永遠に再現する事の無い瞬間
マーズ・プリンセスホテル、一階にある店内に
柔らかく絡みついてくるようなピアノの音色とともに
『Over the rainbow』のメロディが流れてくる。
♪ 月日は流れて 過ぎさる 誰かの心の美しい思い出
♪ 素晴らしいと感じた時は 河が海に流れ込むように流れる
♪ 目の前の続きのある今から二度と無い
♪ 過去の出来事へと流れて消えてゆく
古いスタンダードナンバーで好きな曲
歌詞が原曲からは思い切り変えられている
どうして、一人で過ごしたくなったんだろう――
「二人ボッチ」で一緒にいる事がツライから。
苗字が天野になって、そんなに時間が経ったわけじゃない。
周囲は新婚夫妻と見るし、自分でも新婚だと思っていた。
親が結婚前に言っていた言葉が最近、頭に浮かぶ
夫婦になると言葉を交わさなくても
相手の気持ちが理解できるようになる
というより相手の心の中が流れ込んでくる
常に同じ人間が心にいる。
でも二人での日常が楽しい普通の夫婦は
そういうものだからね
でも、自分は天邪鬼なんだろう。
本当に、そんな日常が訪れると
自分が一人で考えていた時間が懐かしくなる
別に、たいした事を考えていたワケでもないのに
夫婦生活に一心同体とか以心伝心とかいう
共有する感覚が必要な事は理解しているつもりだ
そして何より相手がいない日常なんて考えられない
彼が存在している事が当たり前になっていた。
なのに、なんでだろう
何でも、わかっているからねとドヤ顔をする良太を見ると
たまに苛立ちを感じてしまう
そして良くあるセリフを言ってしまう
「あんたが わたしの何を わかってるってえの?」
良太に自分の心の中にある醜い部分まで曝け出して
見られて、幻滅されていくような不安
二人でいる事が楽しくなってから独りに戻るのは、
家から離れて一人暮らしを始めた頃よりツライのだろう
あの時は解放感があったけど・・・
今日、大喧嘩をした。どう考えても自分が悪いのに、
理不尽な怒りを爆発させてしまった
自分が馬鹿で理解できない事があると
誰かのせいにして癇癪を起こして
理不尽なルールを作ってしまう
変な女なことは自覚していたけど
こんなにも嫌な部分が自分の心の中に眠っているなんて
思ってなかった。でも自分から謝ることができない。
自分が間違っていると今更、言い出せない
我ながら変な性格だ
そんな時、火星宇宙港に寄港していた火星移住船が
宇宙港を出発して、大量の観光客がいなくなって
仕事が暇になっていた事もあり
ぼんやりと宇宙の星を眺めながら、ひとり飲んでいる。
おかげで同じような客商売をやっていて
暇になった男たちが一緒に遊ぼうを誘うのをあしらうのに一苦労
そんなことを漠然と考えていると、また男が近付いて来た。
いいかげん、あしらうのもイヤになってきたところだ。
声をかけられる前に先手を打って撃退してやろうと
キッときつい顔つきを作って振り向こうとした―― が。
その人は左隣に椅子をふたつ空けて座った。
無論、こちらを見向きもしない。
追い払い言葉を言おうとした口を開けたまま言葉を失って、
間の抜けた表情で固まってしまった。
「……何か?」
「いーえ、べーつにー、なーにもーっ」
低音のその問いに、我に返って勢い良く首を振った。
それがどうも滑稽だったらしく、その男は笑みを漏らす。
何を笑ってんの?と言いたくなるのを飲み込んで
思わず彼を横目で睨み付ける。
「そんな怖い顔をなさらないで下さいよ。
そんな表情は似合いませんよ
貴方のような美人に怒られたり叱られたりする事は
今まで無かったので、慣れてないんですから」
陳腐な物言いだけど美人と言われればまあ悪い気はしない
なんだかんだ言って話し相手が欲しかったのだろう
今まで声をかけてきた人とは違う印象を受けたことも手伝ってか
警戒しながらも、少しの気安さを込めて話しかけてきた。
「おひとりですか?」
「まあ。――貴方は ご主人と待ち合わせですか?」
「え? どうして結婚してるって……」
彼は、こっちを向いて手許に視線をうつした
指輪のはめられている、左手の薬指に。
「あ、そうだった……」
自分の迂闊さに照れ笑いすると、また彼が笑う。
でも今度は腹が立たない。実に感じのいい微笑みだった。
「……ケンカしたんです。それでちょっと」
「なるほど。だから一人で、気晴らしに飲んでいるんですか」
「あの……女がこんなところで一人って、変ですか?」
「別に僕は変だとは思いませんよ。
ただ、貴方ならまわりが放っておかないでしょうから
寄ってくる男が煩わしいでしょうけどね」
「……そんなに物欲しそうな女に見えますか?」
「ああ、すみません。そういう意味じゃないんです
男というのは馬鹿ですから、
女らしい美しい女性がいるとつい
そう言えば、まだ名前を言ってもいませんでしたね……」
と、切り出して、彼は自己紹介を始めた。
何か腹の底から、おかしな感覚が込み上げて来る。
いつも通り、今まで通りの
同じ事の繰り返しな日常に帰らなくちゃいけない
――そんな言葉が心に浮かび、
心の中を巡り今まで無かった感情を産む。
でも少し今まで関わった事の無い
知らない誰かと一緒に過ごしただけで日常が壊れるはずもない
そんな感情の中、名を名乗った。天野香奈子、と
それは天野の家族と自分で自分に言い聞かせる言葉だった。
「じゃあ、乾杯しませんか」
さりげなく椅子ひとつぶん身を移して、
男が優しげな口調で言ってくる。
「乾杯? 何に?」
と、からかうように聞いた。
「そうですね……この場、この時、限りで、
明日には、いつも通り今まで通りの世界に戻ってしまうから
永遠に再現する事の無い二人だけの
今、この瞬間に乾杯、というのは?」
男は、相手の日常を壊さないように接する事は大事ですよね
と警戒心を減らすような言い方で語る。
「なに? その セリフ?……。
陳腐だと思わないの?、40点てとこだよね」
微笑を浮かべてみせて、グラスを持ち上げた。
相手のグラスと軽くぶつかって小気味良い音を立てる
氷が溶けてすっかり薄くなったウイスキーが
旦那への罪悪感を拭い去るように喉に流れ込んでいく。