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32/62

ミドリ姫、帰還する 前編

 書いているうちに二万字行ったので、章に分けます。


 1


 ということで。

 榊雷蔵御一行、㈱長崎大黒揚羽電電工業に到着。

 車から四人降りて、受付手続きを済ませて進む。

 その間、他の社員らはミドリの姿にざわついていった。

 あと、破れまくってボロッボロな衣服姿のタヱにも。

「お邪魔します」

 と、先頭を切って雷蔵から社員食堂に入ってきた。

 そこにいたのは。

「あ! 雷蔵君、響子ちゃん」

 手を振る潮干リエ。

「おや? いらっしゃい」

 手を挙げる黄肌潮きはだ うしお

「あら。お疲れさま」

 微笑む磯野マキ。

「雷蔵君、響子さん。こんにちは」

 軽い会釈をする磯野カメ。

「雷蔵くーん! おーい!」

 大きく手を振る皮剥実かわはぎ みのり

「いらっしゃい」

 軽い挙手をする八爪目那智やつめ なち

「待っていたわよ」

 微笑む八爪目煉やつめ れん

 目を見張る美女たちから出迎えられた。

 見たところ、彼女たち七人は昼食を終えたようだ。

 リエが緑色の瞳を輝かせていく。

「ねえ! 二人ともニュース見た? ニュース見た?ーーー噂の諏訪神社で、うちの娘が復活したのよ! もー、なんか凄い映像だったよ!」

 ーうふふ。リエさん本当に可愛い。ーー「ええ。あたしも彼も現場にいました。無事に済んで良かったと思ってます」

 こう、響子は目じりを下げてリエに報告した。

 この答えに、リエは驚きを見せる。

「え? 響子ちゃんと雷蔵くん、あの場にいたの?」

「はい。見切れていますけど、ちゃんと見届けました」

 そう答えたのちに、隣の彼氏にアイコンタクトをした。

 これを受けた雷蔵が響子の話しに繋げていく。

「以上、そういうことなので、俺たちは依頼を果たしにきました」


「ただいま」


 そのひと言とともに、潮干ミドリが前に出てきた。

 皆は一瞬、息を飲んだ。

「おかえりなさい」

 しかしそれも、笑顔へと一変した。

 手招きするリエに応えるようにミドリは恥ずかしがりつつも歩み寄ってきて、母親の前に立った。そして、愛娘の頭を優しく撫でていく。

「やっと帰ってきてくれた」

「ただいま、母さん」

 満面の笑みをリエに向けた。

 周りから、鼻を啜る音が聞こえてきた。

 母親と長女ともに目じりの涙を指で拭っていく。

「タヱちゃんもきているよ」

「タヱも?」

 ミドリの言葉を受けて、リエは目線を先へ飛ばした。

 すると。

「タヱは、どこよ?」

「あの二人の後ろにいるよ」

 ミドリの答えを聞いても、愛らしい姿の次女はおらず。

 しかも、代わりにいるのは見覚えのない金髪美女。

「あちらの美人は、どちら様?」

「タヱちゃんだよ」

「え!」

 驚いたのは、リエだけではない。

 黄肌潮も磯野マキとカメも皮剥実も驚愕した。

 大手を振りながら、潮干タヱ第三形態が駆け寄っていく。

「母さーーん!」

 ブフォーーッ!と衝撃に吹き出していく、リエと黄肌潮とマキとカメと皮剥実。

 母親の前に到着するなりに、ニッコニコなタヱ。

「見て見て! 私、変わったんだよ! 母さんと姉さんに近くなって、嬉しい!」

「嗚呼……、嘘……、そんな、やだ……。どうしよう……、私、どうしよう……。うちの娘ばかり、奇跡が起きちゃった……。ーーーごめん、うしおさん」

 歓喜に震えたあと、リエは涙目と涙声を黄肌潮に向けていった。しかし、その稲穂色の髪をした美女は黄緑色の瞳を涙目にしながら首を横に振っていく。

「いいんだよ。良かったじゃない、正夢になって。あたしも嬉しいよ」

「ありがとう」

 いい雰囲気が出来上がり、和んできた。

 と、そこへ。

「おかえりなさい」

 斑紋甚兵衛はんもん じんべえの登場。

 相変わらずの美男子っぷりである。

 デニム生地のサマージャンパーを羽織って、白いティーシャツにジーパンというシンプルな組み合わせなのだが、この甚兵衛は高身長とスタイルの良さと美しさを備えていたために、実にお洒落に着こなしているように見えた。

「君がお母さんと再会したことで、僕はもうヘイト役を外れて良いよね」

「あ、そうか!」

 この美男美女のやり取りに、食堂にいた雷蔵と響子と黄肌潮とマキとカメと皮剥実と八爪目那智と八爪目煉が一気に不可解な表情と空気を出した。このとき、リエとタヱを除く。代表して切り出してきたのが、年長者の黄肌潮だった。

「ミドリちゃん、どういうことか説明してちょうだい」

「ええと……」

 その質問に困惑しながら、周りに目配せしていったのちに、黄肌潮と向き合うと、ピシャリと胸元で軽く手を合わせて申し訳なさそうな笑顔で口を開いていく。

「皆さんもやることがありそうだから、手短に話していいですか」

「いいよ。話してみて」ーうっわ。わいい。ーー

「ありそうございます、おばさん」ー潮さん、相変わらず綺麗だなぁ。ーー



 2


 ここからは、主に潮干ミドリの話。

 母の潮干リエと妹の潮干タヱの話も混ざる。

 ときには斑紋甚兵衛の話しも。


 時間をさかのぼり、一年前の八月三十一日。

 生贄の儀式の当日。

 夜。

 潮干ミドリは朝方に海原摩魚へと別れを告げたあと、蛇轟に捧げられる生贄として儀式を受け入れて、“やぐら”で皮剥実かわはぎ みのりに頼んで「貫かないが貫きの儀式」をしたあとに、複数の高い岩山の立つ海岸線の崖っぷちまで降りてきた。それから、司祭を教団から“協力させられている”摩周ホタルと、その妹と同じ立場の副司祭である姉の摩周ヒメに別れの挨拶をして頬に軽くキスをしたあと、黒い海中へとダイブした。

 その前の、摩周姉妹への別れの挨拶。

「ホタルちゃん、お願い泣かないで」

「もう、甚兵衛さんとのことはいいから! 行かないで!」

 ミドリの手首を掴んで、ホタルは頬を濡らしていた。

 宮崇龍クスルを模した前飾りのある大型雲丹の骨格製の冠は、外して足もとに置いてあった。引き止めようとしている車椅子の可愛い娘の頭を、ミドリが優しく撫でていく。その二人のもとに近寄ってきたヒメは、謎の大型深海魚の頭蓋骨製の冠を外して脇に抱えると、頬を伝う涙を指で拭いていった。このとき、ミドリがヒメと目を合わせて、語りかけていった。

「大丈夫。私は戻ってきます」

「戻ってくるって、どういうこと?」

 涙声が混ざりながらヒメは聞いていく。

「こんな偽りは、私の代で終わらせてやる。だから大丈夫。必ず戻ってくるわ」

「あなたの次は、亜沙里ちゃんなのよ。この“人”たちの行動は止まらないのよ」

 ヒメの指さした先には、手を後ろに組んでミドリの飛び込みを今か今かと待っている人魚の磯野フナの姿があった。顔中に深く刻まれたシワの中で、口を「へ」の字にして不機嫌そうだ。頭の後ろにまとめて結んだ白髪の穂先を海風になびかせて、切れ長な黒眼と銀色の瞳でミドリたち三人を睨み付けていく。

「この人たちで悪かったの」

 不満をひとつ洩らしたのち、口角を上げた。

「ヒメの言う通り、お前さんの次は亜沙里じゃよ。そして、驚くなよ、あとひとり生贄の候補が上がっていての。住所は市内の娘なんだがね。生まれは陰洲鱒町ここだ」

「フナさん、あなた……!」ミドリの眼光が鋭くなる。

「おお、怖い怖い。そう睨むでない。お前さんが思い浮かべた娘とは違うかもしれないだろう? 早とちりは、いかんぞ」

「本当は鱗の色なんて“どうでもいい”んでしょう。教団…………いいえ、とくにあなたはアレを建て直してからは緩慢になった。本当だったら毎年欠かさずこの偽りの行事をしていたのに、再開してみたら有子さんから真海さんまでは数年の空きがある。ひじょうに利己的な感じがして、とても教団と学会のためにしているとは思えない。標的にしている人物に絞って、その娘たちを消していっているんじゃないの。二三年前に生贄から脱出成功した娘と、その協力者たちへの報復だと私は思っているけど。ーーー間違いないんじゃない」

 と、“やぐら”を力強く指さして老人魚に言葉を返していった。白く細い裸を夜の景色に晒して、黄金色の長い髪の毛を海風になびかせているミドリの姿には、息を飲むと思えるほどに美しかった。黄金色なのは髪の毛だけではなく、眉毛もアンダーヘアも同じ色と輝きを持っており、月明かりを反射して夜空に瞬く星たちのごとくキラキラとしていた。この娘の姿に、思わず見とれてしまう磯野フナ。このままではこの娘に飲まれてしまうと感じて、老婆人魚は気を持ち直していき、先の問いを拾うことにした。

「私が私のために報復だと?」

 片方の口角を上げて、尖った歯を見せた。

「ふん! 小娘が。ーーー陰謀論も遊び程度のほどほどにしといたほうがいいぞ。この私が己のために、逃げた者とその協力者たちへの報復だという証拠はいったいどこにある? なら用意してみい。なかろう。物証も証言もないのに、ペラペラと口から出任せばかりじゃの」

「そうよ、ミドリちゃん。決定的な物が出てこない限り、いくらこんな意地悪ババアでも本人が否定してしまえばそれまでなのよ」

「ヒメ……。お前さん少しだけ口を閉じてくれんか」

 “敵側”からもっともな意見のサポートをもらったはずが、意地悪ババアのひと言で打ち消してしまった。このヒメの言葉を聞いていたミドリとホタルは、笑いを堪えるのに必死であった。ミドリは深呼吸して落ち着かせたのちに、気持ちを戻して目の前の老婆人魚に再び言っていく。

「あなたを追いつめて、自白してもらうほうが手っ取り早いわね。ーーーしかしまあ、私たちがなに言おうが今ここにいるのが“着ぐるみ”のお婆ちゃんじゃ意味ないけれどもね」

 このひと言に、ヒメとホタルが不思議そうな顔をした。

「鯉川鮒。磯野商事の社長、磯野波太郎の秘書で愛人でもある美しい人魚。自称年齢を三百数歳と仰っているみたいだけど、本当はゆうに千年以上生きているんじゃないの?ーーーねえ、鯉川鮒さん。いい加減お姿を見せたらいかが?」

「呼んだかしら?」

 ミドリの明らかな挑発に、長身の美しい人魚が現れた。

 そして、磯野フナの隣に並ぶ。

 これに目を見開いて驚くヒメとホタル。

 鯉川鮒。

 艶やかな長い白髪をハーフアップにして、アミカサゴの髪止めをしていた。若干つり上がった切れ長な黒眼に銀色の瞳が輝いている。白を基調にした小袖に、銀色の細い線で雲のような波とリュウグウノツカイやサメが画かれており、薄い藤色の暈し染めが美しく、白い帯には銀色の線で鱗の模様があった。薄く張りのある唇には、ライラックのリップを引いてあった。美しさの中に、どこか可愛らしさを感じさせる、まさに“人魚姫”と言ってもおかしくない“女”である。

「あなたたちの前で磯野フナが変化するのかと思っていたのでしょうけれど、期待に応えられなくて残念ね」

 微妙に唇の端を上げた鯉川鮒。

 意外にも驚いていないミドリ。微妙に笑みを見せた。

「大した芸当ね」

 と、ミドリの隣にもうひとりの潮干ミドリが現れた。

 夜の景色を割くように外出着姿のミドリが裸足で出てきて、白い裸のミドリと並んでみせた。うっそー!と仲良く驚き声を上げたヒメとホタルの姉妹。

「小娘の私にもできるんだから、あなたにはぞうさもない術よね」

「だから、なんだと言うんじゃ」

「ひとり二役も面倒臭いんじゃないかなあって」

「そうだ。ひとりではできない」

「自白したわね?」

 こう微笑んだミドリは、今度は磯野フナの左側の空間に目を向けた。

「ねえ。私の裸を見ているなら、堂々と出てきてから見たらどうなの?ーーー月刊敷島編集長の片倉日並かたくら ひなみさん」

 ミドリの呼びかけを受けて、黒い景色が反応を見せた。

 赤い逆さ五芒星の円形魔方陣が現れて、縦に割けて左右に開くと、濃紺の三つ揃い姿のスラックスを穿いた長身の美人が出てきて磯野フナの左側に並んだ。赤紫のカッターシャツの胸元に下がって銀色に光る、上は男性器と下は女性器を模した十字架には、上部に『INRIインリ』下部に『院里』とこれ見よがしに強く主張したデザインのネックレスと、あとひとつは、純銀製の逆さ五芒星の円形魔方陣のネックレスが下がっていた。緩いソバージュをかけて真ん中分けにした艶やかな赤黒い髪を、海風に揺らしていく。赤褐色に輝く大きめな瞳を持つ細く切れ長な眼を緩やかな弓なりにさせて、ルージュを引いた唇をつり上げた。

「まいったなあ。気づいてたんだ」

 そして、まじまじとミドリの裸を見ていく。

「素敵ね」

「それはどうも」

 露骨なまでの愛想笑いを日並ひなみに向けたのちに、指を鳴らした。すると、裸のミドリの隣に立っていた外出着姿のミドリが夜の景色に溶け込むように頭から消失していった。そして再び緑色の瞳を日並へ向けて。

「やっぱりとは思っていたけれども、逆さ五芒星というのは穏やかじゃないわね」

「なにか言いたそうじゃん」

「協力者は、あとひとり」

「なんですって?」真顔に変わった。

「あ、そ、こ!」

 と、鱗山に強引に建てた教団施設のその先を指さし。

「ちょうどアレの裏手になるから見えないけど、陰洲鱒町議会のおさ鯛原銭樺たいはら せんか。今日は施設の三階から見ているんでしょう? この偽りの“イベント”を。ーーー全く。そろいもそろってイイ歳をしたイイ女たちが呆れるほどに欲深いよね」

 白い歯を剥きながら、指した腕を下ろしていく。

 青筋を浮かべた鯉川鮒を、腕を伸ばして制止した日並がミドリを睨んだあと、再び笑顔に一変した。

「まったく……。大した女の子だわ」

「あざーっす」日並を見たままお辞儀。

「この世からいなくなるからお土産として教えてあげる」

「あざーっす!」ミドリとヒメとホタルが一緒に発した。

「…………」

 ホタルとヒメに次はアンタらだよと言わんばかりの目線を向けたあとに、日並は再度ミドリを見て語り出していく。

蛇轟ダゴン秘密教団はね、近々この院里学会に変わるのよ。時期的に、次の亜沙里ちゃんとその次の市内育ちの女の子で最後の予定にしているわ。これは、昨日今日に決めたものじゃなくてね、あなたのお母さんが謎の突風を起こして“やぐら”を破壊した次の日に、私と鮒さんと銭樺せんかの三人で話し合って決めたものよ。もう、契約も結んでいるわ」

「信仰も糞もないのね」

「残念だけどね。これ、ビジネスなのよ。この離島を新たな拠点にして、私たち三人が俯瞰して駒を動かしていこうと計画を立てているの。そして陰洲鱒町の町民は、学会員と人魚に取って替わられてしまうわ」

「へえー。じゃあ、ダゴンはなんのために神輿にしていたの? “あれ”らは“つがい”の神よ。理由を聞いたら怒られそうだけど」

「ダゴンとハイドラは、崇めたい奴らだけで崇めておけばい。なんなら、私が海太郎に言って螺鈿神社と安兵衛に帰してやるぞ」

 鯉川鮒が口を挟んできた。

 これに、ミドリは強い視線を“人魚姫”に向けた。

「そもそもは、この島がこの町が“こうなってしまった”のは“あなた”がダゴン像を盗んで教団を設立したからよ。なんで町を乱すことをしたの? 馴染まなくても馴染みたくなくても良いけれど、この島にこの町に害になるようなことはやめてほしかったわ。ーーー私は知っているんだよ。一時期絶滅の一歩手前まできていた人魚の数がじゅうぶんなまでに回復したのを。それは、陰洲鱒町を拠点にして、土着の信仰のある世界各地の離島から『鱗の娘』と偽って富豪や国々の“太客ふときゃく”へと売買を続けていたからよ。ーーーそして、“やぐら”の再建中もその前も今も、この町から年にひとり女の子が行方不明になっているのを知らないはずがないよね。あなたなら、ご存知なんじゃないの、鯉川鮒さん」

「いろいろと知りたそうだな。けれど言うことは、ひとつ。先の日並も言うたが、これは商売なんじゃ。はじめは種族の保存と個体数の回復のために行動しておったが、これはいろいろとかねになると知ってな。実際そうだった。裏の尾叩き山の砂金掘りよりも効率が良いしの。人の娘はかねになる。実際、虹色の鱗の娘たちは素晴らしい金鉱脈だったぞ。ーーーあと、私が籍を置いている磯野商事は萬屋よろずやなんでな、顧客の注文が来る以上はこちらも商売を続ける。蝶之介と交太郎と鱶太郎は教団では幹部などともっともらしい肩書きで生活をしておるが、実際は私と波太郎の労働力にしかすぎん」

「あの性欲三馬鹿のために、めぐみさんと朱美あけみさんと鱏美えいみさんが……。かわいそうでならないわ」

「かわいそうなわけがあるか。あの雌三体は力もなし、欲もなし、そして人間に馴染もうとする、我が種族の“穢れ”そのものじゃ。だが、あ奴らは命は惜しいらしいからの、“穢れ”は“穢れ”なりの役目を与えているだけだ。ーーー私、慈悲深いじゃろう」

 微笑を見せて自賛してきた鯉川鮒に、日並が続いた。

「ね。彼女、慈悲深いでしょう」

「ええ。あまりの慈悲深さに、涙ちょちょ切れそう」

 ミドリの返しに、言葉を失う一同。

 ひとつ咳払いして、話を戻していく片倉日並。

「あなたがなにを考えて行動を起こしても、私たちの強大化は止めることはできない。いや、できやしない。西はここから抑えて、東は深沢の息子と十田じゅったの曾孫息子にすでに私の娘たちをあてがって抑えてあるから、無駄な足掻きよ」

 十田じゅった

 院里学会の教祖、十田耕作じゅった こうさくのことである。

 その隣で指折り数えていた鯉川鮒。

「あれ? お前さん、娘が三人いたのか? 二人だと」

「言ってなかった? 長女の昇子は馬鹿な放蕩娘だけど、祐美ゆみ日出美ひでみには期待しているわ。ーーーだからね、ミドリちゃん。今の状態だけでもね、私は院里学会、鮒さんは教団と人魚、銭樺は町の政治。これだけ言えばじゅうぶん理解してもらえると思うけど、あなたたち程度で抵抗しても無駄なのよ。二三年前に脱出した摩周鱗子に、いったいなにができる? 私たち三人の城の壁に、風穴すら空けることはできないわよ」

「風穴は無理だとしても、小さなほころびなら入れることができるわ」

 ミドリは決意した顔を、日並に向ける。

「できるものならやってみなさい」

「できるものならじゃなくて、私はできるのよ」

「ミドリちゃん、無理しなくても良いのよ」

「ときに日並さん」

「はい」

「あなたは魔術を使うようだけど、その分の対価はちゃんと払ったんですか?」

「なによ、急に……。私の話し聞いていたでしょ。私は私を使って、娘二人を使って、ここまで昇ってきたのよ。これ以上なにを払うというの?」

「その割には、この町から出た女の子たちの犠牲のほうが多いんだよ。魔物と契約しているなら、あなたの対価としてはまだまだ小さいと思うけどね」

「あんた、なにが言いたいのさ?」

 日並の声が低くなり、目付きも鋭くなった。

「長崎に帰ってきてこの一年間、私がなにもしていなかったと思っています? あと、東京にいた三年間も? なので、時期がきたら“ちゃんとした”対価を払ってもらいますよ」

「口だけ番長の素っ裸の小娘が、いったいなにができるというんだよ」

「うん。だから私、裸一貫から出直してくるの」

 このミドリの返しに、ヒメとホタルと鯉川鮒がブーーッ!と吹き出した。たちまち額に青筋を立てていく日並。

「この糞餓鬼! さっきから聞いてりゃ、減らず口叩きやがって! そのうるせー口縫いつけてやるぞ!」

 歯を剥き力強くミドリを指さしていく日並を、今度は鯉川鮒が落ち着いてと言って抑えていく。この様子を嬉々として見ていたミドリが、鯉川鮒に話しかけていく。

「ちょっと、そこの人魚姫さん」

「はい」思わず返事した。

「さっきから見ていたんだけどね、真ん中のお婆ちゃんが黙ったままなんですよ。あなたが話している間、ひとつも口を開かないの。熱中症で具合が悪いんじゃないですか?」

 ほくそ笑みながら、指摘していく。

「え? これは、その、なんじゃ。これは、だな……」

 珍しく動揺を見せた鯉川鮒は、なにかを決意して口を閉じた。

 そして。

「私は大丈夫じゃ。お気遣いありがとう」

 パクパクと人工的に老婆人魚の口が上下に開閉していった。しかも、その発生源は明らかに唇を閉じている“人魚姫”からだった。

 これはいかん!これは不味い!息が漏れそう!

 と、必死に笑いを堪えていたミドリとヒメとホタルと日並。これを打ち破ってきた、ミドリ。

「もう少し練習したら、上手くなるんじゃないかしら」

「この糞餓鬼……! ぶぶ漬けにしたろか……!」

 顔中を真っ赤にさせて青筋を立てて尖った歯を剥いていく鯉川鮒。ニコニコと笑みを見せながら、鯉川鮒と片倉日並に小さく手を振ったミドリ。

「いろいろペラペラと喋ってくれて、ありがとうございます」

 そして、ヒメとホタルに振り向いて、姉妹の頬に軽いキスをした。

「あなたたちといられて、私楽しかった。さようなら。そして、また会いましょう」

 と、別れの挨拶を告げた瞬間、潮干ミドリは両手を槍のごとく突き出して黒い夜の海の中へと飛び込んだ。音も小さく、泡立ちも小さな、実に綺麗な飛び込みであった。暗闇の広がる海中を覗いていく、ヒメとホタルと鯉川鮒と日並。闇の空間で白い身体を折り曲げて縦に回転して、頭を上に体勢を整えるミドリ。緑色の瞳で、昼間の姿とは一変させた得体の知れない様を見せている海中を見渡していく。すると、その四方向から稲穂色の光が八つ現れて、中央のミドリへと接近してきた。

「私の殿方衆に捕まってしまえば、あの娘の処女もしまいじゃ。敷かれたレールから逃れられぬ」

 鯉川鮒が、嘲るように尖った歯を見せたときだった。


 時間帯は同じ。

 生贄を海中に落とす崖の岩の群れからだいたい百メートル離れた場所に移る。砂浜のある海岸線から教団施設まで様々な岩が連なっていた。この反対側に進むと、埠頭がありフェリーの発着所でもあった。そしてこの砂浜に立つ岩に身を隠すかのように、生贄の儀式を見守っていた龍宮紅子の姿があった。縦に赤色の太いストライプが走った両側の黒いダイバースーツを着て、ハラハラとしながらミドリの様子を見ていた紅子。

 ーミドリちゃん、あそこに立ってから長いなあ。見てたら、なんか人が二人増えたし。いったいなにが起こってんの? 今は見張りが手薄だったから、このまま私が泳いで磯野家の殿方を蹴散らして、上手く救出できるんだけど。なんか、話し長くない? 大丈夫?ーー

 足首までの長い艶やかな黒髪は、襟足からまとめあげて頭の後ろに丸めてあるから、遊泳する際には全く邪魔にならないので準備万端である。でも、安心できないものは安心できないわけで。去年の海淵真海のときには、磯野家の殿方衆は飛び込んだ位置から物凄く近い場所で立ち泳ぎして待機していたゆえに、いざ見張りの目を掻い潜って救出に向かった紅子は全力で泳いだもののその目的は達成することができずに、あと少しのところで真海を拉致されていったのだ。のちに、紅子はこの日は己の無力感にうちひしがれて、酒を飲み悪酔いした。こうした嫌な悲しい思い出を噛みしめて、紅子は今年こそはと決意して口を強く結んでいく。過去に救出成功したのは、摩周鱗子ただひとり。潮干ミドリで二人目を出したい。

 と、そう思いを巡らしていた矢先。

「あ!」

 思わず声があがり、とっさに手で口を塞いだ。

 潮干ミドリが飛び込んだところだった。

 口もとから手を下ろして。

「うそ! もう、ミドリちゃん!」

 眉を寄せて小声で叫んでから、紅子は急いで真っ暗闇の海中へと飛び込んだ。


 場所を戻して。

「あーあ。ミドリちゃんの清純も終わりかあ。まあいいや、あとで私も楽しもうかしらん」

 露骨なまでに見下す表情と口調で、日並は海中を覗いていた。

 再びお先真っ暗闇の海中へと場所を移すと。

 闇夜の海に漂う白く裸のミドリの四方から、稲穂色の瞳を光らせながら好色の笑みを浮かばせた磯野波太郎と長男の磯野カツと入婿の磯野マスとその息子の磯野タラの四人の男たちが、中央で立ち泳ぎしている美しい虹色の鱗の娘を目指して迫ってきた。瞬間、ミドリは緑色の瞳を虹色に光らせて顔を仰いで海中を覗く女四人を見て微笑んだと思ったら、真っ暗闇の海中に溶け込むように白く細い身体が消失していった。この予想外の出来事に、四方から迫ってきていた波太郎とマスとカツとタラは勢いあまってお互いの頭と身体を衝突させて、四人とも気絶してしまったのだ。そして、溺死体のこどく背中を向けて海面に浮き上がっていく。

 同時に、これら一連の様子を海中で見ていた人物のもうひとりが、龍宮紅子。生贄として飛び込んだミドリを助け出そうと試みて、紅子も海に潜って泳いでいってあと少しのところで目的に到達するかとした手前、娘が瞳から虹色に光らせて溶け込むように消失していって、磯野家の殿方衆が互いに衝突して気絶してしまうという醜態をさらした場面までを目撃してしまった。消え去った者に対しては、もうどうしようもないので、海面に顔を出した紅子はドザエモンと化して海面を浮遊する殿方衆を押しのけて、ヒメとホタルが見える位置まで立ち泳ぎして移動した。

 そして、ひと言。

「消えちゃった!」

「あ。紅子さん」手を振るホタル。

「紅子! あなたも見たのね」

 同じ現象の目撃者として確認していったヒメ。

 この言葉に頷く紅子。

「ミドリちゃん、どこ行ったの?」

「分からない。こんなことは初めてよ」

「私も。ーーー彼女、いったいなにをしたの」

「消えた。としか言いようがないわ」

「今から探してみる」

「やめて」若干強めの否定。

「どうして?」涙目と涙声の紅子。

「私もホタルも、別れの挨拶のときにね、ミドリちゃんからハッキリと聞いたのよ。『また会いましょう』って。だから、そっとしておきましょう」

「え? それって、帰ってくるってこと?」

「私、彼女がそう言う以上は“そう”だと思うわ」

 ヒメは目もとの涙を指で拭いながら、ミドリの言葉を信じていく。ホタルも、姉と同じように頬を伝う涙を指で拭いながら紅子に話しかけていった。

「私たちができないことを、ミドリさんは私たちの目の前でやったんです。彼女が言ったことを信じてみます」

「ヒメ……。ホタルちゃん……」

 紅子は、美しい摩周姉妹に顔を向けていく。

 次に、姉妹の先に立って海中を見ている鯉川鮒と日並を確認した。あの女二人と話すのは危険だと本能的に察知した紅子。再びヒメとホタルに顔を向けた。

「じゃあ、私帰るね」

「ええ。今はそのほうが良いわ」

 日並と鯉川鮒に瞳を流したヒメが紅子を促した。

「また明日会いましょう、紅子」

「紅子さん、また明日。お疲れさま」

 馴染み深い姉妹から笑顔で手を振られて、悲しみで揺れていた紅子の心はほんの少しだけ和んで穏やかになり、笑みを浮かべて手を振って返していく。

「二人とも、ありがとう。またね」

 再び海中に潜り込み、埠頭を目指して泳いでいった紅子。


 この様子を見ていた鯉川鮒と片倉日並。

「紅子が帰ったか」

「賢明ね」

 鯉川鮒の言葉に、日並が続いた。

 視線を隣に向けると。

 ヒメとホタルは、大型深海魚の頭蓋骨の冠と大型雲丹の骨格の冠とをそれぞれが脇に抱えると、崖を下りていって儀式の“会場”をあとにしていくところであった。そんな摩周姉妹の去り行く後ろ姿を見ながら、鯉川鮒は呟いていく。

「あの二人は私の物じゃ。他の者が勝手にけがすことなど許さぬ」

「あなたの許可した上でなら良いんだ?」

「そうだ。紅子はすでにそのようにしてある。本人は覚えていないがの。いずれかはヒメもホタルも紅子と同じ術を施してやろうと思うておる」

「じゃあ、そのときは私も呼んでちょうだい」

「構わん」

 そう微笑みを日並に向けたのちに、再び海面に漂う我が家の殿方衆に目線をやる。

「情けない」と、溜め息混じりに吐いた。

「“これ”どうするの?」

「信者たちに回収させるよ」

 そう言って、鯉川鮒は帯から下がる白いポシェットのファスナーを開けて、白地に銀色の鱗模様を描いたスマホを取り出して電話をかけていく。この間に、指を鳴らして、いまだに突っ立っていた磯野フナを夜の空間に消失させていった。


 場所を移り。

 生贄の崖から離れて。

 待機していた箇所を通りすぎて、フェリー乗り場にさらに近い場所の砂浜に上がり込んだ紅子は、たいして息も切らしていなかった。海水に濡れたダイバースーツ姿で砂浜を上がっていき、駐輪場にたどり着く。正直今回も往復したのみであったが、不思議と悲しい気持ちにはならなかった。赤色ボディーのナナハンのシートの両側から下がるボックスを開けてタオルを取り出してまとめていた髪の毛と解くと、顔を拭いてから髪についた海水を拭き取っていく。

 ーふふ。また会いましょう……か。信じていいのね、ミドリちゃん。ーー

 フルフェイスヘルメットを被り、本革の手袋とブーツを履いて、ナナハンに跨がるとエンジンを吹かして自宅を目指した。


 さらに場所を変えて。

 蛇轟秘密教団の三階のバルコニー。

 遠目から飛び込みと解散を確認して、鯛原銭樺は三階の部屋に入っていった。

 鯛原銭樺たいはら せんか

 陰洲鱒町町議会議員議長。四五歳。

 狐顔の美人で、約百七〇センチの身長を誇るスレンダーな身体つきをしている。七三に分けた焦げ茶色の髪の毛は腰のあたりまで長く濡れたようにしっとり艶やかとしており、それを緩やかなパーマをかけて襟足でまとめていた。銭樺は、町議会議長選挙で当選して早数年経っていた。確か、二期目を終えて三期目になるか。前の議長である鯛原銭市郎たいはら せんいちろうから数えて四代目にあたり、曾孫娘である。そして、秘書の男を入婿に迎えて愛娘を二人育て上げた。正直、男子が生まれると思っていたが、今のところ全て女子だった。前の町議会議長選挙では、銭市郎せんいちろうの孫息子で銭樺せんかの父親でもある鯛原銭三郎たいはら せんさぶろうのときは落選し続けて議員職を引退して惜しくも世襲は継続できずに残念だったが、講演会からどぶ板選挙までおこなってーーもちろん、公職選挙法違反になる個別訪問はしなかった。ーー巻き返しをはかり、見事当選して議長の座を獲得した。なので、今の任期を終えたら、次は島を離れて市内に移住して市議会議員選挙を考えていたのだが、この場合の後継者となると長女の市夏いちかを推薦したい。しかし、当の娘はまだまだ二十歳であり、立候補をするにはだいぶん先になる。だから、しばらくはこの町の議長を続けないといけないなと思ったら、鼻から溜め息が出て口もとに笑みを浮かべてしまった。

 ウイング襟の膝上十センチの葡萄色のワンピース姿でヒールを鳴らしながら、銭樺せんかはバルコニーから部屋に入ってくると、ソファーに腰を下ろして長い脚を組んだ。グラスに残っていたピンクグレープジュースを、口に運んでいく。飲み干すときに、喉を鳴らしていった。夜といえども外は暑いわけであったが、部屋はクーラーをガンガン利かせていたから、グラスコップの氷は半分くらいも残っており、冷たさを堪能できた。明日も議員の仕事がある。なので、今夜は酒は飲めない。空のグラスコップをアクリル板テーブルに置いたときに、鉄の扉がノックされるのを聞いた。

「はーい、開いてますよ。どうぞー」

 向こうからの言葉を待たずに、呼びかけた。

 無用心と言われれば無用心である。

「入りまーす」

 ひと言断って部屋に入ってきたのは、市夏いちか

 そして、並んで肩を抱かれていたのが春樺はるか

 娘二人の様子を見たとき、小さいながらも驚いた銭樺。

 市夏と春樺は、実に母親に似た狐顔の美人であった。

 銭樺は人並みの感情はあるが、生まれつき“それら”を表に出す規模が小さいために、ポーカーフェイスだと思われていた。近年、気になったので診察に行ってみたら、表情筋が一般大衆とは違っていたらしい。

「なんで泣いてんの?」

 次女の春樺に聞いたが、長女の市夏がかわりに答えた。

「今年の生贄の人、春樺がファンだったんだよ」

「え? うそ?」リアクションは小さい。

「母さん知らなくても当然だった。だってこの子、教団と学会の目が多いから隠れてミドリちゃんを応援するしかなかったんだよ」

「それは……。知らなかった」

「歳が近い子ばかりで、私も辛いよ」

 涙を手の甲で拭っていく妹の肩を優しく抱きしめて、市夏が涙目で気持ちを露呈した。しかし突っ立っていてもしょうがないから、銭樺は娘二人にソファーに座るように促した。涙の止まらない妹の頭を撫でたあと、軽い溜め息をついた市夏は、テーブルを挟んで目の前に座る母親を向いて口を開いていく。

「ねえ、母さん」

「なに?」

「もう、これやめない?」

「あのね、市夏」

「祭りってだいたい、豊作豊漁を祈願したりそのお礼の気持ちを神様に捧げて表すんでしょ。なら、螺鈿岩の神社で毎年奉納している『虹色の大魚たいぎょ』でじゅうぶんなんじゃない? なんで人間を海に落とすの?」

「あのね、市夏。あなたも政治の仕事を将来考えているなら、宗教とか信仰とか抜きにして、時には町の住民の意見要望を押しきって“仕事”としてやらなきゃいけないのよ。おさになることを任されたりそれに手を挙げたならね、この町を継続させるための資金を維持しないといけないのよ。私の曾祖父のときは尾殴り山でのきんの掘削で外からいっぱい人がきて町が潤ったけれど、それが過ぎてからは町にくる人って言ったら観光客か営業ていどじゃない。だいいち、ここ三十年で、この町にきて働いて外へ帰っている人たちているの? いないでしょ」

「信者からの“お布施”では物足りないの?」

「どっちのこと?」

「どっちも」

「そう。ーーーお布施はお布施よ。あくまでも教団と学会の運営費。この島と町には関係ないわ」

「本当かな?」

「ほ、本当よ。政教は一体化するものじゃない。切り離しておかないと駄目」

「じゃあ、なんでここの後援に母さんの名前が入っているのよ? おかしくない? 主催者にも入っているんだよ。どういうこと?」

「あれよ」

「あれってなにさ?」

「信仰の自由は何者にも制限されてはならないの。あなたも知ってんでしょ」

「だからって、母さんは、今までもこれから先も生贄にされる女の子を助けずに見て見ぬふりを続けるつもりなの?ーーーそれと、私も春樺もずっと気になっていたんだよ。今まで生贄にされてきた女の子たちは、いったいどこに行ってしまったんだよ。教団の言う蛇轟ダゴンが一度だって現れた? 物心ついたときからあの崖を見ていたのに、教団の信仰する肝心な神様が現れないじゃない。もしかして、生贄は食べられてないんじゃないの」

「きっと海の中でダゴンに食べられているのよ。それでいいでしょ」

「よくないよ!」

 眼を充血させて、涙をいっぱい溜めて、市夏は叫んでソファーから跳ね上がるように立った。次は、拳を強く握っていく。

「ねえ、母さん。海の中に落とされた女の子たちは、どこに連れて行かれたの?」

「言ったでしょ。海の中でダゴンに食べられたって」

 銭樺の目付きが鋭くなり、据わった。

「ねえ、市夏。あなた、どこまで知ってんの……?」

「母さんこそ、私がそれを答えたらどうするつもり?」

 声を震わせて返した市夏。

 正直もう、たくさんだった。

 数年前の黄肌有子。

 昨年の海淵真海。

 そして、今年の潮干ミドリ。

 これに言葉を放たなくなった銭樺。

 母親の答えを待ちに入った市夏。

 鼻を啜りながら姉の袖口を引っ張りだした春樺。

 沈黙からの膠着状態に入ってしまった。

 壁掛け時計の時を刻む音だけが部屋に響いていた。

 あれから何秒ほど経過しただろうか。

 銭樺と市夏の目の前に、大きな赤い五芒星の円形魔方陣が回転しながら出現した。あるていど回転を終えたところで、五芒星は逆さまの位置で止まった直後、真ん中から縦に線が入って開いていったと思ったら、その中から三つ揃いのスラックス姿の長身美女が現れた。

「お疲れーー」

「日並! 普通に部屋に入ってきてっつったでしょ!」

 そうとう驚いたのか、銭樺が珍しく目を見開いた。

「しばらく親子水入らずにしておこうかなと思っていたんだけどね、そっとしていたら不穏な空気になっちゃったから出てきた」

「え? 見てたの?」

 この問いに日並は、銭樺から市夏と春樺に赤褐色の瞳を流したのちに、再び葡萄色のワンピース姿の美人に目線を戻した。

「先を歩く市夏ちゃんの背中が見えたときにね、黒くてモヤモヤとしたモノが見えたのよ。だから様子を見てみようかなーって思ったんだ」

 市夏からの鋭い視線を感じつつ。

 目線は銭樺から外さない。

「おばさんはね、可愛い二人のために念のために言っておくね。ーーー深入りし過ぎたら、私、あなたたちを助けられなくなっちゃうから気をつけてね。それだけよ」

 白い歯を見せて照明で輝かせて、笑顔になった。

 しかし日並は、相変わらず銭樺を見たまま。

 半分ほど目を伏せた銭樺は、ソファーで頬杖をついて溜め息をついた。それから出たひと言。

「そういうことだよ、市夏。春樺もね。ーーーあんたも政治をしたければ、よく考えておきなさい」

「…………! 母さん……!」

 歯を剥いて、喉から絞り出すかのような声で叫んだ。

 と、そんなとき。

 軽快に鉄扉をノックする音を聞いた。

「鯉川鮒。入りますよ」

「開いてますよー。どーぞー」

 慎重に開けたと思ったら、小袖姿の白髪の長身美女が入ってきた。爪先を内側にして、摺り足できて、銭樺のソファーで足を止めた。

 黒眼の銀色の瞳で見て。

「お隣、良いかしら?」

「ええ、どうぞ」笑顔。

「ありがとう」

 礼を述べて、銭樺の隣に腰を下ろした。

 で。市夏はというと、先ほどまでの怒りと警戒はどこへやら。新たに入ってきた“人魚姫”の登場により、頬がほんのり赤くなった。

 ー嗚呼……! 鮒ちゃん可愛い!ーー

 内股の摺り足で歩く鯉川鮒の姿に、萌え萌えになっていた。それは、妹の春樺も同じだった。なんだか面白くなさそうだった日並。これに気づいた鯉川鮒と銭樺が、歯を見せて微笑み、手刀で奥のソファーを「どうぞ、お座りください」と無言で指して促した。


 場所を移して。

 潮干家。

 お膳のある八畳間で、家族は長女であるミドリの死を悲しんでいた。虹色の鱗の娘を蛇轟ダゴンへの生贄として捧げられてしまうことは、この島のこの町では死を意味することであった。我が家の娘が死ぬところなど、誰が好き好んで見ようと思うのか。一家の泣き声は、家の外まで響いていた。

 潮干リエは、ミドリが高等部に上がったころに買ってあげたダークグリーンのヘアバンドを両手で握りしめて、正座して上体を折ってしゃがみこむように泣いていた。悔しさと怒りと喪失感と悲しさが入り交じり、歯を食いしばって声を殺している感じで、愛娘の名を呼んでいた。

「ミドリ……! どうして……、あなたが……! こんなの……。こんなことに、なんの意味があるの……! ねえ、ミドリ。私の代で終らせるって、なに……? 母さん……、意味が分かんないよ……! 母さん、どうすれば良かったの……? ねえ、ミドリ……!」

 割れた痕を接着してその上からセロハンテープで巻いて止めて、いわゆる「雑な」修復してあるダークグリーンのヘアバンドは、消える以前のミドリが長崎に帰る直前に東京都内で自身で修復した物。思い出の品から遺品へと変わった。

 次に、潮干タヱは、ペタンコ座りで大泣きしていた。両腕の烏賊イカのような触手の先端を手の甲として使い、稲穂色の瞳からとどめなく流れる涙を拭っていた。

「わあああああん! お姉ちゃああああん! なんで! なんで行っちゃったのおおおおおーーーー! うわああああああん! お姉ちゃああーーーーん!」

 縦に大きく口を開き、鈍色の尖った歯を剥いていく。

 タヱは、姉が大好きだった。

 姉妹でよく喧嘩していたが、姉が大好きだった。

 ミドリが東京に行ってから両腕が生えてきたので、その姉が長崎に帰ってきたときは嬉しすぎて飛びついて抱きしめた。イカの触手とはいえ、せっかく生えた腕だったから、タヱはこれを機に嬉しいことがある度に姉に抱きついていた。

 最後は、潮干舷吾郎。妻のリエに寄り添うかたちで座り込み、片手で妻の肩を抱いてあとの片手は流れ落ちていく涙を拭っていた。百九〇センチを超える身の丈であるが、決して肥満体型ではなく、引き締まった腹筋と腰回りを持っていた大男である。舷吾郎は泣くことのない男であったが、このときばかりはさすがに泣いた。

 我が家の長女は帰らぬ人となってしまった。

 そんなときである。

 呼び鈴を鳴らして木製扉をノックされて。

 玄関が開けられて、何者かが裸足で入ってきた。

「ただいまーー」

「ぎゃあ!」

「ひいいぃっっ!」

「うわあーー!」

 潮干ミドリ、帰宅。

 これに驚き、悲鳴をあげるリエとタヱと舷吾郎。

 全裸姿で頭にはワカメだか昆布だかを被ってまとって、黄金色の髪の毛をほとんど隠していた。全身を海水でずぶ濡れにして、これを歩くごとに滴らせていた。表情には明るさに欠けていたので、疲労によるものだろうか。

 家族三人に向けて、敬礼していく。

「潮干家の長女、一時的に帰還しましたー」

 声にちょっとばかり力がない。

 やはり疲労しているようだ。

 三人が立ち上がり、思わず駆け寄って抱きついた。

「おかえりなさい!」

「おかえり!」

「おかえり! お姉ちゃん!」

 両側の母親と父親の肩にそっと手をやって、ミドリはゆっくりと引き離した。不思議そうな顔をする家族三人に微笑んだあと、唇の中央に人差し指を立てていく。そして、手招きして再びお膳を囲うように座ってもらったのちに、ミドリが三人に向けて口を開いていった。声のトーンとボリュームを落としていく。生贄から奇跡的に生還してきたこのミドリは、いまだに全裸姿であった。

「せっかく祝ってもらったところで悪いんだけど」

「頭に付いてるソレ、取っちゃえば」

 リエからの指摘を受けて、頭からワカメと昆布を取って三つ折りにして畳に置いた。会話の再開。

「えー。せっかく祝ってもらったばかりで悪いんだけど。ーーー私を死んだことにしててくれないかな」

「え? なんで?」

「それが無理なら、消えて失踪したことに」

「なんでよ? せっかく帰ってきたのに」

「計画があるの」

「計画? なんの?」

「教団と学会に風穴を空ける」

「へ? 学会って院里学会でしょ。バカデカイところよ。できるの?」

「できるの。東京にいた三年間と陰洲鱒町ここに帰ってきてからの一年間、いろんなものを得たわ。そして今からさらに一年間いろいろ動いて、きっかけを作るんだけど。そのためには私はこの世にいないことになっていたほうがフリーで行動しやすいの」

「なんか、私たちの知らないところでいろんなネタを掴んだみたいね」

「それがね、いくつか掴んだんですよ。奥さま!」

 得意気に答えた直後に、手のひらを三人に見せて「ちょっとタンマ」の合図を出したミドリは、座布団を引っ張ってきてその上に正座した。畳の上は痛いらしい。

「ねえ。いい加減服着たら?」眉を寄せてリエのひと言。

「大丈夫。いつも私、暑いときは裸でしょ」

「舷吾郎さんもいるんだけど」

「娘だし。問題ないっしょ」鈍色の尖った歯を見せた。

「あ。口の中」長女の変化に気づいたリエ。

「本当だ。尖ってる」姉の歯が見えたタヱ。

「おや? 戻った?」白い歯ではないので驚く舷吾郎。

 三人の同じ反応に目がいって、ミドリは「?」といった表情を浮かべたが、触れた指先の感覚が伝わったとき「!」と目を見開き、跳ねるように立ち上がって洗面所へと向かった。それから、一分と経たずに八畳間に戻ってきたミドリは、再び座布団に正座したあと話しを続けていく。

「私、今は身体を半分盗まれたんだ。だから前の歯に戻ってしまったんだよ」

「え? え?」不可解な顔つきになるリエ。

「ヒメさんとホタルちゃんの頬にキスしたあと、海に飛び込んでね。私、姿を消したの」

「なにそれ?」驚くタヱ。

「だってさ、磯野一家の殿方に捕まってその後のロストバージンって嫌じゃん。だから、私は私の貞操を守るために目を虹色に光らせて消えたわけよ」

「それから?」リエの促し。

「姿消して沈んだときに、一家仲良く頭ゴッツンコかまして気絶してさ、どざえもんになって浮いたんだよねー。ザマァと思った」

 その様子を思い出して、ほくそ笑むミドリ。

 これを聞いた三人は、想像して“ほくそ笑んだ”。

 ミドリの話しの続き。

「紅子さんがね、助けにきてくれているのが見えたときは、私泣いちゃった。ーーーまあ、そのあとなんだけど。虹鱒山に移動していたときだった。私とあまり変わらない大きさの、なんか身体中が触手だらけのキモい女が現れてきてよ。アイツ、たくさんの触手を私に巻きつけてきたのよ。初対面で触手プレイはNGだから、虹色の力を使って何本か引きちぎったんだけど、同時に私の中から引き抜かれる感覚を味わったの。それからは、もー、泳ぐのがキツくてキツくて。家の帰り道も息も切れ切れだったのよ。ーーーで。嗚呼、半分盗られちゃったなあと」

「それは大変だったわね」同情するリエ。

「ありがとう」

 家族三人に可愛い笑顔を見せた。

「そうそう。さっきの話しに戻るけど。ーーー私、一年間姿をくらませたいんだ。協力者は、ちゃんといるから心配ナッシング」

「消えたら消えたで、マスコミがあなたを前以上に追うし、私たちにも今より集るだろうし。耐えられるかしら…………」

「私はもう、耐えられない。だけど、この町の私とタヱと同年代の女の子と、これから先の女の子たちのためを思えば、なんとか耐えられるかなぁーー。まあでも、私たち家族にメディアの目を向けさせておけば、教団と学会の“お偉いさん”たちのガードが多少弛むと考えているんだよ。そういうときこそネタを掴みやすいんじゃないかな。一年間は短すぎる時間だけどさ」

「そう……。頑張ってね!」

「ありがとう!」

 母親の応援に、ミドリは瞳をキラキラとさせた。

 そして、ゆっくりと膝を伸ばして立ち上がり。

「あとは準備しながら話すよ」

 そう長女が言うので、リエとタヱと舷吾郎は膝を崩してつくろぎだした。「あーー、喉渇いた!」と言いながら、ミドリは冷蔵庫を開けてペットボトルのジュースを一本取り出して、タヱを見た。

「それ、姉さんが買ってきた分だよ」

「ああ、そう。良かった」

 笑顔になってボトルのキャップを開けて口に運んでいく。オレンジミックスとあるこのジュースは、柑橘系の香りが鼻と口にいっぱい広がっていった。大きくゴクゴクと喉を鳴らしていく音は、聞いていて気持ち良かった。全部飲み干したあと、空のペットボトルを片手に「嗚呼ーー。ンマ……!」美味うまいと感嘆したのちに足で踏み潰したボトルだったものを床から拾い上げて、分別していたゴミ箱に捨てた。台所の流し台で顔を洗って掛けてあったタオルで拭いたあと、リエに聞いていく。

「母さん。海水浴に行っていたときに使っていた私の大きいビニールのバッグある?」

「それならまだ“あなた”の部屋にあるわよ」

「ありがとう」

 母親に笑顔を見せて、二階の部屋に向かった。

 裸のまま、ミドリは自身の部屋に足を踏み入れた。

 白い壁を基調にして、緑色の畳が映えている六畳間。

 マホガニーのニスで仕上げた勉強机と本棚。

 洋服箪笥。緑色のクローゼット。

 扇風機。壁掛け扇風機。緑色の壁掛け時計。

 押し入れ。

 初代から三代目までのタイガーマスクのポスター。

 折り畳み式の白いお膳の上には、高校生のときの写真。

 ミドリと摩魚が中央に立って、亜沙里と真海とタヱとホタルと有子が左右を挟んで並んでいた。市内高校のチアリーディング部の大会を観にきたときに知り合い、仲良くなって一緒に撮ってもらったときの写真であった。そしてその隣には、同じ頃に八人“全員”が入ることができるようにタイマー撮影した写真が。ミドリと摩魚と亜沙里が中央に立って、あとは左右に有子と真海とタヱとホタルとそして人魚である英玲子えい れいこの八人であった。緑色のクローゼットを開き、大きいビニール製バッグを手にしてファスナーを開けて、衣紋掛けから普段着と外出着を取り出して畳んでバッグに入れて、今度は洋服箪笥の引き出しから下着と靴下を数組ほど選んで取って衣服と一緒にまとめた。勉強机の引き出しから緑色のスマホと、USBを取って準備は万端。

 と、いきたかったが。

「財布財布!」

 財布と通帳と運転免許証を確保して、今度こそ。

「オーケー!」

 荷物を入れた大きいビニールバッグを肩から下げて、ミドリは二階からおりてきた。バッグからUSBを取って、妹に手渡す。

「はい、タヱちゃん」

「え、あ。なんなの、これ」

「東京にいた三年間とこの町に帰ってきた一年間で友達と掴んだネタよ。これをマルちゃんに渡してね。お願い。ーーーあとこれ。私の友達の連絡先ね。念のために預けておくから。頼んだわよ」

「オーケー!」

 触手の先端を丸めて角を立てて、サムズアップ。

 次に母親と父親を見る。

「さっきも言ったように、私がいなくなったように振る舞ってほしいの」

「分かったわ。私たちなりになんとか“お芝居”を続けてみる」

「ありがとう!」

 パアッと明るくなった笑顔を見せたあと、すぐさま真顔になり、家族三人へと頭を下げていく。

「今から一年間、私はこの町とここの女の子たちを助けるために家を出ます。どうか、協力をお願いします」

 ミドリのこの気持ちに、リエたち三人は頷いて、目もとの涙を指で拭っていった。

 代表して、リエからひと言。

「いってらっしゃい」

「いってきます!」

 明るい笑顔で手を振ったミドリは、潮干家を旅立った。

 いまだ、白い裸のままで。




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