二四年前 摩周鱗子の脱出 前編
1
二四年前の出来事は続く。
「え? 今、なんて言いました? 血液と……ち、ちち」
「血液と膣から出てきた液です」
耳まで真っ赤っかにさせた摩周鱗子に対して、虎縞福子は念を押した。
喫茶店での打ち合わせから三日経ったとき、鱗子は福子の自宅に招かれていた。愛しい我が子は哲司に預けてある。福子の家は、和風モダンの一軒家で、リビング兼食卓の部屋には二〇型の液晶テレビと一輪挿しの濃い赤バラが印象的だった。濃い紫色のソファーに腰をかけていた鱗子が顔中を真っ赤っかにさせたのもこの部屋であった。ワインレッドのTシャツにデニムパンツの部屋着姿で、目の前に立つ福子から聞いたことに驚愕していた。珍しく髪の毛が下りていて、残りを襟足でまとめている。大きなウェーブが七三に波打っているのは、彼女の癖毛のようだ。しかし、身の丈百八五センチある福子が目の前に立つと、迫力がある。鱗子も百七〇センチという長身ではあるのだが。
「用事がないなら、今から私の家にきていただけませんか。脱出に必要なことなので、お願いします」と電話を受けて彼女の赤いスポーツカーに乗って、ここまできたその結果がこれ。
青いシャツの胸元をキュッと両手で掴んで、恥ずかしさに潤ませた目を半分ふせて福子に言った。
「あ、あの……、そういうことでしたら、シャ……シャワー浴びてきていいですか? 私だけでなく、あなたも……その……」
「あ の ね、鱗子さん」
「はい?」
「男の人も血液だけでなく精液も採取して検査する場合があるでしょ。今からするのはそれと同じです」
そういやそうだ。冷静になって覚めていく。
「あーー!」
手のひらを拳槌でパンと叩く。
「でもそれって、福子さんの前でしろってことですか……?」
恥ずかしげに聞いていく。
すると。
「私、部屋に小さな研究室があるんです。そこで検査と分析して、あなたの脱出に必要な物ーーーいわゆるドーピングを作ります。鱗子さんだけに合わせた特別な物です。ーーーなので、あなたのことを詳細に知る必要があるんです」
「私のことを、詳細に……?!」
「ええ。特注なので、あなたに合わせて濃度などの微妙な調節が必要になってくるんです。そのかわり効力がひじょうに短時間なため、打つタイミングが重要になってきます。それはもう、儀式の司祭を担当しているヒメさんに任せてあります」
「それはまた、ずいぶん」
「はい。あなたも分かっていたと思いますが、これは大変なことです」
「はあ。で、私にどうしろと」
「先の部屋に風呂場があるので、そこで膣液を採取してきてください。血液は“私の”研究室で採取します」
鱗子は納得した。納得はしたが。
「でしたら是非、協力します。しかし、私、その……、想像力が豊かとは言えないから、そのー、なにかひとつ“オカズ”が欲しいの」
「ずいぶんハッキリ言いますね」
「意思はしっかり伝えないと」
「まあ、確かに……」
と福子もうっすらと頬を染めて顔を反らした。
少し間が空いた直後、なにかを思いついたのか、目を見開いた福子はリビングを出て行った。それから数分後、再び部屋に姿を見せた彼女が照れ臭そうに数枚の写真を鱗子の座るテーブルの上に広げてみせた。
「わ……私ので良ければ……」
「……わあ!」
歓喜の声をあげた。
ソファーから飛び上がる。
「え? いいの? いいの? 福子さん、本当にいいの?」
「はい。私が言い出しっぺですから。どうぞ、お好きに使ってください。ーーーあと、使用後は絶対返してくださいよ」
「オーケー! オーケー!」
この鱗子の喜びようは、なんだろう。
まるで狙っていた獲物が手に入ったかのような喜び方である。
「あなたの水着、素敵ね。誰が撮ったの?」
「私たちの町の娘たちですよ」
こう嬉しく語る福子。
「あ。この写真ちょっとエッチ」
「……え?」
「ありがとう、福子さん! あなたをいただきますね!」
確認しようとしたときは既に遅し。
鱗子は早々と風呂場に行っていた。
だいたい二〇分経ったくらい。
「お待たせー!」
と、ニッコニコしながら福子の写真と自身の体液が入ったケースを片手にリビングに戻ってきた鱗子。これにはあまり良い気分にならない福子であるが、彼女自身も過去の東京生活をしていた時期に、同棲していた志田杏子を夜な夜な“オカズ”にしていた前科があるので、強く言えない。
「どうでした?」
「良かったですよ。あなた、どの写真も綺麗で最高の素材でしたよ」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
動揺と羞恥が入り混ざってしまう。
写真も無事に返却してもらい。
さて。気を取り直して。
「次は血液を採取しますので、私の研究室に来てください」
そうして、風呂場の隣の小部屋に入ると、多種多様なフラスコやら試験管やらなんかの機械やらランプやら各種薬品と、あとはステンレス製の小さめな冷蔵庫が二つ並んで置いてあった。科学化学に疎い鱗子には、ワケワカメな部屋。
部屋を見た感想は、もちろん。
「うわあ!」
「研究室にいらっしゃい」
実に嬉しそうに鱗子を招いて
「私の趣味もありますが、管理も許可も得ている安全な部屋です」
「素敵ね。フランケンシュタインの怪物とか造りそう」
「ちょっとそれするには、不充分です」
「じゃあ、ビオランテ造れそうですか?」
「ふふ。リビングのバラを見たんですね。興味ありますが、それを生み出すための“あの”細胞を得るには命がいくつあっても足りませんよ」
「あと、愛しい女の子の細胞も必要でしょ」
「そうでしたね。それも要りましたね」
鱗子からは、このやり取りを本気で楽しんでそうに福子が見えた。
この後、鱗子から血液を採取した。
注射の痕を絆創膏で貼って揉み揉みしながら、鱗子は福子にたずねていく。
「ねえ。儀式の当日、私になんの注射をするんですか?」
採取した鱗子の血液と膣液を冷蔵庫に保存して、注射器を処分したのちに、福子は答えていく。
「ビタミンという毒です」
「ビタミンって毒になるの?」
「過剰に取ると毒になるんです。あなたたち陰洲鱒の生まれも町外の一般人も過剰に取ると身体を破壊して、最悪死に至ります。しかし、陰洲鱒の生まれに限っては適度に取ると馬鹿力が発揮されるんです」
「それってまるで、ドーピング……」
己の身体から血の気が引いていくのが分かっていく鱗子。
「そうです。ドーピングです」
はっきりと断言した福子が続けていく。
「あなたが脱出するさいに一時的にリエさんと海馬さん……ほどは無理か……。あの二人は化物級だからなあ……。ーーーええと。一時的に紅子さんやヒメさん、あと銀さんと潮さん、ホオズキさん。このあたりの面々にほんの一瞬だけ近づけられるくらいの馬鹿力を爆発させるように、私がビタミンを鱗子さん専用に調整して作ることができます」
「へえー……。そりゃまた凄い……。ーーーあ! で、でも、副作用ってあるんですよね」
そこはやっぱり気になる。
「ちょっと酔っ払って呂律が回らなくなるくらいかな」
そのくらいなら大したことありませんよ、な表情を見せた福子が鱗子に返した。
「それって、どんな酔いかたなの?」
「あなたが有馬さんに“お持ち帰りされる”くらいの酔いかたかな」
「まあ……!」
赤面して頬を両手で持つ。黒色の瞳もキラキラ輝く。
「あ、でも、酔ってもアルコール臭はしないですよ。これも陰洲鱒の特徴みたいなので私でも不思議に思っていることなんですが。だから酔っ払ったふりは決して通用しないものと思っていてください」
釘を刺す福子。
全て理解している上で鱗子は。
「分かりました。パワーアップ注射をするタイミングは私なりに考えていました。生贄に捧げる前の虹色の鱗の娘を“つらぬく”行為のときが一番最適なんじゃないかと思っていたのよ。そのときにはもちろん、ヒメさんの協力もあります。けれど、他にあとひとり。ーーー“やぐら”で海馬さんに打ってもらうのが時間的にベストだと思ったの!」
「み、海馬さん……に、だって……?!」
思わず引いてしまう。福子が畏怖している女性らしい。
“つらぬく”行為はあの人の旦那さんがさせられている業務だぞ、その行為をあの人の目の前でするのか、と思考を巡らせてはみたが。
「い、いや。さすがに“する振り”ですよね? “あの人”の前では」
「もちろん!」
満面の笑みで返した鱗子を見て、ドキッとした福子。
「私、仕事が一段落着いたら海馬さんと打ち合わせするので、福子さんも空いた日に彼女とどうですか?」
2
海淵海馬は、昼からの酒蔵の営業を補佐の目鉢清子に任せて、空いた時間を作って待ち合わせをしていた。商店街の大きな十字路にある宝石店の壁に、百八五センチある身長の背中を預けて腕を組んでいた。
海馬は強面ではあるが、造形がほぼ左右対象に整っている美しい女であった。色白な細面の中央を走る高い鼻梁に、やや堀の深い眼差しの中には陰洲鱒の町民特有の縦に長い瞳孔はあるのだが、瞳は稲穂色ではなく、赤色をしていて光加減によっては金色に偏光するという特殊なものだった。そして彼女は、立ち上げて約五百年になるという老舗中の老舗の酒蔵『海淵酒造』の後継者の数世代目の社長でもある。赤いカッターシャツに深いブルーの三つ揃いの膝丈スカート姿で、腕時計を確認していく。
「……クソが……!」
どうやら待ち合わせの時間を少し過ぎているようだ。
青筋が浮き出る。
「お待たせしました」
と、目の前に現れたのはワインレッドの上着に黒色の膝丈スカート姿の長身の美人。海馬を前に緊張している。そんな彼女を目にしたとたんに、強面が思わずほころんで笑顔になる。
「福子ー!」
「お疲れさまです」
そう微笑んできた美しい人魚の唇に思わず目がいった。
「きゃ……っ!」
素早く細い腰に腕を巻かれて、あっという間に抱き寄せられてしまった。そして、指で顎をクイと持たれた。海馬の肩に手をやって離れようと抵抗していく福子。
ーええええ! うそうそうそ! なんて力なの! び、びび微動だにしないなんて!ーー
この強面女の力に驚愕していく。
そのような福子を気にすることなく。
「ねーえ、福子。あなたいつものマットなレッドのリップだったじゃない。それがなんで今、マット系の朱色なの? 私に会うためにお洒落してきたのかしら」
「ちちち違うん……です……。ただ……、今日の気分……で……。ーーーそれより、みま……さん。人が……、人が……。まわ……りに、人が……。あ……、だめ……です……!」
悲しいかな。抵抗すればするほど艶っぽくなってしまう。
「その朱色のリップのあなた。凄く可愛くって思わずこうしちゃった」
海馬の鼻息が荒いか。
眉間に皺を寄せて、なんとか顔を反らそうと頑張ってゆく福子。力んでいても、声を荒げることを抑えようと必死になり、小声になる。
「だめだめだめだめ……! お願い……! やめて……! 人が人が……、だめです……、だめ……。いや……恥ずか……しい……! あ……、いや……」
「人目なんて気にすることないない。ーーーん?」
ふと石畳を見ると、白い靴が歩いてきて立ち止まる。
白いプリーツスカートの裾も目に入った。
目線を上らせたその顔を確認してビックリした。
黄金色の長い髪を持つ美しい女が、嬉しそうに海馬へと飛びつこうとしてきた。
「みーま、すゎーん!」
「げえっ! リエ!」
瞬間、力が緩まった。
福子は後ろに飛んで離脱する。
潮干リエの顔と腹に手のひらを当てて飛びつかれることを防いだ。
「ぐぎぎぎ。あれれ? すぇっかくあなたに会いにきたのに、ハグさせてくれないんですか?」
「ええい! このナンパ女! お前、隙あらば私んとこの従業員(女性社員)に手ぇ出そうとしてただろ! いい加減にしろパツキン!」
「ぐぐ……! 未遂ですよ未遂」
「なーにが未遂ですよ未遂だ! 私んとこの女の子たちに番号聞き回るよりウチの酒買え酒!」
「ここ今度、上手くいったらあなたんとこのを打ち上げに使う! これで良いでしょ!」
「う、打ち上げに……?ーーーん? あれ?」
「?」
「リエ、お前……」
こう言いかけた瞬間。
「きゃ……っ!」
瞬く間に腰に腕を巻かれて抱き寄せられた。
これには予想外で、リエはたちまち赤面してしまう。
指で顎をクイと持ち上げて、海馬が顔を寄せてくる。
「リエ、お前。いつものクリアーのリップじゃなくて、なんで今日に限ってパールクリアーのリップなのよ? いつも以上にお洒落で色っぽいじゃないの」
引き剥がそうと必死に抵抗するリエ。
「ちょっとちょっとちょっとちょっと! なにこの展開! 私は抱きつき以外は望んでいないわよ! なんでなんでなんで! ちょっとタンマちょっとタンマ!」ーうそうそうそ! 力が緩まらないなんて!ーー
ぐぎぎぎぎ。と、力んだ目だけでもと振り絞って福子へと向けていった。その血走った目が「福子。お願い、助けて!」と訴えてきたのだ。
「ええ加減にしなさい!」
「いい大人がなにやってんですか!」
リエを解放して。
「はい。すみませんでした」
福子に叱られて海馬は頭を下げた。
その横で咳き込んでいたリエ。
ーあー! マジで死ぬかと思った!ーー
3
気を取り直して。
長身の美しい女三人は宝石店の二軒隣にある喫茶店に入っていた。
あれほどの醜態を晒しておいて、ケロッとしている。
二階の壁はガラス張りで、潮干リエと虎縞福子と海淵海馬の三人が丸分かりである。白く丸い板のテーブルに、三角に囲って長身美女が三人座っていた。一通り話しを聞いた海馬は、楽しそうに口を開いていく。
「へえー。鱗子ちゃんの駆け落ちね。楽しそうじゃない」
「やる価値はあるよね」
乗ってきたリエに福子が続いた。
「ありますよね!」
偽りの信仰の生贄から、生存者が出る。
生存者を出すことができる。
この自信は大きいものがあった。
しかし、失敗した場合の危険はそれ以上に巨大だ。
「……で。この私に旦那と鱗子ちゃんのセックスを見ながら注射するタイミングをはかれと……?」
強面女の顔に浮き出る青筋。
目の前の女二人がブンブンと早く手を振って否定する。
「違う違う違う! なんでそうなるのよ! 私たちの話しちゃんと聞いてた? ねえ、聞いてた?」
「なんでそうなるんですか! “する振り”だけですよ! 行為にまでおよばなくていいですから! てかその必要なんてありませんよ!」
目と歯を剥き出してリエと福子が海馬に突っ込んだ。
「お、おおう……。分かった」
「分かってもらえて良かつたー」
なんだか疲労を感じたリエ。
「良かったですよ。本当に」
福子は、殺されなくて済んだと心の芯から安堵していた。
「私にビタミンの注射をね」
「そうです。あなたに鱗子さんへそれをしてほしいのです。あの一家から怪しまれずに“やぐら”に足を運べるのは海馬さんしかいません」
再び気を取り直してから、福子は海馬へ語りを続けてゆく。
「あなたは、関東大震災や東京の空襲などで被災者に看護をしていたという経験があるので。実際、戦時中は看護師だったでしょ?」
「まあ、一時的だっただけで。長崎に帰るときは辞めていたから。今、できるかなー」
苦笑いと照れ笑いを交えた。
リエが微笑んで。
「海馬さんなら、できるわ」
「へえー。ありがとう、リエ」
「どういたしまして」
この二人のやり取りを見ていた福子は、安堵の笑顔を浮かべた。
そのとき。
「お嬢さん方。今なら当店のアップルパイがサービス価格だよ。紅茶と一緒にいかがかね?」
ぬうーっと老婆が喫茶店のエプロン姿でオススメしてきた。
しかし、ここの従業員とアルバイトに老婆なんていたっけ。
の、空気が出てきたあと。
「いや、デカすぎんだろ」
リエが驚きととも突っ込んだ。
そう。このエプロン老婆の身の丈は二四〇センチ。
八尺様ならぬ八尺婆さんだった。
目をよく見ると、黒い眼に銀色の瞳といった福子と同じ種族。人魚。
すると、エプロン老婆が持っていたトレーの底に光る物に気づいた海馬。
流し目で指をさして、ひと言。
「お前のようなババアがいるか」
「まあまあ、そうおっしゃらずに。はい、お水ですよ」
そうやってテーブルに“お水”が三人分置かれていった。
笑顔ですすめてくるエプロン老婆。
「これ、本当にお水なの?」
「なにを言っているんです、お嬢さん。まぎれもないお水ですよ」
「まぎれもない“お水”なら、あなた飲めるでしょ」
「い、いやだー、お客さま。年寄りに冷や水なんて冗談が悪いですよー。私は飲む必要なんてありませんよ。これはお客さま、あなた方の物ですよ」
「“お水”なんでしょ? 飲む必要あるなし関係なく、まぎれもないお水なら飲んで見せてもいいんじゃない。まさか、毒でも入っているのかしらね」
「そ、それは……。ど、毒だなんて、とんでもない……」
「じゃあ、飲んで見せてよ。それともなに? これは、まぎれもないお水ではなくて、ババアのふりした野郎が差し出してきた“お水”なのかしら? そうじゃなかったら、お前が飲めよ。さあ、飲め」
「うぎぎ……。小娘……! 先ほどの会話全部聞かせてもらったぞ! あとはワシがフナさんに報告しといてやるから、お前ら全員この場で死ね!」
海馬の押しに負けて本性を現したエプロン老婆が、トレーの底から暗器を取り出して、強面美女の顔面を狙って拳を急直下に走らせた。椅子から立ち上がり左手で暗器の拳を流した瞬間に、海馬は中指の第二関節を突き出した拳を走らせて
「あたぁっ!!」
エプロン老婆にその一撃を叩き込んで顔面を潰した。
「ひでぶ!」
そして、鋼鉄製ワイヤーを振り回したかのような蹴りが鞭のごとく跳ね上げられたとき、エプロン老婆の首に炸裂した。
「たわらば!」
このとき、頸椎は破壊されて、エプロン老婆の巨体はガラス張りの壁を突き破って商店街の石畳へと落下した。ババア絶命。
「ちょっと、海馬さん!」
「正当防衛よ正当防衛」
福子にこう主張したあと、あ!そうだ!と表情を浮かべると。ざわついている喫茶店のカウンターまで向かい、店長らしき女性と話しかけた。戸惑う女性店長。見たところ、三〇歳をむかえたばかりか。
「あああ、あの、お客さま!」
「ごめんなさいね。暴漢から身を守ったらこんなになっちゃってー。ーーーあ、そうそう。ここの修繕費は磯野フナさん宛に全部つけといてくださいね。彼女お金持ちだから好きな金額で構わないわよ。ここのケーキとコーヒー、美味しかったわ。じゃあね、また」
こうしめたのちに、三人ともそれぞれの会計を済ませていった。
それから、約三日か四日が経って。
陰洲鱒町の磯野フナ宛先の一通の封筒が届いた。
白髪の小柄な老婆は、封を切って中身を取り出して開いていく。
すると、たちまち細く吊り上がった黒い眼の銀色の瞳を見開いていく。
深く刻まれた顔中の皺から青筋が浮き出る。
尖った歯を剥き出しにして食いしばって。
「あの、小娘どもが……!」
怒りをあらわにした、その書類に記されていたものとは。
修繕費用、五〇〇万円也。
4
磯野フナ宛に喫茶店の修繕費用が請求された同日。
摩周安兵衛は島の奥のあたりにある山の中腹に建立してある、ほどほどに小さな神社へと足を運んでいた。苔で覆われた鳥居をくぐっていく。今年も、やや落ちてきてはいるが豊漁だっただけではなく、恒例のように年に一度に現れる「虹色の大魚」ーー顔立ちから鱒と鮭に似ていた。近年ではマスの新種かこれに似た別種ではないかと推測されている。ーーといったこのマスとサケにかなり似た種の巨大魚を、祭壇に乗せて祈りと感謝とこれからの豊漁を願い、町というかこの島に古くから伝わる『螺鈿様』という名の荒神へと捧げたあとに、虹色の大魚を解体していき、神社に姿見せにきた者へと配る。まあ、早い者勝ちである。虹色の大魚は平均して全長二メートルあり、大きいときは三メートル級の化物が釣れる。解体してみたら大変美しい白身魚で、断面にまでまるで螺鈿工芸のように虹色に輝き脂の乗りの良さがうかがえた。味は、ひと言で言うと美味しい。何物にも似ない味ではあるが、あえて強引に述べたらわずかにマスの香りを感じるていどか。深海魚の特別個体と言ってしまえばそれまでだが。
そんな陰洲鱒町のある島の山々のうちひとつを削って、巨大な石造りの神殿というか教団施設が作られていた。安兵衛はこのような仰々しい神の家など望んでいなかった。二百年ほど昔に黄金の蛇轟像を摩周安兵衛が拾ってからは、島の裏山からは砂金が鉱脈から取り出されていた。そしてそれは、決して無尽蔵とは言えない採掘量ではあったが、町に少しの富をもたらしていった。しかし町の漁獲量に関しては、蛇轟像を拾う遥か昔からもその後の現在も、螺鈿島の海は陰洲鱒町に豊をもたらしてくれていた。町の長であった安兵衛はそのように採掘されてきた金を決して独占するようなことをせず、町内外問わず長崎市内外問わず手を挙げた者や企業が居れば、自治体を通して話し合い契約を結んで任せた。申し出て採掘した者が、各々商売すれば良いだけである。以上のような金の採掘も、二十年ほど前から国内の機械開発製造メーカーと組んで作った、全自動の掘削機とオペレーターと数人の助手に任せているかたちになってからは、人手を減らすことも作業中の怪我死亡などの労働災害をグンと減らすことができていた。
そんなこんなで、摩周安兵衛は今、螺鈿様に捧げた虹色の大魚の様子見と毎日の参拝をしにきていた。お賽銭箱に小銭を投げ入れて、二拍一拝。
触手とも指ともつかない水掻きの生えた両手を合わせて、島の町の幸せを願う。
願い終えて顔を上げたら、人の気配がして振り向いた。
鳥居をくぐってきた三人を見るなりに安兵衛の顔がたちまちほころんで、笑顔になる。鼻の下から顎を覆う、髭のようなタコイカの触手のような口元の口角を上げた。その昔に浜で拾い育てた娘、潮干リエがいたからだ。黄金色の長い髪は夕陽を受けてキラキラと輝いていく。隣には、リエの夫の潮干舷吾郎。そして彼女の胸に抱かれているのは、産まれたばかりの赤子。名はミドリと言う。ときどき変なことを口走ったり、基本はお転婆で好戦的な性格の女であったが、安兵衛にとってはなによりも愛しい我が子わが娘同然だった。愛しの夫を連れて、愛しの我が子を連れて、ようやく一人前……かな……?と、なにを“しでかす”のか分からない不安もあるが、この三人を見れば全て良し。
「お前さんがた、きてくれたのか」
「安兵衛さん」
リエが手を振ると、隣の舷吾郎も手を振って挨拶した。
「今年も“それ”釣れたんですね。良かった」
まるで山男のごとき外見だが、れっきとした漁師。潮干舷吾郎が爽やか色男ボイスで嬉しそうに声をかけてきた。口と顎に髭を蓄えた百九〇センチにも達する大男。毛皮のチャンチャンコや斧が違和感なさそうだ。実際に過去には、リエと出会う前も後も山登りしていたら山師や猟師に間違われていた。正直、安兵衛もいまだにこの好青年が漁師ということを忘れそうになる。
「今回は誰が釣り上げたんだろう。次こそは俺が釣りたいですね」
“釣る”という言葉にこれほど違和感があろうとは。
頬を薄く赤らめたリエが舷吾郎に上目遣いで顔を向ける。
「なに言ってるの。私たちが結婚する前に舷吾郎さん釣り上げたじゃない」
「そうだったそうだった」
わははと笑い、後ろ頭を掻く。
お互いに一目惚れだったので告白や条件などなくとも流れで籍を入れられたのだが、晴天の日に舷吾郎が一緒に漁船に乗っていたリエに「宮帝螺さん! 俺に虹色の大魚が釣れたら結婚してください!」と言ったのちに約束の“獲物”を釣り上げた。これで終了決定かと思いきや……。リエは毎年の恒例行事だったのですでに虹色の大魚は見慣れていたのだが惚れた男が釣った大魚となれば話しは変わり格別で、嬉しさは最高潮に達して思わず。
「よーし! じゃあ私も潮干さんのために一肌脱ぐね! 浜で待っててねー!」
と、本当に一糸纏わぬ姿になって「あはは! 楽しー!」と海に飛び込んだ。当然、これに「ぬわー! なんてこった!」となるわけで。
舷吾郎は青ざめるほかしかなかった。
しかし、浜で待っていてと言われたので船を止めて待っていたら、静かな海面が徐々に泡立っていき、それは荒々しくなって白い飛沫を上げたと思ったら、赤い鋭利な物が現れてきて浜に近づいて鋏と触角を生んで立派な甲殻に被われた巨大な海老が上がってきたのだ。そしてその下には、全裸のリエが満面の笑顔でいた。
「うわー! 宮帝螺さん! なんですか?! これ!」
「え? これ?」
背負っていた巨大な海老を「よい、しょ!」と多少乱暴に浜に落として答えていく。このとき、揺れたような気がした。
「なんだっけ?」
「げえ! 龍留家海老!」
たまたま本当にたまたま浜を散歩していた摩周安兵衛が驚愕した。
「え? そうなの?」
知らんかった、といった表情を安兵衛に向ける。
「そこらへんに“うじゃうじゃ”いっぱいいたから、海老の一匹二匹どうってことないかなーって思って取ってきちゃったけど」
「どうってことないかなーって、リエくん。その海老は龍留家の守り神だぞ。“うじゃうじゃ”いるわけがなかろう」
「あはは。大丈夫大丈夫。あそこはどーせ私と父さんの家だし」
龍留家海老の頭をパシパシと叩いた。
安兵衛がリエに、守り神さんに何さらすんじゃクソガキャと突っ込んだあと続けた。
「お前さん、なに言っとるんだ。龍留家は海底一万メートルよりももっと深いところにあるとこの町の文献に書かれていてだな。だいいち人が素潜りでそんなに深く潜れるわけがなかろうが。ーーーあと、なんじゃその“父さん”って? おかしなこと言うの」
みるみる動揺していくリエ。
「ななな、なにかしらねー。なんのことだろー? おっかしーなー。たた確か、ひゃひゃひゃ百メートルだった、かな……」
「百メートルも無理じゃぞ」
「ま、まあまあ。潮干さんと約束を果たせたんだし。良いでしょ!」
リエはペタペタと巨大な海老の頭を触っていたら、鋏でゴツッと叩かれて目の前で火花が散った。「ぐ……!」と頭頂を押さえて涙目になりながらも、睨み付けた。顔に青筋を浮かべたその瞬間。
「必殺!生き絞め!」
と叫んで怒りの一撃を龍留家海老の頭の横に叩き込んだ。
拳が砕けるかと思いきや、ところがドッコイ!
リエの一撃は分厚い甲羅を突き破って巨大な海老の脳を貫いた。
たちまち海老の眼から生気が失われて絶命した。
「どわー!」
「うわー!」
男二人が絶叫した。
「ふん。特定外来生物のくせに私の頭を叩いたからよ!」
特定外来生物とは?
「そういえば“こいつ”、スカベンジャーて聞いていたけれど、どうかしらね?」
独り言を呟きながら、リエが龍留家海老の尻尾の真ん中を持って「よいしょ!」と力んで引っ張った。どうやら、背わたを取り出すつもりらしい。すると、灰色とも緑色とも紫色ともとれない黒色のようでない何かしら濃い濁った長ーーい物体が引きずり出されてきた。ゼラチン質なのかまたはプリン体なのか、小刻みに揺れている。リエは「臭!!」と一瞬顔中をしかめたものの、鼻を詰まんで観察していくと、その中に白く丸い塊を発見。ひとつではなく、いくつもの同じ塊だった。その中に黒い穴を二つ空けた白く丸い塊に目がいく。
「しゃ、髑髏!」
「え?!」
舷吾郎と安兵衛が同時に声を上げた。
そんな男二人に構わず。
「まあ、火を通せばイケるわよね。見た目、伊勢海老みたいだし」
そう言いながら解体ショーを始めた。
それから。
この日に町にいる者から取りに来させていった。
「ねえ、安兵衛さん」
「なんじゃ」
「あとは志田ちゃんと福子にとっとこうか」
「それも良いかもな」
そして、志田杏子と虎縞福子が仕事を終えて帰宅。
「わあ! ありがとうございます!」
無邪気に喜んで受け取った福子。
「ありがとうござ…………!」
杏子は笑顔で受け取った瞬間、皆まで言えずに流し台へマッハで駆けて嘔吐してしまった。げーげーと吐き終えたのちに「死ぬ……」と呟いた。どうやら“当たり”を引いてしまったらしい。別に用意していた巨大海老の切り身をもらって事なきを得た。
そういう思い出もあり。
リエはミドリを抱きかかえたまま、舷吾郎と一緒に参拝を済ませた。鳥居をくぐって家路に向かおうとしたときに、石階段を上ってくる長身の影を二つ発見。
「福子、志田ちゃん。お疲れさま」
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
リエの挨拶に福子と杏子が続いた。
人魚の二人へと声をかける。
「あなたたち、よく来てくれるよね」
「はい。私、こうした生活に根付いた土着の神様のって好きなんです」
福子が、こう微笑んで答えていく。
「それにここは、現役であのような変異個体が繁殖していて釣れるというのも興味深くて面白いと思っています」
「まあ……、商売繁盛もあるし。毎年あの大魚の味が楽しみだし。ーーー切り身は早い者勝ちなんでしょ?」
杏子の問いに福子が笑顔で。
「そうですよ」
「ならいっそう、行事の当日は残業なしで帰れると良いなあ」
こう願望を述べていく重機オペレーターの杏子を、福子はニコニコして見ていた。
虹色の大魚の祈祷は、二日後。
そして虹色の鱗の娘を生贄にする儀式は、その翌週だった。
脱出決行の日が迫る。