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走る先にあるものは…

走り始めて10年。

夜20時に毎日、家から徒歩5分の所にある公園を走るようにしている。

もともと走ることは好きではなかった。走るきっかけになったのは、私が34歳の頃。妻がつぶやいた何気ない一言。

「あの人のこと好きだったのよね。」

あの人というのは、私達夫婦が行きつけの喫茶店のマスター。この喫茶店は私が走っている公園の隣にあり、近所の人のたまり場になっている。

「えっ?好きだったの?」

私は驚いてしまった。今まで妻から異性の話など聞いたことがない。私との付き合いも高校2年生の時からであり、付き合った当時も今まで付き合った男性はいないと聞いていた。ましてや初恋も私だと聞いていたのに、なぜ。

「うん、大学生の頃かな。」

大学生の頃!?つまり、私と付き合っている最中に…。

「あっ、浮気じゃないよ。そのー、恋愛的な意味じゃなくて。」

少しホッとする。

「私が大学生の頃、あの人、私の大学のグラウンドをよく走ってたのよね。その走る姿がかっこよくて。」

まぁ、体育会系男子は人気があるから気持ちは分かる。私は合唱部の文化系だったからモテなかったが。

「走りながらすれ違う他のランナーに挨拶したり、グラウンドのゴミを拾ったり、すごく生き生きしてたから印象に残ってたのよねー」

そう言って当時を思い出して回想に浸る妻の目はとても輝いている。その時はそんなに深くは考えず、ただ妻がこんなに輝いた目をしたのはいつ以来だろうか、とどこか何か寂しい気持ちになった。


数日後、会社から家までの道を歩いて帰っている時に、誰かが私の横を走り抜いて行った。この辺りは平坦な道になっていてランナーはよく見かけるのだが、そのランナーが角を左に曲がった際に顔が私の視界に入った。それは喫茶店のマスターだった。その日だけではなく、次の日も。その次の日も。その次の日は、私が仕事が長引いて家に帰る時間がいつもと違ったため分からないが、どうやら喫茶店のマスターはいつも走っているらしい。その姿を見たら妻はどう思うのだろうか、またあの頃の気持ちを思い出して喫茶店のマスターに惹かれてしまうのだろうか。そして私のその不安は的中する。


ある夜の帰り道、私が家に着く頃に私の横をまた喫茶店のマスターが走り抜いていった。そして私が家の庭の敷居をまたいだ時に、ベランダの窓から妻がその走る姿を目で追っているのが見えた。その目は確かに輝いていた。私がドアを開けるやいなや、妻は私のもとに駆け寄って来た。

「今、あなたを抜いていったのが喫茶店のあの人よ!やっぱり素敵ね。」

妻のこんな顔、こんな目の輝き、私の前では見せないのに…。もし私があの喫茶店のマスターのように爽快に走ったら私に対してもその目を向けてくれるのだろうか。確かに最近は運動もしておらず、歳も感じるようになった。いい機会だから私も毎日走ってみようか。


そして、その日から私は毎日、仕事が終わって家で一息ついてから、公園で走るようになった。初めは全く思ったように走れない悔しさがあったが、妻の目の輝きのために10年も走ってきた。今では、あの喫茶店のマスターより走るスピードは早くなったと自負している。公園に出れば、同じランナーと交流もとるようになった。公園のゴミ拾いをしたり、整備も欠かさない。私のつまらなかった日常もどこか生き生きしてきた。

妻はというと、1年程前から喫茶店のマスターの話は一切しなくなった。その上、「あなたってやればできるじゃない!やっぱりかっこいいわね!」と毎日走った私を出迎えてくれるようになった。出迎えてくれる妻の目は、あの頃の喫茶店のマスターを見る目と全く同じ、いやそれ以上だ。走ることによって、妻だけでなく私の人生も輝くようになったのだ。







「私達、もう会うのも止めましょう」

「どうしてだ?お前が走ってる姿が好きだと言ってくれたから俺は今も毎晩走ってるのに!」

「確かに、あなたの走ってる姿は好きよ。大学生の頃に見たあの姿から変わってないわ。」

「じゃあ、なんで?」

「主人が来年で走り始めて10年経つのよ。全く運動しない人がこんなに走るとも思わなかったし、最近はあなたよりも走るのも速いし、走ってる姿もきれいだわ」

「…。」

「それに、主人の方が単純じゃない。」

「…。」

「私があなたの走ってる姿が好きって言っただけで、10年も走るんだし。走り終わった後も真っ先に私のとこに来るし。あのマラソン大会に出てみたら?て勧めたらすぐ応募して家を留守にしてくれるし。」

「…。」

「だから、今後も考えたらあなたと付き合っていくメリットもないのよね。」

「そんな…。」

「この喫茶店にももう顔を出さないから、それじゃ。あっ、そうそう、私の家の周りを走るのも止めてね。もちろんあの公園を走るのもね。」

そして、喫茶店から去っていった。

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