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会議は白熱中だった。
晴れた日曜の昼下がり、都内某所の外資系高級ホテル高層階に位置するスイートルームのリビングで、紙の資料を広げながら。
今の時代に紙の書類で資料作成なんてと笑うこと勿れ、紙の方が証拠隠滅には適しているのだ。
データみたいに非物理的なものは、取り扱いも処分も慎重に行わなくてはならない。
だが残念ながら、今日の案件はそこに気を回すだけの時間を割けるか怪しかったのだ。
だから後始末が容易なパターンにしたわけだが、結果として、その危機管理は正しかったと言えるだろう。
「―――少々外します」
俺のひと言で、その場にいた全員がぴたりと動きを止めた。
そして全員からの注目を背中に浴びながら、俺はホワイエに向かった。
想定より、だいぶ早いタイミングだ。
扉口には二名の警護担当がいたが、俺の姿を認めるとすぐに俺の後ろに下がった。
俺は扉の正面に立ち、目を閉じる。
五感が一つ減ったことで他の感覚に意識を集中させ、扉の外の気配を探っていった。
このフロアには一部屋しかないうえに、専用のカードキーがない限りエレベーターはこのフロアで開かないはずなのに、扉の向こうでは予定にない人間の気配があったのだ。
1、2………いや、3人か。
「どうだ?」
リビングルームから俺の様子を確認しにきた男が問う。
「ネズミが三匹ってところですね」
「思ってたより多かったな」
「予定通り、こちらに連行しますか?」
「どぶ臭くないネズミだったらいいんだがな」
「クリーンなネズミだったらこんなところにはいないでしょう?」
「それはそうだが」
「でもここに来たってことは、もうケージに入れられたハムスター同然じゃないですか?」
リビングから移動してきた男がもう一人現れる。
先の男よりも若いが、年の割に肝が据わっている男だ。
「あいつらがハムスターみたいに可愛らしいわけないだろ」
「だからですよ。小さくて可愛い姿だったら、相手も気を緩めるじゃないですか。例えそれが与党の要職に就いてる偉い人だったとしても」
「お前なぁ……それ、外で言うんじゃないぞ?手引きをしたのが身内だと言ってるようなものだ」
「わかってますよ。まだ議員生活続けたいんで。どっちにしても、臭いネズミよりも可愛らしいハムスターの方が可愛がりがいがありますよ」
「お前のことだから、ニコニコしながら全力で回し車を回しそうだな」
「ええ?ちゃんと可愛がりますよ?ペットにするのなら、ですけど」
「では、ひまわりの種でも用意しておいてください」
俺は適当に二人の会話に割り込むと、扉の鍵に手をかけた。
二人はさっきと同様に、ぴたりと口を噤む。
「………各自持ち場につけ」
音を立てずに鍵を解錠しながら短く指示すると、片耳に装着したイヤホンからは間髪入れず応答がある。
どこも準備は問題なさそうだ。
「目標は三名。確保後は予定通り客室に連行。いくぞ。3、2、1」
カウントと同時に扉を勢いよく開いた俺は、一目散に目標目がけて駆け出したのだった。
このフロアへの出入りは非常階段かエレベーターしかない。
本来ならエレベーターは専用のカードキーがないと作動せず、非常階段も外に続いてる扉は内側からしか開かず、各フロアの階段扉に関しては開いた時点で各所に通知がいく設定だ。
となると、ネズミがこのフロアに立ち入れたのは、カードキーを持っていた、もしくは通知を見逃した協力者がホテル側にいたということになる。
だが、ある特殊な仕掛けを施しておいたおかげで、俺には、ネズミ達の侵入経路が手に取るように察知できてたのだ。
ネズミは三匹、男、男、女。
俺が客室の扉を開けたとたん、一斉に散っていった。
うち男二人はエレベーターホール方面に、女は反対側の非常階段に逃げる気配があった。
もとより、この高層階からの逃げ口は限られているわけで、追跡は各所に分担しておいた。
そして俺はプラン通り中央の非常階段口に向かう。
階段室に入ると、コツコツコツコツと、女物の靴が忙しく駆ける音が響いていた。
俺はこの靴音に聞き覚えがあった。
同じメーカーの靴なら似たような音も出るが、歩き方、走り方というのは個人個人に癖があるのだ。
つまり、この靴音の主は、俺が以前会ったことのある人物だということを意味していた。
「―――意外だな」
率直な感想がこぼれる。
今俺から逃げて非常階段を駆け下りている相手が、想定外の人物だったからだ。
「ま、とりあえずは確保だな」
俺は彼女の後を追った。
ちょっとばかり特殊な方法を使って。
目を瞑り、その特殊な方法で移動する。
そしてゆっくり目を開くと、頭上でさっきの靴音が鳴っていた。
コツコツコツコツコツ……
さっきよりもテンポが速まっている。
俺は無闇に靴音には近付かず、その場で上を見上げて待つことにした。
やがて、あと1フロアというところに靴音が接近してきて、そして――――
「――――ひっ!」
女は視界に俺が視界に入るや否や、悲鳴をあげて急ブレーキをかけた。
顔には恐怖の色が挿している。
が、すぐに踵を返したのだ。
下りてきた階段をまた駆け上がっていく女。
俺を見ても尚逃げ出すということは、やはりこの女もネズミの一匹と見ていいのだろう。
おれは躊躇うことなく女を追うと、あっという間に自力で追いついた。
「――っ!」
ぐいっと手首を掴んで引くと、女は苦痛の表情を浮かべてよろめいた。
俺はそのまま壁に女の体を押し当て、完全に動きを封じる。
すると女が苦々しげに言ったのだ。
「………あなた、MMMの人ですよね!?」
どうやら、この女も俺のことを知っているようだった。