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病メル時モ健ヤカナル時モ

作者: ぶちこ


 車椅子に座ったヴィオラは、部屋で1人ペンを執っていた。

 それは、今日あった出来事の書き留めになる。


 ――もう大人の分別は付くでしょう。ならば、きちんと聞き分けなさい。

 ――所詮、幼い時の約束。本気にする方がおかしい。

 ――愛情だと思い込んでいるだけ。ただの罪悪感と義務感にすぎないわ。


 もう何度目になるか分からない。

 沢山の人から仄めかされ、沢山の詰られた言葉だった。


 全ては受け止めきれなくて、だからヴィオラは、日記帳へと押し付けるように書きつづっていく。できるだけ当たり障りのない遠回しな言葉で包み隠して。


 ヴィオラには婚約者がいた。

 17歳のヴィオラよりひとつ上で、ワーズワース伯爵家の跡取りである婚約者が。


 けれど今、彼との婚約を破棄するよう、周囲から脅迫じみた圧力を受けていた。

 理由はそのまま、ヴィオラが車椅子に頼らねばならない身の上にある。


 杖を突けば、それなりの距離は歩けた。だが、そんな不格好な姿で婚約者と――ネイトと並んで社交界へとのぞむなどどだい無理な話だった。


 妻として、夫と家を支えることが期待できない女を、歴史あるワーズワース家の伯爵夫人に据えるなど言語道断だというのが、親戚を含めた周囲の論調なのである。


 ヴィオラは書く手を止めて、ふと視界に入った鏡台へと目を向けた。


 そこには、車椅子に座った女がいた。

 柘榴の実を思わせる鮮やかな赤い髪と、淡い薄紅色の瞳。


 長く素直な髪は本当に赤く、線の細い顔立ちには悪目立ちしてしまうほど。


 品があるとは言えないその色がヴィオラはあまり好きではなかったが、身体の一部ともなる車椅子と一緒にすれば、それもまた違って見えた。


 これまで幾度となく新調されてきた車椅子は、ヴィオラの成長に合わせて大きさや機能を変えていき、今では同じものは2つと無い芸術品と呼べる代物だった。


 無駄のない造形の美しさはもちろん、洗練された彫りものや精緻な寄せ木細工が適所に施され、見るからに座る者を選ぶ椅子は、着席する者に高い品位を要求してくる。


 とはいえ、それはヴィオラの容姿に合わせて凝らされた意匠であり、考え抜かれた色合いである。


 ヴィオラ以上にふさわしい人間はおらず、一度座すれば、互いを引き立て合って“車椅子の少女”という一個の美術品を完成させていた。


 だが、そんな付加価値も健常者がもたらす利益と比べれば、まさしく飾りモノでしかないのだろう。


 ヴィオラは、見たままを映し出す鏡から目を逸らした。


 クッションの効いた背もたれへと寄り掛かかれば、背中に触れるビロードの感触と、滑らかなマホガニーの肘掛けがしっとりと手に馴染む。


 何から何まで上等な材であつらえられ、下手な宝石類よりもよほど値の張るこの車椅子は、婚約者(ネイト)からの贈り物だった。


 彼の想いがこもった贈り物に腰掛けるヴィオラは、かつて自分がまだ両の足で自由に歩けていた頃に思いを馳せる。


 ヴィオラの左足が歩行機能を失ったのはほんの数年前、他ならぬネイトの手によって奪われていた。







 ヴィオラとネイトが知り合ったのは、母同士の交流からだった。


 ヴィオラはグリント子爵家の令嬢で、ネイトはワーズワース伯爵家の令息だったが、ワーズワース伯爵家は、広大なアリンガム領を数百年に渡り治めてきた家系であり、対して、グリント子爵家はワーズワース伯爵家の分家として派生した家で、その歴史はまだ浅い。


 とはいえ、縁続きという関係上、母親たちがヴィオラとネイトを引き合わせるのは、それほど難しいことではなかった。


 母同士の思惑が何であれ、幼くして出会った2人はぎこちないながらも親交を深め合っていく。


 誰が介在しなくとも手紙の遣り取りがはじまって、互いの家を行き来するようにもなり、ただの親戚、ただの友人から一歩進んだ関係を2人が自覚するのに時間はいらなかった。


 しかし、ヴィオラとネイトが十代に入って間もない頃、事件が起こる。


 いつものようにワーズワース家の邸宅を訪れていたヴィオラだったが、そこでネイトとはじめて揉め事を起こし、口喧嘩へと発展した。


 出口のない口論の末、追い縋ったヴィオラをネイトが階段から突き落としたのである。


 少女の小さな身体は、およそ人が出すとは思えない音を立てながら階段を転げ落ちた。


 現場を目撃した使用人が悲鳴をあげ、それを聞きつけた他の使用人たちが、まだ息のあったヴィオラを客室へと運び、すぐさま医者が呼ばれる。


 全身の強打、打撲による裂傷と挫傷、数カ所にわたる骨折が医者の見立てだった。


 安易に動かすのは危険だと判断され、ヴィオラはそのままワーズワース家で治療を施されたが、その晩から高熱を出して生死の境をさまよう。


 誰もが助からないと諦観していた中、およそ3日後、奇跡的に命の危機を脱した。


 意識の回復もみられ、ヴィオラが覚醒と混迷をまどろむように繰り返していた時、医者と思わしき男と誰かが話しているのを耳にする。


 危篤状態はどうにか脱したが、身体に何かしらの障りが出るかもしれないと、朦朧とした頭の中で聞いていた。


 さらに数日後、ヴィオラの意識はすっかり戻っていたが、処方される鎮痛剤のせいで昼夜問わず眠気に襲われており、ふとした拍子に目を覚ましたのも深夜だった。


 ふとした拍子――人の気配で目覚めたヴィオラの目の前にいたのは、暗闇の中で佇むネイト。


 使用人に頼み込んだのか、人目を盗んで忍び込んだのか、とにかくネイトが会いに来てくれた事が、ヴィオラは素直に嬉しかった。


 それなのに、ネイトは表情のない顔でじっとヴィオラを見下ろすばかりで、一言も口を利こうとしない。


 よく見ると、ネイトの頬には痣のようなものがあった。

 彼の父に殴られたのだろうかと、ヴィオラは心配のあまり、かろうじて動かせた右腕を持ち上げていた。


 その手を、ネイトは取ろうとしてくれなかった。


 不思議に思っていると、自分の腕が白い包帯でぐるぐる巻きにされている事に気付く。

 腕だけではない。頭からつま先まで包帯だらけで、腕と足には添え木が固定されている。そんな姿のせいで、怖じ気付いているのだろうかとヴィオラは思った。


 だからヴィオラは、怒っていないと、ネイトのことが変わらず好きだと、できうる限りの言葉を尽くして自分の想いを彼へ伝えた。


 ネイトはひどく動揺していたが、やがて気持ちの整理が付いたのか、ヴィオラの右手をおそるおそる取ってくれる。


 そっと包み込んだ手に自らの額を当てて、どこで覚えてきたのか、許しを請う言葉をつたない言葉遣いで口にした。


 ヴィオラはこの時、本当の意味で2人の想いが通じ合ったことを感じていた。


 それからネイトは、憑き物が落ちたようにヴィオラへと献身的に振る舞う。


 ほぼ一日中付きっきりになり、人目もはばからず世話を焼きはじめたが、着替えや下の世話までしたがったため、さすがにそれは使用人たちが止めてくれた。


 ほとんど身動きが取れず、ベッドに縛り付けられたまま痛みに耐える日々が続いたが、それでも、ネイトがかいがいしく通ってきてくれたおかげで、ヴィオラは幸せだった。


 肋骨と腰骨に入ったヒビの完治にひと月、骨折した左腕と左足の治癒に数ヶ月、それだけの時間をかけて、ヴィオラはようやく1人で起き上がれるようになった。


 しかし、完全な回復とはならない。


 半覚醒時に聞いていた医者の言葉どおり、ヴィオラには障害が残った。

 骨を折った左足が、治癒してもほとんど動かせなくなっていたのである。


 改善の見込みはゼロに等しく、ヴィオラの左足はおそらく一生まともに動かないだろうと医者から改めて宣告された。


 いわゆる疵物になってしまったヴィオラだが、それから間もなくして、ヴィオラとネイトの婚約が内々に発表される。


 もともと婚約予定だったという体裁こそ整えてあったが、露骨な言い方をすれば、他家の令嬢を疵物にした伯爵家が、婚約という形で責任を取ったのだと皆が噂した。


 批難の声ももちろんあったが、ワーズワース伯爵家の後継者には、サイモンというネイトの兄がおり、特に期待のされていない次男の不祥事は、それほど大きな話題にはされずすぐに沈静化していった。


 婚約後も、ネイトのヴィオラに対する態度は、まったく変わらなかった。


 ばかりか、輪をかけてヴィオラに尽くすようになり、大人になって結婚したら、どこか静かな場所へと移り住んで穏やかに暮らそうと、幼いながらに将来を誓ってくれる。


 ヴィオラもそれに応えたくて、杖を使った歩行訓練に熱心に取り組み、どうにか転ばずに歩く感覚を掴みはじめた頃、気付けば、半年近くワーズワース家にやっかいになっていた。


 歩行が安定するのに合わせ、実家であるグリント家へ帰る日取りも決まり、しばらく別々に暮らさねばならないことを惜しみつつ、2人はいったん別れを迎える。


 ただ、それから3日後には、ネイトがグリント邸を訪ねて来てくれた。

 しかも、父に頼んで特別に作らせたという車椅子を携えて。


 はじめて贈られた車椅子は、人を乗せて運ぶだけの椅子でとても無骨な形だったが、その日は、車椅子の背をネイトに押されながら庭園を散歩して過ごした。


 そうして、ネイトは週に1、2度は必ず会いに来てくれるようになり、その度に2人で読書や散歩、少し遠出して見晴らしの良い草原でピクニックなどをした。


 ただ、しばらくすると、ネイトはヴィオラに会いに来る間隔を時々あけるようになる。

 何でも、父であるワーズワース伯爵の手伝いをするようになったらしい。


 手伝いとはいっても、王都での社交や自領の視察に出掛ける父親に付いて回り、自らが属している国と領地の主要都市、そこで生活する人々を見て回るというものだった。


 その理由もまた、ヴィオラである。


 王都での流行りものや、旅商人から聞いた異国の話を仕入れるためという、あまり褒められた動機ではなかったが、ネイトの父はそれを承知で同行を許してくれていると、ヴィオラはネイト本人から聞いていた。


 ネイトと遠く離れている時も手紙はかかさず届いたし、出掛け先から帰ってくれば、いの一番にヴィオラの元へ顔を見せに来てくれる。


 そして、抱えきれないほどのお土産と、覚えきれないほどの土産話を聞かせてくれ、いつか一緒に見に行こうと、幾度となく約束を交わし合った。


 そのためにもネイトは、ヴィオラを守れるだけの武芸や勉学に励み、そのいとまには、車椅子の改良にも熱心に取り組んでいた。


 従者に頼み込んで各地の職人通りを直接訪ねては、車椅子の改善点についてアドバイスを貰い、それを活かした新作を毎年のようにプレゼントしてくれるが、車椅子としての性能を突き詰めると、次は装飾にも凝り出していった。


 ヴィオラはヴィオラで、杖をついて歩ける距離を少しずつ伸ばしていったし、片足が不自由な身でも、色々な分野で内助の功となれるよう、貴族令嬢にはさして必要のない知識も貪欲に吸収していった。


 ヴィオラは幸せだった。

 2人は2人の未来のために、何の迷いも憂いもなく真っ直ぐと進んでいられたから。


 けれど、2人の描いた未来予想図は、ある日を境に一瞬で押し潰されることになる。


 ネイトが16歳の時、4歳年上の兄サイモン・ワーズワースが、かねてより関係のあった平民の娘を連れて家を出奔したのである。


 ワーズワース家は上を下への大騒ぎとなり、すぐさま捜索の手が伸ばされたが、その時にはすでに国境を越えていたらしく、他国の領土で大掛かりな捜索を続けるわけにはいかず、協力を請う手続きに手間取るあいだに痕跡を辿るのは難しくなっていた。


 サイモン・ワーズワースの捜索は、その後1年間続けられたが、伯爵家の当主であるネイトの父は、その1年があけるのを待ってから、息子は死亡したものとして扱う旨を公表した。


 貴族としての義務を放り出したばかりか、自らの言動が周囲に及ぼす影響を考慮できない者に、先祖代々のアリンガム領を受け継ぐ資格はないと、至極まっとうな判断からだった。


 長男であるサイモン・ワーズワースの死亡が決定した以上、伯爵家の後継は、次男ネイト・ワーズワースへと引き継がれる。


 それからは、めまぐるしく状況が変化した。


 まず、ネイトは伯爵家の後継として再教育がはじめられ、関係各所への顔見せと挨拶回りに日々を忙殺される。


 皮肉にも、ヴィオラのために父と各地を回っていたネイトは、自らの勤勉さを父に証明しており、その姿は各地の有力者も目の当たりにしていた。


 本来なら、兄サイモンがすべきことだったが、同じように随行していたはずの兄は、それすら満足に果たせていなかったことを、ヴィオラは後になってから知った。


 伯爵家を継ぐ能力を、ネイトに疑う者は少ないと言ってよかったが、彼には看過できない欠点があった。ヴィオラ・グリントである。


 身体に障害を抱える婚約者では、次期当主の妻は務まらない。その意見は圧倒的多数を占めて、ヴィオラの前に立ち塞がった。


 世間体と今後の付き合いを考えるなら、疵物にされた令嬢(ヴィオラ)の家から破談を申し入れるべきだし、そうした根回しは、とうに行われていても不思議ではない。


 だが、それを決めるはずのヴィオラの父からは、何の音沙汰もなかった。


 おそらく、ネイトが懸命になって周囲を抑え込んでいるのだろう。

 だから、ヴィオラの方から身を引くよう、ネイトを説得するよう、脅迫じみた圧力を掛けられるようになっていた。


 ほとんど接点の無かった親戚などが、グリント邸を代わる代わる訪ねては、ヴィオラに小言を零していき、それまで本当に親しい身内や友人からしか招かれなかった、夜会やお茶会の招待状まで届くようになる。


 何を考えているのか、わざわざネイトとの同伴を示唆する舞踏会の招待状まであった。


 ヴィオラの日常も、そうして日を追う事に騒がしくなっていき、今日もまた“お小言”への応対をしたばかりだった。


 年嵩のお客様が帰ったあと、ヴィオラは日記をしたためながら物思いに耽っていたが、不意に部屋の扉がノックされる。


 慌てて日記帳を閉じ、付属の錠に小さな鍵をかけてから返事をした。


 中へ入ってきたのは最近雇われた新参の侍女だった。

 マーヤという名の若い侍女は、ヴィオラの手元に日記帳を見付けるなり困ったように微笑む。


 「近頃、書き物ばかりされておいでですね」

 「……そうかしら?」


 「どうか、ほどほどになさって下さいませ。お体を冷やします」


 そう言って、マーヤは寝室から厚手の膝掛けを持ってきてくれた。

 彼女がこの屋敷に来てまだそれほど経っていないが、とても気の回る子だった。


 「何か考え事――…いえ、申し訳ありません」


 自らの失言に気付いたらしい彼女は、すぐさま口を噤んだ。

 ヴィオラが何か考えているとするなら、それは、たったひとつしかない。


 「いいのよ、ありがとう。でも、さすがにもう疲れたわ……」

 「……お嬢様?」


 「……マーヤ、別の紙を用意して。ネイトに手紙を書くわ」







 その日の夕刻には、ネイトがグリント邸を訪ねにやって来た。


 ヴィオラはすでに、彼が屋敷に来ても中へは通さないよう申し付けてあったため、使用人を介してそれが伝えられる。


 けれど、ネイトは引き下がらず、玄関ホールで押し問答を繰り返していると、使用人達から助けを求められたため、ヴィオラは直接出向くことにした。


 侍女マーヤに車椅子を押されながら、玄関ホールへと続く廊下を抜ければ、困り果てた使用人と対峙しているネイトが目に入る。


 暗褐色の黒髪に、深く落ち着いた紫色の瞳。

 18歳になってすっかり伸びた背と体格は、人目を引く容姿と相まって次代の伯爵家を背負って立つのに申し分がない。


 久しぶりに見た姿だった。

 手紙の遣り取りなら数日おきにしていたが、もう、ひと月近く会っていない。


 前に見た時より明らかにやつれおり、きちんと食事や睡眠を取れているのか、ヴィオラは言葉をかけたくなったが、そこはぐっと堪えた。


 「……ネイト」


 できるだけ声音を落として呼べば、ネイトがすぐさま振り返る。


 自分を押し止めていた使用人を押しのけ、真っ直ぐとヴィオラに向かって突き進んでくるので、車椅子の背後にいたマーヤが警戒するようにヴィオラの横に立った。


 「ヴィオラ。これは、どういう事なんだ」


 必死に感情を押し殺している声だった。


 いつもなら、視線を合わせるために車椅子の前で跪いてくれるのに、そんな余裕もないのか、ヴィオラへ向かって不躾に手を突き出している。


 そこには手紙らしきものが握りしめられ、くしゃくしゃに潰れていた。


 「……そこに書かれている通りよ。もう、貴方と一緒に生きていくことは出来ないの」


 淡々と述べれば、ネイトは死の宣告を受けたとばかりに息を呑んだ。


 「――ま、周りの人間なら、きちんと説得する。大丈夫だ。君には何の苦労もかけさせない。全部、僕がやる。だから――だから、そんなことを言わないでくれ」


 ほとんど懇願のような言い様に、胸が締め付けられた。


 ヴィオラのためだったら、彼は本当に何だってやってのけるだろう。だからこそ、余計に突き放さなければならなかった。


 「――ごめんなさい。もう帰って……もう来ないで」 

 「ヴィオラっ」


 「マーヤ、部屋まで連れて行って」

 「…はい。お嬢様」


 ネイトの制止を振り切って、マーヤは言われた通り、ヴィオラの車椅子を再び押していく。


 「待ってくれヴィオラっ。どうか話を聞いてほしい。僕は君じゃないと駄目なんだ。知っているだろう。だから、ヴィオラっ」


 何度も名を呼びながら追い縋ろうとするが、使用人たちに止められる。

 ヴィオラは、彼を一度も振り向かずに部屋へと戻った。


 ネイトの声はしばらく部屋まで届いていたが、半時ほどするとヴィオラの父が帰宅したため、ネイトも帰らざるを得なくなった。


 だが、次の日もネイトはやって来た。

 もちろんヴィオラはすげなく断り、彼は屋敷の門すら通してもらえなかったため、昨日の非礼を詫びる手紙と、赤い薔薇の花束だけを残していった。


 次の日もネイトは門前まで屋敷を訪ねた。その次の日も、その次の日も。


 その度に、白やピンクの薔薇と手紙が贈られてきたが、5日目には昼の時刻にも手紙と薔薇が届くようになり、1日に3度、4度と手紙が届く日もあった。


 ネイトの訪問は1週間以上続き、部屋が薔薇の花で埋め尽くされる頃、ついにヴィオラは両親から呼び出される。


 両親に――特に、先妻の娘であるヴィオラと折り合いが悪い継母(はは)から直接呼び出されるのは珍しかったが、それだけ事態は切迫していたのだろう。


 聞けば、ネイトが書類仕事や挨拶回りの予定を放りだして、ヴィオラの元に通っているという風評が世間に出回ってしまっているらしい。


 しかも、ヴィオラが我が侭を言ってネイトを振り回しているというもので、このままではグリント家はもちろん、ワーズワース家双方に悪い評判が立つと強く忠告された。


 継母は、全てが全てヴィオラが悪いと言わんばかりだったが、こうなることは、ヴィオラにも充分予想できた事態だった。


 だから、自分はこれからどうするべきかも、すでに考えてある。


 継母の言に屈するようで気分は良くなかったが、これもネイトのためだと言い聞かせると、ヴィオラは色々とほとぼりが冷めるまで、しばらく遠方の別荘地に身を移したいと両親へ提案した。


 両親は、ほとんど躊躇うことなくその提案を受け入れてくれる。

 ヴィオラがそう言い出すことを、はじめから待っていたのだろう。


 せめてもの抵抗に聞こえるよう、以前にも一度行ったことのある避暑地が良いと言えば、それもあっさりと承諾された。


 そうして、ネイトから離れ遠い地へ赴くための準備が、その日の内から始められた。







 ヴィオラの行き先は、貴族たちが避暑に利用する、少し大きな村だった。

 そこで、グリント家が所有している別荘の管理をしている老夫婦と同居することになる。


 ヴィオラは、ほとぼりが冷めるまでと言ったが、明確な期限などありはしない。


 しばらく戻ってこられないからと、別荘地へ移るための準備は、馬車2台という大掛かりなものとなった。


 準備を整えている合間も、ネイトは欠かさずグリント邸に通ってきていた。


 ところが、出発する数日前からそれがぴたりと止まる。

 あれだけ繰り返された手紙や薔薇の花束も、まったく届けられなくなった。


 伝え聞いたところでは、書類仕事や挨拶回りにはいたって普通に顔を出しているようで、ようやく諦めてくれたかと、彼の対応に毎日出ていた使用人達は胸をなで下ろしていた。


 そして、出発の当日。


 なるべく目立たないよう日の出前に発つことになり、薄明かりの中、整えておいた荷物を部屋から運び出し、馬車へ積み込む作業がはじまる。


 ヴィオラはそれを部屋の庭先で眺めていた。


 出発直前まで部屋の中で待っていることも出来たが、衣服や日記帳など身の回り家具や物も少し持ち出すため、部屋の中に居てはかえって邪魔になり、早朝ということで荷運び以外の使用人たちも屋敷内を忙しく動き回っている。


 何となく居場所が無くて、人通りの少ない庭先まで1人で出ていた。


 しばらく窮屈な馬車移動になる、今の内に清涼な朝の空気を吸っておくのも悪くないと、今日一日よく晴れそうな空を眺め、起き出した小鳥たちのさえずりに耳を傾けていた。


 その時、ヴィオラに向かって呼びかける声があった。


 「――どこに行くの?」

 「――!」


 車椅子のすぐ後ろ。振り向かずとも、誰だか分かった。


 どうやって邸内にという疑問は、すぐに使用人の通用口という答えに行き着く。

 ただでさえ早朝は出入りが激しい。それが、ヴィオラの旅支度で人手を割かれているため、注意が甘くなっていたのだろう。それを狙って忍び込んだ。


 「……駄目よ。ネイト」

 「何が?」


 ひどく平坦な声だった。

 この間、玄関ホールで取り乱した様子から一変して、まるで別人のような口調。


 ネイトの手が伸びてきて、断りもなくヴィオラの髪を撫ではじめる。

 柘榴の実に似た色鮮やかな髪を、彼はとても気に入っていた。


 されるがまま動けずにいるヴィオラは、このままネイトがどんな行動に出るのか、ひたすら考えを巡らせる。


 車椅子を押せばヴィオラを容易く運べるだろうが、それではすぐに使用人に見付かってしまうだろう。そうなったら、どう言い繕っても誘拐の現場にしか見えない。


 「お嬢様、そろそろお時間です」


 部屋の方からマーヤの声がした。


 声に反応してか、ネイトの手がヴィオラから離れ、そのわずか数秒後、マーヤが開きっぱなしの窓から顔を出した。


 「…………どう、なさいました?」


 彼女は、ごく普通にヴィオラへと問いかける。

 その顔は、何ら変哲のない光景を見ている顔つきだった。


 「…………」


 ヴィオラは彼女に応えずに、ゆっくりと己の背後を振り返る。

 そこにはもう、誰もいなかった。


 「あら。御髪に花が…?」


 マーヤが視線を向けたのは、さっきまでネイトが指先で弄っていた箇所。

 ヴィオラは、自分の髪に挿し込まれていた一輪の花を手に取った。


 その花は、またしても薔薇だった。

 血のように赤い髪には、きっと恐ろしく似合うだろう、黒い黒い薔薇の花。







 黒薔薇の花言葉は、“あなたはあくまで私のもの”“決して滅びることのない愛・永遠の愛”。そして、“恨み・憎しみ”である。


 そんな花を贈られて、ただの別れの挨拶だと思えるはずがなかった。


 とはいえ、今さら予定を変更することは出来ず、ヴィオラは何事もなかったように避暑地へと旅立つ。


 同行者は、侍女のマーヤ1人だけ。馬車の御者や護衛たちはヴィオラを送り届けたら、帰る手筈になっていた。


 片道、約3日の長旅で、宿場町などを介しながら目的の村へと、あっけないほど無事に到着する。


 人の良さそうな管理人の老夫婦に出迎えられて、村や別荘について軽く説明を受けるが、旅の疲れを取ってほしいと、すぐに部屋へと案内される。


 移動に不便にならないよう、ヴィオラの部屋は1階に設けられていた。


 内装は好きにしていいとの配慮だろう、とても簡素な部屋だったが、さすがに荷解きをする気にはなれず、それは次の日からマーヤとの共同作業にする。


 心機一転とは真逆のうえ、不慣れな土地での生活になったが、車椅子のヴィオラは暮らしにそれほど違いを感じなかった。


 これまでと同じように本を読んだり、日記を書いたり、刺繍や編み物、たまには杖を使って自力で散歩などをするだけである。


 あえて違いを言えば、近くにある村へと気軽に下りられることだろう。


 避暑に来た貴族たちは、そこで買い物や食事をし、平民の暮らしを疑似的に体験しているらしい。


 この避暑地は、貴族たちが集って出資した、ある意味で人工的に作られた村だった。


 当然、人の出入りは厳しく管理されており、ただの旅人や身元のはっきりしない者はまず出入りを許可されないため、従者もなしに出歩けたり、戸締まりすら簡単な施錠だけで充分だとされている。


 ヴィオラ自身は特に興味はなかったが、気分転換になるからとマーヤに連れ出される形で、何度となく村の中を見て回っていた。


 すると、貴族の歓待方法を教え込まれている村人たちは、ヴィオラの顔はすぐ覚えてしまったようだった。


 今は避暑の季節ではないせいもあるだろうが、やはり、車椅子に柘榴のような髪色の女はかなり目立つらしい。


 とはいえ、体の不自由な令嬢に皆が皆あたたかく接してくれるため、ヴィオラは何の不自由も、わずらわしい雑音もない暮らしを、この村では約束されていた。 


 そんなある日のこと、ヴィオラはいつものように安穏とした1日を送り、安らかな眠りにつくためのベッドへ横になっていた。


 夜はすっかり更けて、日付はとっくに変わっている。

 そんな夜更けに、かたりと窓が開く音がした。


 ここ連日、ヴィオラは夜更かしをしているから、その物音を聞き逃さなかった。


 風や獣の仕業ではない。かすかにだが、隣の部屋から人間らしき足音がする。


 この別荘周辺には今、ヴィオラを除いて、管理人の老父婦と侍女のマーヤしかおらず、護衛のたぐいは置かれていない。


 侵入するのはさぞかし容易かっただろうが、窓から忍び込んだばかりか、わざわざ深夜を狙ってくる人間が、まともな人物であるはずがなかった。


 侵入者は、誰かを捜しているのか、灯りのない部屋の中を注意深くさまよって、やがて、ヴィオラの寝室へと続く通路を見付けたようだった。


 侵入者の足取りは、いっそう慎重になる。おもむろにベッドの脇へ立ち、そこに横たわっている女の顔を確かめるような間があいた。


 覗き込まれている気配を感じながら、ヴィオラは目を閉じて、じっと待つ。


 衣擦れの音が聞こえてきた。懐から何かを取り出しているようだった。


 この状況から考えて可能性が高いのは、ヴィオラを害するための凶器だろう。持ち運びやすさを考慮すれば、ナイフか短剣といったところか。


 「……ヴィオラ、本当にどうして……」


 ネイトの声。聞こえるか聞こえないかの呟きだったが、ヴィオラが彼の声を聞き間違えるはずがない。


 「……あの時、言ったじゃないか。変わらず好きだと……これで信じてくれるだろうと……それを君が裏切るなんて……」


 抑揚のない口調であの日の懐かしい話をされ、ヴィオラは思わず微笑んでしまった。


 部屋の中が暗くて彼は気付かなかったのか、刀身を鞘から抜いたような音がする。

 このまま何もしなければ、その凶刃はヴィオラの胸元に突き立てられるのだろう。


 ネイトの殺意に身を任せてしまおうかと一瞬迷うが、やはり思い止まって、ヴィオラはそっと目を開けた。


 暗闇に慣れた目が、しっかりとネイトの姿を捉える。

 彼は、あの日あの時、昏睡状態から回復したヴィオラに会いに来てくれた時と、全く同じ顔をしていた。


 ヴィオラと目が合っているのに、何の反応も返さず、ただじっと見下ろしている。


 悲鳴を上げたところで、手元の短剣からは逃れられないと彼は確信しているだろう。

 だからヴィオラは、あの日と同じようにネイトの訪れを心から歓迎した。


 「来てくれるって、信じてた」

 「…………」


 ほんのひととき沈黙が落ちて、ネイトがわずかに眉をひそめる。

 そんな表情まで昔と同じで、ヴィオラはもう満面の笑みを抑えきれなかった。


 「でもね、ここも駄目(・・・・・)。まだよ」

 「――――……ヴィオラ?」


 何かがおかしい事にようやく気付いたネイトが、戸惑いながら名を呼んだ。


 「あのね、貴方にお手紙を書いてあるの」







 外が白んできたのを確認してから、ヴィオラは1人でベッドを下りた。


 ベッドの脇に置いてある杖を使って立ち上がり、ほとんど動かない左足を引きずるようにして、鏡台の前まで移動する。


 バランスに気を付けながら椅子へと座り、自分の姿を鏡に映した。

 寝乱れた髪を手櫛で直しながら、大きく開いた胸元を注意深く確認する。


 昨夜は危なかった。久しぶりの逢瀬に色々と盛り上がってしまって、ダメだと言ったのに、ネイトのおいた(・・・)がなかなか止まらなかったのである。


 胸元に隠していた手紙は、きちんと手渡すことは出来た。


 しかし、取りだした場所が悪かったのか、寝間着のヴィオラが横たわる状況が悪かったのか、これまでの鬱憤をぶつけるように濃密な愛情表現をされてしまっていた。


 その愛情表現が、唇や首筋、胸元に痕を残していないか、鏡で確認するが、部屋の中はまだそんなに明るくなくてはっきりとは見えない。


 着替えの時にバレてしまうのはやはり恥ずかしく、目をこらして探していた時、ノックもなく部屋の扉が開いた。


 早朝なのだから入室の許可を得る必要はないが、部屋へと入ってきた人物は、昨夜のネイトと同じように慎重な足取りだった。


 家具の配置はもう把握ずみだろうに、どこか迷いのある歩調でヴィオラの寝室へと踏み入ってくる。予想に違わず、侍女のマーヤだった。


 彼女はずっと主人のベッドを注視していたが、ベッドが無人であることに気付くと、慌てたように部屋の中を見渡し――鏡台の前にいたヴィオラと目が合うなり、「ひっ」と、悲鳴を上げた。


 「……どうしたの?」

 「――――い、いえ……いえ、その。なんでも…ありません」


 やけにうわずった声で言う。


 驚いただけにしては、彼女らしくない大げさな反応だった。まるで、目の前にいる女がどうして生きているのか、それが理解できていないという顔。


 「――――お、お嬢様。もう、起きられて…ずいぶんと、お早い」

 「……ええ。昨夜は一睡も出来なくて」


 ヴィオラは、なかなか動揺の収まらないマーヤを、鏡台の鏡越しに見据える。

 彼女は、主人の世話もそっちのけで、何か思い悩んでいるようだった。


 「……もしかして、気付いている?」


 びくりと、マーヤの肩が震えた。

 部屋がもう少し明るければ、蒼白な顔色がうかがえたかもしれない。


 「昨夜、ネイトが来たのよ」

 「…………」


 マーヤは、おそるおそるといった様子でヴィオラに視線を向けた。


 鏡越しに目が合うが、彼女に驚いた様子はなく、ヴィオラが何を言い出すのか微動だにせず待っている。


 主人の寝室に男が侵入したと、もし気付いていながら駆け付けて来なかったのなら、とんでもない侍女である。部屋の戸締まりを担当しているのもマーヤであり、彼女の失態は、もはや過失で済まされるレベルではない。


 けれどヴィオラは、そんな些細なことは気にも留めていないふりをして話を続けた。


 「……彼から、求婚されたわ」


 マーヤは、今度こそ驚いた表情を顔に貼り付けた。


 「この村にある小さな教会で式を挙げようって。牧師様にわたし達の事情を話して、協力を取り付けてくれたそうよ。それで、神さまの前で結婚の誓いを立てようって」


 「…………」


 「つまり、結婚を強行しようってことなんだけど……でも、私たちがそれだけ本気だって事を示したら、伯爵――ネイトのお父様だって、私たちの仲を考え直してくれるかもって。それに、ほら…これ以上、“不祥事”を起こされたくないだろうからって」


 ヴィオラはやや俯いて、言いにくそうな仕草を作って見せた。


 「……私ね、その申し出を受けたの」

 「――そんな」


 「確かに、やり方は乱暴で褒められた事ではないけれど、そこまで覚悟してくれているネイトの気持ちが本当に嬉しくて。彼と一緒なら、きっと何だって乗り越えられる気がしたの。だから私、色々と考え直すことにしたわ」


 でも、と小さく零したマーヤの声を、ヴィオラは聞こえなかったふりをした。


 「5日後、この屋敷まで馬車を手配してくれるそうよ。どうしよう。今から胸がドキドキして、昨日は一睡も出来なくて……」


 言いながら、ヴィオラは自らの顔に触れる。


 「でも、ダメよね。一生に一度の式にクマの出来た顔なんて晒せないもの。今から少し休むわ。今晩はちゃんと眠れるように」


 鏡で目元の状態を確認したあと、鏡台に立てかけておいた杖を手に持った。


 ゆっくりと立ち上がり、主人に手を貸しもしない侍女を振り返ると、ヴィオラは不思議そうに彼女の顔を見つめた。


 「どうしたの、マーヤ?」


 彼女は、ヴィオラから視線を外すように、わずかに面を下げる。


 「――いいえ。では、朝食などの手配は私にお任せを。お嬢様は、ごゆるりと休息をお取り下さい」


 一礼を返すと、マーヤは主人の寝室から足早に立ち去っていった。


 部屋の扉が閉まるのを耳で確認してから、ヴィオラは再びベッドの脇に腰掛ける。

 そしてマーヤに述べた通り、徹夜の疲れを癒すため睡眠を取ることにした。


 ベッドへと横たわり目蓋を閉じれば、ヴィオラはすぐに眠りに落ちた。







 ヴィオラが自身の特異性に気付いたのは、父親の不義がきっかけだった。


 父と前妻(はは)はいわゆる政略結婚だったが、経営の思わしくない家が持ち直した頃、父には結婚以前からの愛人が居ることが発覚した。


 神を祀る祭壇の前で永遠の愛を誓っておきながら愛人を作り、ばかりか、流行病で倒れた前妻が鬼籍に入ると、まるで待っていたかのようにその女と再婚したのである。


 この父の裏切りは許し難く、また受け入れられるはずのない罪悪だった。


 その時から父と継母のことは、穢らわしい汚物にしか見えなくなり、彼らに話しかけるのも、話しかけられるのも苦痛になる。


 幸い、継母の方もはじめからヴィオラと親子関係を築くつもりはなかったらしく、むしろ、さっさと他家に嫁がせる腹づもりのようだった。


 ヴィオラもヴィオラで、穢らわしい人たちと同じ屋根の下で暮らすより、人生の伴侶となる人と結婚をして、早く家を出て行ってしまいたかったから、特に衝突することもなく平穏な子供時代を過ごす。


 ヴィオラには、たった1人の人を生涯愛し続けられる自信と確信があった。


 けれど、年齢を経る事にヴィオラのような考えを持つ人間の方が稀なのだと知り、しだいに悲観していく。


 離婚や再婚はせずとも、家の外に愛人を作るという夫婦があまりにも多く、たとえヴィオラが永遠に愛せたとしても、相手も同じように愛してくれるとは限らなかった。


 その事実に、いずれしなければならない結婚にも希望をもてなくなっていたが、神さまは、ヴィオラに運命の出会いをもたらしてくれた。


 のちに、ヴィオラの最愛の人となるネイト・ワーズワース。


 継母がヴィオラを追い出すため、ワーズワース伯爵夫人と画策して引き合わせられたネイトは、ヴィオラと同じ考えの持ち主だったのである。


 彼もまた、たった1人しか愛せず、その性質は自身の生い立ちからくるものだった。


 父親と愛人の子という、言ってしまえばどこにでもありそうな理由だったが、彼にはそれが耐え難く、ヴィオラが父と継母を嫌悪していたように、彼は自分の存在すら嫌悪していた。


 ヴィオラの継母と伯爵夫人の目論見、つまり、厄介者同士をまとめて追い出す計画を知っていたヴィオラは、ネイトとはじめて顔を合わせた時、母親たちの思惑と、何より自身の考えを包み隠さず全て彼に打ち明けた。


 もちろんその時は、ネイトの心境など知るよしもなかったが、ネイトがヴィオラを愛し続けてくれる限り、ヴィオラからネイトを裏切ることは絶対にないと固く約束してみせる。


 彼から返ってきたのは懐疑的な視線だけだった。

 けれど、どのみち結婚するのだとしたら、長い年月を共にする伴侶として、せめて仲良くしていこうという意見には賛成してくれる。


 ぎこちない遣り取りから始まった2人の交流は、思いのほか順調に運んでいった。


 合間に、ヴィオラが階段から突き落とされる事件が起こるが、それは結果的に、ヴィオラの言葉をネイトが信じてくれるきっかけになったため、むしろ思いがけない僥倖に恵まれたとヴィオラは思っている。


 しかしその後、兄サイモンの出奔によってネイトがワーズワース伯爵家の跡取りとして担ぎ出されてしまい、ヴィオラは周囲の勝手な都合でネイトとの破談を迫られている。


 今さらネイト以外の男と結婚しなければいけなくなるなど地獄でしかない。


 そうなるくらいなら、一緒に死んだ方がましだった。







 ネイトがヴィオラの寝所に忍び込んで来た日から、5日が経った。


 教会で式を挙げる当日、ヴィオラは迎えに来た馬車に侍女マーヤと共に乗り込むと、町の教会へと向かう。


 この5日間、ずっと思い詰めた様子だったマーヤは、馬車の中でいっそう青ざめて身を固くしていたが、ヴィオラはやはりとぼけたふりを続けた。


 無事、教会まで辿り着くと、挙式のための支度を整えたいと言って、マーヤを連れて部屋の一室へと足を運ぶ。


 それから半時ほどして、教会の礼拝堂には、ヴィオラ達の馬車とは別に運ばせておいた車椅子の姿があった。


 祭壇を拝するように置かれ、その背もたれからは、わずかに柘榴の実のような赤い頭が見えている。


 礼拝堂に人らしい人の姿は見えず、正面奥、頭上のステンドグラスから差し込んだ光が、慎ましい祭壇と神の存在を静かに讃えているが、異物である車椅子を奇妙に浮き立たせてもいた。


 静寂と清廉な雰囲気に包まれた礼拝堂に、やがて1人の闖入者が訪れる。


 外套のフードを目深に被って容貌がはっきりとしないが、体格からして男だろう。

 男は礼拝堂の両扉から音もなく入り込むと、迷うことなく車椅子の方へ近づいていく。


 迅速に事を進めようとしてか、足音に気を配ることもせず突き進み、外套の下から鈍く光る何かを――短剣を取り出した。


 車椅子の背後に詰め寄り、短剣を握った手を振り上げ、ひと息に突き立てる。


 衝撃で車椅子に座ったそれ(・・)は、床へと崩れ落ちた。

 力なく四肢を投げ出し、赤い髪も放り出して倒れ込んでいる。


 「――!」


 男に動揺が走ったようだった。

 おそらく、床に転がった大きな藁人形のせいだろう。


 「まあ、酷い」


 そらぞらしく言い放てば、フードの男がこちらを振り返る。

 彼が目に捉えたのは、今しがた入って来た両扉の横手から運ばれて来る車椅子の女。


 藁人形の車椅子とは別の車椅子に座ったヴィオラは、その背をネイトに押されながら礼拝堂の身廊、中央廊下を進みゆく。


 それが合図だったかのように、隠れて様子をうかがっていた他の者たちも姿を現した。


 祭壇横の右扉から、護衛を伴った教会の牧師とワーズワース伯爵、さらに祭壇左扉から護衛に捕らえられた侍女マーヤの計5人が、フードの男の退路を断つようにして祭壇前へと歩み出てくる。


 男は、自らが置かれた状況を察するなり、身廊を駆け出した。


 護衛のいないヴィオラたちを狙って走るが、ほぼ同時に、左右に居並ぶ長椅子から男2人が飛び出し、フードの男を取り押さえる。


 ヴィオラがネイトに頼み、ワーズワース伯爵が手配した信の置ける護衛たちである。


 護衛たちは、捕縛され地に伏した男のフードを強引に剥ぎ取った。男は顔を見られまいとしてか、必死に面を下げ、額を床に擦り付ける。


 ネイトと共に、より高みへいたる身廊(みち)を悠然と進んでいたヴィオラは、同じ身廊(みち)でひれ伏す男の目の前で、車椅子の車輪を止めた。


 「お久しぶりですね、サイモンお義兄様」


 男の肩がわずかに震えたが、その顔を上げるようなことはしない。


 「でも、こんなところで何をなさっておられるのかしら? もしかして、私とネイトの晴れ舞台を言祝(ことほ)ぎにいらっしゃってくれたのですか?」


 往生際のわるい男に、ヴィオラもとぼけてみせるが、やはり応えはしなかった。


 「…そうね。なら、そこの侍女(マーヤ)と共に私の殺害を目論んで、全ての罪をネイトになすりつけるつもりだったのかしら? でも、彼女とはついさっきも会ったはずなのに、聞いていた内容とまるで違っていたから、とても驚かれたでしょう?」


 男は――サイモン・ワーズワースは、この教会へ出向く数日前からマーヤと示し合わせ、式の前にヴィオラを礼拝堂に誘い出して、1人きりにさせるつもりだったらしい。


 しかし、その肝心のマーヤは、ヴィオラの支度を調えるために入った部屋で待ちかまえていたワーズワース伯爵と護衛たちによって捕らえられていた。


 伯爵の前で全てを自白したマーヤは、この一件に関わった全ての人間の名前を明かし、さらには、ヴィオラに命じられるまま一芝居打つことにも協力していた。


 そうして、礼拝堂に誘い出されたのはヴィオラではなく、サイモン・ワーズワースという、現在の状況はできあがっていた。


 「どうあっても、ネイトの手による無理心中に見せかけたかったのですか?」


 「…………」


 「そうでしょうね。卑しい身分の女と出奔され、死亡の公表までされてしまったご自分が、ワーズワース家の跡取りに返り咲くには、それ以上の事件を起こすくらいしかありませんものね。残念なことに、お義母様たち(・・・・・・・)は貴方の考えに賛同してしまったようですが」


 「…………」


 「まったく、なんて自分勝手な人たちなのかしら。下劣きわまりない理由で、跡継ぎの座を弟に押し付けておいて、分が悪くなったら、今度はその座から押しのけようだなんて」


 「――――何を言っているのか、分からない」


 サイモン・ワーズワースはようやく顔を上げた。かと思えば、世迷い言を口走る。


 ヴィオラは、這いつくばった薄汚い男を車椅子の上から冷ややかに見下ろした。


 「そうですか。では、子爵令嬢ヴィオラ・グリントに対する殺人の嫌疑で、さっさと役人に引き渡しましょう。公平性を考慮して、目撃証言は牧師様にしていただくのがよろしいかと。侍女の自白も、もちろん量刑の材料に入れてください」


 「ま、待て。違う、違うんだっ――――父さん!」


 一転して、釈明の言葉を発したかと思えば、向けられた先はワーズワース伯爵。自分の父親だった。


 「聞いてくれっ。この女とネイトは、何の断りもなく婚礼を挙げようとしていたばかりか、結婚の強行で父さんを脅そうとしていたんだ。こんな不具が伯爵家の女主人になるなんて、家の恥でしかないだろ。だから止めるために―――」


 「彼女を殺そうとしたのか?」

 「――それはっ」


 助けを求めて言い繕う息子に、ワーズワース伯爵は苦々しく顔を歪めた。


 「お前が、ライサと――母親と連絡を取り合っていることは知っていた。ライサからお前を許すように、何度も意見された。たが、私はそれを承知しなかった。サイモン、お前はすでに死亡しており、伯爵家を継ぐ資格などないからだ」


 「父さん!」


 「ヴィオラ嬢から全て聞いている。お前は母親と子爵夫人、そしてそこの侍女と共謀していたそうだな。本当なら5日前、ネイトにヴィオラ嬢を殺害させて、心中事件を起こすつもりだったと。しかし、それが失敗したために、こうして――」


 「違う! 心中なんて知らない! そ、そうだよ。ネイトが心中をはかるなんて、そんなこと仕向けられるはずがないだろ。あいつがそんな異常な行動をするなんて、どうしてボクが考えつくと思うんだっ」


 「まあ、白々しい」


 親子の諍いに、口を挟んだのはヴィオラだった。


 「サイモンお義兄様、貴方は知っていたはずですよ。ネイトが私を階段から突き落とした時から。そもそも、あの時の原因を作ったのは貴方なのですから」


 サイモン・ワーズワースは、はっとしたようにヴィオラに視線を戻した。


 「屋敷の片隅で寄り添おうとしていた私たちの何が気にくわなかったのか知りませんが、ともかく、私が貴方に媚びて気を引こうとしたのだと、ネイトに吹き込んだのですよね?」


 問われたはずの男は何も答えなかった。だが、その顔は如実に答えを返していた。


 「効果は絶大でした。私は何度も違うと言ったのに、ネイトは一切信じてくれなかったもの。それでも取り縋った私をネイトが突き飛ばした……しかも、貴方は懲りもせず、あの後もたびたびネイトを唆してくれて。だから私は、ネイトと一緒に直接言いにいきましたよね。―――ありがとうございますと、お礼を言いに」


 サイモン・ワーズワースが、覚えのある表情(かお)をする。

 それは、何歳も年下の少女に見せた、あの時の表情(もの)と全く同じものだった。


 「私は貴方に言いました。貴方のおかげで、この先、何があっても私がネイトを裏切ることはないと彼が信じてくれました。それでももし、再び私たちが別たれるようなことがあれば、今度失うのは左足だけでは済まない、と」


 「――っ」


 「だから、貴方は知っていたはずです。ネイトではなく、私の(・・)異常性を」


 男の目にいったい何が映っているのか、這いつくばった地べたから、埒外のモノを見る顔で、ヴィオラを見上げている。


 そんなに得たいが知れないなら見なければいいものを、彼はそれすらままならず目を逸らしもしないので、ヴィオラは特別に微笑みをくれてやった。


 刻めるだけの恐怖を刻み込んでやれば、ヴィオラは膝掛けの下に隠していた日記帳を見やすいように掲げてみせる。


 「この日記に、全て書かれてあったのでしょう? 私がわざとネイトに別れの手紙を書き、ネイトを精神的に追い詰めて心中に持ち込むという、私の(・・)異常な計画が。貴方はそれをマーヤから聞いていたのよね?」


 ヴィオラは、侍女のマーヤが日記帳を盗み見ていることを知っていた。


 知っていて、1日も欠かさずその日にあった出来事や、親戚たちに言われたこと、それを受けて自分が思ったことを書きつづっていた。


 だから、ネイトに別れの手紙を書いた後も、ネイトがヴィオラの予想通りに動いていることを詳細に書き込んである。


 手紙を受け取ったネイトがグリント邸を訪ねてきて、人目も憚らず取り乱したこと。

 それから毎日毎日、手紙と色取り取りの薔薇が大量に届けられたこと。


 もちろん、グリント邸を発つ日にネイトが敷地内に潜り込んできて、一輪の黒い薔薇をヴィオラに飾ったことと、黒薔薇がどういう意味を持っているかも書いてある。


 何より、日記の端々に、ネイトが殺しに来てくれることを心待ちにしているヴィオラの心情を、情感豊かなイカれた言葉で存分に書き記しておいた。


 「人の計画に便乗すればいいだけなのだから、さぞかし楽だったでしょうね。でも、肝心かなめのところで私たちが心変わりしてしまったから、それはもう慌てたんじゃないかしら。ご自分の死亡公表を覆すような事件が、もう起こらなくなってしまったんだもの。――――だから貴方たちは、自分たちで事件を起こすしか無くなった」


 ヴィオラの心中計画を、ネイトによる無理心中に変更すればいい。


 ただし、ヴィオラ・グリントを殺すのはネイト・ワーズワースでなくとも良かったはずだ。侍女(マーヤ)が、ネイトが殺したと証言すればいいだけなのだから。


 「でもこの村は、警備が厳重で身元がしっかりした者でないと簡単には入れないわ。でも、身元がしっかりしていて、人を殺してくれる人なんて居ない。いえ、探せば居るのかもしれないけど、そうそう簡単に見付かりはしないでしょう。だからサイモン・ワーズワース、貴方は自ら手を下すしかなかった」


ふと気付くと、地べたの男はうつむき、再び地に伏していた。


 「……公には死んでいても、伯爵夫人(おかあさま)の力添えがあるのだから、身元の保証はどうにでもなったでしょう。そういう意味では、伯爵家の使用人あたりを遣わすかもと思っていたのだけれど……人望がございませんのね。まあ、こちらは黒幕の名前を吐かせる手間が省けましたけど」


 ずいぶんと張り合いがなくなってしまったサイモン・ワーズワースに、ヴィオラもなんだか急速に冷めていく。


 何かが折れてしまったらしい男は放っておいて、ヴィオラはさっさと別の話題に入ることにした。


 「では、ここからはワーズワース伯爵様、貴方とのお話になります」


 思いがけず呼びかけられたワーズワース伯爵は、やや驚いたように瞠目した。


 「アリンガム領を数百年に渡り治めてきた、歴史あるワーズワース家の当主として、いま、この度し難い事態を、どう穏便に収めるか考えを巡らせていらっしゃるかと存じます。ですが、そうはまいりません」


 「……どういう意味だ?」


 「この度、サイモン・ワーズワース及びワーズワース伯爵夫人とグリント子爵夫人によるヴィオラ・グリントの殺害未遂という、格好の口実が出来ました。度重なる実子の不始末ばかりか、妻子ともに犯罪行為に手を染めた責任を取るために、ワーズワース家当主の座を自ら返上し、ネイトを伯爵家の跡取りから外してくださいませ」


 何を、と言いかけた伯爵の言葉を、ヴィオラは遮った。


 「自ら責任の所在を明らかにしたのであれば、次代の指名も比較的たやすいでしょう。候補としては、ご自身の弟君であるタイラント様がよろしいかと。人づてに聞いた話ではありますが、兄弟仲はよろしく、執政補佐としての評判も上々なのでしょう?」


 伯爵の眉根が、不愉快そうに歪んでいく。

 ヴィオラの発言は、どう考えてもその身分をはるかに越えた越権行為でしかない。


 「――子爵の娘が、私に向かって指図するつもりか」


 「いいえ、これはただの脅迫です。でなければ、貴方は確実に息子をもう1人失うことになります」


 より鋭利な言葉を突きつけられた伯爵は、目の前にいる女が何を考えているのか全く分からないという顔をした。


 「まさか、ご自分には何の非もないとお考えなのかしら?」

 「…………」


 本当に思い当たるふしがないのか、伯爵の困惑はますます深まっていく。


 「……では、ご自分の罪を自覚なさってください。ここまで事態がこじれたのは、貴方が判断を誤ったからです。まだ幼かったネイトを社交や所領の視察に連れて行ったのは何のためですか? ネイトが私のために望んだから? 違いますよね。随行していたサイモンお義兄様を発奮させるためでしょう。けれど、そこに居るろくでなしはかえってヘソを曲げて、身分の卑しい女と出奔までしでかした。すると貴方は、教育を失敗した息子をさっさと見限って、全ての肩代わりを次の息子に押し付けた」


 「――だが、それは」


 「家のためだから、大人しく受け入れろと? 私たちの義母が、目障りだからと私とネイトを一緒にして遠くに追いやろうとしていた時は何もしなかったくせに、自分が跡取りの教育に失敗したから、今度は別れさせようなんて虫が良すぎはしませんか? どうせ、愛人や妾あたりに収めておけば済むことだとお考えだったのでしょう?」


 聞かれたはずの伯爵は、視線を逸らすことでヴィオラに答えを返した。


 「本当になんて身勝手な人たち。自分たちで撒いた種なら、自分たちで責任を負うべきでしょうに。どうして貴方たちの罪過を、私がわざわざあげつらってあげないといけないのかしら」


 伯爵は押し黙ったまま、ネイトを見て、それからもう一度ヴィオラに視線を移すと、最後に、護衛たちに取り押さえられうずくまっているサイモンを見た。


 「さあ伯爵様、ご決断なさいませ。ここまでした私たちの覚悟を、それでもお疑いになるなら、貴方は今度こそ一組の男女を心中に追いやり、ワーズワース家に大きな禍根を残すことになるでしょう。それとも、それですら覆い隠して、そこのろくでなしに伯爵家を継がせる生き恥を、一生お晒しになりますか?」


 「…………考える、時間をくれ」


 この期に及んで事態を先送りにしようとする男に、ヴィオラはにべもなく言い放つ。


 「失礼を承知で申し上げれば、私、貴方が嫌いなんです。だって、たった1人の人を愛し続けられない穢らわしい人だもの。いかなる理由があったとしても、私が貴方の言葉を受け入れることなど有り得ません」


 「――っ」


 ヴィオラが何を指して言っているのか、伯爵はすぐさま察したようようだった。


 たとえ、どんな事情があったにしろ、ネイトに不義の子という不善を背負わせて、彼を苦しめた事実は変わらない。


 全ての元凶とまでは言わないが、ヴィオラにとっては彼もまた、許し難い罪を犯した1人である。


 伯爵は、目蓋を固く閉じて、苦悩の表情を滲ませる。

 しかし、ヴィオラの要求に彼が答えを出すのに、それほど時間はかからなかった。







 神を祀る祭壇の前で、罪人たちは裁かれた。


 サイモン・ワーズワースとマーヤは護衛たちに引き立てられて、伯爵と牧師は後始末のために別室へと消えていった。


 やわらかな光が降り注ぐ神聖な礼拝堂には、ヴィオラとネイトの2人だけ。


 車椅子の前に跪いたネイトは、ヴィオラの左膝に口付けを落とすと、両膝を包み込むようにヴィオラの顔を仰ぎ見る。


 「僕にも、話してくれれば良かったのに」


 どこか拗ねたような口調だった。


 この数ヶ月、ネイトがどれだけ苦しんでいたか、ヴィオラは当然知っていた。

 知っていながらその気持ちを利用したことを詫びるため、ネイトの頬をいたわるように撫でていく。


 「ごめんなさい。ネイトには、私を殺してもおかしくないくらいに追い詰められてもらわないといけなかったの。でもね、ネイトなら私が逃げても必ず追いかけて来てくれるって信じてたのよ?」


 彼の顔を覗き込みながら言えば、長い髪がさらりと肩から流れた。

 ずるい、と呟いたネイトは、柘榴の実に似た赤い髪をひと房すくって自分の唇へと押し付ける。


 「なら、どうしたら許してくれる?」


 ヴィオラが問えば、ネイトは指先で髪を弄びながら考える様子を見せた。


 「……どうしたら、許してもらえると思う?」


 ネイトからの切り返しに、ヴィオラは目を瞬く。


 どうしたら許してもらえるか、彼の言うとおり頭を働かせて、働かせた結果、すぐ近くにあったネイトの額へとキスを贈った。


 今度はネイトが目を瞬かせる。

 しばらく固まっていたが、やがてその目をすがめてみせた。


 「……………………………………ずるい」

 「許してくれる?」


 「…………まあ、仕方ないからね」

 「良かった。ありがとう」


 「あ、でもさ。よくアイツらが裏で動いていることに気付いたね?」


 ふとしたようにネイトが聞いてきた。


 彼の質問は、本当に単なる疑問だったのだろう。ヴィオラは車椅子の人間で、屋敷の外にすら満足に出ることができない。


 「じゃあ、何で私がお節介なおばさま方の“お小言”に付き合っていたと思う?」

 「なんで?」


 「おばさま方の、情報収集能力を舐めてはいけないからよ」


 しかし、ネイトから返ってきたのは、よく分からないという顔つきだった。


 「はじめはね、満足に会えないネイトの様子が少しでも知りたくて、外の世界をおばさま経由で探ろうと思ったの。あの方たち、私をそれなりに脅したあとは、聞いてもいないのに噂話をはじめてくれるのよ。しかも、かなり際どい噂話(こと)に精通しているの。誰々の令嬢が男と密会していたとか、どこどこの殿方がギャンブル漬けで首が回らないとか」


 「……へえ?」


 「もちろん根拠のない憶測や持論を、真実だと思い込んでる方もおられたから、聞いた内容は全て日記に書き留めてね、整合性の合うもの合わないものの取捨選択もできるだけしていたわ」


 「……うん」


 「それにね、車椅子に座っているだけで何も出来ない人間だと、勝手に思い込んでくれるの。自分より劣っている人間の前だと、皆様とても口が軽くなってくれるみたいで、口さがないことをぺらぺらとぺらぺらと喋ってくれるのよ」


 くすくすと、楽しそうに話しているからだろう、ネイトもつられるように微笑んだ。


 「そうして色々と聞き出していたんだけど、その内ちらほらと聞こえてきたのよ。サイモンお兄義様の噂が。あの人、出奔した女との平民生活に飽きたあと、母親の知人の所で匿われてたっていうんだけど、まるで自分が生きていることを見せつけるように街中を歩き回っていたらしくて。目撃者がけっこうな人数いたのよ」


 「…………」


 「するとね、今度は突然、私の侍女が変えられたの。その子、とても気の利く子でね。お母義様が私に宛がうにしては有り得ないくらい優秀だったんだけど、どうにも手癖の悪いところがあって。あの子、ネイトからの手紙を勝手に盗み読んでいたの。しかもご丁寧に再び封印がしてあって。でも、そうすると封蝋印はどうやって手に入れてたのかしらって思ったら、ワーズワース家に協力者がいることになって。となると、どうしてそんなことをしているのかを考えていって――」


 ヴィオラは、話しながらネイトの様子に気がついた。

 話している内容とは裏腹に、彼はうっとりと陶酔した目でヴィオラを見つめていた。


 「――…ネイト、聞いてる?」


 「……あ、ごめん。聞いてなかった。楽しそうに話す君があまりに美しくて。すっかり見惚れていた」


 「……まあ」


 もともと質問したのはネイトのはずなのに、彼は陶酔したまま悪びれた様子もない。


 褒められて嬉しい反面、聞き流されて不満なヴィオラは少しむくれるが、けれど、よくよく考えれば、確かにもうどうでもいいことだった。


 たとえば、ヴィオラが考えていたことが全て妄想に過ぎず、何もかもが徒労に終わったとしても、それならそれでヴィオラとネイトが取る道は1つだけだっただろう。


 今回は、たまたまヴィオラが読み勝って、こちらの策略に周りが嵌ってくれたから、もう少しこちらの世界にいる時間が延びただけに過ぎない。


 ヴィオラは、大きな存在を讃える小さな祭壇を見上げた。


 「……ねえ、ネイト。私たち、それほど遠くない未来に、こうしてまた神様の前に立つことになるわ」


 「うん、そうだね」

 「その時は、ちゃんとと杖を突いて立っていた方が良いかしら?」


 ネイトは、ほとんど間を置かずに首を横に振った。


 「君は、車椅子に座っていてこそ完璧だから、神の前に立つ時は、是非とも完璧な姿を見ていただきたいかな」


 何となくそう言ってくれると分かっていたヴィオラは、得意気に笑い返す。


 「そうね、そうするわ。せっかく目に見える形があるのだもの。私たちの愛がどういうものかも、きちんと認めていただきたいわ」


 ヴィオラは言いながら、馴染み深い車椅子の肘掛けに手を滑らせる。

 すると、その手にネイトの手が重なった。


 ヴィオラとネイトは見つめ合い、目を細めると、祈りを捧げるように額を合わせる。


 それほど遠くない未来、2人は変わらぬ愛を誓い合うだろう。

 病める時も健やかなる時も、死すら2人を別てない、永遠の愛を誓い合う。




ちなみに、

赤薔薇は「あなたを愛してます」「情熱」「熱烈な恋」

白薔薇は「純潔」「私はあなたにふさわしい」「深い尊敬」

ピンクは「しとやか」「上品」「感銘」らしいです。


10/06 一部加筆修正

10/10 さらに加筆修正


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[一言] とても面白かったです! 病んでる?腹黒? 男性側よりもヒロインの異常性に、グッと引き込まれました。 意外性のある内容にワクワク。 素敵な小説を有難うございました!
[良い点] 魔女小説が素晴らしくてほかの小説を除いたところ読んだことがある小説が!あぁこの小説も良かったよなーと読み直してました。(ポイントや感想は最近し始めたので今回ポイントしました。) このどん…
[一言] 誤字?報告  「違う! 心中なんて知らない! そ、そうだよ。ネイトが心中をはかるなんて、そんなこと仕向けられるはずがないだろ。あいつがそんな異常な行動をするなんて、どうしてボクが考えつくと…
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