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二四年前 摩周鱗子の脱出 後編

 皆さんは、パロディは好きですか?

 僕はスキデス。


 1


 場所は再び。

 浜辺銀はまべ しろがねと野木切鱏一と鱶二の対峙している岩山に移る。

 ゆっくりと肉屋の双子に向き合う、しろがね

「自己紹介も終わったみたいだけど。どうしたの? オバサンが怖いのかしら?」

 薄笑いが浮かんでいた。

 これに逆上したのか、鱶二ふかじは青筋を浮かべてノコギリサーベルを振り上げてかかっていく。

 ヒュッと小さな音がしたと思ったら、鱶二の目の前を銛の切っ先が横切っていった。危機を感じ取って、反射的に踏みとどまったおかげで、両目を切断されずにすんだ。片膝を突いて先を確かめると、銛の両端を持って上段に構えていたしろがねの姿が。しかも、半身になって次の攻撃へと準備万端である。

 ー馬鹿な。俺たちとの距離は三メートルはあるはずだぞ! 届くわけがなかろう。いったいなにをしたんだ、あの女!ーー

 一瞬の出来事に焦りを見せる鱶二。

 長物を肩に担いで、弟のもとに歩み寄ってきた鱏一えいいち

「鱶二よ。勝てばよかろうなのだ」

「そうだな鱏一よ。勝てばよかろうなのだ」

 兄から勇気づけられて、弟は立ち上がってゆく。

 この兄弟愛あふれるやり取りを見ていた銀は、鼻で溜め息をついて構えを解き、腰に手を当てて銛を岩肌に立てた。

「あのさ、ボクたちねえ。決断の遅い鈍い男子は女子たちに嫌われるよ。今からオバサンがハンデをあげるから、いい加減はじめてちょうだいね」

 そう睨み付けながら、女は大股で三歩ばかり間合いを詰めてきた。

「これでどうかな」

 ようやくニコッと笑顔を見せた銀。

 瞬間、顔の横からノコギリサーベルが振られてきた。

 銛をバトンみたいに回して弾いた。

 数回左右に振って銛をバトンのように回したのちに、後ろにやってわざとらしく左手を突き出して腰を落とし半身に構えた。

 一見いっけん、おちょくっているように見える。

 が。本当に、おちょくっているのである。

 二体一緒に挑めば勝てると判断した鱏一と鱶二は、同時に踏み出して長物を振り上げてきた。二つの方向からランダムにくる刃の軌跡を、しろがねはわずかに身を引いてかわしていった。そして次は、銛をクルクルと回して二つのノコギリサーベルを弾いていく。隙を突いたと思った鱏一は女背後に回り込み、袈裟を狙って一撃を振り下ろした。

 鱏一は、手元を叩き落とされ。

 顎を叩き上げられた。

 そのまま身を翻した女の突きが鱶二の下腹部を刺した。

 あっという間の三連撃。

 前後の敵を難なく殴りつける。

 泡を吹いて身体を「く」の字に折って鱶二は意識を失った。

「ぐぅ……、ちきしょう……! 女ぁ! 弟をよくも!」

「なによ。相手にならないじゃない」

 鈍色の尖った歯を剥き出して、不満を浮かべた。

 そんなとき。

 着信音が鳴り響いてきた。

 銛をポイッと鱏一に向かって投げ捨てて、スカートのポケットからシルバーカラーの携帯電話を取り出して開き出てみた。

「はいはーい、杏子ちゃん。なになに? どうしたの?」

 明るい笑顔で電話の相手に話しかけていく。

 間一髪で投げ捨てられた銛から身をかわした鱏一は、電話中だろうと隙だらけなら手段など関係ないので、ノコギリサーベルを切りつけていった。

 彼は、勝てばよかろうなのだ。

「うんうん。そう、良かったわね渋滞解消されて」

 ニコニコしながら銀は鱏一の斬撃を次々と避けてかわしていった。しかも、電話を楽しみながら。

「へえ、それ良いじゃん。杏子ちゃんも打ち上げに来なよ」

 海岸の岩山という極めて不安定で危険な足場の悪い場所にもかかわらず、浜辺銀は楽しそうに志田杏子と電話で会話していた。もちろん、相手の神経を逆撫でする行為というのもしろがね自身は分かっていたが、力量と技術があまりにも違いすぎて正直勝負にならないのであった。

 そんなこんなでも、やけくそになればなんとやらで。

「があああああーーーっ!!」

「え? もうすぐ着く?」

 女の上体を下から肩にかけて斜め上に軌跡が走った。

 反射的に身を反らしていたせいか、無傷ですんだが。

 携帯電話を上げて猫のような目を開いて自身の状態に驚きを見せる。

 右の乳房の下の膨らみから左側の胸の鴇色ときいろの先端が顔を出してしまった。ブラジャーも上着と一緒に切り裂かれた。少し後ろ飛び退けて、鱏一に背を向ける。切っ先を女の背に向けて構えるが、踏み込めない。背中を見せていても隙がなかったのだ。

「ごめんねー、杏子ちゃん。あたし、馬鹿の相手してあげているところなんだ。まだ用件があったらリエかうしおさんにかけてね」

 そう言って電話を切る。

 胸元を両手で隠して、歯を食いしばっていく。

 目は血走り、顔と首に青筋が浮かんできた。

 笑顔が完全に消え失せてしまった。

 背を向けたまま、後ろの肉屋に話しかけてゆく。

「ねえ、鱏一くんさー」

 声の調子だけがいつもと変わらないのは、怖い。

「女の子のお洋服引き裂いて楽しい?」

 クルッと振り返ったその顔は、いつもの銀の笑顔だった。

「あ? そりゃ楽しいに決まっ……!」

 皆まで言わせるか。

 顔面、胸元、そして右フックを顎に。

 鮮やかに拳を叩き込んで、鱏一から意識を奪った。

 仰向けに倒れて、岩肌に背中と後ろ頭を強く打ちつけた。

 裂かれた箇所を両手で隠して、肉屋の雄人魚を見下し。

「キッショ……。脳味噌まで白子かよ……」

 怒りを含んだ呟きを終えたあと、尾叩き山行きのバス道路へと足を運んだ。


 再び場所は。

 黄肌潮きはだ うしおが野木切鱏三郎と鱶四郎と対峙している岩山。

 野木切鱏三郎のこぎり えいさぶろう鱶四郎ふかしろうは同時に突進してきて、ノコギリサーベルを振るってゆく。これにうしおは後退するかと思いきや、双子の間に入り込んで片脚を軸にして、膝を鱏三郎の腹に、踵を鱶四郎の腹にと、一度で二発打ち込んだ。蹴りを食らいはしたものの、それぞれ後方に飛んで片膝を突いた。

「オバサンから坊やたちにハンデだ」

 黄肌潮は、目線を正面にしたままボクシングの構えをとった。

 鱶四郎がフルスイングで女の胴体を狙ってきた。

 脚を上げて膝で防いで肉屋の首に腕を巻く。

 そして跳ねて、もう片方の膝を肉屋の雄人魚の顔に叩きつけた。

 腕を首に巻いたまま、脚をグンと伸ばして鱏三郎の顔を蹴って。

 鱶四郎から離脱して岩山に着地した黄肌潮。

「ぐうう……。なんだ、今のは……」

「あの女、一度で俺たちに攻撃してきたぞ……」

 肉屋の兄弟人魚は驚愕していき、頭を振る。

 だいたい二メートルの間合いをとって、黄肌潮が構えていく。

 猫のように拳を前にして、膝を上げた。そして下ろす。

「お前、ボクシングだけではないな」

 うしおの構えを見た鱏三郎は、黒い眼を吊り上げた。

「オバサン、ムエタイも得意なんだ」

 女はそう言って、口角を上げて鈍色の尖った歯を見せた。

 鱶四郎が雄叫びをあげてノコギリサーベルを振るっていく。これに鱏三郎も続いてきた。突いてきた二つの切っ先をバック転して距離をとり。振りかぶってくる数々の刃の手元を肘でさばいていき。鱶四郎の胸元に肘を当てて距離をとった、その刹那。黄肌潮は跳ねて身をひねり、飛び後ろ蹴りを鱏三郎の喉に食らわせた。そして着地してすぐに間合いを詰めて、鱶四郎の胸と腹に両拳を叩きつけた。肉屋の三男は息を詰まらせて泡を吹いて倒れて、その四男は呼吸機能を一時的に不能にされてうつ伏せになり、それぞれ気を失った。黄肌潮は膝を上げて残心をとり、左右に目を配る。数秒後、構えを解いて腰に拳を当てて仁王立ちになり、うしおはつまらなさそうに呟いていった。

「マジかよ……。本当に相手にならないじゃないか……」

 本当に無傷で見張りと刃物を持つ相手を倒してしまった。

「……リエんとこ加勢しに行こうかな?」

 こう独り言を呟いたのちに、黄肌潮は尾叩き山行きバス道路を目指した。


 そして場所を尾叩き山行きバス道路に戻る。

 潮干リエは、鱏美と鱶美が振るってくるノコギリサーベルを次々と避けて、8の字移動などを繰り返していた。しかし、この肉屋の姉妹の振り回してくる刃に、ぎこちなさ不器用さを感じていたリエだった。刃を振り回すというよりも、どちらかと言えば刃に振り回されている動きである。ときどき、切り下ろす度に「おっとっと」と転けそうになることが見受けられた。姉妹の顔は紅潮して脂汗をかいて、息を切らして、疲労も目立ってきたようだ。

「ぜぇ……ぜぇ……。ちょ、ちょっとタンマ……」

「ハア……ハア……。待って待って……、もう、無理……」

 やがて刃先をアスファルトに突いて汗を垂らしてしまう。

 リエは、これには困った顔になる。

 同時に不思議に思ったから話しかけてみた。

「オバサン、気の毒になっちゃった。あなたたち、なんでこんなことしてんの? もっと他にやりたいことっていっぱいあるんじゃない?」

 そう言って肉屋の姉妹に近づいた。

 この言葉を聞いて、鱏美の顔はたちまち半べそになる。

 鱶美もこれに続いて思いを詰まらせた顔を見せていく。

 二体は一緒に手元からノコギリサーベルを道路に落として、ペタンと座り込んだ。

「あ、あたし、こんなことしたくないよ!」

「あたしも人様に刃物振り回したくないよぉ!」

 そして、思いのたけをぶちまけていく。

「見張りのせいでお客さんが来なくなっちゃったあ!」

「兄ちゃんたち、遊んでばっかで仕事はあたしたちなんだよ!」

「もう人様が切り殺されるとこ見るのヤダよぉ!」

「兄ちゃんたち、あたしたちの前で鱗の女の子を“おもちゃ”にするんだよ! 見たくないのに、見たくないのに、フナさんたちが逃がさないんだよ!」

「なんで鱗の女の子たちをいじめるのぉ! あたしたちも町の女の子たちと仲良くしたいのよ! 休みの日は、オシャレして一緒に食事して遊んで友達がほしいよ!」

 これらを聞いていた潮干リエの顔は悲痛になり、涙を浮かべた。

 姉妹は訴えを続けている。

「あたしたち、殴る蹴るなんてしたくない! できないし、したくない! ただ精肉をしていきたいんだ!」

「わああああん! もう嫌だよぉ! 女の子たちが“かわいそう”だよ!」

「うわああああん! 普通に仕事して遊んで生活したいよ!」

「もう嫌だよぉ! もう嫌だよぉ!」

 殴る蹴るができないという点に引っかかり、リエは姉妹に聞いていった。

「鱏美ちゃん鱶美ちゃん。あなたたち、格闘することができないの?」

 涙は出ないが、クリッとしたアーモンドアイを指で拭いながら、鼻をぐすぐすいわせながら、鱏美がこたえていく。ひっくひっくと喉も鳴らしていた。

「あ、あたし、たち、肉は切る、けど……、そんな、人を殺す刃物の、振り方、知らないし……、知りたくないもん……!」

「あ、あたしたち、精肉は、できるけど……、殴る、蹴るの、体力なんて、ないもん……!」

 これは不味いことになった。と、リエはそう思った。

 良い意味でも悪い意味でもである。

 人魚の“しきたり”は厳しいと虎縞福子と志田杏子から昔聞いていた。彼女たち“二人”だけ特別な個体だと思っていたし、福子と杏子も自身だけは一族では異質だと自覚もしていた。いたが。二人以外にも、こんなに身近にいたとは。人魚の年長者のフナから見たらこの双子姉妹は“穢れ”の存在だったはずで、先の証言からも鱗の娘が兄たちから“おもちゃ”にされてゆく様を見たくもないのに、フナが力を使って姉妹を逃げられない状況に置いてその様を無理矢理見せていた。いわゆる「一族の裏切り者に対する制裁」という名の虐待をすでにしていたというわけだ。この双子姉妹は、人魚の一族から見ると、異種族に溶け込もうとする者と“ひ弱”な者に当てはまる。

「おいで」

 愛おしくなって、つい手を広げてしまったリエ。

「わああああん! オバサン!」

「うわあああん! オバサン!」

 姉妹一緒に飛びついて大泣きしだした。

 よしよしと頭を撫でていく。

 すると。

「あんた、なにやってんの?」

「加勢しにきてみたら、まあ……!」

 浜辺銀と黄肌潮が両側で立ちすくしていた。

 ちょっとばかり焦る潮干リエ。

「いや、あの、これは、その……」

「なに? この双子ちゃん人魚?」

 黄肌潮の問いかけにリエは。

「人魚は人魚なんだけれど、どちらかと言えば、福子と志田ちゃんに“似ている”タイプなんだ」

「それは不味いなあ……。ーーーあ、いや。私たちは歓迎するけれどね」

「フナ婆さんが許さないかもねー」

 うしおの返しにしろがねがこのように続いてきた。

「まあでも、こんなに良い子ちゃんだったら、あたし協力してもいいな」

 そして、鱏美の頭を撫でて微笑んだ。

「できる限りだけのことはしてあげたいわね」

 黄肌潮も鱶美の頭を撫でて乗ってきた。

 双子の姉妹はそれぞれに顔を向けて半べそで笑みを見せる。


 そうして、遠くカーブの先から多数の足音が聞こえてきた。

「鱏美ちゃん鱶美ちゃん、“二人”ともあのバス停に避難していてね」

 リエからの促しに、双子姉妹は頷いて屋根付きのバス停にへと向かった。



 2


 再び“やぐら”に戻る。

 あれからだいたい約十分ほど経ったくらいか。

 海淵海馬うみふち みまの踏み込んだ指示により下にいるのを有馬哲司ありま てつじを想定して腰を前後に動かしていた摩周鱗子ましゅう りんこだったが、声があがるのが恥ずかしいからみずから手で口を塞いで目を詰むって続けていたら、海馬みまの腕をギュッと握ったと思ったその次、顔を紅潮させてビクッビクッと大きな痙攣を見せた。

「んんん……!」

 とうとう堪えきれなくなって声をあげてしまい、海馬みまの腕と胸元にうなだれかかってしまった。白い肌は桜色になり、身体は汗ばんでいる。息を小さく切らして黒い瞳を潤ませていた。鱗子の身体になにが起きた理解していた海馬みま。虹色の鱗を持つ美しい娘に向けた眼差しは、極めて優しいものであった。

「鱗子ちゃん、あなた……」

「少し……、休ませて……くだ、さい……」

 床板にペタンと座り込んだ。

 そして、海馬みまは鱗子の細くて白い腕をとる。

「鱗子ちゃん、ちょっとごめん。今のうちに福子特製の注射打つからね」

「そう……でした、ね……」

 鱗子は瞳を潤ませたまま微笑んだ。

「少し、ちくっとするわよ」

 海馬が針のキャップを外して、青く浮き出た血管に刺しこんでゆく。

 緑みのある黄色い液体が虹色の鱗の美しい娘に入っていった。

「はい、終わったよ」と、針を抜いてスカートのポケットにしまいこんだ。打たれた箇所を揉みながら、鱗子は不思議そうに微笑みを浮かべた。いまだに、身体は火照りを覚えているので、頬が赤らんでいる。

「これで私、スーパーパワーが付いたんですよね」

「ほんの一瞬だけだけどね」

 笑顔で鱗子の頭を撫でながら、海馬みまはひと言を返した。

 ふふふと笑ってみせたかと思えば、すすり泣きに変わり、今度は海馬みまの胸元にすがりついて両肩出しの上着の襟を強く握りしめていった鱗子。

「私、本当は哲司さんと離れるなんて嫌! 摩魚とも離れるなんて嫌! あなたたちとも離れてしまうことも嫌なの! 本当は、本当はみんなと一緒に暮らしたい……!ーーーなんで……、なんで、こんなことになっちゃったの! 早く、早く町が元に戻ってほしいよ! そしたら私……、私、絶対この町に帰ってくるわ! 絶対帰ってくるから!」

 そうしてついに、声をあげて大きく泣き出していった。

「私も……、私たち町のみんなも同じだよ……鱗子ちゃん」

 そう声をかけた海馬みまは、鱗の娘を優しく抱きしめていく。


 それから数分が経過して。

 “やぐら”の扉を開けて出てきた摩周鱗子の目は泣き腫らしていた。

 通常、“つらぬき”の儀式を終えたら虹色の鱗の娘が単独で生贄を捧げる岩山までの階段を下りていく流れになるので、鱗子もそのように従って一歩一歩下りていく。その間にも、その桜色に染まった白く細い裸体は、各焚き火に立つ教団信者と雄人魚たちの好奇と好色の目に晒されていった。やがて階段を下り立ち、捧げる岩山に到達した鱗子の両脇には、右に司祭姿の摩周ヒメ、左に普段着の着物姿の磯野フナの二人に挟まれているかたちになる。先ほどまでクソ暑さに脱いでいた“なんらか”の深海魚の頭蓋骨を金で覆った冠を再び被り、手のひらサイズの純金の塊のピラミッドを片手に持ち、ヒメは鱗子へ目線を送った。そして、鱗子もヒメに目線を送り返した。美しい女どうしの、アイコンタクトである。改めて海中を確かめるために目を下にやったヒメは、頬を痙攣させてしまう。そう、それは、磯野一家の殿方が全員が全員、四人が海中で待機していた姿を見たからだ。フナの夫の波太郎、入婿のマス、長男のカツ、マスと長女マキの息子のタラ。彼らも深き者との交配した末に遺伝を受け継いだ者たちで、魚と人を混ぜた顔立ちが特徴的だけではなく、海中での活動もヒトより長い時間できることもあった。海中の殿方たちの顔は口角がいやらしく上がり、露骨なまでに好色を表していた。

 ーこの……! この脳ミソ白子どもが!ーー

 怒るな。というのが当然無理である。

 怒らないほうがオカシイ。

 鈍色の尖った歯を食いしばって青筋が浮かぶ。

「ヒメさん! ヒメさん! 顔! 顔!」

 そう小声で呼びかける鱗子に気づいた。

「あ、あら、私ったら」

「美人がもったいないですよ」

 こんな美しい女二人のやり取りに少々苛ついていた磯野フナ。

「お前たち、なにを遊んでいる」

 これに対し、聞こえない範囲で舌打ちしたヒメと鱗子。

「もうすぐ夜中になるぞ。あとはこれだけなんだから、早く蛇轟様に捧げなさい」

「わかっていますよ」

 と、目を剥いて語気を強めにして返したヒメ。

「……怖」

 さすがの人魚の磯野フナも恐怖を覚えた。

 そしてようやく、ヒメは黄金のピラミッドを両手に持って天高く掲げて、呪文というか召還の文言を紅を引いた麗しい唇から吐き出していった。

「ヰア! ヰア! クトゥルフ・フタグン フングルイ・ムグルウナフー・クトゥル……、あ……!」

 本当の本当に手を滑らせて、純金のピラミッドを海中へと垂直に落としてしまった。大きな水の王冠を作って飛沫をあげて沈みこみ、待機していた波太郎の脳天に直撃した。哀れ波太郎は気絶。水死体のように背中から浮かび上がってきた。仰天したフナは、当然のように激昂していった。

「おい、ヒメ! お前人様の旦那になにさらすんじゃ!」

「わざと! じゃない、です!」

 目を見開き尖った歯を剥き出して顔と首筋に青筋を浮かべて、ヒメはフナを向いて力強く主張した。

「お……、おおう……。分かったよ。わざとじゃないなら仕方ないな……」

 美人司祭に圧倒されて、人魚の老婆は視線を外した。

 そんなフナをしり目に、深呼吸をして意を決した鱗子。

 隣に立っているヒメの頬に軽くキスをして微笑んだ。

「ありがとうヒメさん。私、この町に絶対帰ってくるね」

「ええ。待っているわ。いってらっしゃい」

 こう微笑み返して、鱗子の腰を軽くポンと叩いた。

「いってきます」

 と、両手を突き出して暗い海中にへと飛び込んでいった。

 生贄を捧げる岩山から海面まで、引き潮のときでも十メートルはあり、満ち潮でも八から七メートルというなかなかの飛び込み台でもである。そのような一般人でも恐怖を覚える高さを、なんら気にすることなく、摩周鱗子は海面をめがけて突き出した両手の指先を矢のごとくして、飛沫をあげることすら起こさず綺麗に美しく海中に潜り込んだのだ。暗い海中で小さな泡が軌跡となり、Uの字を画いて鱗子は白く細い裸体の体勢を立て直した。そのあと、気絶した波太郎をのぞいた磯野一家の残りの殿方が鱗子を目指して泳いできたのだ。もちろん、彼らは拉致して“お客”に売る前に楽しむためである。だが、そうは問屋が卸さない卸したくない、卸してたまるかと意を固めていた鱗子は、男三人が接近してくる前に意識を集中して、拳を振るうことを決めた。

 その直後。

 鱗子の瞳が虹色に光り輝いたと思ったら。

 脹ら脛、太腿、腰回り、あばら、乳房の両側、肩甲骨、下腕二の腕、両肩、首筋。と、下から順に美しい虹色の鱗が現れて光りを放った。虹色に発光している瞳を流して、身をひねり、近づいてきたマスの胸と鳩尾へ両拳を叩きつけて、お次は反対側からきたカツの顔に肘打ちして間合いを確保して、双掌打を両胸に打ち、最後は正面から迫ってきたタラの顔を狙って、海中で身を捻って両足を突き刺した。あわれ、磯野一家の殿方三人は気絶。その隙を突いて、摩周鱗子は海中漂うカツを押しのけて泳ぎ出した。虎縞福子特製のビタミンドーピングが利いているため、海中で常人以上のスピードを出して泳ぐことができるのだ。だいぶん生贄を捧げる岩山から距離をとれたところで、こちら向かって近づいて泳いでくるダイバースーツ姿の龍宮紅子を発見。すると、特製ドーピングの効力が切れたのか、口から大きな泡を吹いた。鱗子の元に着いた紅子は彼女の白く細い身体の腰に腕を巻いて顎を指で持ち上げると、口づけをして空気を送り込んだ。続いてシュノーケルを渡して着けさせて、一緒に泳いでいく。有馬哲司の乗る小舟を目指して泳いでいった。


「虹色の鱗の娘を逃がすな。捕まえなさい」

 磯野フナが各焚き火の横にいた教団信者と雄人魚たちに指示を出した。その命に従って、連中は銛や槍を手にして走り出した。



 3


 時間は前後して。

 摩周鱗子ましゅう りんこが生贄を捧げる岩山に下り立ったとき。

 島に笛が鳴り響いてきた。

 尾叩き山行きバス道路に潮干しおひリエと浜辺銀はまべ しろがね黄肌潮きはだ うしおが集まっていた。バス停には、野木切鱏美のこぎり えいみ鱶美ふかみを避難させている。リエは浜辺銀の上着の裂けに気づいて、白いプリーツスカートを裾から上に約十センチ前後の幅で破いていき、ソバージュの女の右胸から左の袈裟にかけて巻いて結んだ。

「はい。かっこ良くなったとは言えないけれど、両手が使えるようになったからマシになったんじゃないかしら」

 親友にだけ向ける最高の笑顔でリエは話した。

 膝上約十センチになり、脚と膝を露にした黄金色の髪の女を見た浜辺銀は思わず頬を赤らめ。

「あ、ありがとう……。ごく自然だったからびっくりしちゃった」

「短いスカートのリエも可愛いじゃない」

 ニコニコした黄肌潮が後ろからリエの肩を抱いてきた。

「あら、ありがとう。嬉しい」

 笑顔で軽く手を合わせて、うしおに振り向く。

 ーうっわ! かっわいい!ーー「ま……、まあ、イチャイチャの続きは打ち上げに持ち越しとしよう。そろそろカルト教団の皆さんがお近づきになるぞ」

 不意に見せたリエの可愛さに赤面するが、同時にバス道路カーブの先から聞こえて接近してくる教団信者と雄人魚たちの多数の走ってくる足音にも注意を向けた。リエから応急処置的に飾られた白いプリーツを“うっとり”とした顔で嬉しそうに指先で触ったり撫でたりしていた浜辺銀も、乱雑な群れの接近に我に返り、クリアーオレンジ系の口紅を引いた唇を開く。

「今からメインイベントでも始まるのかしらね」

「さっきの肉屋は歯ごたえがなかったからねえ」

 鈍色の尖った歯を見せて、黄肌潮は手のひらに拳を軽く打ちつけた。

「見て、カルト教団御一行様のお出ましよ」

 なんだか嬉しそうに指をさした潮干リエ。

 はしゃぎ具合がまるで二〇代の娘みたいだった。

 そして、とうとう遂に、蛇轟秘密教団御一行様の群れが三人の女の前に姿を見せた。みんながみんな、銛と槍を構えている。町外の信者も町民の信者も雄人魚も、皆さん仲良く共通の武器を持っているのが可笑しい印象を受けた。おまけに、全員が男または雄である。

「むせる……」

 リエの開口一番がこれ。

 しろがねが続く。

「キモ。いったいいままでどこにあんな数隠れていたのよ」

「うっわ……。野郎ばっかじゃん」

 うしおも便乗してきた。

「連中なん“匹”いんのかね」

「ざっと見、六〇かな」

 と、うしおの疑問にしろがねは返した。

 言いたい放題である。

「非常事態の笛だ。暴れ回っていたのはお前たちだな! 教団の許可がおりたぞ! 取り押さえてしまえ!」

「奴らが仕事に出られなくなっても構わん! タコ殴りにしてしまえ!」

「素手でも油断するなよ! 女だろうが関係なく殴り倒せ!」

 声をあげてお互いの士気を高めて合う教団信者と雄人魚たち。

 この様子を見ていた黄肌潮。

「はよさっさとかかって来んかい」

 半ギレである。

 そんな稲穂色の髪の毛をした美人の肩を軽く叩きながら、リエはなだめてきた。

「まあまあ。雑魚でも群れて仲良く武器を持っている以上は、殴る蹴るにも限界があるでしょう」

「確かに、面倒ではあるね」

「だろうと思ってね。今から、私がその手間を省いてあげようかなって」

「どうやってよ?」

「まあ、見てて」

 そうニコニコしながら一歩前に出て、リエは緑色の瞳を金緑色に光らせていった。すると、たちまち身体の中心から左右に裂けるように景色に溶けていく。そして、瞳の光りも消え失せた。要するに、潮干リエは透明化してしまったのだ。

 ちょっと言葉を失っていた浜辺銀と黄肌潮だったが。

「なにをしたの?」

「これって、リエの特異体質なの?」

 そんな美人二人をよそに、カルト教団の群れの中から突然に教団信者のひとりが何者かに持ち上げられて横に振られて、数人の信者と数体の雄人魚を吹き飛ばした。次は、雄人魚が信者数人を巻き込んで前方に飛び出して転倒し、武器を浜辺銀と黄肌潮の足下に転がした。

「ラッキー。サンキュー、リエ」

「あんがとね。助かるわあ」

 二人とも実に嬉しそうに銛と槍を拾い上げた。

 顔を見合せて微笑み合った二人は、まるで少女みたいである。


 教団信者と雄人魚の群れを突き抜けた先で、金緑色の二つの光りを見たとたんに、黒鯛みたいに恰幅かっぷくのいい雄人魚が声をあげていく。

「いたぞおおおおおおおおお! いたぞおおおおおおおおお!」

「うおおおおおおおおおおお!」

「ちきしょおおおお! 出てこい! くそったれええええええ!」

「うてええええええええ! 殺せええええええええ!」

 数は先ほど減らされたものの、数に物は言わせているわけで。

 銛と槍を全員が全員、敵がいるであろうその方向に飛ばしていった。全ての刃先がアスファルト舗装に突き刺っている。よって、手持ちを皆さん仲良く捨ててしまったのだ。

 恰幅のいい雄人魚。

「見た」

「なにを?」

「見たんです」

 どこかで見たような雄人魚と教団信者とのやりとりを、まさに割って入るかのように、景色を左右に裂いて白いシャツに白いプリーツスカートを着た黄金色の髪をした長身の美人が姿を見せていった。

「ばあ」

 教団御一行様に、おどけてみせた潮干リエ。

 そして群れの先に銛と槍を持っている浜辺銀と黄肌潮のもとへと、集団を割くように堂々と真ん中を歩いて二人のところに戻ってきた。両手を後ろに組んで微笑んでくる。次は片手を“どうぞ”の形で差し出して。

「上の“お掃除”はしろがねうしおさんに任せるから、私は下の“お掃除”をしてくるわね」

 と、最後は自身を人差し指でさした。

 まるで大掃除の分担を指示しているよう。

「さあ、ラストスパート頑張ろう!」

 そう張り切り、道路の端まで駆けて行って、ガードレールに手を乗せて下へと飛び降りていった。

「よーし! 明日は打ち上げだ。頑張ろう!」

「頑張ろう! 頑張ろう!」

 黄肌潮と浜辺銀はそれぞれの武器を構えて、迎え撃つ準備を整えた。



 4


 時間は戻り。

 龍宮紅子りゅうぐう べにこは裸の摩周鱗子ましゅう りんこの腰を抱いて庇いながら、海中を泳いでいた。そんなさいちゅうにも、紅子と鱗子をめがけて多数の銛と槍が海中へと投げ入れられていった。海中で、紅子は脹ら脛まである髪の毛が纏わり付かないように襟足でくくっていた。手加減を知らないのか、または手加減ができないのか、海中に大きな泡を立てて打ち込まれてくる数々の銛と槍は殺意の塊であった。それぞれの刃が二人を通過していく度に、紅子をダイバースーツごと切っていく。それは脹ら脛、肩、二の腕、あばらなどに至った。

 ーいたっ!ーー

 紅子は顔を強くしかめて、思わず大きな泡を吹いてしまった。

 脹ら脛に銛が貫通してしまったからである。

 しかし、幸い鱗子が無傷だったので、安心してそのまま泳ぎを続けていく。陰洲鱒町のある島は、もうとっくに通過したはずだ。あとは、志田杏子しだ あんこが船舶免許持ちの彼氏を連れて、小舟で愛娘の摩魚まなを連れた有馬哲司ありま てつじたちと落ち合うだけであった。鱗子を愛しの旦那から“お持ち帰り”してもらうまで、あと少し。


 尾叩き山行きバス道路のガードレールから片手で海岸沿いの岩山に飛び降りた潮干リエは、海中を通過していく龍宮紅子と摩周鱗子を確認した。しかし、飛び降りたと言っても、高低差は三〇センチどころではない。しかも、真下にではなく大きく斜め下に、尾叩き山行きバス道路の下にもまた別に螺鈿岩行きバス道路が引いてあるので、ゆうに十数メートル以上は斜め下へと飛び降りなければならないわけで。それをリエは難なく涼しい顔で、音を小さく立てるていどで軽々と岩肌に着地した。武器を構えて投げて走ってくる数々の教団信者と雄人魚たちを見た直後、リエは微笑みを完全に消して、怒気をはらんだ目付きにへと変化した。

「よくも……紅子を傷つけたわね」

 すると、再び緑色の瞳が金緑色に光りを放っていき、今度はどこからともなくリエの背後から風を生み出していった。

 それは、錯覚だったのであろうか。

 突然として、リエの後ろに蛸とも烏賊ともつかない、またはそれらを合わせた龍のような暗い緑色の怪物が透けた感じで現れた。しかも、ほんの一瞬。だが、それは、磯野フナを含めた教団側全員だけでなく、摩周ヒメも浜辺銀も黄肌潮も海淵海馬も虎縞福子も野木切鱏美と鱶美も、島にいて教団施設周辺にいた者たちだけがリエの“それ”を目撃してしまったのだ。

 教団施設のバルコニーから脱出の様子を見に出ていた福子。

「なに、あれ? 神? 悪魔? まさか、荒神……?」

 後ろの怪物にだけ恐怖を覚えて、リエに対してはなぜか安心感を抱いていた。


「おいおい、リエ。お次はなにをやるつもりだ?」

「あはは。さすが、あたしのリエ。頼もしいじゃない」

 すでに群れの半数をダウンさせていた黄肌潮と浜辺銀は、それぞれ言葉をもらしていく。


 リエは岩山に仁王立ちになって瞳を金緑色に光らせながら、今度は腰まである黄金色の髪の毛を下から生み出した風でゆらゆらと靡かせていき、そしてそれはついに、轟々と巨大な怪物の鳴き声のような音を鳴らしはじめた。

 これの流れを生贄を捧げる岩山から見ていた摩周ヒメは、冠を脱いで驚き、危機を察した。

「やっっっば!」

 そしてその場から用心して下りていき、遮ることができそうな岩影と窪みを見つけていそいそと身を隠した。

 続いて、“やぐら”から一連を目撃していた海淵海馬うみふち みまは上に跨がっていた夫の海蔵から慎重に下りる。

「ん……! こんなことしている場合じゃないわ。海蔵さん、続きは家でしましょ。今からとんでもない事が起きるから、ここから早く逃げるわよ!」

 そうまくし立てて旦那の手を取って、“やぐら”の扉を蹴り開け、一緒に走り出した。

 さらに続いて、尾叩き山行きバス道路で雑魚たちを掃除していた黄肌潮と浜辺銀は手を止めて武器を投げ捨て、両手で頭を庇ってアスファルト道路に伏せた。いまだにバス停で腰を下ろしていた野木切姉妹に、浜辺銀が注意を呼びかけていった。

「鱏美ちゃん! 鱶美ちゃん! 伏せて! 伏せて!」

「え……? 今からヤバいこと起こるの?」

「そうそう! あなたたちも見たでしょ、リエの後ろの“あれ”! 命がけのメインイベントを起こすわよ! 死にたくなかったら伏せて!」

「オバサンがそう言ってくれるなら、本当にヤバそう」

 納得した鱶美が鱏美へと伏せるように促して、両手で頭を庇って同じような体勢になった。

 そんな流れを確認したかしなかったか、潮干リエが瞳の光りを強くしたそのとき、突風が起きて、教団信者たちと雄人魚たちだけでなく“やぐら”もろとも崩壊させて吹き飛ばした。“やぐら”へと続く板の道からギリギリで教団施設へ滑り込んで、摩訶不思議な突風から無事に逃れた海淵海馬と海蔵。海馬みまの背中に覆い被さり、海蔵は妻を庇う。その直後、怪物級の風が教団施設と“やぐら”を完全に切り離した。破壊されてバラバラに散っていく“やぐら”だった物が、次々と海面に落下していく。そうして、キレイサッパリと岩山だけになった。あと、もれなく教団信者たちも雄人魚たちも吹き飛ばされて宙を舞い散って、海面にダイブを決めていったのである。

 岩影に間一髪で身を隠していた磯野フナが、恐る恐る顔を出した。

「いったい、なにが起こったというんじゃ……」

 フナから離れた避難位置の岩影から用心深く顔を出して左右の安全を確かめたあと、岩山に立ち上がった摩周ヒメは見渡していく。

「あはは。すごいすごい!」

 パチパチと手を叩いて喜んだ。

 そして、バルコニーで身を伏せて回避していた虎縞福子。

 恐る恐る顔を上げて立ち上がり、サッパリとなった岩山を見て。

「あはは。すっごい!」

 こちらもパチパチと手を叩いて喜んだ。

 

 黄金色の髪が落ち着いたと同時に、金緑色の光りも消えてもとの緑色の瞳になったリエがひとつ呟いた。

 「これでしばらくは、この町は平和になりそうね」



 5


 いったいどれほど泳いだだろうか。

 暗い緑色の海中の海面近くに、船底を発見した。

 スクリューも確認した。これはボートだと思って安心した。

 船底の横に移動すると、海面に美しい女二人は顔を出していく。

 ひとりはダイバースーツ姿の切れ長な瞳、龍宮紅子。

 もうひとりは白く細い身体は裸で若干吊り目、摩周鱗子。

「ぶは! 志田さん? 志田さんでしょ?」

「はい、志田です! お待たせしました!」

 美しいガテン系人魚、志田杏子のお出ましだ。

 ボートを運転しているのは彼氏である。

 杏子の横には有馬哲司の姿を確認。

 その奥で寝ているのは、赤子の摩魚か。

 それら全てを確かめた紅子は、有馬哲司へと呼びかけていった。

「有馬さんですね! 奥さん、鱗子さんを無事にお連れしてきました! どうぞ“お持ち帰り”ください!」

「れふりひゃん! わらり、わらりやっらろ! わらりやっらろ!」

 紅子から手首を引かれた鱗子のその顔は、嬉し涙で溢れていた。

 福子の指摘していた通り、呂律が回っていない。

 そして、哲司は杏子と一緒に妻の手首を引いて船体に上げてシーツを身体に巻いて抱きしめた。

「ああ! 凄いぞ、鱗子さん! 君はやり遂げたんだ!」

「うれりい! ふぇりろひゃん、ありらろ! みんらありらろ! ふぁら、ありららっらろー! うわーーーーーん!」

 杏子が持ってきた赤子を手にとり抱きしめて、鱗子は泣き出していった。

 その横では涙は出ないがつられて目を指で拭っていた杏子が。

 紅子も脹ら脛の激痛と格闘しながら、流れる涙を指で拭って哲司たちに呼びかける。

「さあ、早く港に戻ってください! 今ならまだまだ間に合います!」

「ありがとうございます! このご恩は忘れません!」

「ありらろ、ふぇりろひゃん! こんろら、わらりらみんらをまろるらら! れっらいまろるらら!」

 大泣きして顔を涙でいっぱいに濡らしながら、鱗子は紅子に今度は私はみんなを守るからと感謝と約束をして手を振って、帰路へと急いだ。

 摩周鱗子。

 後の漫画家の有馬鱗子、二三歳のときのことだった。


 私を含めたリエたちは戦時中戦後と生きてきたが、鱗子は違って平成に生まれた現代っ子だった。これをきっかけに次の世代、次の次の世代と繋いでいければと思った。紅子も鱗子が好きだった。独り身だか彼女を姪っ子として可愛がっていたからだ。そうして、再び涙が稲穂色の瞳から溢れてきた。果たしてこれは、受けた傷の痛みからなのか、鱗子の脱出成功を祝ってのなのか、不快な感情ではないならどっちでも良かった。

 息も切れ切れで島の浜に到着して、紅子は横たわる。

 切り傷は数カ所、それから銛が貫通している脹ら脛。

 陰洲鱒の町民は常人の数倍のスタミナと筋力を有してはいるが、紅子に限っては珍しく今回は疲労していた。鱗子を庇っての泳ぎと、銛と槍とをよけながらもあったからか、精神的な疲労も大きかったようだ。ハアハアと息を切らしつつ、ダイバースーツの首から胸元にかけてファスナーを開けて赤いインナーが見えた。身体が熱を持っていたので、それを少しでも出すためだ。仰向けになり、豊かな胸が上下に動いて新鮮な空気を取り込んでいく。脹ら脛の銛が気になるけど、今は少し休みたいと思っていた紅子。そんな中で、自身を見下げる二つの不快な顔を見たとき、たちまち不快な表情を浮かべた。

「鱶二よ、脱走者を追いかけてきてみたらイイ女がいたではないか」

「ああ、そうだな。こいつはスケベな身体をしている」

 四角い輪郭に彫りの深い黒い眼と銀色の瞳、逞しい首筋に五つの鰓。こいつは間違いなく雄人魚だった。しかも双子。尖った歯を剥いて口角を上げていく。

「虹色の鱗の娘を無事に逃がして疲れているところ悪いが、お前のその身体で我ら兄弟の“うっぷん”を晴らさせてもらうぞ」

「ずいぶん舐めた真似をしてくれたな。我ら人魚を侮辱したらどうなるか、今からその身体に教えてやろう」

 そう言葉を吐いた肉屋の雄人魚こと野木切鱶二のこぎり ふかじが黒い革靴の足で女の肩を押さえて、ダイバースーツのジッパーを下までおろした。赤いインナーは胸までで、腹から下は腰骨ラインの赤色の水着であった。引き締まった腰回りから浮き出る腹筋が、野木切兄弟を“そそった”らしく、手持ちのノコギリサーベルをはだけさせたダイバースーツにそれぞれ左右に突き立てた。浜にダイバースーツの上を縫い付けられて、肩を足で押さえられて、龍宮紅子は身動きができない状態になる。

「これで身動きはとれまい。制裁を受けさせてやる」

 野木切鱏一のこぎり えいいちが口角を歪めた、その瞬間。


 鱏一と鱶二の頭を飛び蹴りで吹き飛ばした二つの影が現れた。

 飛び足刀とも言う。


 鱏一を蹴り飛ばした白い影は、潮干リエ。

 鱶二を蹴り飛ばした銀色の影は、浜辺銀。

 野木切兄弟はあわれ海中に落ちた。

 女二人は片腕を斜め上に上げて片手片膝をついて着地を決めた。

 それはまるで、東映の変身ヒーローばりの格好よさ。

 息の合い方も抜群である。

 そして二人は立ち上がって、砂浜にダイバースーツを縫い付けていたノコギリサーベルを引き抜き、肉屋の兄弟双子が落ちたであろうと思う地点に向けて投げ捨てた。

「燃えないゴミ、持って帰ってね」

「ちゃんと分別してちょうだいよ」

 言葉による追い討ちを欠かさない、潮干リエと浜辺銀。

 次は、リエ膝上約十センチのところからさらに約十センチ上がったところから同じ幅で白いプリーツスカートを破いて片膝を突き、紅子の脹ら脛に貫通している銛をポキッと折って引き抜くと、先ほど破いたスカートの切れ端をそこに巻きつけていった。

「はい、これで家に帰る分の出血はおさえられたでしょ」

「ありがとう……」

 と紅子は身を起こしてダイバースーツのジッパーを胸元まで上げていく。太ももの半分以上も露になったリエの脚に、思わず目がいく。白く細くて長い脚だった。赤面して戸惑う紅子。

「悪いわね。あなたのスカートを超ミニにしてしまって」

「いいからいいから。今まで一緒に生きてきた仲間でしょ。今さら遠慮しなくても大丈夫よ」

 ニコニコとしてこう返して、リエは紅子に肩を貸した。

「私の白いワゴン、先に停めてあるからあなたの家まで送るね」

「ありがとう、リエ」

 そう微笑んで礼を言う。

「あたしも肩を貸すよ」

 実に嬉しそうに浜辺銀が加担してきて、紅子は友達二人から担がれて自宅まで無事に送り届けられた。そのあと、看護経験があった海淵海馬が紅子の家に救急キットを持ってきたときのこと。

「きゃあ可愛い。なんでミニスカなの?」

 付き添っていたリエの姿を見た反応だった。


 さあ、明日は鱗子が脱出成功したのを祝う打ち上げだ。


 以上これは、二四年前の母親たちの出来事であった。




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