***(十八)江戸の夜鳴き蕎麦と酒㈡***
「楓、戻って来たのか」
「……少しだけ」
「オヤジ、酒と蕎麦をもう1人前追加だ」
「へいっ!」
「忠相……いや越前、席を詰めろ」
ヨッシーはそう言うと、席を立ち私の隣に座った。
「楓、奥に入らぬか?」
奥とは、大奥のこと。
「……」
「痛てっててて」
私のお尻をスリスリしながら聞いて来るヨッシーの指を抓った。
「ご無体が過ぎますぞ」
珍しく越前さんが睨むと、ヨッシーは将軍なのに額をパチンと手で叩きながら私と越前さんに謝った。
「有難いお言葉ですが、私にも仕事がありますので」と丁寧に断る。
「そなたの仕事とは一体何なのだ?」
「タダで見世物小屋の世界に連れて行き、ご馳走を振舞うだけでは儲けが無く、とても仕事として成り立たないと思いますが」
「タイムアテンダントをしています」
「鯛む当てるんだと??」
「いえっ“たいむあてんだんと”と言って、私たちにとっては温故知新、ヨッシーたちにとっては“温新知故”を案内する仕事です」
「温新知故?」
「なるほど、それで改革を迷っている俺に的を絞ったと言う訳か」
少しエッチだけど、さすがに天下の名将軍だけに察しが早い。
タイムアテンダントの仕事は、対象となる人物にヒントを与えるものではない。
その人物が既に行おうとしていて、それを実行することに迷っている時に未来を見せるだけの仕事。
そうすることによって時の中で枝分かれして幾つもある世界の多くを、安心して豊かに暮らせる世界に増やすことが目的なのだ。
かなり難しい話になるけれど、過去が変われば枝分かれしている多くの現在も変わる。
「さあ呑め!呑め!」
店主が私に差し出そうとしたお酒を、ヨッシーが空中で受け取り私の前に置き呑むように催促する。
誰もが、自分の住んでいる世界が一番好き。
そして、その世界が住みよい好い世界なら、なんでも自慢したくなる。
ヨッシーの、その純真さに心を打たれ、鼻がツンとして涙腺が緩む。
泣き出さないように、催促されるままお酒を口もとに運ぶ。
少し麹の香りが薄い。
口に運ぶと、泡こそ立っていないけれど、ビールなどのように発酵したモノ特有の炭酸の様なスッキリ感がある。
辛口ではなく、かなり甘みのある酒。
アルコール度数は低く、ビール程度であろうか、少しだけ水が塩臭い。
「どうじゃ、江戸の酒は」
「美味しいです。口がスッキリして、いくらでも飲めそうです」
江戸時代の日本酒は精米技術が発達していないため、米の殆どがお酒になっている。
そのためにまるで甘酒のような状態で出来上がってしまうので、それを呑みやすいように薄めて出荷されていた。
だから沿岸部の井戸水で薄めた江戸の酒は、少し酒以外に水の雑味が入ってしまう。
「蕎麦が出来上がりましたよ」
越前さんが、私の前に出来上がったザル蕎麦を運んでくれた。
最初に注文した二つのうちの一つ。
ヨッシーと私の前に一つずつ。
「わっ私は後で注文してもらったのですから、後ので良いです」
「何を煩わしい事を、さっ早く江戸の蕎麦を食べなさい」
あれだけ思慮深い越前さんが、ヨッシーと同じくホント純真な子供のよう。
この時代の人たちは、雑念が少なく純真なのだろう。
だから夜に当たりを照らす防犯灯もなく、法律を余り知らない人たちも多く居て、武器を持っている武士や浪人が沢山居るにも関わらず犯罪が少ないのに違いない。
越前さんが現代の家族構成を見事に当てた時に言っていた、祖父母などから教わる躾こそが、最も犯罪の抑止力になるということなのだろう。
越前さんの言葉に甘えて、箸で蕎麦を取り汁に入れる。
「あぁっダメダメ、そんなに浸けてしまっては」
おっと、蕎麦の作法を忘れていた。
私は蕎麦汁も大好きだから、いつもこのスタイルだけど、さすがに将軍様やお武家様は作法に煩いのかも知れない。
「そんなに浸けてしまうと、辛くなるであろう」
“辛くなる?”
越前さんの心配そうに見つめる優しい目を見て、どうも作法と言う訳では、なさそうだ。
「ほらっこのように、箸で摘まんだ下のほうだけをチョイと汁につけていただくのです」
越前さんが、現在言われている“通”の作法通りに蕎麦をすすった。
江戸時代から、この作法があったのだと思いながら、とりあえずヒタヒタに汁に着けてしまった自分の分をすする。
“辛い!”
汁で真っ黒になった蕎麦の醤油辛さが半端ではなかった。
いつもお蕎麦を食べている時に、あんなに美味しい汁を作っているのにチョットだけしか付けないなんて作法は変だと思っていたのだが、ひょっとしたら昔の風習から来ているだけなのかも知れない。
これぞ楓流、温故知新!
「楓、いつまでここに居る」
「お蕎麦を食べ終わったら、直ぐに帰ります」
「もったいない、もう一度考え直せ。奥に来たら余が可愛がってつかわすぞ」
「それって、他の女の人にも言っているでしょう」
「……」
私の言葉にヨッシーは黙ってしまい、隣の越前さんが声を出さずに笑った。
「まあ良い。しかし江戸に来る用があったら、必ず余か越前に知らせるのだぞ。そしてまた必ず来い」
「ありがとうございます」
思わぬ言葉に、我慢できずに涙が零れ落ちた。
「楓どの!」
街灯のない夜とは言え零れた一滴を、越前さんが見逃すはずもなく、私はさっき食べた汁につけすぎた蕎麦のせいにして誤魔化した。
「よいよい。余が必ず、おぬし達の暮らす世の中を良いものにしてみせるゆえ」
「きゃっ‼」
ヨッシーが折角いいことを言ったと思い気を許していると、また私のお尻を手でナデナデしていた。
「もう!エッチ‼」
「まあ、良いではないか、減るものでもないし」
「「なりませぬ‼」」
私と併せるように越前さんも声を合わせて言ってくれた。