かつてあった日本という国
第二次日中戦争での日本の敗戦を描きました
2027年、宣戦布告もなしに始まった日中戦争はあっという間に幕を閉じた。日本に向けて発射された数発の戦略核兵器は、正確に日本の軍事拠点を捉えていた。これは超音速滑空飛翔体と呼ばれ、弾道ミサイルに搭載して発射されたが、途中で分離して超音速で滑空した。イージス艦霧島のミサイル迎撃システムSM3は、通常の弾道ミサイルの破壊に成功したが、この新型ミサイルの動きを捉えきることができなかった。同じく陸上に配備されているPAC3もその動きを捉えることができず、被弾を許してしまった。また、電波妨害システムは直前で誤作動を起こした。その結果、佐世保基地が跡形もなく破壊された。長崎の住人は、記憶の底に眠っていた絶望的な光景を、再びその目に焼き付けることになった。海戦では、海上自衛隊有利かとも思われたが、日本は中国海軍を侮っていた。旧式の漢級、商級、いずれとも異なる新鋭潜水艦が導入され、これらは095型と呼ばれた。銅鑼を鳴らすかのようにして航行していたかつての中国原潜とは明らかに異なるその航行に、護衛艦いずもは制海権を失った。
しかし、海上自衛隊と095型が対峙する機会はほとんどなかった。人民解放軍は初動の核攻撃の後に、首都圏に向けて弾頭を積んでいないミサイルを数発、何の前触れもなく発射した。そのミサイルがどこから来たのか自衛隊はすぐには把握することができなかったが、その後の中国政府の発表によるならば、宇宙から落とされた飛翔弾であるらしかった。被害の規模は大きくなかったが、これは、いつでも核を撃ち込めるという意思表示に他ならず、日本側はあらゆる情報網からその意図を正確に掴んだ。首相官邸からホワイトハウスへすぐに打診が上がった。既に撤退を完了した米軍には、できることは少なかったが、共和党のニッキー・ヘイリー大統領からは安保理決議にかける旨の言質が取れた。しかし、その僅か十二時間後、中国側はわざわざ日本に停戦の特使を送り込んできた。かつて共産党の若き天才と呼ばれた、孫政才である。日本側はこれに応じないわけにはいかなかった。なぜなら次の銃口が横須賀に向いていたためだ。会談は僅か一時間で終わり、両国は停戦協定に調印した。そして、東シナ海での海上自衛隊の完全なる無力化、沖縄の割譲、賠償金二百兆円の支払いが決定した。
この決定から僅か二日後、突如として人民解放軍が沖縄本土に上陸した。自衛隊は既に基地を引き上げており、民間人の輸送を行っていた。人民解放軍は、当初は統率の取れた行動を取っていたが、日が経つにつれて民間人に対する暴行事件が多発した。民間人が死亡するケースも中にはあった。そして、殺害の様子や婦女暴行の場面が動画に納められ、百度やアリババの動画サイトに複数の投稿がなされた。中には十歳に満たない少女が暴行される動画や、日本人が刃物で首を切り落とされる動画まで存在が確認された。未婚の女性は、民間のブローカーによって中国本国へ移送された。また、那覇には大規模な収容施設が作られたが、主に成人男性はここに収容され再教育が施された。無論それは名目であり、この施設だけでも数万人の死亡が確認されている。那覇空港には、臓器売買専用の空路が確立されるなど、沖縄は後に第二のウイグルと揶揄されるまでになった。当然これらは世界中から避難を浴びたが、面と向かって指摘できる国は既になく、CNN、FOX、BBC以下世界中に存在するどのマスコミも直接の批判を避けた。ある人民解放軍兵士のインタビューで、彼は「日本にやられたことをやり返しただけ、祖国の誇りを取り戻した」と興奮気味に主張したが、その映像は世界中のマスコミにより連日報道された。中国国内では、このインタビューに否定的な声も見られたが、概ね賛同を得る結果となった。
それと並行し、大量の中華移民がニューフロンティアを求めて日本にやって来た。この動きについては、防衛相および警察庁長官より、完全不干渉の指示が事前に通達されていた。移民たちは、人民解放軍陸軍百万人の武力を後ろ楯にし、主に関西、首都圏の主要都市に強引に移り住んだ。これらは世界一のインフラが整っている地域であり、なおかつ中国本国からの観光客が多い地域でもあった。日本人は都心部から退避命令が出されていたが、多くの人間がそのまま活動を続けており、結果としてこのときに民間人同士の殺人としては史上最大規模の被害者が出た。
人民解放軍は移民と共に東へ進んだが、その狙いはただ一つであった。二千年の歴史がある皇室を我が物にすることである。彼らは、すでに中国大使館に幽閉されていた親王(女性)を保護すると、すぐに本国へと連れ帰った。その翌日、華春瑩報道官は、胡国家首席の息子と女性親王との婚約を一方的に発表した。そして胡国家主席は、これより先、皇室は北京に設置するという法案を通した。これにより、中国は世界最古の王室を手に入れた。千年王朝への礎は、着々と整いつつあった。
その動きにストップをかけたのはただ一国のみ、北の大国ロシアであった。ロシアは日本の要請を受け、最後まで開戦を阻害していた。しかし、中国共産党の絶大な力を前にしては、かつての軍事大国の影響力も弱まり、開戦が決まってからは、一世紀前に手にしかけた北の大地を掠めとることのみに全神経を注いだ。奇しくも、2020年の日露平和条約締結後、稚内サハリン間の海底トンネル開発事業が計画され、これが2028年の着工予定であった。あと一年早く着工が始まっていれば、ロシアは全力で中国に不可侵を働きかけていたかもしれない。幸い、着工前であるため、現日本とロシアをつなぐものはなく、ロシアはこれまで通り北方四島海域および宗谷海峡に、国防の最前線を置いた。
韓国は、日本の降伏と同時に、戦時徴用工および慰安婦の個人賠償の強制執行に出た。その金額は天文学的であった。彼らは中国の攻撃が始まると同時に日本本土に上陸し、戦犯企業および関連会社の利権を差し押さえた。また首都圏にて民間人を虐殺し、戸籍や土地の略奪を行った。しかし、この動きは中国共産党の逆鱗に触れた。中国はすぐさま韓国に宣戦布告し、韓国は実に呆気なく攻略された。人民解放軍の動きに合わせて、北朝鮮軍が攻め込んできたのである。戦線は十五分で決着した。
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そもそも、なぜ日中は戦争状態に陥ったのか、あるいは、なぜこうも簡単に侵略を許したのか。全ての始まりは2020年にあった。東京オリンピックの年である。
2020年7月17日、東京オリンピック開催の一週間前のことである。中国漁船及び台湾漁船の集団が日本の排他的経済水域内にて操業をしていたが、海上保安庁の巡視船が退去の勧告を出し、従わない漁船に対し放水を開始した。しかし、このときの放水により、中国人一名が海に投げ出され死亡したのだ。この事件を受けて、当初共産党政府は抗議と遺憾を表明するのみであったが、中国国内では、日本軍が自国の領海に侵入してきて殺人を行ったという世論が次第に強くなり、オリンピック期間中に大規模なデモが発生した。日本政府は、行為の正当性を世界に訴えかけた。一連の動きによって、改善しかけていた日中関係は、大きく逆戻りすることになる。
ついには貿易戦争の敗北で窮地に立たされていた習近平元国家主席により、これ以後尖閣諸島周辺海域で漁をする中国漁船には、海警のみならず人民解放軍が同行する旨の声明が出された。日本政府はこの決定に対し、遺憾の意を表明した。海上保安庁、自衛隊、米軍、首相官邸、ホワイトハウス、全てに緊張が走った。当時の大統領マイク・ペンスは対中強硬路線を明言し、「彼らが尖閣に上陸すれば相応の対応を取る」とコメントを残した。しかし、その年の十一月に行われた大統領選挙で民主党は大敗し、ペンスとその周囲の対中強硬路線派は政治の表舞台を去った。中国によるアメリカ侵略の影響が、初めて表に現れた選挙であった。
2020年11月29日、鹿児島県付近の領海に中国の軍艦が侵入する。また同時刻、中国軍爆撃機4機が沖縄本島と宮古島の間の公海上空を飛行、領空侵犯はなかったものの航空自衛隊が対応に当たった。同時刻、竹島海域では多数の不審船が発見され、海上保安庁の巡視船がその対応に当たった。同時刻、尖閣諸島周辺に大量の漁船団が終結した。その数は海を埋め尽くすほどで、一千隻の漁船が確認されている。海警三十隻も同海上に出航していた。これは、尖閣諸島を航行する数としては過去最多であった。日本側は、海上保安庁では手に負えないと判断し、海上自衛隊が出動する事態となった。
現場も官邸も混乱した。混乱の最中、漁民に扮した人民解放軍が尖閣諸島に接岸上陸し、簡易な拠点を築いた。彼らは完全武装して海自艦を寄せ付けなかった。このときになって、アメリカが、尖閣の防衛を打診してきたが、日本側は自国領海内での戦闘行為を回避すべく、アメリカの打診を先送りにした。尖閣を自国の領土と主張する人民解放軍は、決して攻撃を行わない海自の作戦行動を尻目に次々と上陸を果たした。また共産党本部からアメリカ政府に何らかの打電があり、米軍は見守る以外の行動は取らなかった。自衛隊の砲撃によって退去させることも可能であったが、官邸の意向があり、また速報を受けたマスコミ、与野党内には慎重な声が挙がり、とうとう日本政府は、中国共産党に対して強い遺憾の意を表明し、事態の収束を図った。
同じ頃、国連では、日本の非人道的行為に対する非難声明が出され、放水問題での日本政府の対応が厳しく批判された。するとその翌日から中国は、尖閣諸島に軍事施設の建設を始めた。同時に港湾工事と飛行場建設、レーダー設備と灯台の設置、これらをあっという間に進めた。日本のマスコミはこの様子を連日報道し、避難したが、日本人が気づいたときには、すでに中国による実効支配が完了していたのだった。
その後、山東省青島にある北海艦隊指令部から次々と艦船が送り出され、演習が繰り返された。ときには宮古島や石垣島にまで中国艦船の船影を見ることになった。日本の国内世論の中には、尖閣諸島を取り返そうという議論と同時に、尖閣を共同保有しようとする論説、そして尖閣を中国に明け渡そうとする論説が沸き起こった。それは、中国との二重国籍が疑われる国会議員、左派系大学教授、学生運動団体、左系マスコミから発生したものだった。
尖閣に人民解放軍の拠点ができたことから、沖縄の在日米軍は制空権を失い無能化し、その後、五年をかけて撤退した。不景気の折、保護主義に走るアメリカは、東アジアを放棄したのだ。日本国内では左右の論壇が対立したが、右派は劣勢、つまり、尖閣を取り返そうとする動きはほとんど作れないままになっていた。そんな中、右翼政治家と企業家が、民間の漁船で尖閣への上陸を試みた。海上保安庁の巡視船が警護に当たったが、人民解放軍の砲撃を受けて漁船が轟沈した。自国領海内に無断で侵入した漁船に対して発砲したと、中国政府は発表した。この動画は日本のマスコミも大々的に報じた。
「中国の領海に侵入したとして、日本の漁船が撃沈されました。乗組員は全員死亡が確認されました。日本政府は遺憾の意を表明しています」
このとき、ほぼ全てのマスコミで、中国の領海と報道された。
こうして尖閣が中国の実効支配下に置かれ、日本はその軍事的脅威にさらされた。しかし、そもそも中国はアメリカとの貿易戦争に負けたのではなかったのかというと、確かに貿易戦争によって史上最悪の不況が訪れはしたが、中国の推し進める次世代通信網政策は着実に世界中に浸透していった。また、経済建て直しの切り札として、中国共産党は四億人ともいわれる高齢者の切り捨てを行った。福祉や医療といった、高齢者への支援の一切を打ち切ったのだ。この政策により中国は、かなりの資金を軍事と通信に回すことができ、遂には従来では三年かかるといわれた米軍の機密情報を抜き出す作業を、半年で読み取ることが可能となる技術を保持するまでになった。二十一世紀初頭、中国共産党は飛躍的に力を伸ばした。
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日本は、中国の尖閣占有に対して、当初は国際司法裁判所に提訴したり、アメリカへ集団的自衛権行使を呼び掛けたり、国連決議を要請したり、そういう政治の必要性が声高に主張されたが、その全ての動きに外務省がストップをかけた。そして首相官邸からは、中国とは引き続き対話路線でいくという方針が示された。それらの動きに呼応するように、国内世論は尖閣の共同保有論と、引き渡し論を推す声が徐々に強まった。なぜなら、もはや人民解放軍を引き上げさせるどのような手段もなかったからである。右翼的な考えは非現実的であると言わざるを得ず、また戦争に繋がるものであると、あらゆる方面から攻撃された。一般国民の意思も、徐々に引き渡しへと傾いていった。
2025年12月、米軍の撤退が完了した。これにより、中国艦艇は沖縄列島周辺にまで姿を見せるようになった。そして、太平洋へ抜けるために沖縄本島と宮古島の中間地点を通る公海航路を選択し、頻繁に行き来を繰り返した。一部のマスコミは公海に当たらないと主張し、領海侵犯を追及したが、日本政府はあくまでここを公海として扱った。
2026年3月、首都圏に新設された日本語学校において、一万名という大量の中国人留学生が一気に入学する動きがあることを警視庁公安部が突き止めた。学校運営者の男性は入管難民法違反で逮捕、起訴され、学生たちは入国を阻止されたが、入国の阻止が不当であると日本政府を相手に集団で裁判を起こしている。なお、この年の4月には中国人留学生が三十万人を突破した。十代から四十代まで、幅広い年代の留学生が日本の各種学校に在籍したが、この数字は十年前の三倍であり、全留学生の半数が中華系で占められた。
2026年8月、内閣総理大臣が、与党内の反対を押し切って靖国神社を参拝した。この動きは五年ぶりのことであったが、これに中国および韓国、北朝鮮は激しく反発した。ニューヨークタイムズにも特集記事が組まれたが、その記者は朝鮮系アメリカ人であり、彼は慰安婦問題とも絡めて靖国参拝問題を論じた。
2026年9月、中朝韓合同軍事演習が東シナ海で行われた。空母遼寧を中心とする人民解放軍艦隊と、米軍撤退まで日米と軍事同盟を結んでいた韓国海軍、そして北朝鮮海軍も参加した。そしてこの演習において、韓国北朝鮮両海軍もまた、沖縄宮古島間のルートを航行したのである。海上保安庁は常に艦船の動きを捉えていたが、国内に報道されることはなかった。
2026年10月、日本にとって長年の悲願であった日印軍事同盟が発足した。中国は、東アジアの平和への挑戦であると非難し、同月に中国、ロシア、韓国、北朝鮮、パキスタンによる五か国協議を開催し、日印軍事同盟への牽制を行った。日本は引き続き台湾、フィリピン、ベトナム、インドネシアに働きかけ、東アジア共同体との連携強化に努めた。
2026年11月、突如として人民日報系の機関紙が、沖縄の領有を主張し始めた。これまでにも2013年、2016年に、沖縄の帰属が日本にはないという主張を行っているが、今回は沖縄は中国の領有であるとはっきり主張を始めたのだ。その根拠は、1943年のカイロ会談で、フランクリン・ルーズベルトが二度に渡って沖縄の主権を中華民国に渡そうとしたことに起因するものであった。日本政府は遺憾の意を表明し、抗議を行った。
それに呼応するかのように、中国内陸部で2012年以来最大の反日デモが行われた。このデモの特徴は、都市部の住民のみならず、それまで反体制を決め込んでいた農村部の住民が加わったことにある。日本政府は人民日報の報道について、中国共産党に対して遺憾の意を表明し、政府としての立場を外務省ホームページに記載した。しかし、マスコミ各社の論説は分かれ、言論人も各々の立場から主張を行ったが、最も有力な意見として、沖縄の県民投票にて独立を決めるという案が出され、野党は一斉に県民投票の必要性を唱えた。
その最中、一人の国会議員が警視庁公安部に逮捕された。逮捕容疑は外国人からの違法献金だが、本当のところはスパイ容疑であったといわれている。李という男性議員で、日本民主党公認を受け東京都より出馬し、比例代表で当選した経歴を持っている。洛陽外国語学院の出身だが、ここは軍の教育機関であり、諜報活動専門の教育を受けたと見られていた。李は中国企業の誘致や外国人への手当や保護に関する活動、そして沖縄の独立運動を行っていたが、資金力が非常に高く、不審に思った公安からマークされていた。逮捕を受けて、代理人は記者会見を開いたが、中国人への不当な差別であると憤慨し、即時釈放を求めた。すると、どこからともなく大量の中国人や中華系移民が首相官邸を取り囲んでデモを行った。
「外国人への差別を止めろ」
これに左派勢力が加わり、十数万人規模のデモとなった。中国政府も、報道官の発表を通して、過去にないほど強い批判を行った。
「両国の関係に水を差すもので、非人道的な行為であり、到底容認できるものではない。即時釈放を求める」
中国はこれに対する報復として、日本製品への関税措置や中国国内に進出している日本企業の財産差し押さえへの動きを見せた。
2026年12月、不穏な年の瀬を迎えた。この年、紅白歌合戦に中華系アイドルグループが登場した。今年の漢字は「流」、先行きが流動的で読めないことを表した。二度の増税を境に格差が深刻なほど拡大し、所得格差や貧困率など様々な指標でギリシャ、ポルトガル、イタリアなどの国を抜き、アメリカに迫ろうとしていた。貧困世帯が増加し、不登校・ニートの数が右肩上がりで増え、生活保護受給者、自殺者の数は過去最大になり、厭世観が社会を支配した。予算編成では、国防費の大幅な増大を目論んだ与党に対し、野党は大反対のキャンペーンを張り、微増に留まった。しかし、中国や韓国はこの動きについて、軍事大国に突き進む暴挙だとして日本政府を厳しく非難した。ロシアも声明を出して日本を非難し、中国の報復に加わり天然ガスと石油の輸出を制限した。
2027年1月、国連安保理において、日本の常軌を逸した司法制度と、非人権行為に対する制裁決議が話し合われた。アメリカ、イギリスの反対により実現には至らなかったが、ロシアと中国、そしてフランスが日本に対する制裁の意思を持っていることが明確となった。中国の独自制裁に対して、朝鮮半島、ロシア、中東のいくつかの国、そしてアフリカ諸国がそれに加わり、日本包囲網が徐々に形作られていった。
2027年2月、UAEのダス・アイランド港を出航する予定の商船三井のタンカーが、直前で出航を禁止された。外務省を通して問い合わせがなされたが、有効な回答はすぐには得られなかった。結局、一週間後に出航の許可が出た。同月、再びタンカーの出航が制限される。タンカーの取引に関して不正が認められたとの情報が外務省に入ったが、出航が許されることは決してなかった。二度のアクシデントとロシアからの輸入が止まったことにより、日本国内のエネルギー事情への危惧が最大まで高まった。そしてUAEから日本に向けて、他のタンカーまでもが出航する目途が立たなくなり、インドの企業を仲介して石油取り引きを行うこととなった。
2027年4月、オペック総会で原油の値上げが決定した。また、中東諸国へ輸出していた自動車や工業製品に大幅な関税が課されることになった。中国の一帯一路政策の影響である。これにより、日本へのエネルギー供給は壊滅的となった。ついには、最大の取引先であるサウジアラビアを除き、カタール、イランが相次いで日本に対する輸出を抑えるようになった。石油価格は、2000年代初頭の取り引き額からすると平均で5~6倍の値段がついた。カザフスタンやインドネシア、そしてインドを仲介した輸入に頼ってきたものの、それすら値上がりが止まらない状態に突入した。日本国内の物流は大きく停滞し、首都圏を中心に食料品が急激な値上がりを見せ始め、それに伴って全国的に物価が急上昇を始めた。犯罪率が跳ね上がり、国外にルーツを持つものはいち早く日本を脱出した。宗教法人が終末を宣言し、救済を求める信者をかき集めた。
2027年5月、日中外相会談が北京で行われる。日本政府は一連の事例に対して強く抗議し、制裁を解除するよう要請した。最年少で外務大臣に抜擢された小泉進次郎が、中国外相に土下座をしたというデマまで流れた。結局日本側の要望は受け入れられず、代わりに中国側が正式に沖縄の独立を求めてきた。日本側は当然断ったが、中国は日本による沖縄の支配がいかに不当であるかを国連人権委員会に提訴した。すると、その月のうちに人権委員会より勧告が出された。
「日本による不当な支配を今すぐ終了し、沖縄に主権を返還せよ。」
この勧告が出た後には、日本の世論は国連脱退一色に染まりつつあった。それは、ネットを中心に出てきた主張で、男性の多くが声高に主張した。一方、憲法学者や左派の学者や研究者、活動家、政治家、彼らは国連脱退に強く反対した。彼らの主張は、「第二次大戦を忘れるな」というものであった。日本の世論は真っ二つに割れた。このとき、それまで左翼陣営に紛れ込んでいた中共、もしくは北の工作員は、初めて右翼陣営に姿を見せた。そして、国連脱退を強く主張し始め、国会前でのデモに加わった。
公安がデモ映像を分析すると、昨年11月の中国人議員釈放デモにもいた男の姿が確認されたため、任意で事情を聴取しようと男の家を大勢の公安職員が訪れたところ、男の自殺が確認されたのだった。この事件はただの自殺として発表されたが、あろうことか公安職員によって、その真相がネットに拡散した。国民は疑心暗鬼になった。そして、もともと希薄だった日本人同士の横のつながりが、霞が晴れるように薄れていったのだった。国民の多くは既に疲弊していた。国家のシステムも疲弊していたが、それに気づかなかったのは日本人だけだったのだ。
2027年7月17日、人民解放軍第51、52基地より、弾道ミサイルが発射された。奇しくも七年前のこの日は、海上保安庁の放水活動による犠牲者が出た日であった。