【ありったけの想いを】
――カノンは間も無く、十五歳の誕生日を迎えようとしていた。
親友のコノハは、魔法使いとして、冒険者として、充実した日々を過ごしているようだった。
街角で彼女を見かけるたび。彼女が活躍している噂を耳にするたび。カノンの胸に、ちりちりと焼けるような痛みが走った。
この痛みを最初に感じたあの日から、既に四年。
それなのに、まったく変わっていない自分。覇気のない表情も。みすぼらしい衣服も。凡庸な見た目の全てが、成長していない事実を示しているようだった。胸の奥は焼けるように熱いのに、頭の中は冷え込んでいくばかりだった。
親友に抱いていた憧れは、嫉妬に変わり。
羨望の眼差しは、嫌悪の視線に変わっていた。
家事で荒れた指先がぴりぴりと痛んだ。
だって、仕方ない。家は貧乏だから。勉強をしている暇も時間もなかったから。私は魔法使いに向いてなかったから──。
心中で、虚しい叫びが響きわたる。
『儲け話があるんだ』
カノンが街角で怪しげな男に話しかけられたのは、そんな時だった。
仕事は簡単で、単純だった。決められた荷物を、決められた日時に決められた場所に届けるだけ。ただし幾つか、胡散臭いと感じる要素はあった。
取り引きが必ず夜間に行われること。
人目につかない場所で取り引きが行われること。
素性がバレるのを恐れるかのように、自分を含んだ仲間の全員が、取り引きの際はフードの付いた黒装束を着ていること。
それでも──安易に大金を入手できる事実が彼女の自尊心をおおいに満たし、また、家計を楽にしていった。
仲間の一人から送られた指輪は決して趣味の良いデザインとは言い難かったが、指に嵌めているだけでも、不思議と心が安らぐのを感じていた。
カノンの心を支配していた嫉妬の感情を覆い隠してしまうほど、強い勇気と自信が漲っていた。
もう、何も怖いものなんてない。
私にもできる。
そう、思えるようになっていた。
たとえ冒険者になれなくても、私にだってお金を稼ぐことはできるんだ。負けてない、コノハにだって。
──その指輪が呪いの品だと暴いたのは、コノハだった。
その段階になって初めて悟った。
自分の中に存在していたほの暗い感情は、消えてなくなったのではないことを。
心の奥底に隠し続けてきた澱みは、むしろ、より強い憎悪をはらんで大きく成長し、醜い心を抑えるための術は、なくなってしまっていた。
カノンがコノハに嫉妬の感情をぶつけてしまった日から、三日が過ぎていた。
時刻は二十二時。
港街ブレストの東側正門を抜けて、さらに数キロ行った先にある森の近くに、小さな小屋がぽつんと建っていた。
木造りの小屋の輪郭線を、雲間から顔を出した月の明かりが照らし出している。
小屋には前と後ろにそれぞれ入口があり、備えられた窓枠は一つだけ。窓から漏れ出す光は無く、周辺に一切のひと気も無かった。
しかし、それは外から見ての話。
小屋の中では、五人の男女が息をひそめていた。鳥の声にも過敏になるほど緊張感を漲らせ、全員が黒い衣服を身にまとっていた。
「まもなく、時間だな」
「ああ、抜かりないようにな」
二人の男が、何かを確認するように、小声で囁きあった。
カノンは仲間の声を聞きながら、両手で抱いた白い包みを見下ろした。
包みの中身は薬草だ。薬草学を勉強したことがあるので、カノンは知っていた。すり下ろすことで、ハーブ茶の原料になるものだったはず。でも、と彼女は疑問に思う。
どうしてこの薬草を、暗い小屋のなかで取り引きしないといけないのかな。
浮かんだ疑問の答えはわからなかった。けど、それも直ぐに打ち消した。
──大丈夫。私は上手くやれているんだ。
その時、入り口の扉を軽くノックする音が小屋の中に響いた。
「合言葉は?」
男のうちの一人が、ひそめた声でノックに応じる。
「毒にも薬にもなる」
ややあって、扉の向こう側の人物が答えた。
「よし。お疲れ……」
合言葉を確認して男が開けようとしていた扉は、それよりも早く引き開けられて、思わず男はつんのめった。
「神殿から雇われた冒険者だ! 観念して大人しくお縄になれ!!」
叫び声とともに開いた扉から入ってきたのは、体格の良い天翼族の女性。扉を開けようとしていた男は、抵抗も虚しくたちまちのうちに取り押さえられてしまった。
「くそ! 騙しやがったな!!」
驚愕の声を上げながら、残った男たちも、裏口から窓からと散り散りになって逃げようと試みる。裏口から出た男の数人は、待ち構えていた小人族の神官に取り押さえられた。
「残念でしたね。相手側に伝える取り引きの時間を、こちらで少々操作させて頂きました。……その包みは麻薬の原料ですよね? 話なら、後でじっくりと伺います」
――わ……私はどうすれば……!?
突然降ってわいた状況に慄きながらも、カノンは窓から身を乗り出して外へと逃れた。
その様子を見ていたオルハが、自信の後方に控えていた魔法使いの少女に告げた。
「……残党はこちらに任せて。コノハは、窓から出た女の子を追ってください」
「ああ、気にしないで行け! お前の気持ちをぶつけてやれ! それでもわからないような奴だったら、一発くらい殴ってやれ。俺が許可する! 好き勝手に言われっぱなしじゃ、悔しいだろうが」
盗賊の一人を縛り上げながら、リンはコノハに向けて親指を立てた。
コノハは黙って頷くと、カノンの後を追いかけた。
◇
「――はあ……はあ……」
月明かりだけを頼りにして、真っ暗な草原をカノンはひたすらに駆けた。
逃げる間際、同士たちが次々と気を失っては縄に掛けられていく様子が見えた。捕まってはダメだ。せっかく上手くいっていたのに、これじゃまた失敗してしまう。
足がもつれて、何度も転びそうになる。不摂生だった自分のことを、呪いたくなった。
「カノン~!」
後ろから追って来ていた人影が、自分の名前を呼ぶのが聞こえた。
それが聞き覚えのある声だと分かると、カノンは走る速度を次第に緩めて立ち止まった。弾んだ呼吸を静めながら、ゆっくりとした動作で振り返る。
カノンの背後に迫っていたのは、案の定、幼馴染の魔法使い――コノハ・プロスペロだった。
「また、あなたなのね。私を捕まえに来たの?」
「そうだね……正直なことを言うと、麻薬の取引現場にカノンが居た事。凄く残念だと思ってる」
――そうか。やっぱり、麻薬の原料にもなるんだ、アレ。
自身が、麻薬の取り引きに加担しようとしていた事実を認識すると、胸の辺りが苦しくなった。気持ちを落ち着かせるため、左手の指輪を無意識のうちに擦る。
「でも違うの。私はカノンを捕らえに来たんじゃない。助けに来たの」
「はぁ? 何を言ってるの? 私はもう立派な犯罪者でしょ? 正義の味方のあなたが、捕まえなさいよ」
心の赴くままに言葉を紡ぎながらも、喉元に何かがつかえるような違和感を、再びカノンは感じた。
大嫌い。
迷惑なの。
言いたかったことの全てを言えたはずなのに。どうして今、こんなにも気持ちが沈むんだろう――。
「捕まえるなんて、出来ないよ……。それと、もうひとつ。カノンに謝まりたいことがあるんだ」
「……謝る? どうして? あなたは別に、悪いことなんて何もしてないじゃない?」
悪いことをしているのは自分なのに、どうして親友の彼女はこうして俯いているんだろう?
本来ならば、俯いていなければならないのは私の方なのに。
そうだよ、とカノンは思う。コノハは何も悪くない。
最初に友だちになろうって声を掛けてくれたのは彼女だったし、私よりも魔法が上手くなったあの日も、どうやって修練したのか。どうすれば、上手く魔法が使えるのか。懇切丁寧に教えてくれたじゃないか。
お節介をやくコノハを心のどこかで鬱陶しいと感じながらも、私は、彼女の好意が嬉しかったじゃないか。
一方でコノハは、親友の表情に僅かな変化が生じ始めているのに、気がついていた。
首を振って彼女の言葉を否定すると、大きく息を吐くようにして話しかけた。
「違うの……。私はいつも鈍感だから、カノンがどんなに悩んでいたのか、全然気づいてあげられなかった。私は良い事だと思って掛けた言葉も、カノンの重荷になってたんだよね? ……だから、本当にごめんね」
喉元まで上がってくる感情を、カノンはなんとか抑える。左手の指輪が熱を放ってるように感じられて、視線を落とした。いつの間にか指輪が、赤黒い輝きを放っていた。
指輪が光を放ち始めたのに、コノハも気が付いた。
シャンが言ってた。カノンの心情の変化に呼応するように、指輪は輝きの色を変えていたと。今の状況は、どういうことなんだろう?
コノハの心にも、強い緊張が走る。
「カノンは、私のこと凄いって褒めてくれたけれど、ちっとも凄くなんかないんだよ。……冒険をしてても先走って失敗ばかりするし、魔法だって、まだまだ上手くは扱えない。一生懸命勉強しても、ちっとも上達しないんだ」
自虐的、という感じでもない。コノハはただ寂しげに、へへっと笑って見せた。
彼女の表情の変化を目の当たりにして、カノンは思う。私は知っていたはずだ。
コノハが自分を追い越して行くのは、彼女の才能のせいばかりじゃないってことを。彼女が見えないところで、どれだけ努力をしているのかも。そう、悪いのはコノハに嫉妬している自分の方で、彼女は全然悪くないんだ。
……弱い自分の心を、認めたくないだけなんだ。
「それに、私はカノンのことが好きだから! どんなことがあっても親友だと思っているから! だから――」
そこでコノハはいったん言葉を切ると、溜め込んだ息を全部吐き出す勢いで叫んだ。
「私のこと、名前で呼んでくれなきゃ嫌だよ!!」
すっかり潤んでいたコノハの瞳から、許容範囲を超えた涙が溢れ出した。次の瞬間、ぽつり、ぽつり……と空から雨が降り出した。
雨脚は見る間に強くなり、二人とも頭からずぶ濡れになっていった。
髪の毛からも頬からも滴り落ちる雫。涙なのか雨なのかも、わからなくなってしまった。
――ああ、そっか。
私は親友のことを決して嫌いなんかじゃなかったんだ、とカノンは今更のように思い至る。
彼女のことが大好きだったはずなのに、歪んだ嫉妬の感情が、一番大切な気持ちを覆い隠していた。
「どんなに拒絶されても、私はカノンを助けるんだもん。ねえ、指輪はもう外そう? もう盗賊団に関わるのは止めよう? こんなことを言うと、またカノンの重荷になってしまうかもしれないけど、それでも平気だもん。私はとっくにカノンに嫌われてるから、どんなことを言われても平気だもん」
平気。そんなはずはないんだ。コノハの様子を見ながらカノンは思う。
だとしたら、あなたはどうしてそんなに泣いているの? どうして私の胸はこんなにも痛むの?
彼女の言葉はいつも真っ直ぐで眩しいから、余計に自分の至らなさが浮き彫りになるようで、目を逸らしてきたんだ。
気が付けばいつの間にか、コノハと真っ直ぐ向き合えなくなってたんだ。
──眩しすぎて。
元を正せば、全部、全部……。
そのとき、指輪が一段と強く輝きを放った。カノンの心に、暗い声が響いてくる。
(目の前の娘が憎いだろう。叫べ、罵れ。お前が過去に受けた侮辱を忘れるな。さあ、目にものを見せてやれ。そのための力を、俺が授けてやろうじゃないか)
「うるさい! 黙れ!!」
左手の指輪を乱暴に引き抜くと、勢いもそのままに地面に叩きつけた。
カノンの双眸は、真っ直ぐ親友の瞳へと注がれていた。
「ごめんねコノハ。私、もう大丈夫だから。遠回りになってしまったかもしれないけど、ここからまた、頑張るから」
そのときコノハは思った。カノンの瞳に、今までの彼女とは違う、強い意志の光が宿っているようだと。
だが、雨に打たれたことで極限まで体力を消耗していたカノンの体は、既に限界を超えていたのだろう。高揚感が途切れたとたん、視界が暗転してぐにゃりと歪む。
体が脱力していくなか、コノハの叫ぶ声が聞こえてくるが、それも直ぐにわからなくなった。