夜明け
私達は冬の夜を歩いた。白い空気が闇の中で見えそうだった。私はかじかんだ手を擦り合わせた。乾燥した手がかさかさと音を立てた。道沿いの家々から明かりが漏れて、団欒の声が聞こえた。そのなかで、私達は一言も発しなかった。ただゆっくりと歩いていただけだった。そして、公園がふと私の目に入った。おじいさんは、
「公園に行きませんか?」
とぼそっと言った。そして、おじいさんは左の足を引きずりながら、公園に入っていた。私はおじいさんの後をついていった。夜の公園は誰もいなくて静かだった。そして私達は古ぼけた一台のベンチに座った。ベンチは座った反動で、軽く音を立てて、またその居心地をとりもどした。
そしておじいさんは目を閉じた。おそらく冬の匂いを嗅いでいるんだろうと私は思った。
「私はもうすぐ死ぬんです」
おじいさんはぼそっと言った。
「え?」
「私はもうすぐ死ぬんです。もう末期の癌なのです。あちこち内臓中に、転移して、助かりません」
私はどう言っていいのかわからず、黙ってしまった。おじいさんは笑って言った。
「深刻にならないで下さい。私は死ぬのが怖くありません」
私は急に涙が出てきた。涙がぽろぽろとスカートの上に落ちた。スカートには涙の黒い斑点がところどころに出来た。
すると、おじいさんは
「手を握ってもいいですか?」
と言った。その語調は淡々として、おじいさんがどんな感情でそう言ったのかは読み取れなかった。私は泣きながら、軽く頷いた。おじいさんは皺が入って、血管の浮き出た、筋張った手で私の手を握った。おじいさんの手はしっかりと私の手を握り、その手は温かく強かった。私をこの世界に繋ぎとめてくれていた。
私達は何時間、そのまま過ごしただろう。
鳥がちちと鳴き始めた。朝の光が東から仄かに照らし始めている。もうすぐ夜が明けるのだろう。
私は夜明けが待ちどうしかった。もう夜の闇は怖くない。
おじいさんは目を閉じていた。瞼がときどき震えた。おじいさんから、もう生気は感じられなかった。おじいさんは私の肩に頭を乗せた。私の肩にかかる、その静かなおじいさんの「生」は重たかった。
私はただ夜明けを待った。
その次の日からおじいさんは階段に姿を現さくなった。ただ街灯がおじいさんの影を今でもくっきりと階段に残している気がした。
私は隆介に電話した。4回のコールのあと、隆介は出た。
「もしもし。あのね・・・」
春の匂いがいま、私を通り抜けた。