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二四年前 摩周鱗子の脱出 後日談

 章を分けようかと思っていましたが、ひとつにまとめました。ちょっと長くなってしまいましたけれど、退屈するかしないか読み手にまかせます。

 あと、辛いというか女性の方々にとってキツイ描写が続きますが、悪役の酷さを出すのには必要かと思って書きました。よろしくお願いします。


 1


 摩周鱗子の脱出成功をお祝いしての打ち上げ女子会を終えた翌日。

 龍宮紅子りゅうぐう べにこは自慢のカワサキ1300CCで高速道路を飛ばしていた。

 普段は深酒するまでには二升以上が必要最低限なのだが、この日のことを考えて前日は酒が残らないていどの1リットルにとどめておいた。おかげで、自慢のアルコール検査キットにも反応無し。完全に抜けていたようで、休日の今日は早起きすることができた。体調も問題なし。鱗子をエスコートしながら海中を泳いでいたときに脹ら脛に喰らった、もりの一撃はあったものの、飲んで食べているうちに傷が塞がっていた。どうやらこういうのも、その昔に深き者と交配して受け継いできた陰洲鱒町民の特性に感謝するしかない。

 紅子の気分は絶好調である。

 もうすぐ大村空港行きの看板に近くなったところで、バイクのミラーに青い影を二つ発見した。それは追い越し車線を仲良く二台の大型二輪車で並走しているという、危険極まりないもの。やがてそれらは紅子のカワサキ1300CCに並んだ。青い車体の横に、布で巻かれた長物がそれぞれあった。青いフルフェイスのゴーグル越しに見えた、ヒトの眼が反転した眼差し。コイツら、人魚かと判断したのちに、紅子はアクセルをさらに噴かせて、青い二台を大きく引き離して大村空港を目指した。

 空港内の駐輪場に赤とシルバーのツートーンのカワサキを停めて、シルバーのフルフェイスを脱ぎ、右肩のみが赤いシルバーのライダースーツを脱いで現れたのは、豊かな胸と引き締まった腰、そして鍛え上げた下半身。紅子のそれらは決して太いものではなく、骨太ではあるが身長百八〇センチに達するスレンダーな筋肉質であった。脹ら脛にまである、大きく波打った黒髪を襟足でくくっている。細く鋭い眼差しの中には、陰洲鱒町民特有の稲穂色の瞳が輝いていた。そんな、美しいだけでなく色気もある龍宮紅子は、袖なしの赤いカッターシャツに腰骨ラインのジーパンという格好だった。空港の建物に入ると、東京行きのフライトを待つ摩周鱗子の姿があった。赤子の摩魚まなを抱えた、夫の有馬哲司と別れの挨拶をしていたところである。そんな中むつまじい二人の無事を確認して、紅子は微笑みを浮かべた。

 直後、二つの気配を感じて顔を向けたら、布に巻かれた長物を肩に担ぐ大柄な雄人魚二体が遠くに立っている。紅子は誰だかとっくに見当はついていた。筋肉質で大柄な雄人魚二体に向けて、顎で「場所を変えよう」とクイと指示した。


「龍宮紅子よ、場所を変えたか。変えたとて一緒だ」

「どちらにしろ早々に殺されて、あの虹の鱗の娘とその夫ともども制裁を受けることは逃れられんぞ」

 そう二体して紅子にノコギリサーベルの切っ先を突きつけて、勝気満々の言葉を吐いた雄人魚たちは、双子の兄弟であった。四角い輪郭に彫りの深い黒い眼と銀色の瞳、薄い唇に尖った二列の歯。鍛えた首筋に五つのえら。そして、上着に隠れてはいるが、あばらの辺りに三つの鰓もある。鍛え上げてたわわに実っている上半身の筋肉、太い腕、パッツパツの黒いランニングシャツ。締まって適度に細い下半身にジーパンと黒い革靴。黒髪をオールバックにしてそれぞれ右側に前髪を垂らして、左側に前髪を垂らしてといった見分け方。しかも、身長は百九〇センチといういかにも強そうである見た目だが、前々日の摩周鱗子の脱出のさいに、浜辺銀と闘った割には全く歯が立たなかった。浜辺銀の圧勝だったわけだ。それでもこのような台詞が吐けるとは、なんというメンタルの持ち主。

 全部で双子二組の兄弟と双子一組の姉妹人魚は陰洲鱒町でいつの間にか肉屋を勝手に経営していた、野木切ブッチャーズの雄四兄弟のうちの野木切鱏一のこぎり えいいち野木切鱶二のこぎり ふかじ

 そのような自信満々の肉屋の兄弟人魚の台詞を聞いていた龍宮紅子りゅうぐう べにこは、軽い溜め息とともに後ろ頭を掻いた。目線は鱏一と鱶二に向けたままだ。紅子は今日は珍しく化粧していた。軽くファンデーションをつけて、クリアーレッドパールの口紅を引いていた。多分、気分である。遠く離れた後ろでは、旅客機たちが飛び立っていく。離陸のさいに発するエンジン音をBGMに、紅子は歩き出した。それに合わせて、鱏一と鱶二も間合いを保って歩みを進める。そして、高い音を上げて旅客機が飛び立ったとき、紅子は走り出していく。鱏一と鱶二も平行して走り始めた。紅子の跳躍に合わせて、肉屋の兄弟人魚も跳び上がり、二体同時にノコギリサーベルを振りかぶっていく。鱏一を踏み台にして、鱶二の顔に膝を背中に肘を叩き込んで離脱して着地した紅子。離れたところで遅れて着地した肉屋の兄弟人魚。それぞれ頭を軽く振ったのちに二体一緒に駆けてきて、ノコギリサーベルを振るってゆく。殺意のある二つの刃を難なくかわしたり避けたりして、膝で鱏一の顎を蹴り上げて腹を蹴飛ばし、後ろからきた鱶二足を払ってその四角い顔をサッカーボールキックした。残心をとって見渡していたところ、鱏一の姿がない。その間にも、鱶二が呻き声をもらして立ち上がってきて、ノコギリサーベルを構えていく。もう一体の肉屋はどこだと探しながら敵に背を向けないように構えたまま下がっていったら、金網のフェンスに背中が当たった。

「どうした、龍宮紅子よ? もう後が無いぞ」

 この肉屋、相変わらず勝った気である。

 数秒預けていた金網フェンスから身体を離そうかとしたそのとき、左右から牙のように歪曲した白く長いものが合わせて六本現れて、紅子の上半身を掴んだ。

「俺のあばら骨の味はどうだ? 龍宮紅子」

 後ろから嘲りを含んだ言葉を吐いてきたのは、鱏一だった。

 紅子はとりあえず力んでみる。

「無駄だ。捕らえたらお前が死ぬまで放さんぞ」

「良いぞ、鱏一。ついでにこのまま後ろから辱しめてしまうか? 我々人魚を舐めた真似をしたらどうなるか、教えてやれ」

「鱶二よ。素晴らしい考えだな。そうするか」

 この肉屋の兄弟人魚のやり取りを聞き終えたとたん、紅子は鼻で溜め息をついたときに力を完全に抜いた。次は、呆れた顔と侮蔑の目線を鱶二に向けて、話していく。

「鱏一くんに鱶二くんさー。“演技”って知ってる?」

 と、“演技”の部分をかなり強調して吐きつけた。

「なんだ? それ? 寝床の上でか?」

 そのような鱶二の言葉をしり目に、紅子が稲穂色の瞳を金色に光らせたとき、鱏一のあばら骨をフンッと力んで破壊した。女の後ろで激痛に叫んでいく鱏一の身体を、黒くて細い紐のような物が二つ上下互い違いに走ったその瞬間、肉屋の長男坊は三枚におろされたのだ。ちゃんと背骨の幅を残して、まさに魚の三枚におろしだった。ゆっくりと立ち上がってゆく紅子。

「な、なんだ? なにをした! 鱏一になにをしたんだ!」

「なにをって……。三枚におろしただけだけど」

 律儀に疑問に答えつつも、瞳は金色に光っていた。

 その紅子の黒くて長い髪の後ろから、今度は数本に増えて細い紐のような物が上がってきた。それらの先は、まるで刃物のように鋭利。薄くて長くて柔軟性のある刀のようだった。黒い眼を見開いて驚愕していく鱶二。

「おのれ! 次はお前が三枚に…………!」

 ノコギリサーベルを構えたまま、鱶二の顔と身体を黒い線が横に走っていった。そして、皆まで言わせることなく、鱶二は輪切りになって倒れて地面に肉を散らした。金色の光りが消えて元の稲穂色の瞳に戻ったときに、紅子は放った数本を髪の毛の中に収めた。そして、上体を折って膝に手を当てて微笑みかけていく。その相手は、すでに輪切りになり肉の断面を晒している死骸である。

「女の演技を見抜けないようじゃ、まだまだね。……って、もう聞いていないか」

 最後は小悪魔な感じで閉めた。

 上体を上げて、髪を耳にかけて帰路へと足を進めていった。


 その頃。

 空港内では、もうすぐ東京行きの便が迫るなか。

 カッターシャツにジーパン姿の摩周鱗子に、愛娘の摩魚まなを抱いた有馬哲司が結婚指輪を渡していた。それを受け取った鱗子は、指にはめて日の光に当てて微笑み、一筋の涙を流して哲司の首に腕を巻いて抱きついた。しばらく別れを噛みしめていたさいちゅうに、五分前のアナウンスが流れて惜しみつつ離れる途中で、鱗子は額を哲司の胸板につける。そして完全に身を離して歩き出し、夫に手を振って別れを告げた。哲司も妻に手を振り見送る。

 摩周鱗子は有馬鱗子になった。


 再びシルバーのライダースーツを身に着けてカワサキの1300CCに跨がったときに、東京へと飛び立っていく旅客機を目撃した紅子は、機体が小さくなるまで眺めたあと、バイクのエンジンに点火して家路にへと走らせ始めた。



 2


 龍宮紅子が大村空港へと自慢のカワサキを走らせていた同日。

 人魚の虎縞福子とらしま ふくこも製薬会社の勤務日程が休日だったので、町外の自宅の研究室の薬品の管理をしたあとに赤いスポーツカーを走らせて教団が作った施設内の部屋で薬品の状態をチェックしていた。いつもセットしていた髪の毛を下ろして、襟足でくくっている。ワインレッドのブラウスに膝丈の黒いスカート姿だった。自宅の研究室のチェックは楽しいが、こちらのはあまり良い気分がしない。まるで、休日なのに仕事をしているかのようだ。調合した液体薬品を保管する冷蔵庫を開けて様子を見たのちに、下の部分に指をかけて引き出した。隠し引き出しになっており、その中にはサポニンと記された注射器が一本だけ入っていた。これを数秒間ほど見たあとに引き出しを元に戻して立ち上がり、微笑みを浮かべた。

 ーこれをもう、私自身に使わなくてよくなるのかな?ーー

 福子が自身に使うことを考えていたのだろうか。

 サポニンも界面活性剤という毒だときく。

 そしてデスクのパイプ椅子を引いて腰を下ろすこと数秒。

 鉄の扉をノックされたので開けて隙間から様子をうかがった。

 そこには着物姿の白髪の老婆がいた。

「お疲れさまです、フナさん。どうしたのですか」

「こんにちは。ーーー福子さんや。あなた、摩周鱗子になにを打ったんだい? あれは、テトロドトキシンじゃなかったよね?」

「なにをって、テトロドトキシンに決まっていますよ」

「そうかい……」

「そうです。私はチェックが終わったので、今から帰ります」

 そう言って鉄扉を閉めようと引き直したそのとき、黒い革靴の先が挟まってきて、閉めることを阻んだ。嫌な予感がして、力を込めて相手が諦めてくれることを待ってみたが、それもかなわず、強引に鉄扉を開けられていき、招いていない客を三体入れた。それは、三体全てが人魚。磯野フナを筆頭に、野木切鱏三郎のこぎり えいさぶろう野木切鱶四郎のこぎり ふかしろうと続いていた。肉屋の三男坊と四男坊は、自慢のノコギリサーベルを片手に持っている。

 フナが、邪悪に吊り上がった黒い眼を福子に流して。

「本当はなにを打ったんだい?」

「本当もなにも、私はテトロドトキシンしか打ってません」

 恐怖を感じながらも、福子は口を割らないでいた。

 人魚では“ひ弱”なほうではある、がしかし、福子は身長百八五センチという大きな“女性”であったが、フナが連れてきた鱏三郎と鱶四郎はそれを五センチ超える百九〇センチになる大柄な身の丈と実った筋肉の持ち主であった。フナと肉屋の兄弟双子ともども、常人の数倍の筋力を有しているために、対する福子は鍛えていない一般人女性とたいして変わらないから、これには怯えがきた。しかも福子は男性嫌悪を持っており、それは雄人魚にたいしてでも同様の嫌悪感を抱いていた。

 フナが指で後ろの鱏三郎と鱶四郎に指示を出した。

 口元を歪めて尖った歯を見せていく。

「“穢れ”のクセになにを強情になっているんだい? 白状するなら今のうちにするんだね」

「何度も言います。私が打ったのは、テトロドトキシンです」

 言い切った途端に、鱏三郎から拳で腹を殴られて身体を折った。

 足元をふらつかせて倒れそうになったところを、胸ぐらを掴まれ、今度は膝が腹に刺さった。嗚咽して咳き込む。胸ぐらごと掴み上げられて、再びフナからの問いかけを受ける。

「言え。本当に打ったのはなんだい?」

「テトロドトキシンです。知らないの?」

 福子は苦痛に耐えて口角を上げて同じ答えをした。

 振り投げられて、壁にぶち当たって背中を強打して机に落ちる。

 そして、床に叩きつけられた。激痛に喘ぐ。

 しかし。そのような目に遭いながらも、眼差しは力強くフナたちを睨み付けた。次は、笑みを浮かべてゆく。

「あれはフグ毒と同じなんだけど、ご存知なかったのかしら」

 腹を蹴られた。サッカーボールキックを受けたのだ。

 胃液を吐き出した。

 襟を掴まれて、顔に向けて拳を振り上げられた、そのとき。

「顔はおよし! 目立つじゃないか。それ以外ならいくらでも構わないよ」

 フナからの制止を受けて、拳を止めたあと福子の上着の襟を掴み上げて机の上に腰を落とされた。その際に、背中と後ろ頭を壁に強く打ちつけてしまう。再び、腹に拳を食らって、嗚咽して咳き込む。そうして、らちがあかないとみたのか、磯野フナは溜め息をついたあと、声のトーンを下げて呟いた。

「このままでは切りがないねえ。ーーーよし。もうひとつのやり方で身体に“聞こう”かね。鱏三郎、鱶四郎、いいよお前さんたちの好きにおやり」

「……え?」

 これを耳に入れたとたんに、福子は身体の芯から恐怖が走った。

 肉屋の兄弟人魚が二体仲良くニヤリと好色の笑みを浮かべた。

「鱶四郎、虎縞福子の腕を捕らえていろ」

「おう。任せておけ」

 鱏三郎の指示に従い、鱶四郎は福子の後ろから素早く両腕を捕って身動きすることを制限した。次は、ワインレッドのブラウスの襟に手をかけて、力強く左右に引っ張り、インナーのシャツともども引き裂いて肩と下着を露出させた。ワインレッドのレース柄のブラジャーが露になった。

「いや……。やめて……」

 福子は恐怖とともに吐き気を感じてくる。

「ほう。下着も上着と同じ色してやがる。お前、なかなかスケベな女だな」

 鱏三郎が尖った歯を見せていく。

 そして、下着も左右に引きちぎった。

 とうとう、福子の二つの胸の膨らみが晒されて、先端部は桜色をしていた。恐怖感と嫌悪感と拒絶が現れて、小刻みに震えていく。そのような福子を気に止めることなく、磯野フナは無情に声をかけていった。

「もう一度聞く。本当は鱗子になにを打ったんだい?」

「テ、テトロドトキシンよ……。何回、同じことを言わせる、つもり……」

 震えつつも、福子はフナを睨み付けてそう主張した。

 これに人魚の老婆は溜め息をついて。

「本当に馬鹿な子だねえ。お前さんがどうなったって知らないよ」

 こう述べたあとに、肉屋の兄弟人魚へと目線を送って合図した。

 それを受け取った双子の兄弟人魚たち。後ろから両腕を捕って拘束していた鱶四郎がその力を強めて完全に離脱できない状態にし、鱏三郎は福子の両脚を膝から持ち上げて女の腰骨ラインのパンツに手をかけた。女として福子自身としての絶対的な危機を感じて、上体から腰を動かして抵抗していった。

「いやっ! やめて! それだけは、絶対嫌!!」

 顔は完全に恐怖と怯えと拒絶で青ざめて、悲鳴を上げる。

「うるせえ!」

「ぐは……!」

 後ろの鱶四郎からの手加減なしの拳を横腹に受けて、胃液を吐き出した。

「お前さんが口を割らない限り、今のような制裁を受けるのが増えるだけだよ。“仲間”のリエたちには、まだ産まれたばかりの赤子がいるじゃないか。我が子を人質に捕られてしまったら、抵抗すらできなくなるだろうよ」

 フナからの容赦ない言葉は、福子にとって物凄く重苦しくのしかかってきた。尖った歯を噛みしめてまぶたつむることほんの二秒か三秒、彼女自身には長い時間が過ぎた感覚だった。そして力なく瞼を開けて、全身の力を抜いてしまった。

 ー私ひとりで“これ”が済むなら、リエたちみんなを助けることができるなら、私は…………。ーー

 そうして福子は完全に抵抗を失う。

 このような“彼女”の意思、自己犠牲にも等しい思いが生まれたそのとき、福子の内部に変化を起こし始めたのだ。まだ固定化した物ではなく、かすかにともされた幾色もの光りである。

 これは良しと見た鱏三郎が好色の笑みを浮かべて、両膝を抱えたまま再び福子のパンツに手をかけて脱がしていき、片足首にワインレッドの下着を掛けた。

「フナさん、こいつは“どう”なんだい?」

「全く男を知らない身体だよ」

「そうかい、“初物”か」

「我々一族の子孫繁栄のためだ。いただきな」

 フナの一声に合わせて、鱏三郎はジーパンのジッパーを下ろして雄の“いきり”立つソレを取り出して腰を突き入れようとした、その直前。


 大きな音を立てて、薬品管理室の鉄扉が室内のコンクリート壁に強くぶち当たった。扉の枠は内側に変形していて、それを固定しているコンクリート壁も部屋側に向かって“ひび”割れ変形し、鉄筋たちが顔を覗かせていたのだ。壁にぶち当たった当の鉄扉はというと、これまた部屋側にへこんでまるで灰皿みたいに変わり果てていた。おまけに、鉄扉が当たった箇所の部屋の壁も窪みひび割れている。そんな壁から凹んだ鉄扉は落下して、グワングワングワングワンと音を立てて、それは徐々に小さく短いピッチになっていき、床に伏せる姿になった。そして、哀れな鉄扉を生み出した証拠も、それを吹き飛ばしたと同時に顔を見せていた。それは、黒いウェスタンブーツ。これには皆、驚愕して目を剥いて口を“あんぐり”と開けてしまったのである。

 磯野フナ、野木切鱏三郎に鱶四郎。

 そしてなんと、虎縞福子も。

 部屋にいる皆が皆、大口を開けて驚愕していた。

 やがて、黒いウェスタンブーツがズンッ!と床に下りてデニムパンツの長い脚を現した。次は、大柄な女が上体を見せて、もう片方の脚を部屋に踏み入れて福子たちに向きを変えた。足首まである長い黒髪をハーフアップにして、三つ編みにしている。それは眉毛はないが、一度見たら忘れない美しい女性、摩周ヒメであった。白いカッターシャツにデニムパンツという実にシンプルではあるが、着こなしているのは流石。稲穂色の瞳を金色に光らせている。青筋の浮き出た顔を上げて、食いしばっていた鈍色の尖った歯を開いていく。このとき、錯覚だったかもしれないが、言葉を発する度に煙りが出ていたような気もする。

「リエからさー、嫌な予感がして福子のことが心配だから様子を見に行ってほしいと頼まれて来てみりゃ、おめえらなんだよ? ああ?! “女”ひとりによってたかってレイプしてんのか? ええ?! 女子高のイジメかよ?」

 まさに、鬼の形相。

「い、いや……、これは、まだ……、未遂というか……」

 圧倒されて、鱏三郎はしどろもどろになる。

 しかし、この言い訳がヒメの逆鱗に触れたらしく。

「は? 未遂? 馬鹿かお前。脳味噌白子かよ。誰がどう見たってレイプ実行中じゃねえか! おまけにきたねぇナマコを垂らしやがってよー! ヤル気満々だろーがよ、どー見てもさ! おめえら兄弟、白子しか詰まっていねえのかよ! アホか、この!」

 金色に光を放つ瞳の眼は、血走っている。

 これはヤバい。

 福子を含む皆がそう思った。

 だが、ここで怯んでは負けだと思ったのか、鱏三郎はヒメに向けて言葉を吐きつけていった。

「う、うるせえ! これ以上近づいてみろ! こいつにブチ込んでやるぞ!」

「ああ?! やれるならヤレよ! そのかわり、私がおめえをブッ殺すぞ!」

「うぐぐ……!」

「どうした? 白子頭? ヤレよ!」

 ヒメの頭に角を生やしているような錯覚も見た。

 まさに、鬼気迫る。

 その間、虎縞福子は。

 ー嗚呼……。ヒメさん。ありがたいけど、怖い! 本当の本当に怖い! 腰、抜けそう。ーー

 今度は激怒しているヒメに青ざめて、見ないように目を瞑った。

 両膝を担いだまま怯えていた鱏三郎は、悔しさのあまりに己のイチモツを福子の中に入れようと腰を前に動かした。

「ぐ……! ちくしょう!」

 その、瞬間。

 左フックを顔に食らって壁にぶち当たった。

 そして右フックは鱶四郎の顔を叩いて、壁に叩きつけた。

 鱏三郎はずり落ちてデスクを変形させて床に倒れ、鱶四郎は後ろ頭を壁に強く打ちつけて横に転倒。

 一瞬で二擊。

 一呼吸だった。

 福子の貞操も無事だ。

 支えを失って落ちそうになった福子に腕を回して、立ち上がらせる。裂かれたワインレッドの上着を被せ直して、肩を抱いた。

 福子は頬が赤く染まり、嬉しくなる。

「ありがとうございます」

「礼はいいよ。私たちの仲でしょ」

 そう微笑みかけてきたヒメの顔は、いつもの美しいヒメであった。

 ー良かった……。もとの綺麗なあなたに戻ってくれて。ーー

 安堵して笑顔になる。

 直後、ヒメの目付きは再び鋭くなり、瞳が金色の光りを放つ。

「さあ! あんたらの始末、これからどう着けようか」

 フナたちに顔を向けて言葉を吐き出した。

 肉屋の兄弟人魚がノコギリサーベルを構えていく。

「女ぁ……! 我らを侮辱した罪は重いぞ! 覚悟しろ!」

「はあ?! なに言ってんの? 馬鹿かお前!」

 摩周ヒメの怒りは、おさまっていなかったもよう。

「昼間っから物騒なもん振り回しやがってよ! 相手を舐めてんのは、お前らだよ! 刃物を向ける覚悟と代償はあるのか? ねえだろ!」

 力強く鱏三郎を指さした。

 ちくしょう!と肉屋の三男の人魚がノコギリサーベルを振り上げてかかっていく。その間に、ヒメは拳を顔のあたりまで上げて言葉を放った。

「私の拳が光って唸る! お前ら倒せととどろき叫ぶ!」

 福子を庇って走り出し、振り下ろされてきたノコギリサーベルを左手で弾いて、右拳を真っ直ぐ胸板に叩き込んだ。鱏三郎の胸骨は折れて破壊され、心臓を突き刺して絶命させた。殴り飛ばされて壁にぶち当たり、めり込んだ。

 文句無しの一撃必殺である。

 ヒメの顔は次なる標的、鱶四郎を向いていた。

 肉屋の四男の人魚は、ノコギリサーベルを突いたりなぎいたりしていくものの、それらをヒメから難なくかわされていく。相手の袈裟を斬りつけたと思ったとき、背後をとられて、ヒメの気配を感じることさえ与えられずに脊髄を蹴り上げられた。それはまるで、樹木がなにか巨大な者の手で瞬間的に折られたかのような大きく乾いた音を部屋に短く響かせたのだ。よって、蹴られた鱶四郎は脊髄を破壊され、背中から折り畳まれて文字通りの背中合わせの状態になって吹き飛んで天井に当たって、床に落ちた。絶命である。

 こちらも一撃必殺だ。

 そうして戻ってきたヒメは、福子を背中に回して再び庇う体勢になり部屋中に目を配っていく。磯野フナが見当たらないではないか。いったい、どこへいったのか?

 と、思わせて。

 ヒメの足刀が後ろに走った。

 大きな摩擦音を鳴らして、小柄な影は飛び退いた。

 磯野フナだった。着物の襟に斜めに走る摩擦の痕。

 煙りを上げていた。

 後ろ蹴りを決めたヒメは、膝を折って片足立ちになりフナに向く。

「脊髄いただき、って思ってたんでしょ?」

「そうだったよ。そのつもりだったさ」

 フナが尖った歯を剥いて、武道家としての動揺をしめしていた。

 対称的にヒメは、不敵な笑みを見せている。

 しかも、瞳は光っておらず従来の稲穂色。

「殺意がみっともないくらい駄々漏れだったわよ」

「ありがたく肝に銘じておくよ」

「謙虚でよろしいわ」

「正直、お前さんがここまでだったとは。何者なんだい」

 フナが構えを解いて、ヒメも残心を解いた。

 ヒメは後ろの福子を片腕で庇い。

「私? カルト教団に司祭を“やらされている”広告代理店の従業員よ」

「口が減らないね」

「お互い様でしょう」

 福子を庇いながら、出入口に移動していくヒメ。

 フナはその女に顔を向ける。

「今日はこれで“ちゃら”にしてやるから、お互い潰し合う前に解散だよ」

「そうね。それが賢明ね。ーーーあと、“お掃除”頼めるかしら?」

「そうかい。なら、この修理代はお前さんに請求しようかね」

「そう? なら、こちらは110番してもいいかしら。強制性行実行犯を現行犯で正当防衛しましたって連絡しますわよ」

「ぐぬぬ……。小娘……」

「あなたは制裁を実行した。私はその友達を助けた。ーーーこれ以上でも以下でもありません」

「わかった。お前さんはこれ以上こないようだし、私も“そうする”よ。やることはやるから、部屋から出てっとくれ」

「ありがとう」

 フナにこう微笑んで、ヒメは福子を庇いながら部屋から出て行った。



 3


 教団施設内の『摩周ヒメ』と書かれた鉄扉を開けて、摩周ヒメは虎縞福子の肩を抱きつつ部屋に入った。この部屋も、四隅に円柱形の柱がある天井から床までコンクリート打ちで、ガラスのテーブルと黒いソファーが二つ、司祭の衣装をおさめているクローゼット、天井には三列に並ぶ長細いLEDライトが横に三ケ所、そして白い扉の向こうにはシャワートイレ付きの浴室だった。

 その簡易的な浴室で、福子はシャワーを浴びていた。

 肉屋の雄人魚の兄弟から殴られ剥がされ触られ。

 いくら洗い流したって落ちていない気がしている。

 汚された。

 福子にとっては基本的に男と雄は恐怖と嫌悪の対象であった。

 よっぽどの気の許しをしない限りは無理である。

 白く細く美しい身体にいくらシャワー浴びせたって駄目だった。

 嗚咽から始まり、そして顔を手で覆ってしゃがみこむ。

 シャワーの音とともに、浴室に泣き声が響き渡った。

 先ほどもヒメの腕の中で泣いた。大きく泣いた。

 福子が味わった恐怖と絶望は計り知れない。

 そしてシャワーを浴び終えて出てきたその顔は、泣き腫らしていた。福子がバスタオルを素肌に巻いただけの姿をしていたから、ヒメは驚いた。まるでそれは、ワンピースのように身体のラインに添って、ぴったりとしていたからだ。意外と張りのある胸に、同じ女であるヒメでさえ恥ずかしさを覚えて頬が赤くなる。完全に下りた色素の薄い髪の毛は、白い“うなじ”に張りついて少し肩にかかる感じだった。巻いただけのバスタオルからでも分かる、ほんの少しだけ浮き出た、あばらのあたりにあるえらが三つ確認できる。虎縞福子は、高い身長も相まって大変美しい“女性”であった。しかし、同じ女とはいえ近くに摩周ヒメがいるのに、あまりにも無頓着すぎやしませんかね。黒いソファーに腰かけていたヒメは、ガラスのテーブルに畳んで置いてあった上着とジーパンと下着を指差す。

「ふ、福子。そこに着替え用意してあるから、使って」

「ありがとうございます」

 そう微笑んで礼を言った顔は、化粧が完全に落ちてしまってはいるが、正直に言って今の顔の方が圧倒的に色気があった。リップを引いていないのに、艶やかな薄い唇。いつも福子が愛用しているマット系とは印象が違う。

 駄目だ。“彼女”が目に入るたびにその色気に鼓動が高鳴る。

 ーまずいなあ……。日頃から誠実で綺麗なだと思っていたけれど、ここまで色っぽいだなんて。早く服を着てもらわないと。ーー

「ヒメさん。では、お洋服を借りますね」

 と、服を借りにきて上体を折ったときに、バスタオルに覆われた張りのある胸の膨らみの谷間が目に入ってしまった。座る位置が悪かったのか、読書くらいはしておいた方が良かったのか。とにかく、バスタオル姿の虎縞福子から意識を向けないで済む方法をとっていなかったのは、摩周ヒメの不覚であった。

 なので。

 凝視。

 当然、視線に気づかれる。

 よりによってだ。

 頬を赤く染めて、ヒメから視線をそらす。

 しかも、嬉しそうにしていて、満更でもなさそうだ。

 テーブルから衣服を両手で持ち上体をあげて、目線をヒメに下げる。

 下りた七三分けの前髪が、片目を隠している感じだった。

「ありがとうございます。さっそく着てきます」

 そう礼を告げて、浴室に足を運んだ。

 着替えている途中、浴室から福子の呟きが聞こえてきた。

 彼女の出身なのか、近畿地方のイントネーションだ。

「ヒメさんの大きいなあ……」

 ブラジャーのカップサイズが、らしい。

「白、素敵やわあ」

 下着の色のことのようだ。

 そうして、浴室から戻ってきた福子の身なりは。

 白いブラウスにジーパンというシンプルなものだったが、身の丈が百八五センチもありスレンダーなモデル体型であるため、実にお洒落に見えてしまう。ヒメも白いカッターシャツにデニムパンツというシンプルさを着こなしているので、人のことは言えない。

「素敵よ、福子」

「ありがとうございます」

 うっすらと微笑んで礼を言った。

 なんだか、福子の様子がおかしい。

 それはまるで、恋をしている乙女みたいだからだ。

 誰に?

 ここには二人しかいない。

 虎縞福子と摩周ヒメ。

 じゃあ、その対象は。

 ーま、まさかね。ーー

 戸惑いと動揺をそろそろ隠せなくなってきたヒメ。

 そんなとき、タイミングが良いのか悪いのか分からないが、扉をノックする音を聞いてソファーから立ち上がった。

「誰?」

「潮干リエでーっす」

 これは間違いない。潮干リエだ。

「はいはい」

 と楽しそうにノブを回して扉を開けてみたら、黄金色の髪をした長身の美人がいた。しかも、今日はいつもの白いブラウスに白い膝丈のプリーツスカートという普段着ではなく、桜色のカッターシャツにギリギリ黒に見える暗い青のベストを羽織り、同じ暗い青の膝丈より少し上のスカートといった仕事着で、桜模様のヘアバンドを着けて桜色のリップを引いていたのがかなり新鮮であった。

 ヒメに笑顔と歯を見せて。

「ごめんなさいね。せっかくのお休みだったのに、呼び出しちゃって」

「本当、人使いが荒いんだから。ーーーなんてね。いいってことよ。私たちの仲じゃない。おかげで無事に福子を助けられたし」

「良かった良かった」

 そう嬉しく返していくリエの姿勢に違和感を覚えて。

「そういえばリエ、あなたが担いでいる人ってまさか……」

 言葉とともに扉の開きを大きくしていった。

 すると、素っ裸に多分ベッドのシーツと思われる布だけを羽織った長身の女性がリエに肩を担がれていた。しかも、見覚えのある顔立ち。だが、眼差しは半分死んで生気が感じられない。七三に分けた長い黒髪が美しい顔の半分ほどを隠していた。

「そう、マキちゃんよ」

 リエの呼ぶマキちゃんこと磯野マキで、磯野フナの長女だった。

「“彼女”ね、ずいぶん酷い目にあっていたみたいなの」

「ど、どんな?」

「雄人魚と教団信者から“おもちゃ”にされていたのよ」

「……は?!」

 ヒメの顔に青筋を確認。

 見逃さないリエ。

「まあまあ聞いて。私ね、今からこの子と双子ちゃんを傷つけたアホの根性を叩き直しに行こうかなーって思っているわけよ」

「双子ちゃんって、まさか」

「鱏美ちゃんと鱶美ちゃん。間に合わなかったわ。あの子たち、無理やり男を教え込まれていて酷かった。その実行犯をマキちゃんも入れて“三人”に聞いたら、双子ちゃんはバカデカイ雄人魚と、この子には肉屋の三男坊と四男坊がバカデカイのと組んでいたそうよ」

「あ……。あのアホの肉屋、私が殺しちゃった」

「え……? マジ?」

「マジです」

 引きつった笑顔で驚くリエに、ヒメは真顔で返した。

 少しだけ間が空いたときだった。

「ザマァ……」

 微妙な笑みを浮かべて、磯野マキが小さく発したのだ。

 これに驚いて、リエとヒメは目線を送った。

 いつの間にか、福子も加わっている。

「私もそう思います」

「あ。福子」

「リエさん、ありがとうございます。気にかけてくれて」

「胸騒ぎが当たったのは残念だったけれど、あなたが無事で嬉しいよ。ヒメに無理を言った甲斐があったわね」

「ありがとうリエさん。私、嬉しい」

 ニコッと笑みを見せて礼を言った。

 ニコッとしてリエも返す。

「じゃあ私、今からこの子を送るから」



 そして、このまま皆さん解散するかと思いきや。

「ヒメさん。……その、せっかくのお休みで悪いのですが。わ、私の家まで今から一緒にきてもらっても……いい、でしょうか」

「え……?」

 といったことで。

 女二人それぞれ各々自家用車で移動を開始。

 虎縞福子は、赤いスポーツカー。

 摩周ヒメは、黄緑色のキャデラック。

 陰洲鱒町を出て、町外にある福子の自宅を目指した。

 まずは。

 町のある島から出入りするには、一日約往復十回以上あるフェリーに乗ることから始まる。今日は時間的に夕刻なので、今からの便を入れてあと三回で一日の分は終わる。行きの便の中で、ヒメは考えていた。いろいろとモヤモヤするが、まあとりあえずは自宅に戻った福子は愛用のワインレッドの衣服に着替えるのだろう。そして、私が彼女に貸した服と下着を返してもらうと。多分それだけで終わるのだろう。この“流れ”が自然でしょ。しかし、片道の時間がこんなに長く感じるとは。やがて日も落ちかけたころ、福子の自宅に着いた。

 和風モダンな一軒家だった。

 摩周鱗子から聞いてはいたが、立派。

 駐車は二台分停められる。

 リビング兼食卓に招かれた。

 二〇型の液晶テレビがある。

 濃い赤い薔薇が一輪挿しだった。

 二人は向き合うかたちで濃い紫色のソファーに腰を下ろしている。

 福子の髪の毛はすでに乾いていたが、ブラシを通しただけで襟足をくくっている。飲み物くらいは買っておくべきだったかなと思ってしまうくらい、ヒメにはこの沈黙が長く感じる。福子が姿勢を正した。顔を赤くして目を横に流して切り出していく。

「あの……、私。シャワーを貸してもらっても、その……、落ちないんです。“汚れ”が……。なので……、なので……」

 そして、意を決してヒメに目線を合わせた。

「あなたに綺麗にしてほしいんです。私を抱いてください」

「……え?」

 まさに衝撃。

「あ……。えーと、それって……」

「私、今、あなたとセックスしたいのです」

 頬の赤らみは消えたが、眼差しが真剣であった。

「無理な頼みごととは分かっていますが。お願いします」

 頭を下げられた。

 福子とは戦時中に東京で出会って一緒に工場で働いて、戦後直後から今まで生き抜いてきた仲だ。彼女の男性嫌悪と、同性愛者といったことは昔から知っている。知ってはいたが、いざ、このようなかたちで我が身に遭遇しようとは。私、摩周ヒメも福子は好きだ。仲間として、友達としての好きであって、福子の“それ”とは異なっている。ヒメはもちろん、関係を持ったのは男性のみで、同じ女性とは今まで一度もなかった。しかし、福子の口ぶりからして、彼女は同性との経験がありそうな感じであった。

 私は今、ひじょうに大きな選択を迫られている。

 どうする、私。

 どうする、摩周ヒメ。

 瞼を閉じて、天井を仰ぐ。

 数秒後、正面に戻して瞼を開けて福子を見た。

「分かったわ。あなたの頼み、聞いてあげる」

 摩周ヒメ、人生最大の決意だった。

 これを見た福子は、たちまち明るい顔になったと思いきや、しかめっ面に変わって再び頭を下げていく。

「ありがとう、ございます。ありがとう……、ございます……。ありがとう……!」

「ほら、また泣き出した。もう泣き虫福子って言われなくなったんじゃなかったの?」

 優しく肩に手を伸ばして、ヒメは涙をこらえていた。

「私……、私、“こんな”だから、私……どうすることも、できなくて……」

「“こんな”もなにも関係ない。あなたはあなたよ、福子」

「ありがとう……。私、あなたたちと知り合えて、本当に良かったと思います」

 こう感謝を述べて、ヒメの手を優しく握った。


 そして、虎縞福子は摩周ヒメから抱かれた。

 一度目は浴室で。

 二度目はベッドの上で。

 女二人それぞれの白く細い身体が絡まって重ね合う。

 ヒメから当てられてゆく唇は柔らかくて、全身を優しく刺激していった。あの一方的な肉屋の兄弟人魚とは違って、福子を優しく包み込んでいく。精神的肉体的な“汚れ”が落ちてゆく感覚だった。ヒメの細い指先は、福子を傷つけないように触れて撫でていく。そのようなヒメに対しても、福子はその身体に優しく指先と唇で触れて撫でて応えていった。二人の唇が重なる。福子の唇は薄いが、柔らかくて張りがあった。

 やがて、ことを終えた二人。

 部屋着のワインレッドのTシャツに着替えていた福子。

 彼女に貸していた衣服と下着を畳んでバッグに入れたヒメ。

 玄関を開けて、ヒメを送り出す。

「今日は、いろいろとありがとうございました」

「いいよ。私も初めての経験ができたし」

「私も、素敵な時間をすごせました」

「ふふ。また、みんなで集まって遊ぼうよ」

「はい」

「じゃあ、またね。おやすみ」

「お疲れさまです。おやすみなさい」

 黄緑色のキャデラックに乗り込みエンジンを点けて走らせていくところまで、福子はヒメを見送った。

 外はもう、暗い。

 明日から私たちは仕事が始まる。

 最悪だったけれど、最後は最高の一日になって良かった。


 このあと、摩周ヒメはビジネスホテルに泊まり、翌朝職場へと出勤した。



 4


 潮干リエは勤務中に広報部の磯野マキが無断欠勤していると連絡を受けて、白いワゴン車を飛ばしていた。同僚でもある人魚の“彼女”が、無遅刻無欠勤のマキが昼休みを過ぎても姿を見せていないことが気になっていた。虎縞福子のことも嫌な予感がしていたので、摩周ヒメに携帯電話で彼女の様子を見に行ってほしいとお願いを頼んだ。

 陰洲鱒町行きのフェリーは、昼3時の便がある。リエは中休みを利用して、今日は早退することを会社に告げて自家用車に乗った。埠頭でフェリーを待つ間に、漁を終えてかわりにミドリの面倒を見てくれている舷吾郎に赤子の様子を伺って、今からの用件を告げて電話を切った。

 潮干リエと磯野マキは、長崎大黒揚羽電電工業に勤めている。

 名の通り、ナガサキオオクロアゲハというアゲハ蝶をマークにした電気機器の製造設計販売している会社。リエは設計と製造で、マキは広報部に、二人それぞれ適切な部署で勤務していた。制服は、作業着も事務服もギリギリ黒に見える暗い青色が特徴的であった。作業着も事務服も男性と女性ともにあり、とくに女性用はスラックスも選べる。しかし、リエは膝丈より少し上のスカートをずっと穿いていた。設計した製品の出来具合を見るために工場に入ることもあるので、作業着とヘルメットも使用している。ちなみに、会社のマークをリエは「バトラみたい」と指して喜んだことがある。会社には美しい女性社員がたくさんいるが、その中でもリエとマキは突出していた。だが、磯野マキは生まれも育ちも陰洲鱒町で、当然、深き者と人間の血を引いているが、母親のフナからの血も受け継いでいるために、切れ長な黒い眼と銀色の瞳と首筋に五つあばらに三つのえらといった外見上は“ほとんど人魚”であった。人魚は妖怪である。よって当然のごとく妖術が使えるので、人間との合の子であるマキも“それ”ができた。それは、眼と瞳を逆転させている他に、首筋と肋の鰓を見えなくしているという「世間体の顔」の術である。以前、リエはマキへ“そのような術”を使う理由は何かとたずねたことがあり、すると“彼女”はじぶんは半分妖怪であるという自覚とともに、鏡を見るたびに人間のとは違った自身の異形の顔立ちに対し恐怖と不安と劣等感を感じて「このような顔では世間様に向けられない」と思い、町外では必ずこの妖術を使うと答えた。だが、しかし、潮干リエは磯野マキの美しさは術を使った顔ではなく、人魚そのものの顔立ちにあると思っている。実際、鷺山製薬で働く虎縞福子も、長崎びわ工建で働く志田杏子も、人魚のままで国籍を取得して日本人として生活をしており、その“二人”の美しさは評判であった。純血の人魚である福子と杏子が術を使うことなく堂々としているのに、半人半妖の磯野マキが対称的に“そう”なのは半分“人間”であるがゆえか。

 そのようなマキも、数ヶ月前に油断して術を解いていたことがあり、それは、作業着姿のリエと中休みにコーヒーを飲んで世間話をしていたときだ。リエには妹か姪みたいに見られていて慕われていて、マキもそれを嫌いではなかったため親しく思っていたせいか、その日そのときはなぜか術を解いてしまって珍しく自然の笑顔が多かった。そんなとき、ちょうどその場を中休みで訪れた女性社員が目撃して、マキの本来の顔に最初は息を飲んだが、みるみるうちに見とれてしまったのだ。「マキさん、こっちのほうが綺麗です。でも、悲しい顔しています」と言われたことがあった。リエはこれには驚いたが、その女性社員に「ありがとう。私もそう思うよ。でも、このことは時がくるまで心にとどめておいてね」と返した。当の磯野マキはというと、泣いているかと思いきや、顔中を真っ赤っかにさせていたという。目をうるうるさせて「ありがとう……ございます」と、その女性社員に礼を述べた。

 そして、そのような悪い人ではないマキがどうして母親のフナの悪事に加担しているのかが気になって、リエは不思議に思っていた。多分、弱味を握られて協力をさせられているのだろうとは予測していた。いろんな胸騒ぎと不安とを覚えながら、リエは島に到着した。そして白いワゴン車を町まで走らせていく。


 町中を走らせていると、肉屋の看板が目に入ってきた。

 『野木切精肉店』という、加工と販売をしている店だ。

 あの野木切ブッチャーズと名乗る兄弟二組双子の雄人魚たちが磯野フナの手続きで勝手に始めた店であった。肉屋はもちろん、この陰洲鱒町に昔からある『肉屋の梶木』という、契約している畜産農家から屠殺と精肉加工と販売までおこなっている老舗である。今は、娘の梶木有美が四代目を引き継いでおり、美人店主として長崎のローカル番組でも紹介されたことがあった。有美は、ご先祖が四国か中国地方から長崎に流れてきた武家で抜刀の稲荷一門の派生の不知火一派の使い手でもある。陰洲鱒町民特有の稲穂色の瞳と鈍色の尖った歯は持っておらず、瞳は黒く歯はエナメル質のといった人間のそれであり、それは摩周鱗子と同じ“ほとんど人間”の深き者との合の子だった。そして有美は虹色の鱗を持っていたのだが、若年ながらも本当に強くて、抵抗する度に教団信者と雄人魚たちに深傷を負わせていた。あと、とくに弱味も持っていないため、ある種の無敵の人でもある。そのような過程もあり、『野木切精肉店』は海岸から入ってすぐの目立つ位置に構えてあった。駐車スペースに自家用車を停めて、潮干リエは店に足を運ぶ。それは、嫌な予感がよぎってきたからだ。突然、あの可愛い姉妹双子が心配になった。無断欠勤している磯野マキのことも心配ではあるが、リエの中で「まずは肉屋の姉妹の様子を見に行け」と知らせが入ってきたため。

 ガラス張りの出入口の戸を引いて入ると、ガラス張りの加工した肉の並びと値札の棚、その横にレジカウンター。表には誰も立っておらず。カウンターの後ろの壁にある白い暖簾のれんから血の臭いを感じて、ひと言お邪魔するわねと断って店内の奥へと歩みを進めていった。細く長い板張り廊下を挟んで、左側にはトイレとその先に浴室、右側には二階に上がる階段とその先には上に藍色の暖簾と下に畳が見えた。そこから鉄というか血の臭いがする。そして足をさらに進めたその先は、六畳間の和室だった。箪笥が二つと食器棚がひとつ、真ん中に大きい木製のお膳。その和室の漆喰を塗った壁に、鱏美と鱶美が手を取り合って縮こまって泣いているではないか。畳をよく見ると、パンツが二枚放り投げられたかと思えるかたちで点在している。そして、スカートと下着を剥がされた下半身の太腿の内側に流れる、血を目撃してしまったリエ。思わず目を瞑って拳に力が入り、額と首筋に青筋を浮かべてしまった。怒りの激昂を必死に抑え込み、瞼を開けて双子姉妹の前に片膝を突いて声をかけていく。

「鱏美ちゃん鱶美ちゃん。いったい、なにがあったの?」

「り……、リエおばさん……!」

「しっ……。お店の外に、まだ何人かの気配がするわ。ごめんなさいね。なるべく小さい声で話してくれるかな」

「うん。分かったよ」

 鱶美は頷いて、リエと言葉を交わしていく。

 リエは鱶美の肩に手をやって。

「もう一度聞くわ。あなたたち、いったい“なにをされた”の?」

「い、痛かったよ……! 怖かったよ……! あたしたち、デッカイ雄の人魚から無理やり、無理やり押し倒されて、殴られて、それから……それから……、うう……っ!」

 鱶美の言葉を補完するように、息も絶え絶えな鱏美が口を開いてきた。リエは、鱏美の脇腹からの出血も確認した。

「あいつら、あいつら……。私たちに汚いのを、入れてきたの……! 嫌ななのに、嫌ななのに、無理やり……! 私たちが弱いばっかりに……。悔しいよ……、リエおばさん……!」

「デッカイのの他に、信者たちが、信者たちも……。あたしたちに……! 悔しいよ……。リエおばさん……!」

 姉妹双子の肩を抱いて、涙と怒りをこらえていく。

「あなたたちが弱いだなんて悪くない。女の子に悪いことする奴らが一番悪いのよ。あなたたちはなにも悪くない……。悪くないわ……」

「ありがとう、リエおばさん。デッカイの、鱏美を刺したんだよ……。鱏美、刺されてから、だいたい二時間経っちゃったよ。かわいそうだよ。死んじゃうよぉ……」

「大丈夫。彼女は死なない。死なせない」

 下唇を噛んで、一筋の涙を流した。

 鱶美は言葉を続けてゆく。

「リエおばさん。鱗の女の子は、無事だった、の……? 鱏美も、心配していたんだ」

「ええ。鱗の女の子は無事に逃げ出せたわ」

「良かった、良かったよ。その子のかわりに、あたしたちが……。でも、鱗の女の子“おもちゃ”にされなくて、良かったよぉ……!」

 鱏美が鱶美に続いてきた。

「良かった……。もう、その子たちが“いたずら”されなくて、済む、なら……。私たちで、良かった……」

「も、もう、いいから。もういいから、これ以上喋らないで。あなたたちにされたことが、よく分かったわ……。ありがとう……。本当にありがとう……!」

「うう……っ! 痛いよ……。私たち、リエおばさんたちみたいに、強く、なりたい……」

「なれるわよ。あなたたちなら、強くなるわ」

「ありがとう……、リエおばさん……」

 そう微笑んだ鱏美の目は、かすれて生気を失いかけていた。

 リエは決意して、双子の姉の脇腹に優しく手をかざした。

 緑色の瞳を金緑色に光らせていく。

 すると、脇腹と手のひらの間に青白い光が生まれてきた。

 数分経ち、鱏美の瞳に生気が戻り、刺し傷は塞いでいった。

 やがて顔色も血色は良くなり、呼吸も正常になる。

 そして金緑色の光が消えて、緑色の瞳に戻ったとき。

 リエは顔中に脂汗をかいて、少し青ざめていた。

「よし。これであなたのお姉ちゃんは大丈夫よ」

「ありがとう、リエおばさん。ありがとう……!」

 鱶美はそう感謝して抱きついた。

「もう、鱶美ちゃん。私がしたのは応急処置なのよ。今から海馬みまさんを呼ぶから、そのおばさんにちゃんとしてもらえるから、ね」

「ありがとう、本当にありがとう……!」

 強く抱きしめてきた鱶美を丁寧にはがして、リエは白い携帯電話をスカートのポケットから取り出してかけていく。

「海馬さん。もしもし、潮干リエです。あの、今ねーーー」

 小声で、海淵海馬へと今の状況と事情を話していく。

 携帯電話から耳を離し、片目を瞑った。

 どうやら、電話の向こうの強面美女が怒ったらしい。

「しーっ! しーっ! 気持ちは分かりますが、今、お店の外にまだ数人いるんですよ。お願いします。ーーー良かったら、もし酒屋を今他に任せられるなら、鱏美ちゃんと鱶美ちゃんのために来てください。私からの頼みです」

『分かったわ』

 それから。

「お待たせ、リエ」

 海淵海馬うみふち みまの登場。

 救急キット持参して。

「え……! 可愛い」

 リエの格好を見ての反応だった。

 ギリギリ黒に見える暗い青色のベストと同色の膝丈より少し上のスカートの仕事着の他に、桜模様のヘアバンドと桜色のカッターシャツと極めつけは、桜色のリップを引いていたからだ。海馬みまはリエの仕事着姿を見るのは初めてだったりする。職場や営業先や他の一般大衆からは、よく美人だの可愛いだのと言われる。嬉しいことは嬉しいが、親しい友人から同じこと言われるのは恥ずかしさと照れは格別であった。というわけで、リエは後ろ頭を掻いて恥ずかしがりながら話していく。

「ごめんなさい、お店があるのに呼び出してしまいまして」

「いいのよ。事情を聞いたら、それどころじゃなくなったから、飛ばしてきたわ」

「ありがとうございます。応急的なことは私ができるだけしました。あとは、看護経験者のあなたが最適だと思ったので、あとは頼みます」

「奴ら、酷いことするわね。というか、リエ、あなた早退してきたの?」

「はい。仕事仲間のマキちゃんが、心配になって。無断欠勤したことがない”彼女”が、今日は会社に出てきていないんですよ。なにか酷い目にあっているのかもしれません」

「そっちのことは分かった。双子ちゃんは私に任せて、あなたはマキさんのところに行きなさい」

「はい。本当に、ありがとうございます」

 そう頭を下げて、移動しようとしたとき。

 裏口の戸が開く音を聞いた。

 それから、男の声が聞こえてくる。

乳母うばさん、凄いよな。あの双子をやったあとはマキさんをやりに行くんだって? 鱏三郎さんと鱶四郎さんは、マキさんの次はどこだっけ?」

「虎縞……福子とかいうどえらい美人のところって言ってた」

「そら羨ましいな。“おこぼれ”俺たちにくるといいな」

「そうだよな。まあ、今はあの双子に続きをしよう」

「だな。俺たちでもあの子たち押さえることできるしな」

「じゃ、俺からいかせてもら…………!」

 裏口から入ってきた、スポーツ刈りの男の教団信者、絶句。

 三メートル以上先に潮干リエが仁王立ちをしていたからだ。

「おい。今のは本当か?」

 これは、リエが発した言葉だ。

 みるみる血の気を引かせていくスポーツ刈りの教団信者。

 リエ、青筋を浮かべて再確認。

「今のは本当かと聞いているんだよ」

「ええっと……。ーーーやっべ! お前たち! 例の金髪女がい…………!」

 踵を返して逃げようとした男の背中に、リエの足刀が決まった。

 裏口の戸ごと破壊して、スポーツ刈りの教団信者を店から吐き出した。ブロック塀に顔と腹を強打した上に、戸とのサンドイッチになって気絶。片膝を突いて着地したリエは、顔を横に向けたら、茶髪の男の教団信者を発見。立ち上がり、茶髪男に声を投げていく。

「お前たち、女の子になにをしたのか分かっているのか?」

「なにをって……その。制裁してやったんだよ、オバサン」

 瞬間、リエのタックルが入って、茶髪男は受け身すら取れずに転倒した。後ろ頭をもろに打ったが、土を柔らかくしていた双子姉妹のおかげで命を拾った。命を拾ったが、リエから馬乗りになられて胸ぐらをつかまれていた。そして、リエの下ろした拳が茶髪男の顎を破壊して、教団信者の男は気を失った。殴り下ろした姿勢のまま、残りひとりの教団信者が逃走するのを見て、悔しさに歯を食いしばるリエ。

「この……、ハエどもが……!」

 そのとき。

 逃走したはずのロン毛男の教団信者が吹き飛んできて、ブロック塀に後ろ頭と背中を強く打ちつけてお尻から落下した。これに驚愕して、リエは思わず口を開けてしまった。肉屋の白い外壁の角から、黒くて長身の影が姿を現してきた。ブラックメタリックのライダースーツを着た、長身の美女が歩いてきて、すでに意識を飛ばしているロン毛男の教団信者の股間を踵で蹴り落としたのだ。冷たい眼差しで見下している。馬乗りのまま、リエは声をかけていく。

「誰かと思ったら、有美ちゃんだったのね」

「あ。リエさん。お疲れさまです…………てか、お仕事はどうされたんですか? バックレてきたんですか?」

「…………。いや、事情があって早退してきたら、コイツらが悪いことしていたから」

「シメてやってたんですか。まるで元ヤンみたいですよ」

「元ヤンって……」

 頬が痙攣してしまう。

 有美と呼ばれたライダースーツ姿の女が、腰まである黒髪を揺らしながらリエへと歩いてきた。

「ここのお店の双子ちゃんの話しを聞いていたので、鱗子さんの脱出のあと様子を見にきてみたんです。そしたら、なんだか良くない有り様のようですね」

「良くない有り様よ。鱏美ちゃんと鱶美ちゃんは今、海馬さんから看てもらっているから心配ないわ。私はちょっと今から、マキちゃんのところに行くから」

 そう言って、茶髪男から下りて再び店内に戻り、拳に付いた教団信者の血を洗い流していく。リエにも男性嫌悪は持っていたが、虎縞福子ほどではない。ほどではないが、やはり拒否の対象である教団の男性信者の血は気持ち悪い汚物と一緒であった。しかめっ面で、吐き気を堪えた顔をして流し台で手を洗ってゆく。

 洗い終えたのち。

「気持ち悪い…………」

 こう心の底から呟き、流し台に手を置いてうなだれる。

 だいいち、潮干リエは夫の舷吾郎以外の男は受け入れ難い存在だった。口を尖らかせてひと息吹いたのちに、肉屋の六畳間に戻る。そこには、海淵海馬の他に、先ほどのブラックメタリックのライダースーツ姿の長身美女がいた。

 ハンカチで手を拭きながら、ライダースーツの女に話す。

「ありがとう、有美ちゃん。気になってきてくれたんでしょ」

「ええ、まあ。同じ肉屋としてもあの姉妹は気になっていたので」

 この低音ボイスが魅力的なバイク乗りのブラックメタリックのライダースーツ姿の長身美女は、先に紹介した陰洲鱒町の老舗の肉屋の四代目跡取り、梶木有美である。抜刀術の稲荷一門の派生の不知火一派の使い手。腰まである黒髪をハーフアップのポニーテールにしていた。

「じゃあ海馬さん、ここは任せました。私はマキちゃんのところに行きます」

「ああ、いってらっしゃい!」

 相変わらず気持ちよく送り出してくれる美人だなと感謝ながら、リエは白いワゴン車に乗り込み、エンジンを噴かして磯野マキを探しに向かった。



 5


 磯野マキの自宅は、夫のマスを含めた磯野一家とくらしている家とはまた別にある。リエたちと並ぶ齢百を超える彼女は、戦時中から戦後直後は工場で働き、途中GHQによる財産没収の目にあったものの、その後は現在に至るまで働いてきた稼ぎと貯蓄があったため、人生の謳歌はそれなりにしていた。しかし、それも風向きが変わってしまったのは、島の金鉱脈の採掘のピークを過ぎて七十年代のオカルトブームに入ったときだった。磯野フナが勝手に蛇轟だごん秘密教団を立ち上げてしまったのである。一番初めは、ここの陰洲鱒町いんすますちょうと島の歴史を町長の摩周安兵衛に代わって観光客できた者や出張で長崎市にきた者などに教えていたが、やがてそれは、将来に不安を抱えた大学生たちや人生に悩む者などを迎え入れた所謂いわゆるサロンという心の拠り所を作って、規模を徐々に大きくしていき、巨大化して、鱗山を削ったあとに仰々しい石造りの教団施設を建ててしまったのだ。“やぐら”が建立されたのも、これと同時期だった。勝手に名を使われた摩周安兵衛ましゅう やすべえは当初は怒ったが、町長の過去を見ていたか知っていたか、お前の人殺しの件は黙っておいてやるから、来る者は拒まずで信者を受け入れてやれと脅しをかけていた。そして、安兵衛の姪である摩周虹子ましゅう にじこを生贄に捧げるよう切り出してきたのだ。虹子は虹色の鱗を持っていた大変美しい女性であった。切れ長なやや吊り上がった目が特徴的な、ほぼ左右対称の造形の顔立ち、縦長の瞳孔に黒い瞳、腰まである艶やかな黒髪。百七〇センチの身長は当時は大きい女と言われていたが、この町では当たり前であった。白く細い身体に生える虹色の鱗。そして、外見上は“ほとんど人間”に見える深き者との合の子であったこと。町民特有の鈍色に尖った歯ではなくて、エナメル質のヒトの“それ”であったのも大きい。そしてそれは、その容姿は、現在の海原摩魚うなばら まなにまで受け継がれている遺伝的な特徴でもあった。

 そのように美しい虹色の鱗を持った摩周虹子と親しかった磯野マキは、彼女が生贄に捧げられる前とあとのときに大泣きした。虹子とは同じバイク乗りの仲間であった以上に、ほんの少し恋心も抱いていたからだ。東京で空襲に遭いながらも共に工場で働いてきた潮干リエや摩周ヒメたちとも親しかったが、虹子に対する思い入れは恋心もあったため格段に違っていた。よって、マキは心の拠り所を失うこととなる。人魚と人と深き者の間に生まれたという特徴を持ったマキは、もうひとつ大きな特徴を持っている。それは、涙腺があるといったこと。マキは人魚の容姿でありながら涙を流せるのだ。対して、妹の磯野カメは人の血を引いていながら人魚の遺伝が姉より強いせいで涙腺などなく、人魚の従来通り泣くことはできるが涙は出ない側であった。よって、より人の血を強く引いている“ひ弱”でもあったマキは、妹のカメからも弱い者と見られていた。

 摩周虹子が生贄に捧げられたのちに、磯野マキは母親のフナとカメに協力をさせられることになる。入婿と称して、フナが勝手に引っ張ってきた男、マスとの結婚もさせられたのもこの時だった。好かない男との関係には嫌悪をしめしていたが、実の母親のフナからお前は一族の“穢れ”として生まれたことに恥を感じたことはないのか?と迫られて、マスに渋々抱かれた。虹子に恋心を抱いていたことを知られていたことが、大きな弱味となっていたようだ。


 そうして、磯野マキの“自宅”に着いたので、白いワゴン車から下りて様子を見ていく。駐車場には大型バイクが二台停めており、ヤマハとホンダ。彼女のバイク好きは、リエたちは昔から知っていた。玄関に鍵が掛けられていることを確認したあと、庭へと回り込み、裏口の戸にも鍵を掛けられていた。小窓から中の様子を見るが、人の気配はまったくしないようだ。マキの携帯電話にかけてはみるも、やっぱり出ない。まさかと思ったリエは、再び白いワゴン車に乗り込み、今度は教団施設へと走らせた。

「こんにちは。潮干リエです」

「こんにちは。ご用件は?」

 教団施設の出入口ゲートの警備ボックスで警備をしている女の教団信者へ用件を伝えていく。

「こちらにいる磯野マキさんにお会いしたいのですが。いらっしゃいますか?」

「その方でしたら、つい二時間前にこちらにうちの者たちと来られましたよ。施設内のどこに行かれたかまでは分かりませんが」

「それだけで充分です。ありがとうございました」

 意外とあっさり通してくれた。

 どこから見つけてきたのか、警備ボックスの女教団信者は美しかった。そんな引っかかりも感じつつ、だだっ広い駐車場に白いワゴン車を停めて施設の玄関に足を運ぶ。その駐車場の中に、赤いスポーツカーと黄緑色のキャデラックを発見。福子とヒメの車だ。そして、玄関はというと、高さ二五〇センチ以上にもなる堅い木製の扉の両側に、物々しく雄人魚が二体槍を立てて構えていた。身の丈百九〇センチくらいの大柄な二体。尖った歯を見せて口角を上げ、黒い眼を好色に歪めてリエを見下げてきた。これに対して、黄金色こがねいろをした髪の毛の美女は、動じないどころか上目遣いで睨み付けていく。

「磯野マキさんにお会いしたいのですが。通してくれますか」

「お前、潮干リエだな。磯野フナさんからことは聞いている。長女のマキにでも会いにきたのだろうが、“ただ”で通してもらえると思っているのか?」

「は? なにそれ? 私、町民なんだけど。施設の見学すら許してもらえないの? あり得ないんだけど」

「町民も一般人も“ここ”は関係者以外立入禁止なんだよ。入りたければ、俺たちに奉仕することを約束してもらおう」

「はあ?」

 最後の品性皆無な言葉に、思わず目を見開き青筋が浮いてしまう。握り拳に力が入っていき、歯を食いしばる。そして目を瞑り、怒りを呑み込んでいく。

 ニッコリと笑って雄人魚二体を見上げた。

「そう? お口でしてあげたら良いのかしら」

「それ良いな。お前の歯は尖っていないしな。さぞ気持ち…………っ!」

 リエの膝と肘が雄人魚の股間と鳩尾に入り、呼吸困難にさせて倒した。そして反対側に立つ雄人魚の喉を掴んで、指を立てていく。

「“友人”に会いにきました。通してください!」

「ど……、どうぞ……! いらっ……しゃい……!」

「ありがとう」

 指先に力を入れて、絞め落とした。

 雄人魚は力なく膝から崩れ落ちる。

 目線に気づいて後ろを向くと、警備ボックスの女教団信者が拍手のあとに親指を立てて笑顔を見せていた。お礼とばかりにリエは手を大きく振って返す。二つのノブを外側に回して、建物の内側へと開けて足を踏み入れた。再び扉を閉めて、磯野マキを探しに向かった。

 石造りの教団施設内部は、両側に大きな石の円柱がいくつも並んで、その壁も石というか岩を四角に加工しているのを積み上げていた。電気も引いてあり、やや薄暗いか。岩の天井と壁の角にも電灯が各々付けてあるので、夜には全部を点灯するのだろう。あと、壁の中央にも電灯が付けられて並んでいる。天井までの高さはかなりある。目測、四から五メートル辺りか。潮干リエは、教団施設内部に入るのは初めてだった。よくまあ本当にここまで無駄に仰々しく建てたものねと内部にある各部屋へと左右に目配りしながら、奥に足を進めていくと、上下に分かれている石造りの階段に突き当たった。数秒ほど考えたのちに、上の階を目指す。他の教団信者たちは寝ているのか、祈りを捧げているのか、人の気配すら皆無で薄気味悪かった。誰かが行き来くらいしていれば良いものの、活気すら感じず、冷たい建物である。上りきったところで、次の階が見えたので先へ足を進めていく。『磯野フナ』と書かれた看板の鉄扉を目にして立ち止まり、気配を探っていくも感じるには至らなかったのでその先へと足を運ぶ。次は『摩周ホオズキ』とある大きな鉄扉に目を止める。“彼女”は、教団が嫌いな人であり、夫の摩周安兵衛とは相思相愛の仲良し夫婦で、摩周ヒメはその愛娘であった。そして、潮干リエの育ての親でもある。だから、嫌いな場所に居るわけがないし居たくもないから、夫婦仲良く自宅にいるはずだろうと。少し微笑み、再び足を進めて目的の名前のある部屋を探してゆく。すると、奥の方から何者かの移動してくる気配を感じて、脇道の角に身を隠して様子を伺う。薄暗い石造りの通路の奥から現れてきた者は、まるで老婆のように顔中に皺を刻んだ巨体な雄人魚であった。しかしこれは、前にも見たことあるような。あ!と声をあげそうになり、とっさに手で口を塞ぐ。

 ーうっそ?! あのババアみたいな雄人魚、双子だったの? あの教団のヘタレどもが言っていた「乳母」って、あいつのことかな。海馬みまさんに倒されてそれっきりだと思っていたけれど……。ーー

 そうして、脇道を通過していく巨体が、ふとそこに目を向けた。

 誰もいない。

 この乳母と呼ばれている雄人魚は、乳母次郎。

 海馬に殺されたのは、乳母太郎と言う。

 誰もいないと判断した乳母次郎は、足を進めて階段に向かった。

 ババア雄人魚が階段を完全に下りたとき、金緑色の光りが二つ灯り、脇道の景色を左右に裂くかのように潮干リエが姿を現した。女の目付きは鋭くなっていたが、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせていった。

 ー私がここで暴れても、なにも始まらないし意味もない。私がここまで来たのは、マキちゃんのためよ。ーー

 そう冷静を取り戻して、乳母次郎が出てきた奥へと行ってみた。

 どんだけデカいし広いんだよと思いつつ進めていったその先には、上に行く階段が。そしてその横には、『磯野マキ』と書かれた看板の鉄扉を発見。ノブを静かに回して隙間を作り、気配を伺おうかとしたそのとき、鼻をつくような吐き気を催すような“むせる”ものを感じて、しかめっ面になり、口と鼻を手で塞いだ。さっきのデカい奴は、ここから出てきたのか。正直、あまり良いものではない臭いである。男性嫌悪を持っている潮干リエにとって、これは不快極まりない臭いだったからだ。赤の他人の、しかも男の体液がろくに掃除すらされておらず、溜まりに溜まって放置されて腐ったかのような不愉快さだった。リエも過去に痴漢被害に遭ったことがあり、それは、独身のころにスカートの腰のあたりに男の白い体液をかけられていたこと。トイレで洗い流しはしたが、臭いと不快感は抜けず、泣いたことがある。相思相愛な舷吾郎のは別にして、不愉快さ相変わらずの臭いだった。さすがにこのままではどうしようもないので、気力を振り絞って鉄扉を開けていくと、殺風景な部屋の真ん中あたりにベッドがひとつあって、その上には女が白く細い裸を晒して力なく横たわっていた。黒く長い髪の毛は身体の線にそって被さり、腰に垂れている。気力を感じない顔の半分ほどを前髪で隠れて、薄い唇は細い隙間を開けていた。切れ長な細い目は、黒い眼に銀色の瞳。首筋に五つあばらに三つのえら。人魚の雌であった。しかしこれは、私の知っている“人”だ。私の同僚でもあり、長い時間と年代を生き抜いてきた仲間。

 間違いない、“彼女”は。

「マキちゃん!」

 駆け寄って上体を抱え上げた。

 聞かなくともなにが起こったのか、なにをされたのかは全て分かった。磯野マキは、雄人魚と教団信者たちに陵辱されて慰み物にされていたんだ。

「ごめんなさい! 私、あなたがこんな目にあっていたなんて知らなくて! マキちゃん、ごめん! ごめんね!」

 頭を胸元に抱き寄せて、潮干リエは声をあげて泣き出した。

「私、今まで気づかなかった! ごめんね!」

 歯を強く食いしばり、嗚咽を交えて涙を流す。

 リエの腕の中で意識を取り戻したのか、マキは目線を上げて、黄金色の頭髪の女の頬を優しく撫でて言葉を発していく。

「ありがとう……。探しにきてくれたんです、ね……」

「そうだよ。あなたが心配になって、ここまで来ちゃった」

「嬉しい……」

 こう力なく微笑んで、手がベッドに落ちて意識が飛びそうになる。しかし、そうはなりたくないと、マキは手を突いてみずから身を起こしていく。髪の毛はボサボサで前髪は顔の半分を隠しているまま、立ち上がろうとするが、幾人と数体からもてあそばれたその身体は、疲労の限界に達していた。なんとか立てそうだったところで、足元がふらついて、爪先立ちから前に転倒しそうになったところを、リエから支えられて肩を貸してもらった。部屋中に目を配り、マキにたずねる。

「マキちゃん、あなたの服は? 今日出勤するはずだったら仕事着があるはずなんだけど……?」

「…………。そこら辺に……、散らばっていないかしら? 乳母……次郎と、鱏三郎と……鱶四郎たちが、破いて捨てちゃった……。やめて、駄目って言った、のに……。わたくし、あなたと会社に行け……なくなった……」

「そんなことないよ。私が言って、支給してもらうよ」

 泣き腫らした目のリエに、小さく微笑みを向けた。

「わたくしの、ために……泣いてくれて……。わたくしの、ために……来てくれて……。あなたのこと、ますます好きに、なりそう……」

「そう? なら、嬉しいな」

 マキに笑みを向けたあと、幸いそこにあったパイプ椅子に彼女を座らせて、新しいシーツまたは薄い掛け布団を探していたところ、背中に「キレイなシーツなら、そちらのクローゼットに、畳んであるわ……」と受けてそこを開けてみたら、言葉通りに洗濯したてのシーツが数枚畳まれていた。上から二番目の一組を取り出して、バサッと音を立てて広げる。次は、パイプ椅子に腰かけていた美しい裸の“女性”を巻くように肩からかけてあげて、再び肩を貸して立ち上がり、“二人”で部屋を出て歩いていく。

「あ。そういえば」

 あとひとつ、重要なことを思い出した。

 来た道を戻ろうとしたところ。

「マキちゃん、ごめん。福子のいる部屋ってどこかな?」

「あー……。多分、下の下の下の階……」

「そこに行けば良いんだね」

「いや、待って……。リエさんが、来てくれる前に、そこから大きな音が聞こえてきて……。女の人の怒鳴り声も、聞こえてきて……。あれは、ひょっとしたら……、ヒメさん、だったかしら……」

「え? 本当?」

「わたくしは、そうだと思います」

「ヒメの部屋ってどこか教えて。お願い」

「良いですよ」

 ふふっと笑って肩を担がれながらリエをエスコートしていった。


 そうして。

 コンココ コンコン コン コン

 と、ノックする。

「誰?」

 声でもう、美女だと想像がつく。摩周ヒメだ。

「潮干リエでーっす」

「はいはい」

 楽しそうに鉄扉を開けてくれた。

 黒髪の美女の顔を見て、ひと安心したリエ。

 歯を見せて。

「ごめんなさいね。せっかくのお休みだったのに、呼び出しちゃって」

「本当、人使いが荒いんだから。ーーーなんてね。いいってことよ。私たちの仲じゃない。おかげで無事に福子を助けられたし」

「良かった良かった」

「そういえばリエ、あなたが担いでいる人ってまさか……」

 隣に裸の女を発見して、鉄扉を大きく開いたヒメ。

「そう、マキちゃんよ。ーーー“彼女”ね、ずいぶん酷い目にあっていたみたいなの」

「ど、どんな?」

 眉を寄せて強ばる。

「雄人魚と教団信者から“おもちゃ”にされていたのよ」

「……は?!」

 ヒメの顔に青筋を確認。

 見逃さないリエ。

 相変わらず、仲間のためなら熱くなる娘だなと感謝はするが、ここは抑えてもらわないといけない。ヒメをなだめて話を続ける。

「まあまあ聞いて。私ね、今からこの子と双子ちゃんを傷つけたアホの根性を叩き直しに行こうかなーって思っているわけよ」

「双子ちゃんって、まさか」

「鱏美ちゃんと鱶美ちゃん。間に合わなかったわ。あの子たち、無理やり男を教え込まれていて酷かった。その実行犯をマキちゃんも入れて“三人”に聞いたら、双子ちゃんはバカデカイ雄人魚と、この子には肉屋の三男坊と四男坊がバカデカイのと組んでいたそうよ」

「あ……。あのアホの肉屋、私が殺しちゃった」

「え……? マジ?」

「マジです」

 引きつった笑顔で驚くリエに、ヒメは真顔で返してきた。

 まるで、そういえばそこのゴミなら出しておいたわよ的な。

 少しだけ間が空いたあとに。

「ザマァ……」

 微妙な笑みを浮かべて、磯野マキが小さく発したのだ。

 これに驚いて、リエとヒメは目線を送った。

 いつの間にか、福子も加わっている。

「私もそう思います」

 無事だったようだ。

「あ。福子」

「リエさん、ありがとうございます。気にかけてくれて」

「胸騒ぎが当たったのは残念だったけれど、あなたが無事で嬉しいよ。ヒメに無理を言った甲斐があったわね」

「ありがとうリエさん。私、嬉しい」

 ニコッと笑みを見せて礼を言った。

 福子は相変わらず素敵なだなと思い、ニコッとしてリエも返す。もうひとりの親しい友達の無事も確認したし、やることはやれた。あとは。

「じゃあ私、今からこの子を送るから」

 マキの頭を撫でながら、リエは別れを告げた。

 摩周ヒメの部屋から離れていく中で、福子の声で「今日のリエさん、可愛かったですね」のあとに、ヒメが「仕事着のあの子は可愛いのよ。今度、あの桜色のリップどこのか聞かなくちゃ」と返しているのが聞こえてきて、リエは頬を赤くして嬉し恥ずかしだった。堅い木製の観音開きの玄関を開けるとき、マキにその身体にシーツをバスタオルみたいに巻いていてとお願いしたのちに、両手で大きめに開けて二人一緒に施設の外に出てきた。両側から睨まれる視線にビクッとしたリエは、手刀を上げて、先ほど倒した二体の雄人魚の門番へと声をかけてあげる。

「お疲れさん。頑張っているようだね。その意気その意気」

 まるで他人事な口振りだ。

 門番の二体は、悔しげに恥ずかしげに顔を変えて、リエから視線を外した。瞬殺されたことが、よっぽど効いたらしい。悪い気はしない二体の反応に、ニッコニコなリエはマキを肩に担ぎながら白いワゴン車まで移動して、彼女を後部座席に寝かせて、エンジンをかける。出入口ゲートまできて、再び警備ボックスにいる女の教団信者に話しかける。

「お疲れさま。用は済んだから、帰るね」

「お疲れさまです。後ろの方、大変そうですね」

「ええ。後ろの子、大変な目にあっていたのよ。というかあなた、ここの信者には見えませんね。どちら様?」

「分かりました? 私は契約で雇われている、警備員です」

「……え? ど、どこの? どこにそんなコンパニオンみたいにビジュアルの高い警備員がいるの? てか、そんな会社あり得るの?」

「私たちの会社には、綺麗どころをそろえていますよ。お気に召されたなら、ぜひお電話ください」

 と、名刺を渡されて受け取り。

「ふむふむ『㈱長崎紫陽花警備』ね。へえー、初の女の子ばかりの警備会社なんだ」

「はい。主に、施設警備と身辺警護をしています。あとは、イベントに出たり。要人のパーティーではコンパニオンに紛れて警護していたり」

「頼もしい会社ね」

「頼もしい会社ですね」

 リエの場合、頼もしい会社という意味合いが違ってくる。

「じゃあ、お疲れさま」

「はい。お疲れさまです。お気をつけて」

 美人に見送ってもらえて、収穫もあって。

 あとは磯野マキを自宅に送り届けるだけである。



 6


 そうして、ようやく磯野マキの“自宅”に到着した。

 もう、すでに日も落ちかけている。

 スモークグレーがかかった薄暗い青空に、紫色と灰色が混ざり合った雲が流れていた。マキの駐車場に白いワゴン車を停めて、車内から肩を抱えて一緒に下りて、鍵の場所を聞いたのちに玄関を開けて中に入る。板張りの廊下を挟んで、右側に八畳間のリビング兼食卓、反対側には二階に上がる階段と台所と浴室とトイレと物置き部屋こと倉庫が二つ並ぶ。我が家に送ってもらえて、その空気を浴びて安心したのか、マキは「ありがとう、リエさん。おかげで、わたくし歩けるようになりました。今からシャワー浴びますので、そっちで寛いでいてください」と感謝を述べて促した。

「じゃあ、お言葉に甘えまして。胡座かいてていい?」

「どうぞ、お好きに」

 許しを得たので、鼻唄を歌いながら座布団をお膳から引っ張り出して胡座あぐらをかいてひと息ついた。それから、自身の勤務先へと電話をかけていく。報告、連絡、相談は業務の基本。広報部の上司から、明日まで磯野マキさんを休ませても良いとの連絡を受けて、浴室にいる彼女に伝えに向かう。

「マキちゃん。あなた明日までお休みして良いって」

「そうですか。ありがとうございます」

 シャワーの音に紛れて、マキの声が礼を述べた。

 そのような中で、二人の空気をぶち壊す気配と足音に気がついて、リエは表に出てきた。するとそこには、巨大な影が立ちすくしていた。身の丈八尺、二四〇センチの巨体を持つ老婆のような顔立ちと顔中に皺を刻んだ雄人魚。エプロンなんかも着けてやがる。巨体の雄人魚へと視線を上下に走らせたのちに、目付きを変えたリエが切り出していく。

「乳母次郎さん、だったかしら」

「うへへへ。そうだよ。よくご存知で」

 と、世紀末救世主アニメの二又ボイスで得意気に返してきた。

「お前さんの車を着いてきたら、ここにたどり着いたのさ」

「嘘つけ。教団施設にある住所登録を見ればこれるじゃない」

「うへへへ。よく分かったな」

「うへへへ」

「うへへへ」

「うへへへ…………って! やかましいわ!!」

 と、乳母次郎に向けて力強く指をさす。

「あんたが今日、マキちゃんと双子ちゃんになにをしたのかバッチリ聞いたからな! 肉屋のアホ兄弟とカルト信者たちと組んで、寄ってたかって女の子をレイプしやがって! お前ら徒党を組めないと女ひとりも抱けないのかよ! なーにが制裁だ! 単なる強姦じゃねえか! あんたが幾つか知らないがな、私たちは戦時中戦後直後と女たちが酷い目にあってきたのを見てきたんだよ!」

 潮干リエの怒りに火が点いた。

 指をさしたまま乳母次郎に近づいていく。

「そんな目にあった女の子を助けられたこともあったけどな! 助けられなかったときも多かったんだよ! 間に合わなかったときの私たちの気持ちが分かるか? 分からねーだろ! 私は今日はめちゃくちゃ悔しいんだよ! 福子は間に合ったけれど、マキちゃんと鱏美ちゃん鱶美ちゃんは私じゃ助けられなかったよ! 今の私は私が嫌いだよ! 大っっ嫌いさ!」

 指差しから拳に変わり、青筋が浮いていく。

 自身の過去と無力感に怒りが溢れて、涙すら出ない。

「私知らなかったよ! マキちゃんがずっとあんたらに慰み物にされ続けていたなんてさ! じぶんが恥ずかしいよ! こんな私の気持ちなんて、あんたには分からないよな! ただ突っ込んで白子出すだけのあんたらにはな!ーーーぶっ殺したいよ! 殺ろうと思えばあんたら雄人魚とカルト信者どもを私の“力”を使って、皆殺ししてやれるんだよ! あんたも一昨日見ただろ、突風。本来なら、“あんなもの”じゃ済まさねえぞ! でもな! 私の友達と好きな人たちが居るからできなかった、しなかったんだよ!」

 睨んでいた顔をうつむかせて、拳と声を震わせていく。

「“家”を出てきて、ここで育って良かったと思っていたのに……。町のみんなと仲良くできて良かったと思っていたのに……。マキちゃんたちと友達になれて良かったと思っていたのに……。あんたらが町にきてから、何もかも変えたんだよ! なんだよ、虹色の鱗の娘って! 赤紙招集となにが変わらないんだよ! 鱗の女の子たちは特攻隊じゃねえんだぞ! ただ鱗が生えているだけじゃないか!」

 そして、緑色の瞳が金緑色に光りを放ちはじめた。

 拳の力を弛めて、声のトーンが低くなった。

「もう、いい。あんたになにを言ったって一緒だし変わらない」

 次は、風もないのに腰まである黄金色の髪が持ち上がってゆく。

「殺るのは戦後直後以来、久しぶりになるわね」

「お、お前さん……! なにをする気だ……!」

「今から出す私の“技”も、陰洲鱒の女たちの技も、目撃者がいないものになるわ。敵対していた目撃者に限るけどね。見た瞬間に“はい、さようなら”よ」


「ここからは、わたくしの出番ですわね」

 いつの間にか、リエの隣にマキがいた。

 ベージュのカッターシャツにジーパンにスリッパという、いかにもな自宅で活動する格好であったが、長身スレンダーで美形なマキが着ていると、ファンションに見えてしまう。シャワーを浴び終えて、ブラッシングも済ませて、様子を見ていた中で、リエがこれから何かを繰り出そうかとしていたところを遮るように表に出てきたのだ。黄金色の髪の毛の女に目を流して少し見たあとに、反らして頬をほんのり赤くして切り出す。

「リエさんのお気持ちが知れて、わたくしは感謝しています。酷い目にあってきた人たちに対する気持ちも、あなたと同じですわ。あと、悪いですが、せっかくのありがたいお説教も、このような雑魚には寝耳に水ですわよ。頭の中身は子孫繁栄以外のことは考えたことすらなさそうですしね」

「マキちゃん。言うねえ」

 動揺を見せるリエ。

 それに笑みで返すマキ。

「今の“ひ弱”なわたくしには、乳母次郎さんはピッタリのお相手です。リエさんは、もっとお強い相手が向いていますわよ。今あなたが出そうとした技は、“とっておき”にしておいてください」

「隠し球にしてってことかしら」

「そうです。雑魚にお使いになるのは勿体ないですよ」

「そ、そうかなー。じゃあ、そーしようかな」

 照れて後ろ頭を掻く。

 リエの頬を手の甲で撫で下ろすマキ。

「そうなさった方がよろしいかと」

 愛しい人を見るようにリエに微笑みかける。

 で。放置プレイだった乳母次郎、律義に待っていたが。

 とうとう痺れを切らしたか。

「お前さんたち。いつまでくっちゃべっている気だい? やらないならアタシからいくよ!」

 その言葉に対し、マキが乳母次郎を睨んだ瞬間。

 八尺ババア雄人魚の眼を、黒く細いものが横切った。

 思わず、踏み出した足を止めてしまう。

 マキは乳母次郎に顔を向けたあとに、身体も向けた。

「わたくしには出来なくて妹のカメに出来ることがあるように、カメが持っていない物をわたくしは持っています」

 マキの銀色の瞳が、金色に光り出した。

「それは、陰洲鱒の女たちの“技”」

 風も吹いていないのに、腰まである黒髪が持ち上がってゆく。

 間合いは、だいたい三メートルと少し。

 乳母次郎はリーチで届く距離だが、マキは無理だ。

「あなたは大切な人。離れていてください」

 リエに手を突きだして、腕一本分の距離を避難させた。

 そして、マキの黒髪が乳母次郎をめがけて振るってきた。

 直後、八尺の大柄な雄人魚は、あっという間に細かいサイコロ状に全身を切断されて、その肉片を車道まで散らしたのだ。

「本当。見た瞬間に“はい、さようなら”ですわね」

「マキちゃん! 凄い!」

 目をうるうるさせて興奮しているリエ。

 マキは嬉しそうに振り向き、歩み寄って。

「これは、お母様もカメも使うことができません。一家では、わたくしだけです。家族の誰にも知られていませんよ」

「もう、最っっ高! かっこいいよ!」

 リエが飛びついてきて抱きしめた。

 マキも、彼女の頭を抱きしめていく。

「リエさん。わたくし、これから家族に対して“お芝居”をし続けていこうと思っていますのよ。従順になった振りして、時期がきたら裏切ってやります。お母様を欺いて、仕返しをしてやります」

 その決意を耳にしたとき、リエは身体を離してマキの両肩に両手をやった。

「本気なのね。長いわよ」

「覚悟の上です。わたくしは人魚ですが、それ以上に陰洲鱒の女ですよ。あと、女はいくつもの“顔”を使い分けますわよね。わたくしも女です。使い分けてやりますよ」

「…………。失うものもあるわよ」

「それは……。承知の上です」

 下唇を噛んで涙をこらえた顔になる。

 これ以上失いたくないが、それができなくなる。

 マキにも他に親しい人たちがいる。

 これから先、ますます関係が疎遠になるだろう。

「わたくしには、リエさんが……、あなたたちがいてくれるだけで充分すぎます……」

「分かったわ。ありがとう。頑張って、マキちゃん」

「……はい」

 このままお別れといきたかったが。


「くっっっさ!」

「なんですの! これ!」

「ちょっと待ってちょっと待って! 気持ち悪い!」

「オシッコの臭いですわね!」

「無理無理無理! もうダメ………………!」

「ちょっとリエさん! 人の庭で吐かないでくださる!」

「死ぬ…………。私、死ぬ…………」

「海に投げ捨てましょ! 海にな………………!」

「マキちゃん! ダメ、せっかく洗ったあなたの髪の毛にゲロ付いちゃう!ーーーあ……。付いちゃった」

「死ぬ…………。わたくし、死ぬの…………?」

「うええ……。なんでコイツ、小便臭いのよお!」

「小麦粉を持ってきました。小麦粉かけましょ! 小麦粉!」

「え? 唐揚げにしてコイツ食うの?!」

「違いますよ! 臭いを抑えるんですよ!」

「なんでもいいや。近くが海で良かった」

 それから、美しい女二人はゲーゲー吐きながら乳母次郎“だった物”をガードレールから近くの海岸線へめがけて“その辺の海”にへと投げ捨てていった。一仕事を終えた二人は、顔面が蒼白していた。血糊で濡れたアスファルト道路も、半分ほど赤くペイントされていたので、アンモニア臭に嗚咽しながらも頑張ってデッキブラシと洗剤でなんとか洗い流して元に復旧させたのだ。縁側で仲良く並んで頭を抱える二人。

 息も切れ切れに、マキは少し落ち込み気味。

「最悪……。わたくしも切断されたら“あれ”なんですか?ーーーショックーー……」

「白子頭の他に、小便身体かよ……。最悪……」

「信じられない。わたくし信じられない。人魚の肉を食べたがる方々が信じられませんわ! 気が違っているとしか思えませんわよ!」

「くそー。雑魚のクセに、最後の最後でいたちの最後っ屁かましやがって……!」

「鼬の“おなら”はまだ可愛いほうです」

「あー、くそー。乳母次郎、とんだ生物兵器だわ」


 そして、二四年の月日が流れていった。



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