【連載版始めました!】不貞した夫なんて刺して当然でしょう?
「お前みたいな貧相な女、抱く気が起きない」
――アフェール家に嫁いだ元子爵令嬢・ライラが、初夜の寝台で夫であるフレッグに吐かれたのは、そのような暴言だった。
「親に勧められてお前を貰ってやったが、はっきり言ってお前みたいな地味女、俺の好みじゃない。この結婚は、白い結婚ってことで。いいな」
いいな、などと確認のように聞いているが、有無を言わさない圧がある。
「わかったら、この契約書に署名しろ」
そうして彼はライラに、「この結婚は白い結婚、それに対して文句は言わない」「夫が何をしたとしても決して文句は言わない」等の、フレッグにばかり都合のいい契約書に無理矢理署名させた。
このフレッグという男は、この国において英雄とされる男である。といっても、まだ強大な敵を倒したわけではない。ただ十二歳のときに、魔王を倒す英雄にしか抜けぬと伝えられている、光の剣を抜いたのだ。
伝説によると、遥か昔、勇者がこの大陸のどこかに魔王を封印したのだとか。しかしその封印は永遠ではなく、いつか解けてしまうそうだ。そのためもし復活した魔王を倒せば、フレッグは勇者として爵位や領地を与えられる――はずなのだが。
封印が解けるというのはあくまで伝説上のことで、この国は至って平和であり、魔王が現れる兆しも一切なかった。なのでフレッグは、十二歳の頃から魔王の出現を待ち続けた。成人すると、たまにダンジョンに潜ってアイテムを採集する冒険者まがいの生活を始めたが、やはり魔王は現れなかった。そうこうしているうちに三十歳になってしまったのだ。
本当は王女や公爵令嬢との結婚を望んでいたフレッグだが、光の剣を抜いただけでまだ何の武勲も立てていないためそれは叶わず、このままでは子も残せないと焦った彼の両親が、妥協してクレーヴィア子爵家の娘であるライラとの結婚を勧めたのである。ライラの方は十九歳で、年齢には差があるものの、彼女の両親が「娘が未来の英雄の妻になれるのなら」と娘を差し出したのだ。
ライラは下級とはいえ貴族の娘として、親に結婚を決められることは受け入れていた。だが彼女は、たとえ最初は家同士の都合による結婚でも、同じ家に住み共に時間を重ねてゆけば、次第に愛のある家庭を築けるはずだと希望を抱いていた。――しかし、フレッグの方にこうまで歩み寄る気がないのであれば、不可能だ。
それからの結婚生活も、フレッグの態度は横暴そのものだった。フレッグの家にはもともと使用人がおらず、ライラが家事をすることになったのだが。フレッグは「人参が入っている料理など食えるか」と言ってライラの作った食事を床に落としたり、「おい、酒は買ってないのか!? 酒を常備しておくのは当然だろう!」と声を荒らげたりして、常にライラを叱責した。
家計を支えるため、ライラは他のお屋敷のもとへ通い家庭教師として働きに出たものの、家事は全てライラが担うことになっていた。料理や洗濯のみならず、同居しているフレッグの両親の世話も押し付けられた。
フレッグの母――ライラの義母は「私はもう年なのだから、家のことはあなたがちゃんとやりなさい」と言い、フレッグにも家事を手伝ってほしいと言っても「うちの子は将来英雄になるんだから、家事なんてやらせないでちょうだい」と顔を顰める。しかもフレッグから「白い結婚だということは、親には絶対言うなよ」と言われているため、義母達は「子どもはまだなの? ちゃんと男の子を産むのよ」などと非常に無神経なことを言ってくる始末。
そんな中、唯一ライラのことを気にしていたのは、彼女の家庭教師先である伯爵家のヤーシュだった。彼はライラが勉強を教えている子息・リーシュの兄であり、二十歳の男性だ。ライラが伯爵家の屋敷から帰ろうとした際、彼から声をかけてきたのである。
「何か悩みでもありそうな顔をしているね。どうしたんだい? 話を聞くよ」
「いえ。ヤーシュ様のお時間をいただくわけにはまいりません。私はこのまま帰宅しますので」
「はは、俺なら暇をしているから大丈夫さ。俺の話し合い相手も仕事の一環だと思って、少し付き合ってくれ」
そうしてライラは、家庭教師の仕事が終わると、ヤーシュと過ごす時間が増えていった。彼と話す中で知ったのだが、ヤーシュにも婚約者はいるものの、うまくいっていないそうだ。ライラの家庭に問題があることを察した彼は、自身も真剣な面持ちで打ち明けた。
「俺も婚約者には辟易していて、婚約解消を考えているんだ。だから……正直、君の気持ちはよくわかる」
(……どこの夫婦も婚約者も、周りから見たらうまくいっているようでも、問題を抱えているものよね)
ライラは、生家は子爵家とはいえ、ごく小さな領地であるため家はあまり裕福ではなく、兄がいるので自分が主人となれるわけでもない。容姿は地味で身体つきも貧相であるため、再婚も難しいと考えていた。
(……温かい家庭を築くことが、私の夢だった。フレッグ様と、もっと向かい合ってみるべきなのかもしれない)
そう考えたライラはその夜、意を決してフレッグの寝室を訪れた。
「なんだ、何か用か」
「用というわけではないのですが……。たまには、少しお話しいたしませんか。私達は一応夫婦なのですから、もっとお互い、理解が必要かと……」
ライラの言葉に、フレッグは面倒くさそうに息を吐き出す。
「俺がお前と結婚したのは、親の面倒を見てくれる女が欲しかったのと、この歳で独り身だと周りがうるさいからだ。妻帯者という肩書はもう得られたのだから、後はお前は、家のことをやっていればいいんだ」
「……ですが。同じ家で暮らしているのですし、もう少し夫婦の時間を……」
慎ましく、平凡で構わない。穏やかで幸せな家庭を築きたい――
そんなライラの願いを打ち砕くように、フレッグは彼女に侮蔑の眼差しを向ける。
「なんだ、そんなに男が欲しいのか? 女のくせに淫乱な」
「……っ」
いやらしいものを見る視線に、羞恥でかあっと顔が熱を持つ。
「ち、違います。そういうことではなく、もっと言葉を交わしたり、お互いのことを知ったりする時間を――」
「必要ない。もういいだろ、俺は疲れてるんだ。そんな我儘で俺を煩わせるな」
ライラは仕事と家事をこなしているが、フレッグは「いつか真の英雄となる日のために鍛えておかないとな」と、襲来する予定もない魔王と戦うため、そこらの森に出かけて剣を素振りするような日々を送っている。にもかかわらず平気でそんなことを言って、ライラを部屋から追い出した。
ライラは自室に戻り、独りで恥辱に耐える。
フレッグには、まるで男に飢えているかのような言い方をされてしまったが、そういうことではない。――家族であるはずの人から、愛されないことが悲しいのだ。
街で幸せそうな夫婦や、子連れの女性を見るたび、羨ましく思ってしまう。自分はこのまま、もう誰からも愛されることなく一生を終えるのかと思うと寂しくて仕方がない。
それでもライラは、自分はこの家に嫁いだのだから妻としての役目を全うしようと、自分を叱咤していた。家庭教師の給金が貯まったら、少しでも彼に良く思ってもらえるよう、上質な化粧品でも買うべきかとも考えていた。
(……フレッグ様は、昔から英雄と言われてきた人なのだもの。今は、冴えない私なんかに目を向けないのかもしれない。だけど妻として努力し続ければ、いつかはきっと――)
……そんな、ある日のこと。
「今日は、伯爵家でご子息に勉強を教えた後、楽器もお教えする予定でして、遅くなります。お食事は、作り置きしてありますので」
「そうか」
ライラがそう言って家を出るとき、なぜだかフレッグは機嫌がよかった。普段なら「作り置きの飯なんて嫌だ、できたての温かい食事がいい」などと不平を漏らすのに。
今日は義母と義父も用事があって出かけている。たまには、家で一人で過ごせることが嬉しいのだろうか。
不思議に思いつつも、ライラは勤め先の伯爵家へ行き――リーシュに勉強と楽器を教えた後。帰ろうとしたら、いつものようにヤーシュが声をかけてきた。
「ライラ。もう帰ってしまうのかい?」
「はい。今日はいつもより遅くなってしまったので……帰って家のことをやらないと」
「ライラ、待ってくれ」
立ち去ろうとしたところで、ヤーシュはライラの手首を掴む。
「もう気付いているかもしれないが、俺は、君に惹かれているんだ」
「ヤ、ヤーシュ様……?」
「だから、君を放っておけない。君を見ていると……守ってあげたくなる」
ヤーシュの手が、そっとライラの頭を撫でる。
「――っ。ヤーシュ様……」
「本当は、家に帰るのが苦痛なんだろう。うちに泊まってくれていいんだぞ。そうだ、酒は好きかい? いい葡萄酒があるから、一緒に飲まないか」
「い、いえ……すみません。早く戻らないと、家で、夫が待っていますので……」
ヤーシュの誘いを振り切って、ライラが家に帰ると――
「フレッグ様、ただ今戻りました。すぐお食事を温めて――……、っ!」
フレッグの部屋を訪ねると、彼が見知らぬ女性と抱き合っているところを目撃してしまう。相手は若い女性だ。愛らしく、豊満な身体つきの――本来フレッグの好みの女性はこうなのだろうな、というような。
ライラが呆然としていると、相手の女は目を潤ませて言う。
「ごめんなさい。私、お二人の邪魔をするつもりなんてなかったんです……! でも、フレッグ様のことを愛してしまったから……っ」
――何が「邪魔するつもりはなかった」だ。フレッグが妻帯者だと知っていて、そういう行為に及んだのだろうに。
「おいライラ、リリアナを泣かせるな! お前に文句を言う資格なんてないだろう!」
別にライラが睨んだわけでも、暴言を吐いたわけでもないのに、フレッグは彼女を責めた。
ひとまず女性の方には帰ってもらい、ライラはフレッグに事情を聞くことにしたのだが――
「……フレッグ様。私達は離縁する、ということでよろしいでしょうか」
「何を言っている。離縁はしない」
「え……?」
「離縁なんて外聞が悪い。それに、リリアナは愛らしいが爵位も何もない、平民の回復士見習いだ。身分だけならお前の方が上だからな」
「それじゃ……っ。私に、夫に愛されることなく、他の女性との不貞を許し、ただ使用人のように働く日々を永遠に続けろとおっしゃるのですか」
「何が不満だ。俺のような英雄の妻でいられるのだから、感謝しろ」
――駄目だ、話にならない。同じ言語を用いているはずなのに、話が通じない。
後日、ライラは一度生家に戻って実の家族に相談してみたものの、「男性の火遊びなんてよくあることなのだから、そのくらいで嘆くんじゃない」「そもそもお前に原因があったんじゃないのか?」などと言われてしまい、心の傷は深くなるだけだった。
誰にも気持ちをわかってもらえず、自分の方がおかしいのだろうかと苦悩する日々が続いて……。
◇ ◇ ◇
――こんなはずじゃなかった、と。フレッグはずっと思っていたのだ。
フレッグは十二歳のときに、魔王を倒す英雄にだけ抜けるという、光の剣を抜いた。そのとき彼は、これで自分の人生は順風満帆だと信じて疑っていなかった。
だが、何年待っても肝心の魔王が現れない。この大陸において、魔王が出ないかぎり、魔獣は特殊な魔力が満ちたダンジョンの中でしか生きられず、そこから出てくることはない。国が平和すぎて、フレッグが活躍する機会がないのだ。光の剣を持っているというだけで英雄扱いはしてもらえるものの、実際に武勲を立てなければ叙爵することはない。――「未来の英雄」扱いされていても、「真の英雄」ではないのだ。
そのせいで結婚もなかなか決まらなかった。いや、正確には下級貴族からなら申し込みはあったのだが、フレッグが「王女か公爵令嬢でなきゃ嫌だ、絶世の美女でなきゃ嫌だ」などと高望みしすぎていたのだ。俺は英雄なのだから、妻だって俺に釣り合う女でなければならない、と。いつまでも条件を下げることをしなかった。
そのせいで婚期を逃し、親に泣きつかれて、ライラと結婚することになったのだ。だがフレッグには、それが不満であり屈辱だった。
(こんなはずじゃなかった。俺は美しい王女や公爵令嬢と結婚するはずだったんだ! くそっ、忌々しい……!)
その鬱憤は、全てライラにぶつけられることになった。フレッグは、光の剣を抜いておきながら真の英雄になれていないという劣等感が強い。それが、ライラに当たり散らすことで、少しは気が晴れるのだ。ライラに対して偉そうに振る舞うことで、自分が本当に偉くなった気がするから。ほら、やはり俺は強い。俺には逆らえないのだ、何故なら俺は英雄なのだから、と――
正直、不貞してやったときのライラの悲しそうな顔も――快感だった。
不貞相手のリリアナはダンジョンで出会った見習いの回復士だ。ソロの自分と違い、彼女は他のパーティーに属していたのだが、ちょうどそのとき仲間とはぐれていて、不安そうにしていたところを助けてやったのだ。
そうして彼女が光の剣に気付いたので、自分が英雄であることを明かした。彼女はフレッグが妻帯者であると知っていたようだが、「フレッグ様みたいな人が旦那様だったら、きっと幸せなんだろうなぁ。奥さんが羨ましい」と言ってきたのだ。フレッグは「何と健気な子だろう」と感動し、それから何度か逢引きを重ね、身体を重ねる仲となった。
(俺が愛しているのはリリアナだが――不貞行為を知られたときの、ライラの顔は最高だった。そうかそうか、俺が他の女と寝ていてそんなに悲しかったのか? ふん。顔は好みじゃないが、可愛いところもあるんじゃないか。まあ、リリアナの方が何倍も可愛いんだがな)
ライラを傷つけてやることが、愉しい。あいつが無様であるほど、自分が価値のある人間になったような気がする。そうだ――俺は英雄なのだから。もっともっと、人々から称えられるべきなんだ!
「フレッグ様、どうしたの? 何か考えごとぉ?」
フレッグは、はっと我に返る。今はリリアナと、久々に二人でダンジョンに来ているところだった。ダンジョンはたまに金目の物を手に入れられるし、薄暗くて人目もないため、魔獣さえいないときであればイチャイチャもできる。二人は実際に何度か、ダンジョンを連れ込み宿の代わりにしたこともあった。
「いや、なんでもない。リリアナは本当に可愛いなと思っていただけさ」
「ふふっ、嬉しい。……あれ?」
「どうした、リリアナ」
「なんだかキラキラしたものが落ちてるわ。きれーい」
リリアナがダンジョンの床から拾い上げたのは、魔石に似た石だ。ただし、赤い火の魔石や青い水の魔石でもなく、闇を閉じ込めたような漆黒をしている。
「なんだ、これは。見たことがない色だが、魔石の一種か?」
「ふふ。なんだか子どもの頃に絵本で見た、願いを叶えてくれる石みたい!」
子どものようにはしゃぐリリアナが、フレッグにとっては微笑ましかった。犬にするように、彼女の頭を撫でてやる。
「本当にそれが、願いを叶えてくれる石だったらいいのにな」
「うんうん。ねえ、フレッグ様は、何がお願いごとはある?」
「俺の願いは……」
――魔王さえ、復活してくれたら。
何度思っただろう。早く魔王が復活すればいいのに、と。そうすれば、自分は光の剣の力を思う存分発揮し、真の英雄になれる。富も名声も、地位も女も、全てが手に入るのに、と――
そして実はリリアナもまた、同じ考えを抱いていた。
リリアナにとって、フレッグが光の剣を持っていることは、とても魅力的だ。価値のある男が自分のものなのだと思うと、優越感に浸れるから。
だがどうせなら、本当に魔王を倒し、英雄になってほしい。より価値のある恋人が欲しい――「英雄の妻」という座が欲しいから。
(魔王が、復活してくれたらいいのに)
二人は謎の黒い石に触れたまま、そう、心から願ってしまって。
そしてその願いは――届いてしまった。
◇ ◇ ◇
「……ん?」
ライラが、街に夕食の買い物に出ていたときだった。安い野菜をいくつか買って、家に帰ろうと思っていたところで――
「ぎゃあああああああああああああ!」
街外れの方角が騒がしく、人々の悲鳴が聞こえてくることに気付く。
(何事……?)
困惑していると、悲鳴がした方向からたくさんの人々が逃げてきて、その中の一人……ライラの顔見知りである年配の女性が声をかけてきた。
「ああ、ライラちゃん! あんたの旦那さん、大変なことになっちゃってるよ!」
「え……?」
(フレッグ様が……? どういうこと?)
ライラが駆け、様子を見に行くと、そこには――
爆炎魔法によって街を破壊しつくすフレッグの姿があった。
「フレッグ様!? 何をしているのですか!?」
「お、俺じゃない! 俺の意思じゃないんだ……っ!」
「俺の意思じゃない、とは……?」
「ま、魔王に身体を乗っ取られてしまったんだっ!」
――フレッグの持つ、光の剣。それは魔族にとっての天敵である。
だからこそ魔族は、逆にそれを利用してやろうと考えたのだ。
魔王復活のためには、魔族ではなく人間が、心から「魔王に復活してほしい」と願うことが鍵となっていた。遥か昔、勇者は魔王を殺し、それでも消滅することのなかった魔王の魂を異界に封印したのだ。以来、魔王の魂は、自分の器となる肉体を求めていた。
大陸には、人間に成りすまして暮らす魔族達もいたのだが――あえて何もせず、フレッグを放置していたのである。
人間というのは、強欲な生き物だ。光の剣を手にした者が「自分は英雄になれる!」と思い、しかし十数年も何事もなければ、「魔王がいなければ自分は英雄になれない」「魔王がいれば自分は英雄になれるのに」と、魔王復活を願うようになるだろう。
だからこそ、その願いを利用してやる。魔王復活を願った人間を器とし、魔王が復活する――。全ては、魔族による罠だったのだ。
しかし、それはフレッグが光の剣を手にしても、「魔王なんて現れない方が人々のためである」「何事もなく世界が平和なのが一番だ」と思うことさえできていたら、防げていた事態だ。
だがフレッグとリリアナは、自分達の欲望のために魔王復活を願ってしまった。そのため、フレッグは魔王の器にされ、今こうして、人々に危害をくわえてしまっている。彼の身体からは、邪悪な赤黒い瘴気が滲み出ている。
(魔王に身体を乗っ取られる、なんて信じられない話だけど……でもフレッグ様、こんな爆炎魔法なんて使えなかったはずだし)
そこへ、騒ぎを聞いて駆けつけた、王国騎士団の者達が到着した。
「た、助けてくれっ! これは俺の意思じゃない! 魔王のせいだ! 魔王が俺の身体で好き勝手してるんだっ!」
そう言って、フレッグは騎士団の方へも爆炎魔法を放つ。騎士団は最上級の魔法盾によってなんとかその攻撃を防いだが、険しい顔をしていた。
「光の剣を抜いた英雄ともあろう御方が、魔王に身体を乗っ取られてしまうとは……」
「これ以上人々に被害が出る前に、倒れていただくしかない」
騎士団の面々が、フレッグに剣を向ける。フレッグは、顔面を蒼白にしている。
「や、やめてくれっ! こ、この身体は俺のものなんだぞっ! 俺が死んでしまうじゃないかっ!」
この事態の悲惨なところは、身体は乗っ取られているのに、本人の自我は完全に残っているところだ。フレッグは、自分が街を破壊してしまうのも、討つべき悪として剣を向けられるのも、何もかも信じたくなくて悲鳴を上げる。
「だが、討たねば街の人々に被害が出る」
「フレッグ殿、許せ」
騎士団の人々が、フレッグに斬りかかろうとし――
「い、嫌だあぁぁぁぁ! 死にたくないっ、なんで俺が死ななきゃならないんだ!」
フレッグは身体を乗っ取られているが、最後の抵抗を見せるように、自分の意思で無理矢理腰に提げていた光の剣を抜いた。
しかしその剣は、あえなく騎士によって弾き飛ばされてしまう。光の剣は、石畳の上を滑りライラの足元まで転がってきた。
(ど、どうしたら……)
ライラは反射的に、光の剣を拾い上げた。すると――
『……人の子よ』
「――え?」
(な……何? どこかから、声がする……?)
『人の子よ。私はこの光の剣リュミエールだ。この私で、フレッグを刺せ』
(……! この声……頭の中に直接響いている!?)
『私は、以前はあの男を我が主だと認めていた。だが次第にあの男の心は邪悪……闇に染まって、そのせいで私の光の力も失われてしまい、深い眠りについていた。だが、今君に手に取られ……君の記憶が、私に流れ込んできた。君は、あの男に苦しめられていたのだな。おまけにあの男は、魔王に身体を乗っ取られている。本来私は、私を抜いた者にしか真価を発揮できぬのだが……私の意思によって、我が主を変更しよう。ライラ、私を使うのだ』
「で、でも。私、剣なんて使ったことがないですし……」
『大丈夫だ。私を握ってさえいれば、後は私がなんとかする。――今はまだ、魔王が復活したばかりで、慣れない人間の器に戸惑い、真の力を発揮できていないようだが。このまま時間が経過するほど、魔王の力は強くなる。だから、今討つしかないのだ』
「ですが、そうしたらフレッグ様が……」
ライラが光の剣を持ったまま、躊躇いを浮かべていると――
「おい、ライラ! 何をぼーっとしている! とっととその剣を俺に戻せ、この愚図!」
フレッグは、いつものようにライラを怒鳴りつけた。同時に、やはり肉体を制御できないようで、騎士団に向け爆炎魔法を放っている。
(……愚図、か。フレッグ様はいつだって、私を罵倒してばかりね。こんなときでも……仮にも妻に、『危ないから逃げろ』の一言すら、くださらない)
『ライラよ、大丈夫だ。光の剣は魔を討ち払うが、人間を死に至らせることはない。もっとも……死にはしなくとも、死以上の苦しみがもたらされるかもしれんがな』
(そう……それなら、私が罪人になることもないわね)
すうっと、ライラの心が冷えた。躊躇いは消失し、彼女は光の剣を強く握りしめ――
「お……おい、ライラ。何をしている……なぜ俺に剣を向けているんだ!?」
「……旦那様は、英雄です。英雄なら、国の平和が何より大切でしょう?」
「ま、待て! だ、だからって……っ!」
「人々のため、覚悟をお決めになってくださいませ。それが英雄というものです」
ライラが、光の剣でフレッグを貫こうとし――
「ぎゃああああああっ! や、やめろっ! お、俺は勇者になる男だぞ! お前なんかが俺に剣を向けるなんて、許さないからなっ!」
フレッグが、ライラに爆炎魔法を放った。
しかし、光の剣がライラの動きを導くようにして、彼女の右手が勝手に動く。
光の剣が、爆炎魔法を切り裂いて無効化した。ライラは無傷だ。
その様子を見ていた騎士団や周囲の人々は、思わずどよめく。
「す……すごい! あの女性、光の剣を使いこなしているぞ!」
そうして光の剣に導かれるまま、ライラはフレッグに接近し――
「自分の行いを後悔なさいませ。――真の英雄になれなかった旦那様」
フレッグを――刺した。
「ひ……ぎゃ、ぎゃああああああああああああああああああっ!!」
フレッグは絶叫を上げるが、その身体から血が噴き出すことはない。代わりに、強い光が溢れ出す。
(熱い……。力を感じる……、っ!?)
その瞬間――ライラの頭の中で、何かが弾けた。
光の剣で魔王を貫いたという、膨大な超常の力の発生によって、ライラの中に眠っていた記憶が蘇ったのだ。
(これは……っ、前世の記憶……?)
――ライラの前世は、日本人だった。名は森下紫乃。冴えない独身の二十代で、毎日普通に暮らしていたが事故によって命を落とした。そしてこの世界に転生したのだが、今まで前世の記憶を失っており、転生者の自覚はなかった。
けれど――前世の記憶を取り戻したからこそ、わかった。今までのこの夫との関係は全て間違っていたのだ、と。
この国では親同士の決定による結婚は一般的で、配偶者が横暴であっても黙って泣き寝入りせざるをえない令嬢が多い。
「紫乃」は……まだ十九でありながら望まぬ結婚をして夫は傍若無人、しかも不貞という裏切りを受け、日々心を擦り減らす「ライラ」に同情した。一応自分自身でありながら、他人のように「守りたい」という感情が芽生えた。
(前世の私と今世の私といっても、育ってきた国や環境が違うんだから、ほぼ他人みたいなものよね……。何にせよ、このままフレッグに支配され続ける人生なんて、ライラのためにならないわ)
だから、この攻撃で死なないにせよ……自分の行いを死ぬまで悔いてもらおう。
【ク……ッ。誤算だった、まさか光の剣が、持ち主を変えることができるなど……】
そのとき、フレッグのものではない声が響いた。フレッグの身体を乗っ取っていた魔王の思念だろう。
【だが、我は四属性の魔王の中でも、最も階級が低い。他の魔王はこうはいかぬぞ……】
(『ククク……奴は四天王の中でも最弱』みたいなこと、自分で言った……)
そうして、フレッグの身体から滲み出ていた赤黒い瘴気のようなものが消え――彼の身体は、ドサリとその場に崩れ落ちる。
騎士団や周囲の人々は驚愕し――しかし、すぐに盛大な拍手をライラに送った。
「魔王が! 魔王が倒された!」
「すごい! あの女性はこの国の英雄だ!」
わあっと、誰もがライラに感謝と尊敬の眼差しを向け――
フレッグが長年欲してやまなかった、渇望していた称号で、彼女を呼ぶ。
フレッグは石畳の上に倒れたまま、呆然としていた。
「ま、待て! 見ていただろう、この女は、俺を刺したんだぞ! 英雄なんかじゃない、とんでもない凶悪女だ、殺人鬼だ!」
「まあ、何を言っているのです、旦那様。あなたは死んでいないし、傷一つついていないでしょう」
「ふざけるな! だからってこの俺を刺していいと思っているのか!?」
「はい」
周囲の人々の視線が全てライラとフレッグに集まっている、この状況で。
彼女は光の剣を持ったまま、「それ」を口にした。
「――不貞した夫なんて、刺して当然でしょう?」
――フレッグが不貞した、という事実を。この公衆の面前で聞かせたのだ。
人々が、フレッグに同情しないように。「哀れにも魔王に身体を乗っ取られてしまった被害者」などと、悲劇のヒーローにさせないためにも。
フレッグはぎょっと間抜け面をし、顔面を蒼白にする。
「な、何を言っている!? 言いがかりだ、俺は不貞なんてしていない! いつも優しくしてやっているというのに、この恩知らずめ!」
否定するということは、不貞が悪いことだという自覚はあるのだろう。……周りに知られてはいけない悪事だとわかっていながら、今までライラにはたいしたことないかのように言い、我慢を強要してきたのだ。
(でも、シラを切るなんて、させない。……あなたは今まで、『ライラ』を傷つけ続けてきたんだから)
「あらまあ、『優しくしてやった』ですか。――フレッグ様が、私に妻としてどんなことをお求めになったかは、全てこの契約書に書いてあるでしょう」
ライラが鞄から取り出したのは、結婚当初、フレッグに無理矢理署名させられた契約書だ。「夫が何をしたとしても決して文句は言わない」「家事は全てこなし、親の面倒も見ること」など、身勝手なことばかりが、フレッグ本人の字で書き連ねてある。
「な……お前、何故そんなものを持ち歩いている!?」
「もともと、あなたとの生活は限界でしたから。いつでも公表できるように持ち歩いていたんです」
契約書は一枚のみで、ライラに写しが渡されていたわけではない。フレッグが自分で隠していたが――そもそもフレッグの部屋を掃除しているのはライラなのだ。隠し場所などすぐにわかった。
そう。前世の記憶を取り戻す前から、ライラはもう限界だったのだ。
フレッグを信じようとしたことがある。歩み寄ろうとしたことがある。だが、全て無駄だった。彼はライラの気持ちを何もかも踏みにじり、打ち砕いてきたのだから。これは、その報いだ。
「だ、だがお前はその契約書に署名しただろう! なのに俺にこんな恥をかかすようなことをするなど、契約違反だ! 訴えてやる!」
「まあ、愚かですこと。教会や役場などの公的な機関を通していないこんな契約書に、法的な力などありません。ただの紙切れですわ。あなたがいかに非道な人間かという証明にはなってくれますが」
二人のやりとりを見て、周囲の人々はヒソヒソと話しながらフレッグに軽蔑の目を向ける。
「フレッグさんって、そういう人だったのね……」
「まあでも、納得かもな。光の剣を持っているというだけで、誰かを守ったわけでもないのに、いつも偉そうにしていたし……」
「しかも確かにこの前、若い女と歩いているのを見たことがあるぞ。それだけでは不貞と断ずることはできなかったが……やっぱり、か」
騎士団の面々をはじめとし、多くの人々がこの現場を目撃していた。フレッグが本当はどんな人間だったかということは、すぐ街中に広まってくれるだろう。もう二度と、彼を英雄扱いする者など現れるまい。
「そういうわけで、フレッグ様。これまでの理不尽な振る舞いのうえ、回復士見習いリリアナさんとの不貞。あまつさえ、さんざん英雄だと主張しておきながら、魔王に身体を乗っ取られるという醜態。もはやあなたの妻でいる理由などありませんわ」
言葉の中でさらっと、不貞相手がリリアナだということも周囲に聞かせておく。フレッグが妻帯者であると知っておきながら、身体の関係をもった女。「紫乃」は彼女のことも、許さない。人の夫を寝取った女として噂が広まれば、今後良縁など望めないだろう。かといって、英雄の称号を失った今のフレッグと結ばれることを、あの女が望むとも思えない。これより先は、どうあがいても地獄だ。
「そういうわけで――離縁してくださいませ、旦那様」
ライラは、フレッグの眼前に離縁届けと万年筆を突きつける。
これも、いつで出せるよう、常に持ち歩いていたのだ。既にライラの名は記入済みである。
「ぐ……ぐぅ……」
これだけ人の目がある中だ。逆上してライラに暴力を振るうこともできない。フレッグは、情けない呻き声を上げ、離縁届けに署名をした。
「さようなら、旦那様。……ああ、『元』旦那様ですね」
がくりと項垂れるフレッグに、ライラは初めてにっこりと、心からの笑みを浮かべたのだった――
◇ ◇ ◇
その後、ライラは光の剣の所有者であり、四属性の魔王のうち一体を倒した英雄として、正式に王家から称えられた。ちなみに、フレッグの身体を乗っ取って爆炎魔法を使用していたあの魔王は、火の魔王だったそうだ。まだ水・風・雷の魔王が残っており、火の魔王の復活を皮切りに、今後復活するのではないかと危険視されている。
そんなわけでライラは、これから英雄として忙しくなるため、今まで家庭教師として雇ってもらっていた伯爵家に、退職の手続きをしに行って――
「ライラ、君の噂は聞いたよ! 英雄として称えられるなんて、さすがは君だ! 俺は、君を誇りに思うよ」
伯爵家では、ヤーシュが笑顔でそう言った。
「君はもう夫と別れたそうだし、俺達を邪魔するものは何もないね。ああライラ、ようやく君と結ばれるのか……」
甘く囁き、ライラの腰を抱こうとするヤーシュに、ライラは――
「……何をおっしゃっているのですか? ヤーシュ様」
冷静な眼差しで、彼の手から逃れた。ヤーシュは「え?」と困惑する。
「何って、俺達の今後の話さ。君は夫がいるから躊躇っていたけど、本当は俺のことが好きなんだろう? 君の気持ちはわかってるよ」
「……ええと。ヤーシュ様には、婚約者がいらっしゃいますよね」
「ああ。だけど彼女とは、もう冷めた関係だって言っただろう? いずれ別れるつもりだ」
ライラは心が冷えるのを感じながら、淡々と告げる。
「ヤーシュ様。婚約者と別れないまま他の女性に愛を囁くのなら、あなたもフレッグと同じです」
「なっ!? 違う、だって君は、夫とうまくいってなかったんだろう!?」
「はい。ですがそれでも、以前まで私は既婚者でした。……正直、そんな私に手を出そうとするあなたを見て、ああ既婚者に平気で手を出す男なのだな、と思っていました」
不貞され傷ついたライラだからこそ、自分は同じ人間になるまい、と思っている。ヤーシュの婚約者がどんな人物かは知らないが、自分のいないところで他の女性に婚約者を悪く言い、愛を囁くなど、裏切り行為に他ならない。
「なんでそんな言い方をする!? 運命の悪戯で、たまたま俺達に婚約者や配偶者がいただけじゃないか! だけど俺は君の夫より君を想っていた! これは不貞なんかじゃない、真実の愛だ!」
「真実の愛だというのなら、正式に婚約解消や離縁してから口説くべきでしょう。ヤーシュ様は今現在も婚約者がいますし、そもそも私にまだ夫がいた頃から、私に手を出そうとしていましたよね?」
もしこのままヤーシュと結ばれれば、ライラは他の女性の婚約者を奪ったことになる。それで恨まれたり、貴族達の間で悪く言われたり、慰謝料を請求されたりするのはまっぴらごめんだ。
そもそもライラを口説く前に婚約解消しなかった時点で、その程度の気持ちなのだろう。
大方ヤーシュは、地味で家庭がうまくいっていないライラを見て、こんな女なら簡単に落としてやれると思っていたはずだ。以前彼の誘いに乗っていたところで、数回抱かれて終わりだっただろう。今はライラが英雄となり名声を得たから、婚約者よりライラの方が都合がいいと思って乗り換えようとしたのかもしれないが……。それでもやはり、真実の愛などと言うのであれば、先に自身の婚約の問題を解決すべきだろう。
「だ、だが! 君はいつも俺に微笑みを向けてくれたじゃないか! 俺を好きだったからじゃないのか!?」
「私にとってあなたは、勤め先の伯爵家のご嫡男ですから。邪険にすることができなかっただけです。ですが私はこれから、英雄として、国の平和のために生きますので。もうあなたとお会いすることはないでしょう。さようなら、婚約者さんとお幸せに」
「そ、そんなぁっ!」
その後――フレッグとリリアナが魔石に願ったことが魔王復活に繋がったという事実が王家に露見し、二人は「魔王を復活させた大罪人」として処刑されることとなった。
フレッグの両親も、光の剣を抜いておきながら、英雄とは程遠い罪人を育てたとして周囲から冷たい目で見られ、肩身の狭い思いをしているそうだ。面倒を見てくれるライラの存在も失った彼らは、このままただただ衰えてゆくだろう。
ライラの実の両親は、英雄となったライラに擦り寄ってきたが、フレッグが不貞したときに助けてくれず罵るだけだった家族などいらないと、ライラの方から縁を切った。
そうしてライラは、フレッグがずっとなりたくて仕方がなかった「世界を救った英雄」として、大陸中の人々から賞賛を得て幸せになり、後世まで語り継がれるのだった――
読んでくださってありがとうございます!
ご好評につき連載版「不貞した夫なんて刺して当然でしょう?~離縁したので、これからは英雄として冒険します!~」をはじめました!
フレッグとリリアナ・義両親・実両親など、ざまぁ盛り盛りです!
何卒よろしくお願いいたします~!!