ムーンウィンド
夜、人が暮らしていく中で昼夜を過ごすサイクルは
人の生活サイクルを形成する上で必要なものらしい
日の出と共に目覚め、日が沈むと帰途に就き眠る
そうした繰り返しが無くて不規則な状態だと
健康を維持するのが難しくなるらしい。
なので火星移住船の中でも昼夜12時間ずつで
照明を調整してサイクルを作成している
時間は深夜に該当する眠るための時間
艦内の照明は大方落され、
通路に何があるかを確認できる程度に
照らす照明が消されないであるだけ
そんな中で、まだ明かりが灯っている一角がある
完全消灯が原則なので暗闇に近い通路以外の中に
独特な雰囲気のネオンが輝く
アンティークな何時代のものか不明な古びた木製のドア
少し斜めに掛けられているのは小さな『営業中』の札。
喫茶店『ムーンウィンド』
火星移住船クルーの数が少なかった頃
自治会は艦内の一角をフリースペースとしてクルーに貸し出す事にした
その時、リリーが『艦内にも憩いの場所が欲しいですよね』
と言いだして始めた店は今に至るまで彼女一人で切り盛り
なので彼女が寝ていない時間が営業時間
24時間、誰かが作業をしているので
ほぼ24時間、彼女はここにいる
たまに居眠りをしていると誰かが営業中の札を引っくり返す
沢山の観葉植物の鉢と、馴染むとやみつきになる珈琲と
彼女の笑顔と、ちょくちょく起こる騒動と
それを楽しみに、クルーは足を運ぶ
それでも誰も休憩しない時間はあって
そんな時間帯は彼女が一人で店にいる
今や店長をやる前の担当職務な何だったかを知っている人も
少なくなってしまったくらいだ
カウンターに座って紅茶を飲みながら、本を読む
このちょっとした時間が、彼女の最近のお気に入りだった
――
満月が出る夜は、独特な雰囲気が風となって漂う
それは優しい感覚や、妖しい誘惑のような感覚を誘う
月下の魔女が、気まぐれに誰かの心を動かして遊んでいるよ
月下の魔女の使い魔になるのも、たまには良いよね
――
火星生まれの火星育ちで地球と火星を往復している彼女は
残念ながら地球上から月を見た事も
夜風を感じた事も無かったのだけれど
様々な人が店で顔を合わせ、誰ともなしに語られる内に
彼女の空想の中で、心の中で、作り上げられた
満月と夜風を店の中で感じられるようにsた空間らしい。
・・・・
喫茶店『ムーンウィンド』
時間が悪いのか店内にいる客は一人だけ
緑茶をすすりながら目付きの悪い男が
真剣な顔をして奇妙な絵柄のカードを並べている
かなり怪しい光景だが店主であるリリーは気にしていない
「アリさん。さっきから何やってるんです?」
「ん、占いだ」
普段、悪巧みに揉まれているからか、
たえず誰かを疑っているといった感じの目付きな、アリは答えた
しかし彼と占いが繋がりにくいのか疑問符を頭の周りに浮かべるリリー
「なんだよ、その顔は。まあ、変に思うの解るがな」
「ごめんなさい。ところでそのカード、タロットとは違うみたいですけど?」
「ああ。貰い物だからな、どういうカードか詳しくは知らね
魔術カードと呼ばれているらしいんだが聞いた事あるか?」
「魔術カード? 誰から貰ったんです?」
「オカルトにはまってて、純真無垢と言えば聞こえは良いが
かなり天然ボケな御嬢様だったよ」
普段からは想像もできないほど優しい表情をするアリ
まるで別人のような顔をしている
「あ、ごめんなさい。余計なこと言ったかも」
「ん? ああ、勘違いするなって
別に何があった訳じゃない。相手にされなかったんだよ俺は」
「え?」
「なんせ、俺達は何年も船にいる人間以外の事なんざ、ほったらかしだ
”船にいる人間以外にとっては、この世に存在しないのと同じ状態”
となるのが当たり前だろ、おかげで自然消滅してな
連絡つかねえし、今どこで何やってんだろうな」
「そう、なんですか」
「湿っぽい話になったな、占いの続きといくか
連絡端末まで切って平和な時間を作ってんだから、しっかり堪能しねえと」
そんな事を言うアリだったが、日常がそれを許さない
”ピンポンパンポーン
「アリ・カーン二世君、アリ・カーン二世君、B区画に急行して下さい。
ジャディン君が試行錯誤実験という名目で暴走しています。
至急、対処願います。繰り返します…」
艦内放送を耳にして、派手な音をさせ足を机にぶつけるアリ
「連絡端末を切ったら艦内放送か・・・」
憮然とした表情で立ち上がり、カードを片付け叫ぶ
「勘定!!!」
代金を払い勢いよく店を出ていった
アリには、ほのぼのした日常の光景は似合わないようだ
・・・・
喫茶店『ムーンウィンド』
客はおらず店主のリリー・シーンがいるだけ
「いらっしゃいませ」
アリが入ってくる。
「何やってるんです、アリさん?」
「気にするな。あ、注文はいつもの緑茶をくれ」
「わかりました。うちで緑茶を注文するのアリさんだけですよ。
なんで食堂で飲まないんです?」
「喫茶店の雰囲気が好きなんだよ。
代金は払ってるんだし良いじゃねえか」
「はあ」
「どうした、なんかあったのか?」
「ツケがたまってるお客さんがいて。どうしようかなと思って」
「ふーん、取り立てる良い方法があるが教えてやろうか」
「どうやるんです?」
「リーボックの旦那に聞いたんだが、
給料から天引きしたり差し押さえしたりする方法があるんだよ
必要なものは証拠代わりの証人五人の署名と自治会長と副艦長と艦長のサイン
それを必要書類に書いて旦那の所に提出する
で、旦那がそれを確認して承認すると金が入ってくると」
「そういうものがあるなんて知りませんでした」
「艦内でこういったトラブルが少ないからな。
必要なら明日書類を持ってきてやろうか」
「お願いします。すいません、面倒をかけて」
「気にするな。この店は気に入ってるんで潰れて欲しくねえだけだ
それと証人を頼んでおけ」
翌日、同時刻の喫茶店『ムーンウィンド』
普段客の途切れる時間帯にも関わらず、今日は十人程の客がいる
どうやら全員証人希望らしい、ツケをためている客というのは
ずいぶんと人気者のようだ、そして手に書類を持ってアリが来た。
「なんか、ずいぶんいるな。まあいい
で、これがその書類。こことここに…」
こうして説明が始まった。ただどうも申請そのものに興味があるのか
そして申請はうまくいき『ムーンウィンド』の問題は解決した。
そのツケをためた客は最低基本給以下の一日一食ですごさなければならない程
給料が減ってしまうらしいが、誰もが当然だろ不届き者がといった事を語り
擁護したり弁護したりする者はいなかった。
ちなみに最低基本給を無視した理由は以下の通り
「おい、アリ。この申請額だと最低基本給以下の給料になるぞ」
「いいじゃねえか別に、一日一食は食える額だろ」
「しかしなあ」
「一日一食なら体力が減って、そいつ絡みの苦情が減るぞ」
「栄養失調で倒れたら問題だろ」
「何を言っているんだ? 一日一食、必須で食べているミール
あれに一応、最低必要限の栄養素が凝縮されてんだから大丈夫だろ」
「まあ…そうだな問題ないか、後の2食は娯楽みたいなもんだしな」
「そうそう」
結局、商取引での貸し借り天引き成功の話が艦内に広まり
リーボックの抱える仕事が増えることになった
こんな感じで、たまに誰かが何かをやらかしてしまうと
罰金や罰則ルールが増えてしまうけれども
火星移住船の中では同じ事の繰り返しな日々が過ぎていく。