***㈠将軍吉宗と大岡越前守忠相、江戸城を出る***
正徳6年4月、7代目の将軍徳川家継が8歳(満6歳)の幼さでこの世を去り、紀伊藩 (今の和歌山県)から藩主徳川吉宗公が8代将軍として江戸に迎え入れられ、同年6月に年号は正徳から享保に改められた。
「忠相! 忠相は来ておるか!?」
「はっ、ここに」
裃から着流し姿に着替えた吉宗が呼ぶと、隣室の襖の向こうから呼びかけに応じて着真面目な声が返って来た。
吉宗の着替えを手伝っていた中﨟(ちゅうろう)と呼ばれる大奥女中の一人が、吉宗の指示に従い床に膝を落としてユックリと上品に隣室の襖を開ける。
開けられた襖の向こうに現れたのは、浪人姿をした江戸南町奉行大岡越前守忠相の姿。
「忠相、なんだ、その成りは?」
「なんだと言われましても……浪人でございます」
「余が、遊び人の町衆、しかも着流し姿だと言うのに忠相は浪人か。しかも刀まで……」
「はっ、これは上様の護衛も兼ねておりますので」
「刀を持って世を護衛せねばならぬほど、江戸の町は荒れておるのか?」
「いえ、断じてそのようなことは……」
「で、あろうの。南町奉行大岡越前守忠相が居る限り、この江戸は人々が平和で安心して暮らせる。そうであろう?」
「有難きお言葉、痛み入りまする」
忠相は、そう答えると額を畳に押し付けるように深々と頭を下げた。
「よいよい、刀の帯同は許すとしよう。ただし竹光にしておけ!」
「し、しかし……」
「江戸の町で、余の顔を知るものなど居るまい。ましてお忍びのときの余は将軍徳川吉宗ではないのだから、多少の無礼などで腹を立てるでないぞ」
「御意!」
「御意も無しじゃ! さあさあ今日は祭りだ、早う行くぞ」
「御意!」
「だから、御意は無しじゃと申しておるだろうが、この堅物め!」
そう言うと吉宗と忠相は、江戸城の平川門を出て竹橋から神田の町に向かったのであった。
「忠相、腹が減ったのう。どこかに旨い“目黒の秋刀魚”を食わしてくれる店はないかのう」
「はあ……目黒は反対方向ですし、城からはかなり離れておりますが、江戸は江戸前と言って新鮮な海産物が手に入るので海苔や寿司、シジミやアサリ、ハマグリなどが美味しゅうございます」
「その他には、何が美味い!?」
「深川あたりでは漁師などの“まかない食”として、白米に煮汁とアオヤギを入れた“ぶっかけ飯”の深川飯が評判と聞いております」
「なるほど、神田ではどうだ?」
「かけ蕎麦が美味しゅうございます」
「そうか……」
「……?」
はじめこそ食べ物の話をしていた吉宗だったが、忠相はそのあと上様の様子がオカシイことに気付いた。
「キャッ!」
「はっはっは」
小さな女の悲鳴と、そのあとに上様の笑い声。
何だろうと思ってよく見ていると、若くて綺麗な女性とすれ違うたびに上様はその女のお尻を触っていた。
「う、上様、その様なことをなさっては‼」
忠相は、南町奉行大岡越前としてこの様な行為を見過ごすわけにはいかなかった。
「よいではないか。減る物でもないし。良い余興だ」
「なりませぬ!その様なフシダラな行為をなさっては!」
「それは将軍として、と言うことか?」
「いいえ上様が将軍でなくとも、男として人間として、恥ずべき行いであると私は思います!」
忠相は自身で言った言葉の通り、南町奉行大岡越前としての厳しい目で吉宗を睨んだ。
さすがに“暴れん坊将軍”と言われた吉宗といえども、この眼には敵わない。
「分かった分かった、以後気を付けるから、その様な目で余を睨むな」
「はっ、こ、これは失礼をしました!」
「よいよい。紀州藩時代余の圧力にも負けず、公明正大に裁いた忠相の正義感にはお手上げじゃ。はっはっは」
(※大岡忠助は奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での境界を巡る訴訟で、紀州藩領に有利だった前例に従わずに公正に裁いた)
「おっ、あれは何の屋台だ?」
「あれは四文屋の屋台に御座います」
「なんでも四文なのか?」
「左様で」
「ちなみに、あの四文屋は何を食わせる?」
「煮売屋と屋台に書いてありますので、おでんや煮物などかと」
「おでんか、コレは良い。忠相、寄って行くぞ」
「はっ」
2人は担ぎ屋台の四文屋に向かった。
「オヤジ、何が旨い!?」
「へい、今日は江戸前の良いタコがあります」
「他には?」
「へい、芋も美味しゅうございます」
「よし、ではその2つを貰おう」
「ありがとうございます」
「おい、そこの浪人。お主も何か食べて行かぬか? 1つたったの4文だ」
「いえ、某は……」
「腹が減っては戦は出来ぬと申すように、いかに浪人と言えどもイザという時には幕府のために働くのであろう」
「それは勿論!」
「浪人、そのイザと言う時はいつ訪れるのだ?」
「それは分かりません。ですから“イザ”なのかと」
「ならば其方も食わねばなるまい」
「そ、それは……」
「腹が減っては戦は出来ぬ!」
吉宗にそう言われて忠相は渋々煮物の鍋の中をのぞいて、品物を選んだ。
「へい。お待ちどうさま。タコと芋です」
店主が串に刺した注文の品を渡し、吉宗が7文を差し出された店主の手に金を握らせる。
「一、二……七文……!?お客さん、1文足りません」
「そうか? もう一度よく数えてみろ」
「一、二……六」
「オヤジ、いま何時だ?」
「へい、もう七つでさあ……と、八。ああスミマセン、チャンと8文ありました」
(※7つ:江戸時代の時間の単位で、申の刻ともいい現在の15時から17時を指します)
「上様!あのようなことをなさってはいけません」
屋台のオヤジをまんまと騙して上機嫌の吉宗に、忠相が食って掛かる。
「よいではないか、たった1文くらい。いい余興だ。それに。あんな手に引っ掛かる方が悪い」
「しかし、屋台のオヤジには生活が掛かっております!私が1文払っておきます」
走って屋台に戻る大岡越前守忠助はは南町奉行らしく、どんなに小さな不正も見逃さない。