クラゲとキャラメル
細かく千切れた雲が、オレンジ色の飴粒の様に染まっていく。
時間が砂の様にこぼれていくのを感じながら、私は誰もいない教室に座っている。
一月のひんやりとした空気は深い海の中みたいだ。窓の外を見ながらこの間テレビで見た虹色クラゲを思い出した。
あのクラゲは今も海の中を旅しているのに、私はただ家と学校の往復を繰り返すだけ。
高校に入ったばかりの頃は、色々と夢を描いていたのに、『何となくかっこいい』という理由で入った弓道部は、結局続かずに辞めてしまった。成績は中の中で運動は苦手。
新作のお菓子を食べる事しか楽しみのない、何の取り柄もない私よりも、広い海を虹色に照らしながら、踊る様に生きているクラゲの方がよっぽど有意義だと思う。
こんな事を友達に言ったら、
『虹色クラゲ? 加世子、頭大丈夫~?』
と笑われてしまうだろう。
私は放課後になると、遠くを夢見て教室の窓から空を眺める。あの雲は世界を巡ってまたこの町へ帰ってくるのだろうか?
「こんな時間まで残っていたのか?」
ギクリとして教室の入り口を見る。声の主が教頭だったら、さっさと帰れと説教をされるだろう。
しかし、音もなく教室に入ってきたのは青木先生だった。
私はハゲ頭じゃなかった事に安堵して曖昧に笑って見せた。
先生は教室の窓際へ歩いていき、窓の戸締りをしている。
私はその隙のない動きを目で追った。すっとした立ち姿は、父がよく見ているお堅いニュース番組のキャスターの様だ。
私はそのキャスターの真似をして心の中でナレーションを付けてみる。
青木徹。二十七歳独身。歴史の教師で、授業中はその低い声と、淡々とした口調で数々の生徒を眠りの世界へ誘う。切れ長の目に高い鼻、薄い唇……と、整った顔立ちをしているが、銀のフレームで出来たメガネを光らせ、無駄のない授業をする彼は生徒に冷たい印象を与えている。
そこでナレーションは止まってしまう。私はこれ以上、先生の事を知らないからだ。
「……先生はいつもこんな遅くまで残っているんですか?」
私はナレーターごっこをやめて先生に話しかけてみた。授業中、余計な話を一切しない先生は今ひとつ掴めない存在だ。
「そうだ。今日は教頭が休みだから代わりに戸締りをしている」
「じゃあ、私も手伝います」
軽く手を上げ、席を立つ。
「いや、いい。君は暗くなる前に帰りなさい」
「帰りたいけど帰れないんです。次の電車が来るのは六時半ですから」
この町は田舎で、私の家はそのさらに奥の、辺鄙な場所にある。家から一番近い高校に合格したものの、ここから帰るには四時半か六時半の電車に乗らなくてはならない。HRが終わった後に全力で駅まで行けば四時半の電車に間に合うが、ただ単に走るのが嫌な私は、いつも六時半の電車に乗って帰る。学校や、駅周辺には特に遊ぶ所もない為、大抵こうして教室や図書室で時間を潰しているのだ。
先生の隣に並んで、上の方にある窓の鍵を確認しようとした。が、どうしても手が届かない。平均より低めの身長が恨めしい。
精一杯背伸びをしていると、先生が後ろから腕を伸ばして大きな手で鍵を確認した。身長が高いと、手も大きくなるのか。
「先生って、子供の頃に牛乳をたくさん飲んだんですか?」
「……牛乳は苦手だな。魚はよく食べていたが」
「魚か~。骨を取るのが面倒ですよね」
先生は私を一瞥すると、床に落ちている何かを拾った。それは三つの星が描かれたキャラメルの包み紙だった。
「最近よくこれが落ちているな……。一体何なんだ?」
先生の呟きが静かな教室に波の様に響く。
「あ、そのキャラメル、今流行ってるんですよ。普通の包み紙は星が三つしかないんですけど、たまに星が五つプリントされたものがあって、それに願い事を書くと叶うんです」
「……よくそんなことに熱心になれるな」
先生は興味なさそうに言うと、包み紙をゴミ箱に入れた。
「雑誌にも載っていたんですよ! 友達はこれのお陰で彼氏が出来たって言ってたし」
「それは何よりだ」
先生はこちらを見ずに教室を後にすると、夕日が深く差し込んでいる廊下へ消えてしまった。
青木先生とは授業でしか会わないが、笑顔というものを一度も見たことがない。
カッコいい先生に目がない女子生徒からも、『無表情で怖い』という理由で敬遠されているのだ。
先生は一体どんな風に笑うんだろうか?
想像できるのは引きつった笑みか、ロボットの様なぎこちない物だけだった。
HR後の教室を出て、歴史の授業で使用された重たい小型プロジェクターと、カバンを抱えて一人で歩く。青木先生がプロジェクターを教室に忘れていったせいだ。
どうして年に一度くらいしか出番のない物を使う日に限って、私は日直なんだろう。もう一人の日直は風邪で休んでいるし、友達は彼氏とデートがあると言ってさっさと帰ってしまった。私は運のなさを嘆きつつ、渡り廊下を歩いた。
社会科の資料室は、特別棟の三階の端にある。『特別棟』なんて呼ばれているが、実際は少子化の為使わなくなった空き教室があるだけだ。そこには学校中のガラクタが集結していて、古い机やイス、去年の文化祭でどこかのクラスが作った、投げやり感溢れる空き缶アート等が無造作に置かれてある。捨てるに捨てられない、行き場のない物達がこうして運ばれたらしい。
冷え冷えとした冬の空気と、独特の埃っぽさを感じながら塗装の剥げた階段を上がる。
これを運んだらお菓子でも食べて栄養を補給しよう。そう思いながら、資料室のドアを開け、抱えてきたプロジェクターを空いている棚に置いた。
一息ついて部屋の中を見渡してみる。資料室に入るのは初めてだ。天井まで伸びた棚には授業で使う地図等の他に、古い教科書や束になったプリント類が埃を被っている。部屋の真ん中にある長机の上には数冊の分厚い本と灰皿があり、机の下にはなぜか電気ストーブがあった。
それは雑然とした資料室の中に、紛れ込むようにしてひっそりと置かれていた。
スイッチを入れてみると、暖かなオレンジ色の光がゆっくりと灯る。
今日は図書室で時間を潰そうと思っていたが、ストーブもあることだし、ここで過ごしてみようか。誰もいない特別棟は隠れ家の様でドキドキする。
私は資料室のドアを閉め、カバンを長机に置くとストーブの傍にあるパイプ椅子に腰かけた。カバンからキャラメルを取り出して舐める。包み紙の星はまた三つだった。
窓の外を見ると、遠くに海が見えて、夕日に照らされて微かに光を放っていた。魚の鱗の様なきらめきは、私の心を想像の世界へ運ぶ。
あの海の向こうには一体どんな世界が広がっているのだろう。私はこの田舎町から出たことがないけど、海外へ行くことが出来たら暖かい国に行きたい。
流れる雲を見ながら、以前読んだ本を思い出した。太平洋に浮かぶ小さな島について書かれたものだ。
どこまでも続く美しい海に、青い空、のんびりとした気候、温かい人柄……。島の人達はこんな中途半端な私でも受け入れてくれるだろうか。
ガラリという音がして、反射的に入り口を見る。そこには青木先生がノートパソコンを抱えて立っていた。
先生は資料室のドアを後ろ手で閉め、蛍光灯の明かりを付けた。私を見ると、どうしてここにいるんだと言わんばかりに眉を寄せている。
「先生が忘れたプロジェクターをせっせと運んで来たんですよ。疲れたのでちょっと暖まってます。ってゆうか、このストーブいいですね。教室にも置いてくださいよ」
私が軽い調子で話しかけると、先生はしれっとした表情で言った。
「それは無理だな。これは俺の私物だ」
「私物って……。ストーブなんか持って来てもいいんですか?」
「ダメだろうな」
あっさりと言われて私は面食らう。先生の表情は崩れないのが何だか悔しい。
「あ~いけないんだ~違反ですよ~?」
私はわざとらしくおどけて言ってみた。こういう言い方をしたら先生はどんな反応をするだろうか。
先生はちらりと私を見て息をついた。
「君だってお菓子を食べているじゃないか。菓子類の持ち込みは校則違反だろう?」
まさか反撃されるとは思わなかった。バレない様にこっそりとキャラメルを舐めていたのに分かってしまったか。
私が言い淀んでいると、先生は形の良い唇をわずかに緩めて
「まぁ、別に取り上げるつもりはない」
と、意外にも見逃してくれた。
先生自身も、電気ストーブなんて持ち込んでいるから細かいことを言うつもりはないのかも知れない。
先生はパイプ椅子に座ると、キッチリと締められたネクタイを荒っぽく片手で緩め、首元のボタンを一つ外した。
その仕草が妙に大人っぽくて、ドキリとする。骨ばった手にはうっすらと血管が浮いていて、自分の手にはない色気を感じた。
先生はそんな私の視線には気づかずに、掛けていた眼鏡を机の上に置いた。
夕日に照らされた明るい茶色の瞳が覗く。先生の目はキャラメルみたいな色だった。
「……先生の眼鏡なしバージョン」
私は思わず呟いた。先生の素顔を見るのは初めてだ。
「眼鏡なしバージョン? ……何だそれは」
先生は眉を上げて軽く笑った。
その表情は思いがけず子供っぽいもので、普段の素っ気ない印象は消えている。キャラメル色の瞳がこちらを見ていて、私はなぜか胸がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
眼鏡を外してネクタイを緩めた先生が違う人に見えたせいだろうか。
「先生、どうして眼鏡外したんですか? もしかして今流行りの伊達眼鏡?」
「……伊達な訳ないだろう。パソコンを使う時は裸眼の方がいいんだ」
先生は端的に言うと、パソコンのキーボードを叩き始めた。ピアノを弾くように両手を軽やかに動かす先生の指に見とれてしまう。
あの長い指に触れたらどんな感じだろう。私は思わず想像して先生の顔を見たが、そこにはいつもの無表情があるだけだった。
……ここにいると仕事の邪魔かも知れない。
私はカバンを取って資料室を出よう立ち上がった。
「あぁ、暇ならこの本を図書室まで持って行ってくれないか?」
先生にお使いを頼まれて振り向く。私は今から図書室に行く所だったので、別にかまわないと本を受け取った。
その時名案が浮かんだ。
「先生、これから放課後にお使いをするので、その代わりに明日から六時までここにいてもいいですか? あまり遅くまで図書室にいると委員の人に睨まれるし、教室に残っているのが教頭先生にバレたらお説教をされるんです」
それに普段とは違う先生をもっと見てみたいから……。と、心の中で付け足す。
「……君は電車待ちだったな。……わかった。でも、ここの事は他言しない様に。コレが教頭に見つかるとうるさいからな」
先生は長机の下にあるストーブを指差した。先生も教頭が苦手なんだと思うと、親近感が湧いた。
「了解です。じゃあ、行ってきます」
資料室のドアを閉めると、私は何だか楽しくなって軽い足取りで図書室へ向かった。
資料室に行くようになって一週間くらい経つが、ここには私と青木先生の他には誰も来ない。資料室にある備品はどれも古くて、あまり出番がないらしい。
教頭も寂れた特別棟に生徒がいるなんて思ってないのか、見回りに来ることもなかった。
資料室のドアを開けると、先生はジャケットのポケットから煙草を取り出していた所だった。
しかし、私に気付くと決まりが悪そうに煙草を箱に戻してしまう。
「あ、私の事は気にしないで吸ってください」
「……生徒の前では吸えないだろう」
先生は苦い顔で言った。
これでは先生に悪い。この資料室は元々先生の場所だったのだ。急いでカバンを探って、数個のキャラメルをパソコンの隣に置いた。
「煙草の代わりにどうぞ。願いが叶うキャラメルですよ」
「あぁ、君がこの間言っていたやつか……」
「覚えていたんですか?」
二人で放課後に戸締りをしてから二週間くらい経つ。先生はあの時の会話なんてとっくに忘れていると思っていたのに……。
そう言えば、私が電車通学ということも覚えていてくれた。先生は他人に無関心に見えるけど、実はちゃんと話を聞いてくれる人なのだと思った。
「俺はあんなジンクスは信じないが……。せっかくだから貰っておこう」
先生がキャラメルを食べたのが意外だった。てっきり、『いや、いい』と言って突っ返してくると思っていたのに……。
自分であげたクセに……。と心の中で苦笑しながら先生の向かい側に座ると、机の上に放られたキャラメルの包み紙を見た。
……ん?あれは、もしかして……!
思わずイスを蹴っ飛ばして立ち上がり、先生の隣へ駆け寄ると、包み紙を手に取った。
「やっぱり星が五つある!」
それは、ずっと探し求めていたレアなものだった。私は包み紙を机の上に置きながら言った。
「いいなぁ~。私、このキャラメル百個くらい食べているのに一度も当たったことないんですよ。雑誌に紹介されたお陰か最近は品薄だし」
「……じゃあ、これは君の物だ」
先生はそう言うと、机の上の包み紙を掴んで私のブレザーのポケットに入れた。先生のゴツゴツとした手が、脇腹に触れたような気がした。先生の手はすぐにポケットから出て行ったけど、体が熱を帯びた様に一気に熱くなる。
「……百個も食べているのに自分では当たりを引いたことがないのか。運が悪いんだな。佐倉は」
先生は耳に残る低い声で、私の名前を呼んだ。軽いからかいの色を含んだ口調と、両目を少しだけ細めた甘さのある意地悪な笑みに私の心拍数が上がる。
動揺した私はポケットから包み紙を取り出すと先生の隣に勢いよく置いた。
「だ、だめですよ。これは食べた人が願い事を書かないと意味がないんです!」
先生が驚いた様にこちらを見ていて、顔が、指先が、おかしい位に赤くなるのを感じた。
「せっかくの珍しい包み紙なんですから有効活用して下さい!」
うるさく跳ねる心臓の音に負けないくらいに大きな声で言う。
「……有効活用ねぇ」
先生はポツリと呟いて、包み紙をズボンのポケットに入れると、噛んでいたキャラメルを飲み込んだ。
先生の喉仏が動くのを見て、ゾクリと胸がざわめく。自分まで噛まれて、溶かされて、飲み込まれたような、体がふわりと浮くような変な錯覚に陥る。
私はぎこちない足取りで窓際へ行くと、いつもの様に外を眺めた。景色でも見て、取りあえず心を落ち着かせようと思った。
先生はそんな私の気も知らず、何事もなかったかの様にパソコンのキーを叩いている。
そう、別に何事もなかった。ただ、先生が珍しい包み紙を私のポケットに入れただけ……。
それだけの事なのに、どうして爪の先、髪の毛の一本一本までもが敏感になっているのだろう。まるで全身が神経になったみたいに後ろにいる先生を気にしている。
先生がキーを叩く手を止めて、缶コーヒーを飲んでいるのが窓ガラスに映る。先生は私がガラス越しに見つめているのにはまるで気づいていない様だった。
それから私は、先生がいつも飲んでいるコーヒーを買うようになった。正直、コーヒーはあまり好きじゃないが、先生と同じものを飲んでいるというだけで心が躍った。
思い切って彼女はいるのかと聞いてみて、『いないよ』と言われた時は緩む頬を抑えきれなかった。
先生にコンビニで買ってきたお菓子を勧めると、『君はお菓子を食べに学校に来ているのか?』と呆れた様に言われるけど、私がいる前では決して煙草を吸わない先生は、口さみしいのかチョコレートやクッキーに手を伸ばすのだ。
私だけが知っている先生の姿は、とっておきの幸せな秘密として誰にも言わずにおいた。
二月も中旬になり、そろそろ進路を決めないといけない時期がやって来た。皆、それぞれの夢に向かって動き出しているのに、私は先日配られた進路希望を書くプリントを提出できずにいた。
「……先生、どこか遠くに行きたいです」
いつもの様にぼんやりと窓を眺めながら呟く。先生がパソコンのキーを叩くのを止めてこちらを見た。
「遠く? ……いきなりどうした」
「……虹色クラゲって知ってますか? 綺麗に光りながら海中を泳いでいるんです。あー、私もクラゲになりたいなぁ。そしたら世界中を旅できるのに」
真っ暗な深海でも、自分で光を出して進んでいくそのクラゲを、最近よく思い出す。
「なんて、バカバカしいですよね。進路が決められなくてクラゲになりたいなんて……。ただの現実逃避ですよ」
私は自嘲気味に言って笑った。先生はそんな私を見て、
「……君は、少しナーバスになっているだけだ。そんな時期があるよ」
と心の内側をそっと撫でるように言った。
先生もこんな風に悩んだりしたのだろうか。
「君は、どんな事に興味を持っているんだ? そこから何かが見つかるかもしれない」
先生は探るように私を見た。その真剣な視線を受けて、私はためらいながらも言葉を紡いだ。
「……私、旅番組が好きなんです。その国の文化や歴史を知るのが楽しいから……。それでいつか私も旅したいなって思っていて……」
こんな事を誰かに話すのは初めてだった。クラスの皆のように明確な夢じゃない。ただ、世界を見てみたいという霧のような儚い思いだった。
先生は、ただ静かに耳を傾けてくれている。それが心地よくて、英会話の教材を母にねだって却下されたことや、旅関係のエッセイを図書室で借りて読んでいること、外国の雑貨を買い集めていること等を話した。
自分の心を伝えていく内に、ぼんやりとした夢が形になっていくのを感じていた。それは、いつも窓から眺めていた海や空が、目の前に広がっている様な不思議な感覚だった。
「……私、色んな国へ行って、それを紹介する仕事に就きたいです」
自分で発した言葉が耳に入ると、霞がサッと晴れて視界が明るくなった気がした。
先生の、教師にしては長めの髪が、夕日に照らされていて淡く輝いて見えた。先生は一言、
「そうか。……いい夢だな」
と言っただけだったが、その瞳は包み込む様な優しい色をしていた。
三月に入って少しずつ寒さが和らいできた。ここ最近、資料室へ行っても先生がいない日が続いている。学期末は色々と忙しいのだろうか。
春休みが終わって新学期になれば先生は資料室へやってくる。そう思いながら、私は誰もいない資料室で、担任の先生に貰った大学のパンフレットを眺めて過ごした。
旅行関係の仕事に就くにはどの学部がいいのだろか?先生にも相談に乗って欲しい。
先生のいない放課後はゆっくりと進んでいったけど、とうとう三学期最後の日になってしまった。
終業式の為、体育館に入ると先生の姿を探す。私はどこへ行っても先生を探すのがすっかりクセになっていた。
校長先生が壇上に上がり、長い話を始める。ようやく終わったかと思うと、青木先生を先頭に数人の先生達が壇上に上がって来た。
先生はいつものグレーのスーツではなく、式典用の黒いスーツ姿だった。そして校長先生は思いがけない言葉を口にする。
「今から離任式を行います」
離任式?
先生がいる壇上は、いつも以上に遠く、空気のない別世界の様に感じられた。先生が何を言っているのかうまく聞き取ることが出来ない。私はただ、呆然と壇上を見つめていた。
「今から風紀検査をするので、生徒の皆さんは一列に並んで下さい!」
誰かがマイクで呼びかけているのが耳に入ってきた。周りの空気が動くのを感じ、いつの間にか式が終了していたのだと気付いた。
私は我に返って何とか抜け出そうと体育館の出口へ向かった。先生に聞きたいことが山程ある。担任を持っていない青木先生は、風紀検査が終わってしまう前に学校を後にするかもしれない。
しかし生活指導の先生に腕を掴まれてしまい、体育館を出ることは叶わなかった。
風紀検査から解放されると、私は一目散に走り出した。
職員室にはいなかった……。もう帰ってしまったのだろうか?
私はその考えを振り切って、特別校舎の階段を全速力で駆け上がった。先生がいそうな場所は職員室の他には資料室しか心当たりがない。両足が、信じられない速度で体を運ぶ。
勢いよく資料室のドアを開けて小さな部屋を見つめた。そこにはがらんとした殺風景な空間が広がっているだけで、机の下にあった先生の電気ストーブもなくなっていた。
私は耳まで届く鼓動と、嵐の様な激しい息切れで思わずしゃがみ込んだ。
三月に入って先生が資料室へ来なくなったのは、きっと新しい土地へ行く準備と引き継ぎの為だ。先生は何も言わなかったけど、こういった事は事前に生徒へは通告されないし、言ってはいけないとどこかで聞いたことがある。
……そうだ! 教員用の靴箱を見て来よう。先生の靴があれば、まだ学校のどこかにいる。
一縷の望みを抱いて立ち上がった時だった。
「佐倉」
聞き慣れた低い声が聞こえてハッと振り返った。
「……せ、ん、せい」
会いたかった人がいるのに、たくさん聞きたいことがあるのに、頭がぼうっと痺れて胸が詰まって言葉が出てこない。
「HRはどうした?」
先生は困った様に言って、ゆっくりと私の傍へ来た。
「……サボり……ました」
私は喉の奥から声を絞り出した。
「さっき、君が階段を駆け上がっていくのが見えて追ってきたんだ。……これを渡そうと思って」
先生はポケットからカサリと音を立てて一枚の小さな紙を取り出した。それは、五つの星がプリントされたキャラメルの包み紙だった。
「これって私があげたキャラメルの……?」
先生は頷いて、私に包み紙を手渡す。先生の指先がそっと手のひらに触れて離れた。
包み紙には角ばった先生の字で、
『佐倉の夢が叶いますように』
と書いてあった。
「……ジンクスを信じてみたくなったんだ」
先生の言葉を聞いて涙が溢れた。それは別れの悲しさからくるものなのか、先生の気持ちが嬉しかったからなのか、自分でも分からなかった。
「頑張れ、佐倉」
先生が私の名前を呼ぶ。それはとても温かく、優しいものだったが、どこか懐かしむ様な声は、先生の中で私が思い出になったかのような、寂しい響きが含まれていた。
「……進路の事は数学の山本先生が詳しいから相談するといい」
他の誰かじゃなくて、青木先生に相談に乗って欲しかった。私はその言葉を飲み込んで笑顔を作った。
「新しい学校はどこなんですか?」
私は淡い希望を抱いて先生に聞いた。近くの学校だったら駅などで会えるかもしれない。
しかし、次の学校はここから電車で二時間程かかる遠い場所だった。私は絶望的な気持ちになって先生を見つめた。そんなに遠い場所ならもう私達が会うことはないだろう。それなのに先生の瞳は、いつもと同じように茶色の淡い輝きを湛えているだけだった。
その瞳を見て私は悲しく悟ってしまった。
目の前にいる人にとって、私はただの生徒に過ぎないのだと……。
「……これ……ありがとうございます。大切にします」
私はずっと握りしめていた包み紙を、先生への思いと一緒にポケットにしまった。汗ばんだ手のひらがポケットの内側に張り付く。
今ここで気持ちを伝えても、先生を困らせてしまうのは分かっていた。
先生が包み紙を渡す為にわざわざ私を追ってきてくれた。ジンクスを信じないのに、私の夢を願ってくれた。
……それだけで十分じゃないか。
私は、新学期になっても資料室に行くことはないだろう。この大好きな瞳に、私が映ることはもうないのだから……。
先生と資料室を出て廊下を歩く。二か月くらいの間、毎日のように資料室で先生と過ごしていたのに、一緒に歩くのは初めてだった。
「佐倉、元気で」
「先生も、お元気で……」
簡単な別れの挨拶を交わして私達は別々の場所へ向かって歩き出した。
私は教室へ。
先生は別の学校へ。
数歩進んで振り返る。抜けるような青空からゆっくりと光が降りていて、先生の後ろ姿を明るく照らしていた。
一度も振り返らない先生を見て、甘やかな痛みが胸に広がる。
この痛みは時間が経てば消えてしまうのだろうか?
木々を優しく揺らす春風が世界を巡る旅を続け、薄い雲がクラゲの様に漂って空に溶けていった。
私は小さくなった先生の背中と、ポケットの中の包み紙に、夢を叶えるとそっと誓って教室へ向かった。
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