【その心は闇へと堕ちて】
――カノンは十二歳になっていた。
夏らしい日差しが降り注ぐ。木々の枝は鮮やかな緑色で、葉の縁に残っている昨晩の雨露が、日の光を反射して煌めいていた。鼻をつんとくすぐる若葉の匂いが心地いい。
視線を上げると、魔法学院の校舎の頂きにある尖塔部分が、街路樹の上から突き出して見えた。
雨は止んだはずなのに、晴れ間の見えない自分の心。辛い記憶を思い出さずに済むように、胸元に手を当て俯いた。
初めて魔法を扱えるようになったあの日から、早いものでもう二年。それなのに、彼女の実技は今も殆ど上達していない。
――だって……だって、しょうがないじゃない。
家事が忙しくて、練習をする時間がなかったから。
授業に出るだけの余裕がなかったから。
何よりも家計が苦しくなってきて、これ以上学院に通えるかどうかも、わからなくなってきたから。
魔法使いとして一人前になったコノハが、冒険者としてデビューすると聞いた。「応援してね」と笑顔を浮かべた親友に、「おめでとう」と激励の言葉を贈ったが、自分には関係ないと思っていた。
尖塔部分が見える路地に、未練がましく佇んでいるとき、遠くからコノハの声が聞こえた。お日さまのような笑顔をこちらに向け、大きく手を振ってカノンの名を呼んだ。
その笑顔はあまりにも眩しくて、直視できずに視線を逸らした。
カノンはそのまま背を向ける。逃げるように、気付かなかったように歩き出した。
魔法使いの杖は、自室の隅で埃を被っていた。
そして彼女は、木々が赤く色づき始めるころ、魔法学院を辞めた。
◇
指輪を持っている少女が『彼女』であったことは、もしかすると不幸中の幸いだったのかもしれない。
そこに幸運があるとするならば、彼女の所在や身元の確認をする手間が省けたことだろうか?
だが同時に不幸なことがあったとするならば、少女がコノハの親友であったがゆえに、ただでさえ突飛なコノハの行動が、いつにも増して、予測困難だったことだろうか?
とにもかくにも。問題の指輪を所持している少女は、意外にもあっけなく見つかることになった。
通行人でごった返している冒険者通りの一角で、シャンはコノハの肩を掴んでいた。
先ずは尾行して、彼らの居場所を突き止めるのが先だと主張を繰り返していた。
「少し冷静になりなさい、コノハ! 相手は盗賊団と繋がりを持っている可能性があるんですよ?」
「わかってる。わかってるよ。……でも、友達だもん。私が呼びかけたらきっと応えてくれるはず」
コノハは語気を強めてそう言うと、シャンの手を振りほどいて駆け出した。
「……まったく……しょうがない人だ。全然わかっていないじゃないですか」
呼び止めても無駄だとシャンは判断した。人の隙間を縫うように走っていくコノハの後ろを、着かず離れずの距離を保って追いかける。
実際のところ、少女が左手に付けている指輪にシャンが気づいたのは偶然だ。当然のごとく、隣を歩いているコノハにそのことを報告したのだが、彼女が目の色を変えたのを見て、自身の軽はずみな行動を後悔した。
「まさか知り合いだなんて、完全に想定外ですよ」
「カノン!!」
コノハの叫びを聞いて、黒いワンピースに身を包んだ少女は歩みを止めた。ゆったりと振り向いた少女の動きに合わせて、肩口で揃えた黒髪が僅かに揺れる。
しかし、彼女の瞳に光は差さず、胸の奥底に澱んでいる暗い感情が透けて見えるようだった。
正気じゃない。一目でシャンは、そう判断していた。
「コノハ……?」
意外そうに、だが、無表情に自分の名を呼ぶ親友の姿に、コノハの心が少し怯える。
「カノン、久しぶりだね。……さっき神殿で聞いてきたんだけどね、カノンがしている指輪には、良くない魔法がかかっているんだって。だからそれは……外したほうが良いと思う」
コノハが必死に呼びかける。カノンはそれを静かな表情で見返していた。だが、暗く濁ったその瞳に、コノハの姿は映っていない。
「カノン……?」
こういった反応を示す親友の姿を、コノハは知らない。胸中に不安が過るが、それを奥底に押し戻した。
「あのね、カノン」
暫くの間コノハを見つめたのち、カノンはふわりと首を横に振った。
「いや」
さらりと、迷い無く答える親友の目はとても穏やかで、しかし、もうコノハの方を向いてはいない。
左手に嵌めた指輪を、カノンは右手で擦っていた。
「私ね、この指輪が手に入ってから全部上手く行くの。”仕事”も順調に行ってるし、心が落ち着いて冷静になれるから、前みたいに弱い私じゃもうないんだよ? なんでもやれるって、そんな気がするの」
あはは、とらしくもなく甲高い声で笑う親友の姿に、コノハの不安が先ほどよりも濃く深くなっていく。
「でも、その指輪にはね……」
「コノハはいつだってそう」
「……え?」
「いつもいつも遅れてやって来ては私の邪魔をする。最初は私の方が上手く出来ていたのに、サラッと追い越して行って、そうやって私を馬鹿にして……! 冒険者になってから順調なんだってね? へえ、おめでとう。良かったじゃない」
「違う。私はそんなこと思ってない」
「ああ、無自覚だったんだ? それはそれで残酷ね?」
茫然と立ち尽くしていくコノハを押しのけ、庇うようにシャンが割って入る。油断なく少女に視線を向けながら思う。これ以上は、不味いかもしれないと。
「あなたさえ居なければ、私は全部上手くやれるのに。今だってそう。あとからやって来て私に偉そうに意見して。結局、私のこと見下してるんじゃない……!」
棘のある言葉を吐きつつも、カノンの口調は存外に柔らかくて穏やかだ。喉の奥でつかえそうになる言葉。コノハの瞼の奥は、いつの間にか熱をおびていた。
「カノン……。あのね、私はあなたの事を心配しているから」
「迷惑なのよ。だって私、コノハのこと、大嫌いだもん」
叩きつけられた強い言葉に、コノハの全身が打ち震える。
違う、ここに居るのは私の親友だったカノンじゃないんだ。魔法の指輪の効力によって、良くない人格に支配されているんだ。
必死に、そう自分に言い聞かせるが、ひやりと冷たいものが背筋をつたう感覚が止まらない。軽くえずきそうになって必死に堪えた。
「ダメだよカノン! さっきも言ったけど、その指輪には悪い魔法の力がかかってるんだって。だからそのせいで、心にも無いことを言っちゃってるだけ――」
「心にも無いこと? ざーんねん。今ね、凄く良い気持ちなの。視野がすーっと広がっていく感じ。むしろ、どうして今まで言えなかったんだろうってそう思ってる。気持ち押し殺して見えない振りをして、なんだか馬鹿みたい」
「違う! それは魔法の効果で気持ちが高揚しているだけなの。そんなのに頼ってちゃダメだよ――」
「そういうのが、余計なお世話なのよ」
カノンはコノハの肩をとんと押すと、そのままくるっとターンした。黒いワンピースの裾が、彼女の動きに合わせて軽やかに舞った。
「あ~すっきりした。やっと言えた」
上天から、藍色が濃くなり始めた夕焼け空をバックに、親友の顔が妖艶な笑みを浮かべる。カノンの表情は解放感に満ち溢れており、言っていることに嘘はないんだろうな、とコノハも思う。
「あまり刺激しないように」
コノハに注意を促しながら、カノンの様子をシャンは慎重にうかがっていた。コノハの言葉に対して、カノンがどんな反応を示すのか。指輪が、どんな反応を示すのか。
「お爺さんが優秀な発明家だから、きっと知識量が多いのね。だから私よりも魔法が上手になったし、家だってお金持ちだ。髪の色は綺麗な赤だし、瞳は鮮やかな翡翠色……」
それがどうして、私のことを『嫌い』になる理由になるのか、コノハにはわからない。けれど、叩きつけられるように続く親友の言葉に、ずっと打ちのめされたように佇んでいる。
一方でカノンの表情は清々しい。長い時間を掛けて心の奥底に溜め込んでいた闇のすべてを吐き出すように、ぶちまけて、解放感に浸っている。コノハの顔を見据える彼女の瞳は、気が付けば愉悦の輝きを放っていた。
――彼女は誰なの? とコノハは思う。
様々な感情が泡沫のように浮かんでは消えていく。それは、記憶のなかに存在していない親友の姿。こんな表情をする女の子だったろうか?
確かにコノハの祖父は、優秀な錬金術師であり発明家だった。
魔法使いとしての技能は持っていなかったけれど、カノンが言うように知識量が豊富だったことは疑うべくもない。
でも――私は、祖父と同じだけの知識量など持っていない。だが思い返してみると、カノンが魔法使いになりたいと夢を語ったとき、少なからず影響を受けて魔法学院に入ったのは確かだ。遅れてやって来て、というのは、その事なのだろうか?
筆記試験の成績では常にカノンが首席だった。
むしろ私だって、彼女に劣等感を覚えた日があったんだ。――ああ、ダメだ。何を考えてるんだろう私は。
では、実技ではどうだろう?
最初に魔法ができるようになったのは常に彼女。でも、最終的に上手くなっていたのは私だった。けどそれは、私だって努力をした結果。それがダメだったの? それがカノンに嫌われる理由になったの?
頭の奥で、幼いころの親友の声が響く。ぐるぐるとカノンの言葉が回っている。お腹の底からこみあがってきた何か気持ちの悪いものを飲み込んだ。それは完全には下りきらず、小骨のように喉元にひっかかった。
「私、ずっと苦しかったの。コノハのことが嫌いで、でも、それを言えない弱い自分が苦しかった。でも、それももう御終い」
「うそだよ……!」
掠れた声で、それだけしか言えない自分のことがもどかしい。
「嘘じゃないよ。じゃあね、コノハ。もう会うことも無いと思うけど」
颯爽と身を翻して去って行く親友の背中。コノハは追うこともできず、茫然自失で見送るほかなかった。
やがて全身の力が抜けたように、コノハはその場に崩れ落ちてしまう。シャンが肩を貸さないと、倒れてしまいそうだった。
◇
長年胸につかえていたものが、すっと下りたようだった。
――ああ、すっきりした。どうして今まで言えなかったんだろう。
それなのに……そのはずなのに、手のひらには、じわりと気持ちの悪い汗をかいていた。熱い夏の日差しが降り注いでいるせいだろうか? 胸のつかえが一つ取れた代わりに、別の何かが喉元にひっかかている感覚を、カノンは感じていた。
鬱屈とした感情を宥めるように、左手の指輪を擦る。すうっと苛立ちが薄らいでいくのがわかった。
――大丈夫。私は間違えてなんかない。
カノンが声を掛けられたのは、買い物を全て終え、とっぷりと日が暮れた冒険者通りの外れを歩いていたときのことだった。
「同志カノン。こちらへ」
建物の間にある薄暗い路地から、黒装束で身を包んだ男が顔を覗かせていた。
彼女は静かに肯くと、男に手を引かれるまま、その後ろへ着いて行く。
「例の薬物を取引する日取りが決まった。決行は、三日後の二十二時だ」
「わかりました」
「忘れないようにな。それはそうと……」
男はふうん、と鼻を鳴らすと、カノンの頭の天辺からつま先まで、舐めるように視線を這わせた。満足そうな笑みを浮かべ、口元を僅かに歪めた。
恍惚とした男の表情に、カノンの背筋が寒くなる。
「俺のあげたワンピース。ちゃんと着てくれていたんだな。……とてもよく似合っているじゃないか」
「……いえ。他に着る物が無かったからです」
恐怖から、目を逸らすようにして答えた。
男はカノンの左手を取ると、色白で細い指先をしげしげと眺める。もう一方の手で、指輪の周辺を愛しげに撫でた。
「指輪も良く似合っている。勇気が出るおまじない、よく効いているだろう?」
声も出せず……瞳を伏せたまま、とりあえず頷いた。早く解放して欲しいと、彼女は願っていた。
彼らの仕事をカノンが手伝うようになったのは、二週間ほど前のこと。
カノンの父親は、幼い頃に流行り病で亡くなっており、体の弱い母親も、床に臥せっていることが多かった。兄が一人いるとはいえ、彼の稼ぎだけでは生活も困窮していた。
魔法学院に通わせてもらったのに、志半ばで退学したという後ろめたさも正直あった。
貧しい家計を助けるため、簡単にできる仕事を探さねば、と思っているとき、『仕事を手伝わないか』と声を掛けてきたのがこの男だった。
第一印象は最悪。胡散臭い男だと感じた。だが、彼らとこなす仕事はとても順調に進み、手取り金もそれなりに良かった。
勇気が出るおまじないだと贈られた指輪を嵌めてからは、物怖じする性格も不思議と治った気がする。
うん。私は上手くやれている、とカノンは思う。そう。全てが順調なんだ。
「きゃっ」
小さな悲鳴とともに、カノンの体が震えた。
男の空いている方の手が、彼女の腰から下の方へと伸びてきたのだ。
ワンピースの裾を捲り上げようとしている手を払い除けて男を突き飛ばすと、逃げるように路地から抜け出した。
「……あんまり調子に乗るなよ。お前みたいな陰気な女……誰も相手になんかしてくれないだろうに!」
男の叫び声が背中から追いかけてくる。
恐怖で全身に汗をかき、目元がじんわりと熱くなるのを感じながら、カノンは必死で走っていた。