
彼女は腰をおさえ、悶えていたが、僕が足の裏を見せると笑った。
ここで僕のイタズラ心が芽生え、足の裏を彼女の鼻の近くに持っていこうとした。しかし、汚物が(実のところ僕にとって彼女の汚物は汚物ではない)彼女の顔についてはいけないと思い、逆の足の裏を彼女の鼻に持っていった。すると彼女は「やめて!汚いのが顔につく!やめて!やめて!」と大声で叫んだが、僕はやめなかった。イタズラをして嫌がる彼女を見るのは嫌いではない。汚物がついている方の足を近付けられていると彼女が勘違いしているのもまた面白かった。
「やめて!臭い!!オェッ!!オェー!!」
ええ…。綺麗な方の足なのに…。
シンプルに僕の足が臭かったようだ。
足の裏を彼女の顔に近づけ遊んでいるとガチャッと扉が開く音がした。
そこには見知らぬ中年男性がパンツ一丁で立っていた。白ブリーフ以外何も身につけていない。
「おいお前!動くな!!」
その男はそう叫び、家に入ってきた。
そして僕の腕を掴み、言った。
「お前を現行犯で逮捕する」
II
男は太っていて逞しい顎ヒゲを持ち、髪を後ろに結んでいる。そしてどことなく可愛らしい顔だ。しかしその顔とは裏腹に、僕の腕を掴む力は強い。そしてパンイチ。
「ちょっとなんですか急に?」
僕は少し怯えながら男に言った。
「オイラは暴力が大嫌いだ!お前その子に暴力を振るっていただろう!サイテーのゴミクズ人間だ!社会のなんの役にも立たないド底辺人間!」
ええ、、言い過ぎじゃない?
パンイチおデブヒゲオヤジにこんなことを言われるとは…。
そう思い困惑していると彼女が男に言った。
「彼は私の彼氏です!私に暴力なんて振るっていません!」
「え、そうなの?」
男は間抜けな顔で驚いた。
彼女はフォローを続けてくれた。
「確かに彼は27歳なのに週三回ネカフェでバイトして、毎日フラフラ酒を飲んだり、パチンコをしたりして、私と飲みに行っても全額私に出させるどうしようもない社会のゴミクズ人間ですが、女性に暴力を振るうような人ではありません!ただ人間、いや生物としてド底辺なだけです!」
ええ、それフォローになってなくない?
でも確かに僕と対照的に彼女はIT企業の経営戦略を任され、バリバリ働いている。一方で僕は彼女と付き合ってからの五年間、彼女に甘えっぱなしでダラダラしている社会のゴミクズかもしれない。ごめん、ごめんよ…。
男はなぜ僕たちの部屋に入ってきたのかを説明した。彼は隣の部屋に住んでいる隣人で、「痛い」「やめて」という声が聞こえたことで、彼女がDV被害に遭っていると勘違いしていた。誤解が解けると男は謝った。
「いやいや、申し訳なかったよ。ただあまりにも騒がしかったからさ。今深夜の二時だよ。あんまり大声出さないでよ」
「騒いでしまってすみませんでした」
僕と彼女も謝罪した。パンイチおデブヒゲオヤジに。
「いいんだよ。あ、そうだ。お詫びにこれをあげるよ」
男はそう言うと、ブリーフからタイガーの電気ケトルを取り出した。
ドラえもんの四次元ポケットか!?
どうやってそこに電気ケトルが!?
男はケトルを指差して言った。
「これは魔法のランプ…的なやつ!」
おいおい、この男やっぱり頭いっちゃってる人じゃん…。
「ええ!おじさんジーニーってこと?」
彼女は完全にオヤジの世界観に入ってしまっている。
「そうそう!アリババには40人もの盗賊がいた…ってバカ!ちげーよ!オイラは隣の部屋に住んでるただの変態だよ!」
しっかり変態であることは認識していたのか…。パンイチおデブヒゲノリツッコミオヤジだ。
「まあとにかく、このタイガーの電気ケトルを一つあげよう。これを三回擦ってアブラカダブラ・タイガー・ラジャーと言いその後に願い事を言いなさい。それが叶う。ただ願いは一人一回までしかできない。内容は大金を得るなどあまりに私利私欲にまみれたものはできない。ちなみにケトルの口からモクモクと雰囲気のある煙などはでない。なぜなら…蒸気レスタイプだからね」
変態デブはなぜか「蒸気レスタイプだからね」の部分をウインクをしながらカッコつけて言った。鼻についた。ただのタイガーの企業努力なのに。
僕はケトルを受け取った。
「おやおや、胡散臭いと思っている顔をしているね」
変態デブは僕に言った。
「僕を信じて!」
「そんな簡単に信じられないですよ…」
僕が言うと彼女が口を開いた。
「アラジンの『僕を信じて』って言葉でジャスミンは魔法の絨毯に乗って一緒に空を飛んだんだよ!信じてみようよ!」
あの名シーンを変態デブオヤジに重ねるなよ!
そう思っているとオヤジが口を開いた。
「まあ騙されたと思ってやってごらん。それぞれ願いは一回までだから大切にね」
「ありがとうございます」
僕は依然として全く信用していなかったが、タイガーの電気ケトルがもらえたことは嬉しかったので感謝した。
「最高です!またいつでも来てください!ジーニーさん!」
彼女は完全にトリコになっていた。
「いいんだよお嬢ちゃん。それじゃあオイラはこのへんで。ワハッハー!」
「あ、おじさん。踏んでますよ」
僕はおじさんの左足が彼女の吐瀉物を踏んでいることに気がついた。
「テメーこの野郎!舐め腐りやがって!」
僕は普通に殴られた。
暴力が嫌いなんじゃないのか?
そしてパンイチおデブ変態暴力オヤジは怒りながら帰っていった。
次の日、彼女は大事なプレゼンがあるとのことで朝早くから仕事に出かけた。
彼女を見送り、テレビをつけて朝のニュースを見ていた。なにか飲み物でもと思い、キッチンに行くと電気ケトルが目に入った。
「ありえない」
そう呟き、電気ケトルを手に取って返却するためにオヤジの部屋を訪れた。
するとやっぱりオヤジはパンイチで出てきた。玄関にはしおれた小さい植木が一つ置いてあった。
「すみません、やっぱりこれお返しします」
「なんでだい!そんなに良いものを!」
オヤジはそう言うと、僕を部屋の中に招いた。部屋の中には物が何一つなかった。
二人でフローリングにあぐらをかきながら話した。
「部屋の中に何もないんですね」
「何もいらないもん。このブリーフがあれば」オヤジは履いている白ブリーフを両手の人差し指で示した。
「オイラはこのブリーフ一枚で生活しているのだ!」
「一枚!?」
「そう一枚!この一枚を穴が開いても履き続けるのさ」
確かによく見るとブリーフには細かい穴がいくつか開いていた。
オヤジは話を本題に戻し、改めてなぜ返却するのかを僕に尋ねた。
「だっておじさんからもらったケトルに魔法の力があるなんて思えないですもん」
するとオヤジは自分が魔神であることを説明し始めた。
「あのね。オイラはね。魔神なの。パンツの魔神」
「ランプの魔人みたいに言うな」
僕はすかさずツッコんだ。
「とにかく特別な力があるの!」
白いブリーフに乗った大きな腹をぼりぼり掻きながら変態オヤジは言う。
「特別な力?どんな力ですか?」
「声が聞こえるんだよ」
そう言うとブリーフの変態はおもむろに立ち上がり僕の部屋側の壁に耳をぴったりつけた。
「ほら、聞こえる聞こえる!」
僕の部屋から流れるニュースの音を聞き、変態ブリーフがはしゃいでいる。
「壁薄いから誰でも聞こえるよ!」
僕が帰ろうとすると「待て待て、わかったよ」と言い、履いているブリーフから新たな電気ケトルを取り出した。オヤジはケトルを三回擦り、「アブラカダブラ・タイガー・ラジャー、しおれた植木が元気を取り戻しますように!」と叫ぶと、玄関先にあったしおれた植木がみるみる元気になった。
「ワハッハー!どうだい!すごいだろう!」
変態オヤジはドヤ顔で僕の顔を見た。
僕が「すごい」と言いかけると、植木鉢がカタカタと揺れ始めた。
「アレ」
オヤジの表情が少し曇り始めた。
するとパリンと鉢の2箇所が割れ、ボコっと筋肉質の足がそこから飛び出してきた。そして植木は部屋中を走り出したのだ。
「ひええ!」
僕は腰を抜かした。
ドタドタドタドタ!大きな足音が部屋中に鳴り響いている。植木は逞しい脚でジャンプしたり、ロフトにかかっているハシゴをものすごいスピードで上り下りしたりしている。
「あちゃー元気になり過ぎてしまった」
ドタドタドタドタドタドタ!植木は壁や天井などを走り回り、重力なんて関係ないといった具合だ。
変態オヤジはケトルを三回擦り、「アブラカダブラ・タイガー・ラジャー、さっきの願いを取り消して!」と言った。
すると植木はすぐに元のしおれた状態に戻った。
「たまに思わぬ方向に魔法がかかってしまうことがあるんだよね。でも、どうだい?」
変態オヤジはやはりドヤ顔で僕を見た。ドヤ顔は頂けなかったが、ケトルの力に僕は驚いた。
「オイラは魔神だから何度でも願い事できるけど、君は一回だけだから、何度も言うけど大切にね」
オヤジは僕にそう言ってウインクをした。
僕は自宅に戻り、依然として半信半疑ではあったが、やるだけやってみることにした。しかしいざ願い事をするとなると、何を願えばいいのかがわからない。
ふと、洗濯機に目をやると、昨日彼女が汚物をつけた布団のシーツが目に入った。
僕はケトルを三回擦り、願い事をした。
「アブラカダブラ・タイガー・ラジャー、彼女が酔っ払ってだらしなくなりませんように!」
ケトルには何も変化は起こらない。
「チッ。これじゃ本当に魔法がかかったかわかんねえじゃん」
そう呟くと、「蒸気レスタイプだからね」と言ってウインクする変態の顔が頭をよぎった。
その日の夜、僕はダラダラとゲームをしていた。すると彼女が仕事から帰ってきた。
「またゲームしてんの?」
ただいまもなく、小言を言われた。
「やめますぅ〜」
僕はふざけた言い方で自分を守り、逃げるように風呂に入った。
風呂から上がると、彼女がケトルの前に立っていた。
すると、彼女が強い声で願いを口にした。
「彼が就活をして正社員になり、世のため人のために働きますように!」
僕はカッとなった。
「なんだよそれ。ちゃんと働いてるよ」
独り言のように呟くと、彼女の目つきが鋭くなった。
「どこが?今はバイトだし、就活するって言って全然しないじゃん」
彼女の声は冷たかった。
「不動産をやるって言ったときは、参考書を何冊も買ってあげたけど、結局勉強も、就活すらもしなかった。」
目には涙が浮かび、拳は強く握りしめられている。
「引っ越しの仕事をしている時、あなたの体を気遣ってマッサージ機を買ったのに…」
彼女の声が震え始めた。
「すぐ辞めて、マッサージ機もほとんど使わなかった…。もう期待するだけ無駄かなって何回も思ったよ」
怒りというよりも、悔しさと悲しみが滲んでいるように見えた。
「もう一度あなたが頑張って働いている姿を見たい!」
彼女は声を荒げた。
そして寂しそうにポツリと呟いた。
「…頑張ってる姿が好きだったよ」
僕はその言葉に胸が痛くなった。
なぜこうなってしまったのだろう。
——僕たちは大学で出会った。お笑いとディズニーと酒が好きという共通点で意気投合し、付き合うことになった。居酒屋で二人で朝までくだらないことを話し、彼女がグデグデになるのがいつもの流れだった。
卒業後、彼女は現在のIT企業に就職した。僕はテレビの制作会社に入社した。就職と同時に僕たちはそれぞれ一人暮らしを始めた。
制作会社でのAD業務は過酷で、入社して早々会社で寝泊まりすることが何度もあった。上司とは馴染めず、仕事もきつかった。入社して一年以内に同期のほとんどが辞めてしまった。僕はそんな仕事を三年続けた。仕事の愚痴を彼女にこぼすと、「三年も努力できてるんだからすごいね」と言ってくれた。ストレスが溜まり、仕事も楽しくないことを彼女に相談すると、「辞めてもいいと思うよ」と僕に優しく言った。「あなたは人と話している時の笑顔が素敵だから、営業が向いているんじゃない?」と次の仕事の提案までしてくれた。僕は不動産に挑戦してみることにした。制作会社を辞めた僕は、食い繋ぐために一時的に引っ越しのバイトをすることにした。それと同時に彼女が買ってくれた参考書で宅地建物取引士の勉強を始めた。しかし、バイトをしながらの転職活動に加え、宅建の勉強をするのは難しかった。結局すぐにその全てを投げ出してしまった。そこからはネカフェのバイトを始めた。彼女は僕を居酒屋に誘い、そこで「きっとすぐ良い仕事が見つかるよ。私の家でゆっくり就活したら?」と優しい言葉で励ましてくれた。彼女はその日もグデグデになった。
そして同棲を始めることになった。彼女が仕事に行っている間に就活をするという予定だったが、パソコンを開くだけ開いて、ダラダラとしてしまう日の連続だった。僕は環境に甘えてしまった。
そんな時、「最近就活してる?」と彼女が僕に尋ねたことがあった。僕はゲームをしながら「うん、ちょこちょこね」と答えた。「そっか…」彼女は小さく息を吐き、それ以来就活の話はしなくなった。そして彼女から励ましの言葉を聞くこともなくなった。
それから僕は以前よりも酒を飲み、パチンコやゲームをすることが増えた。今思えばそれは、自己嫌悪や、仕事が充実している彼女に対する劣等感を隠すための現実逃避だったのかもしれない。バイトの数も次第に減っていき、いつしか彼女の言葉は小言に変わっていった。
——彼女が小言を言うのは当然だ。彼女の小言にイライラしていた僕はなんで愚かだったのだろう。僕は、ずっと支えてくれ、信じてくれていた彼女の思いを踏みにじっていた。
それに気づいた瞬間、自分が恥ずかしくなった。
「ごめん…」
僕は謝った。自分のか細い声が情けなかった。彼女は何も言わず、寝る支度を始めた。
僕は仕事が見つかるまで酒やギャンブルなどをやめることに決めた。彼女の寝息を聞きながら、僕は久しぶりに自分のノートパソコンを開いた。就活サイトを見てみると、手織り絨毯専門店の応募が目に入った。とりあえずそこに応募した。他にもいくつか気になったものがあったので、応募してみた。自己PRや志望動機などを書いた応募書類を作成するのに朝までかかった。いつもならダラダラと朝までゲームしていたかもしれないのに、今は本気で就活をしている。魔法の力はすごい。
二ヶ月後、僕は手織り絨毯専門店で正社員として働くことになった。この二ヶ月間は今までの人生で一番自分と向き合った時間だった。自分の特性や性格を考え、手織り絨毯専門店に決めた。他にも採用された会社はあったが、元々家具が好きだったこと、お店で扱う商品のデザインも気に入ったこと、社員数が五人という少人数だったことが決め手だった。
仕事内容は納品作業や商品の搬入出など、想像していたよりも力仕事の方が多かった。最初はミスを多くしてしまったが、上司がフォローをしてくれたり、社員のみんなが僕を励ます食事会をしてくれたりしてくれたおかげで、前向きに仕事に取り組むことができた。僕はこの会社のためにより一層頑張ろうと思うようになった。
二年後、僕は段々と仕事に慣れてきた。そしてこの仕事は魔法のような仕事だと思うようになった。絨毯次第で、部屋の印象を魔法のように変えることができるからだ。お客さんのイメージに合致する絨毯を選ぶことは僕にとって最も重要な仕事だ。ぴったりなものを見つけ、それをお客さんの部屋に敷いた時、魔法がかかる。部屋はそれまでの印象とはガラリと変わり、それと同時にお客さんの表情には満面の笑みが宿る。僕は魔法使いになった気分になってしまうのだ。
こんなやりがいのある仕事は見つけたくても見つけられないだろう。
彼女が魔法のケトルに願い事をしてくれたおかげで、僕は魔法のような仕事を手に入れることができた。僕は彼女と魔法のケトルの力に感謝をした。
この二年間、僕は彼女のためにコツコツとお金を貯めてきた。また、彼女は忙しいのに毎朝僕のためにお弁当を作ってくれた。僕は彼女にプロポーズをすることに決めた。僕はマッサージ機で疲れた体をほぐしながら、プロポーズで使うお店を探した。雰囲気の良いレストランを見つけることができた。
ある夜、僕は彼女にご飯に行かないかと誘った。彼女は久々の僕からの誘いに最初は驚いていたものの、すぐに笑顔がこぼれ、喜んで承諾してくれた。彼女も僕も仕事が忙しいため、仕事終わりでの食事となった。
僕はいつもより高級なディナーに緊張したが、それ以上にプロポーズをすることに緊張を隠せなかった。
「今日はお酒飲みなよ」
彼女が緊張している僕を揶揄うように言った。
「そうします…」
僕は彼女と久々に酒を飲んだ。緊張からか一杯目のビールを早々に飲み干してしまった。二杯目、三杯目と飲むペースが早まってしまう。彼女も僕に合わせるようにいつもより早く飲んでいることがわかった。
段々と緊張がほぐれ、僕は楽しい気分になってきた。しかし僕の気分と反比例するように彼女の顔がだんだんと真顔になっていく。
普段ならこれくらい飲んでいれば、姿勢を崩しベラベラと楽しそうに話しているはずだ。しかし彼女の顔は硬い。
「すみません」
彼女の急な敬語にびっくりした。
「貴殿は私との将来をどうお考えでしょうか?」
き、きでんー!?!?
どうしちゃった僕の愛しの彼女!?
「貴殿ってなんだよ!おい!」
僕は笑いながらツッコんだ。
しかし彼女は真顔のままだ。
「二人の将来をどうお考えか、貴殿のお気持ちをお聞かせ願いたく存じます」
おいおい!久々にお酒飲んでおかしくなっちゃってるよ!
いや、待てよ…。そういえば!
僕は自分がケトルにした願い事を思い出した。
「彼女が酔ってだらしなくなりませんように」
確かに彼女の様子はだらしなくなってはいない。しかしそれとは真逆に真面目お仕事モードになっちゃってないか!?
彼女は仕事のカバンからパソコンを取り出した。
「ちょっと待って、なにしてんの?」
僕は焦って止めようとしたが、彼女はパソコンを開き、エクセルでなにやら入力を始めた。カタカタカタカタ!キーボードを強く叩く音がレストラン中に鳴り響く。
周りのお客さんがチラチラとパソコンを打つ彼女を見ている。恥ずかしい、恥ずかしいって!!
「たまに思わぬ方向に魔法がかかってしまうことがあるんだよね」
オヤジの言葉が頭をよぎった。それと同時に走り回る植木の姿が脳裏に蘇った。
カタカタカタカタ!ダン!
彼女は僕にパソコンの画面を見せてきた。
「今後30年の貴殿と私の年収の推移と幸福度指数のグラフを作成致しました」
エクセルで作ったグラフは非常によくできていた。いやいや、感心してる場合じゃない!
「わかったからパソコンをしまってくれ」
僕は周りの目も気になるし、店員さんが次の料理運んでいいか厨房でソワソワしている。
「私は貴殿よりも年収が現時点では高いです。しかしそれはあくまで現時点での話。これから貴殿は昇進するでしょうし、もし結婚、出産という話になれば私は退社も考えなくてはならないかもしれません。そういった状況下で…」
彼女は延々と僕に仕事モードでプレゼンをしてきた。完全に魔法が悪い方向にかかってしまっている…。
僕はプロポーズなどできるはずもなかった。
彼女は帰りの道中も帰宅後もプレゼンをやめることはなかった。やめるどころか家に着くと、テレビにパソコンを繋ぎ、帰りの電車で作成したパワーポイントを映し出し、指示棒を持ちツラツラと僕たちの将来に関する様々な推移についてプレゼンを始めた。
「続いてのスライドをご覧ください。こちらは将来子供ができたときの学習塾にかかる費用の予測を示したグラフで…」
僕はキッチンに行き、ダメ元でケトルに僕の願いを取り下げるように三回擦り呪文を唱え願った。果たして彼女の魔法が解けることはなかった。彼女は酔いが覚めていくと同時に指示棒を持ちながら眠りについた。
僕は彼女を持ち上げ、布団に寝かした。そして、彼女をおんぶしたあの夜を思い出した。彼女は確かに酔うとだらしなくなり、あの夜は吐瀉物まで吐いた。しかし今となってはそんな彼女が愛おしく思えた。あの酔い方をする彼女が大好きなのだ。しかしもうその姿を見ることはできない。僕は願い事をしたことを後悔し、彼女の隣で眠りについた。
次の日の朝、彼女は昨夜プレゼンを始めたことについて何も覚えていなかった。自分で作成したエクセルを見て「なにこれー!」と言いながら大爆笑していた。
いやいや大爆笑している場合ではないのだ。
僕は仕事に行く準備をした。
「今日は帰り遅いの?」
「うん」
半分拗ねている僕はあまり彼女の言葉に反応できなかった。彼女は僕の異変に気付いたのか、あまり声をかけなくなった。僕が静かに家を出ようとすると、彼女が僕に声をかけた。
「いってらっしゃい。はいこれ!」
そして僕にお弁当を渡してくれた。
その瞬間僕は玄関で涙が止まらなくなった。
「どうしたの…?」
彼女に対する思いが溢れてきた。
「愛してるよぉ。ありのままの君を愛しているんだよぉ!!」
彼女は「は?」と言い、唖然としていた。
仕事から帰ると、彼女の方が先に仕事から帰ってきていた。僕は彼女に話があると伝えると、彼女は少し不安そうな顔をしていたが真剣に聞いてくれた。
僕がケトルに願い事をしてしまったこと。それにより彼女が酔ったら真面目仕事モードが発動してしまう体になってしまったことを伝えた。
「意味わかんない!」
彼女は笑いながらも少し戸惑っているようだった。
「でももう戻すことはできないんだ。二人とも願い事しちゃったし」
僕は俯きながら言った。
「…戻せるよ」
「え?」
彼女の言葉に顔を上げると彼女は冷静な顔で僕を見ていた。
「だから、戻せるの。私がケトルに願い事すれば」
僕は混乱した。
「どういうこと?だってあの日僕が就職するように願い事したじゃん」
「願い事はしたよ」
「うん。じゃあ無理じゃん」
「願い事はしたけど、三回擦ってもないし呪文も唱えてない」
僕は思考が停止した。
「…え?」
彼女は深く息をつき、その日のことをゆっくりと話し始めた。彼女は少し緊張しているようだった。
「あの日あなたがお風呂に入ってる間に、考えたの。『あなたが定職に就いて真面目に働きますように』って魔法のケトルにお願いしようかなって」
彼女の声が震え始めた。
「でも…結局しなかった。だって魔法の力であなたが変わっても虚しいだけだから」
彼女の目から大粒の涙がこぼれた。
彼女は泣きながら続けた。
「またあなたの意思で努力している姿を見たかった。その思いをあなたに伝えたかったから、ケトルに願い事をしているフリをしたの」
衝撃だった。僕があの日から酒をやめ、仕事に打ち込むようになったのは魔法の力なんかじゃなかったのだ。彼女は僕を信じ、僕自身の力で変わることに期待してくれていた。だからこそ、ケトルではなく、僕に願い事をしていたのだ。
「ありがとう」
僕は彼女を抱きしめた。僕も泣いていた。
僕は涙を拭い、彼女の目を見つめて言った。
「僕の願いを取り下げてくれませんか…?」
自分のわがままだとはわかっていたが、こうする他なかった。
「いやだよ」
「え?」
「だってせっかく酔っても真面目でいられるのに…。って冗談!お酒の量は自分でコントロールします」
「よかった〜」
僕は安心して笑った。
彼女はそう言った後、ケトルに僕の願いを取り下げるよう願った。
「ちょっと試してみようか」
彼女が提案し、二人で近くのコンビニに行った。そこで何本か缶チューハイを買い、家で飲むことにした。久しぶりの宅飲みは盛り上がった。
彼女が三缶目を口にした。すると彼女の顔が真顔になり、パソコンを取り出した。
まずい!魔法が解けていない!僕は焦った。
彼女はパソコンを開き真顔で操作している。
彼女が僕にパソコンの画面を見せてきた。
「こちらが焦っている貴殿の顔です」
そこにはカメラアプリに映った僕の顔が映しだされていた。あまりにも間抜け面だった。
彼女は爆笑した。
僕は一瞬訳がわからなかったが、彼女のジョークを理解した瞬間に安心して爆笑した。
そうだ、僕は彼女のこういうところに惚れたのだ。
III
僕たちは改めて高級レストランで食事をした。二人はいつもより上品に、少しずつお酒を楽しんだ。目の前には、いつも通りの笑顔の彼女がいた。
プロポーズは人生で一番緊張した。
「君がどんなに酔っ払ってグデグデになってもありのままの君を愛し続けるよ。結婚してください」
なんて臭すぎるセリフは言えず、指輪を出してただ一言だった。
「僕を信じてください」
彼女は泣きながら頷いてくれた。
彼女の左手の薬指にダイヤモンドが煌めいていた。おんぶして帰ったあの日の星空を思い出した。
プロポーズ後にデザートが運ばれてきた。それは、その味を忘れることができないほど美味しいミルフィーユだった。最高のミルフィーユだ。
結婚報告をするために、隣人のブリーフ変態オヤジの部屋を訪ねようとすると、そこはもう空き家になっていた。
「残念。またジーニーに会いたかったな」
彼女は寂しそうに呟いた。
「また急にドアを開けてくるでしょ」
僕たちは笑った。
二年後、ついにマイホームを購入することになった。引っ越しのために、長年住んだロフト付き1Kの部屋から荷物を全て運び終え、二人で扉の前に立った。僕はいろんな思い出を思い返して少し感傷的になったが、彼女は先に行ってしまった。僕は彼女を追いかけて行こうとしたが、ふと立ち止まり隣の部屋を振り返って見た。するとその扉の前には小さな植木が置いてあった。植木には、まるで僕らの門出を祝福するように、綺麗な花が咲いていた。
マイホームは新築の一軒家だ。僕たちは毎朝一緒にダイニングテーブルでコーヒーを飲む。コーヒーはもちろんあのタイガーの電気ケトルを使って作る。
僕たちは喧嘩しそうになることもあるが、そうなる度に大声を出すとあのブリーフ変態オヤジがドアを開けてくるのではないかと思い、ついつい笑ってしまう。だから喧嘩になることはない。少し揉めたとしても必ず最後は笑って終わる。
あのオヤジがいなければ僕たちは今頃どうなっていただろう。ケトルがなければ僕たちは別れていたかもしれない。オヤジがケトルをくれたおかげで、変わるべきことと、変えてはいけないものを知ることができた。オヤジとのひょんな出会いが、僕の人生を大きく変えたのだ。ありがとう、愛すべき変態。
変態のおかげで僕たちはいつまでも、幸せに暮らしましたとさ。
【エピローグ】
ピンポーン。
「ちょっと出てくれない?」
子供のオムツを交換中の妻が僕に言った。
「はいはーい」
僕がドアを開けると、そこには配達員のおじさんが立っていた。
「お届け物です!それでは!」
荷物を渡すと、すぐに去ってしまった。なんかあのおじさん、見たことがある気がする。
僕は受け取った小さめのダンボールをリビングに運んだ。
「誰から?」
「誰だろう。差出人が…。あっ!変態ジーニーって書いてある!」
「え!」
妻が駆け寄ってきた。
品名欄には「出産祝い」と書いてあった。
急いで中を開けた。
中には子供用の白ブリーフが一枚と手紙が一通入っていた。僕は手紙を開け、二人で読んだ。
*
出産おめでとう!子供のために白ブリーフを贈る。このブリーフ一枚を履き続ければ、立派な変態になれるぞ!オイラのように穴が開くまで履き続けろ!そしたらきっと新しい世界が見えるはずだ!これが本当の”ホール”ニューワールドってか!
*
僕たちは読み終わると、同時にツッコんだ。
「ディズニー好きしかツッコめないボケをするな!」
僕たちは顔を見合わせて笑った。