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「お前が誰からその話を聞いたのか、もしくは誰かから聞いた話をお前が勝手にそう解釈しただけなのかは知らないが、お前が俺にそう訊いてる時点で、お前も、それからお前に情報提供した人間も、どっちも正しい情報には辿り着けていないということだ」
タンタンタン、という女の靴音をコントロールさせながら、俺は女の後頭部に言い放った。
女はおとなしく階段を上りながらも、顔だけは後ろに向かせようとしている。
おそらく俺の様子をうかがいたいのだろう。
だが俺は、女がそうするたびにグイッと肩を押しやり、前を向かせた。
「だからこうして質問してるんじゃないですか。正しい情報に辿り着けてたなら、あなたにわざわざ訊いたりしませんよ」
フン、と鼻で笑うように答えた女。
去年から時々見かけるようになったが、聞くところによると、別の畑から移ってきたわけではなく、記者としてのキャリアも去年スタートさせたばかりの新人らしい。
確かに、さきほどの不安滲む顔色には、新人の雰囲気も感じられた。
しかしながら、俺に対する言動は新人とは思えないほどに堂々としていて、攻撃的だ。
政府や議員に批判的な記者というのは大勢いるし、取材方法も攻撃的になるのはよくあることだが、それでも新入りのうちは皆ある程度の自制を見せたものだが。
この女が大物なのか、はたまた愚かなだけなのか。
「ちゃんと答えてください。あなたが記者から超優良企業のMMMコンサルティングに転職したのは、議員や官僚とのコネがあったからじゃないんですか?そうじゃなかったら、あなたが何らかのネタで議員や官僚、政府の人間を脅したりしたんじゃないんですか?」
「何のネタで?」
「え………?そ、それはわかりませんけど!でもそう考える方が自然じゃないですか!だって今まで記者からMMMに転職した人なんていなかったんですから!うちの先輩達も言ってましたよ?あいつは優秀な記者だったのに、急に転職するなんておかしいって」
裏で ”優秀な記者” と評されていたことに図らずも気を良くするが、俺は女の腕を押しやりながら「つまりはお前の憶測にすぎないんだな?」とにべもなく投げ捨てた。
女の背中がかすかに振動した。
「……憶測じゃなくて、仮定の話です。真実を究明するためには、仮定を立てるのは普通でしょう?」
「立てるのは ”仮説” だ」
「――っ!………そうですね。すみません。でも!じゃあ仮説を立てるのは悪いんですか?」
「悪くはない。が、その仮説を立てるに値する情報が得られていないのであれば、それはただの憶測だ。言っておくが、お前の先輩が何と言おうと、その話にしっかりした根拠がなければ、それは単なる噂話にしか過ぎない。都市伝説、陰謀論といった類と何ら変わりのないものだ。で、お前は俺が記者から超優良企業のMMMコンサルティングに転職したのは議員や官僚とのコネがあったから、或いは何らかのネタで議員や官僚、政府の人間を脅したりしたからだと、そう仮説を立てるに値する情報を得ているのか?」
低く言い終わると同時に手首を掴む力を強め、僅かばかりに下に引く。
するとさっきとは違い、あからさまにギクリと女が肩を揺らす感覚が、俺の手にダイレクトに伝わってきたのだった。
「…………でも、噂話が本当かどうか調べるのも、私達記者の役目だと思いますけど?」
俺の指摘が図星だったのか、女は後ろめたさを払拭するように語気を強めて反論してきた。
「ああ、その通りだ。だがその場合、その噂話が事実である可能性と事実でない可能性、共に等しく扱うべきだ。例え大勢の人間が事実だと確信して噂していたとしても、それが正しいとは限らないんだからな。なのに記者の中には、その噂がまるで確かな根拠に基づいてるかのように勝手に蓋然性を高めて記事にする連中もいる。お前の言うように記者の役目は市民の間にある噂や疑惑を晴らすことであって、決して噂を喧伝することじゃないにもかかわらずだ」
階段を上っていく女は、後ろを振り向くことをやめたようだ。
俺は構わず続けた。
「しかもたちが悪いのは、そういう奴らの中でも半数ほどの人間はまったくの無意識でやってるということだ。以前、そのうちの一人に話を聞いたことがあるが、そいつは自分が偏った記事を書いた自覚が皆無だった。ある件で取材を進めている最中、タレコミがいくつか入ってきた。内容はどれも似たようなものだった。それを調べていくうちに、いつの間にかそれが事実だろうと勝手に解釈していたそうだ。その挙句、そのタレコミが事実であった方が、自分にとって都合のいい記事を書けると考えたんだ。自分の仮説を立証するために。取材中、そのタレコミがガセである可能性が過らないわけじゃなかったくせに、事実だと信じたいあまりに、視野を狭めてガセである可能性を否定し、結果として誤報を出し、大勢の人間に不幸を与えた」
俺はそこでセンテンスを区切った。
スイートルームのフロアまでは1.5階といったところか。
現在地を確認し、再度女に投げかける。
「だがその誤報を出した記者は、何も強い政治思想や絶対的な価値観、正義感を持っていたわけじゃない。そいつの立てた仮説だって、周りの空気や雰囲気に乗じる形で生まれたものだった。にもかかわらず、そいつはタレコミを事実だろうと解釈してしまった。複数も同じ内容のタレコミが来るんだから、おそらくは事実なんだろうと踏んだんだ。そいつにそんな過ちを犯させた原因が、何かわかるか?」
女は俺に背を向けたまま黙って三段ばかり進んだが、四段目で「………何なんですか?」と訊き返してきた。
俺は時間もないことだし、さっさと答えることにした。
「先入観だ」
そこでふと、女が片方の足を五段目にかけた状態で止めた。
俺も無理に押しやろうとはせずに淡々と続けた。
「みんなが言ってるから、同じタレコミがいくつもあったから、先輩から聞いたから………先入観なんて簡単に植え付けられる。誤報を出した記者が周りの空気に押されて立てた仮説も、同じようなタレコミが複数あったことも、”これだけ大勢の人間がそう言ってるんだから、おそらく事実なんだろう” という先入観を生んでしまったわけだ。それは記者をはじめ報道という仕事に就いてる者にとっては、絶対に犯してはいけない過ちだ。少なくとも俺は、記者になった際にそう教わって記者人生を生きてきた。先入観を持ったまま書いた記事に公平性なんてあるはずもないんだからな」
その先入観をどこまで削ぎ落すことができるか、それが記者の質を大きく左右するのだろう。
「改めてお前に訊くが、俺の転職がコネや脅しによるものだという仮説は、何を根拠にしているんだ?もしそれが噂の範疇を出ないのなら、その噂が誤りである可能性をお前は頭に置いているのか?………いや、違うよな?さっきの俺への質問に、そんな様子はまったく見受けられなかった。お前は先輩から聞いたただの憶測や噂を限りなく事実に近いと考えているんじゃないのか?それを先入観だと認識すらしないまま、今まで記者から転職した人物はいないから、おかしい………と」
違うか?
そう問うつもりだったが、それよりも早くに、女から返事があったのだった。
「………仰る通りだと思います」
誤字報告いただきありがとうございました。
訂正させていただきました。