……まあいいの。私、少しやりたいことがあって。
揺れる馬車の中で、一人悩ましげにため息を零す佳人がいた。
蕩けてしまいそうなほど大きく青空を抱いた瞳は、今は伏せられがちで、その愁いを帯びた彼女の眼差しを見ればどんな男も手を差し伸べるに違いない。
彼女の豊かでつややかな金の髪は美しく結い上げられ、白い肌は新雪のようになめらかで、頬にはほんのりと朱が差している。加えてよく熟れた果実のごとき瑞々しい唇に、一本筋の通った鼻梁、付きすぎずつかなさすぎず、見るものの欲感を引き起こす手足と、まこと騙りつくせぬほど美しい容姿を持った女性。
その美しさだけでなく、磨き抜かれた頭脳において、彼女の右に出る者はこの国はおろか近隣の国々ですらいないと謳われた、ブランシット侯爵家の一人娘「ティファニー・ブランシット」とは、彼女のことだ。
ティファが、通っていた学園で謂れのない罪をなすりつけられ、弁明の機会なく断罪され、未来を誓った婚約者に裏切られ、学園を半ば強制的に退学させられたのはつい先日のこと。
そして先ほど、連れて帰られた実家で勘当を言い渡されたため、彼女の身分は正しくは元侯爵令嬢の、「ただのティファ」だ。
今、ティファは馬車の中である。
一時は次期王妃とまで言われた娘を追い出すのは体裁が悪い。お前自身が修道女に志願したことにすればよかろう。そう、勘当する父親に言われた。
この馬車はその意向の元、王都から山を二つほど超えた先にある修道院に向かっている。田舎道を走る馬車は時折どうしようもなく揺れ、そのたびに馬車の中のティファは転げ落ちそうになる。しかし、所狭しと詰め込まれた荷物がそれすらも許さない。あまりの狭苦しさにため息も出ると言うものだ。
つい先日まで王都の舗装された道を、ゆったりとした座席で快適に進んでいたというのに、笑ってしまうものだ、ティファは思う。
……この転落劇は、何者かの脚本そって進んでいる。ティファには成り行きを見守り、ここに至っていた。
だが、ティファにとって、現状は「そこまで」悪くはない。
まず、怪我も病気も、呪いの類も受けていない、ティファは五体満足で健康そのものということ。何事にも体が資本だ。ティファの容姿は少し(と本人が考えているので、そう表記する)目立つが、いざと言うとき動ける身体かそうでないかは非常に重要だ。
そして、この転落劇に伴い、貴族という身分を捨てられたということが、ティファにとっては非常に喜ばしいことだった。
平民よりはるかに裕福な生活を送れたとしても、「貴族」が負わねばならないもののなんと面倒なことか。
今はその枷をすっかり外されて、ティファはとてもすがすがしい思いだ。これまでの、コレにかかわった人間がたとえティファに悪意を抱いていたとしても、よくやったと労ってやりたい。
……なぜ生粋の貴族たるティファがこんなことを思うかと言えば、彼女を彼女足らしめる思考に、大いに理由があった。
―――ティファは、転生者だったのだ。
ティファが生きる世界には、「転生者」と呼ばれる、前世の記憶のある人間はある程度の数、存在している。ティファもその一人だっただけに過ぎず、それだけならままあることだ。
ただし、それが王妃にと望まれた侯爵令嬢で、それに応えるだけの能力を持っていて、しかしそれを本人が望まないだけの思考を築いてしまうほど前世が今世に強く影響を及ぼしていたために、今回の転落劇は起きたのである。
しかし、先に述べたように、彼女にとって現状は悪いものではない。
彼女はこの転落劇に手も口も出していないし、そう望んだことを示したわけでもない。しかし、そうだとは指し示さなかっただけで、その意図を正確に酌んで行動した人間がいた、という事実だけはある。
それを知っているのは、ティファと実行したごく少数の者ぐらいだろう―――たとえば、この馬車の御者だとか。
「お嬢様」
修道院につくにはいささか早い時間に、御者はティファに声をかけて馬車を止めた。
ティファは御者を労いながら外へ出るが案の定、何もない山道の真っただ中だ。
「こちらまでしかご案内できないこと、大変申し訳なく」
「いいえ。ここまで怪しまれずに運んでもらっただけでも、十分」
「……ご武運を、お祈り申し上げております」
「いやねえ、わたくしは戦争に行くわけではなくてよ?……でも、後は頼むわね」
「御随意に、お嬢様」
そう言って最上位の礼を取った御者が頭を上げる頃には、ティファの姿はどこにも見当たらなくなっていた。
それを見た御者は、一つだけ息をついた。それから御者は、このあたりの地図を思い浮かべながら、ティファの健やかな暮らしを願って、馬車を走らせ始めた。
*****
王都に、元侯爵令嬢ティファニーの失踪の報がもたらされるのは、これより少しのちのことである。
ティファニー元侯爵令嬢が乗っていた馬車は、目的地である修道院を目前にして賊に襲われたらしい。「らしい」というのは、その話をできる者がいないからだ。
ティファニーを乗せた馬車の御者は命からがら助かったが、肩口からすっぱりと袈裟がけに切られ、そのうえ喉を突かれた彼の様子は治癒魔法なしで生きていたのが不思議なぐらいで、心得のない者は直視できないほどだった。声すら失った彼に、その凄惨な事件の様子を無理に語らせようとする者はいなかった。
加えて、乗り捨てられた馬車には御者以外のおびただしい血の痕もあり、乗っていたはずのティファニー元侯爵令嬢もただではすまなかっただろうと誰しも容易に想像がついた。
この件を承けて王子夫妻は大変嘆かれ、王都付近の山では大規模な山狩りが一斉に行われた。
山を根城としていた賊が討伐され、あたりの治安は著しく向上したが、ティファニー元侯爵令嬢の亡骸は、ついぞ見つからなかった。
*****
「そうねえ、東がいいかしらね?」
そうつぶやいた人影を知る者は、ここにはいない。軽やかな足取りは、彼女の行きたい方向へと向けられ、道に残されるのは甘やかな彼女の香りだけだった。
悪役令嬢ポジのお嬢様は、容姿端麗、頭脳明晰、温厚篤実。魔王妃にと本家の魔族から望まれるほどに人間らしからぬ魔力の量と質に加えて、歴戦の将軍と同程度以上に知略にも優れている。一言でいうと最強チート。なぜなら転生者だから(なんて便利な言い訳)。一人でもめちゃくちゃな戦力にも関わらず、スーパーマンすぎるために信者も多く人海戦術も可能。野放しのままでは国家存続の危機であると判断した王は王子に婚約させ、国に縛り付けるのを成功するものの、コンプレックスの塊になった王子が自爆、婚約破棄。婚約破棄を申し付かったお嬢様はしめしめと言わんばかりに、自身の破滅劇の脚本を仕立て実行、最終的に行方をくらませることに成功する。
「隠居もいいけれど、まだ若いのだから存分に楽しまなくっちゃね」
これはのちに冒険家として名を馳せる彼女の、まだうら若き頃の一歩目である。