序文
少女は走る。
暗き森を。
振り返ることなく、ただひたすらに。
足を止めたらヤツにつかまる。
つかまったら、嬲られる? 殺される?
分からない。
それほどにヤツは歪んでいるし、イカレてる。
走り続けた少女はやがて森を抜け道路へとたどり着く。ここは大きな幹線道路だ。夜も遅い為人通りこそ無いが、車ならよく通る。
助かった。
少女は安堵の溜息を吐いた。裸足の足裏はズタズタだし、転んだりぶつけたりして体中傷だらけ。それでも全ては命あっての物種。体の痛みには構っていられなかった。
「お嬢ちゃん、どうしたんだい? こんな遅くに」
唐突に、声がした。
紳士然とした、優しい声色。
なんという幸運だ。人が通りかかった。
一も二も無く助けを求める為振り返った少女は、
絶望と言うものを知った。
「ぎぃっひひひひひひひひひひひひひひひひひひっ!!」
ソレは嗤う。
「逃げられると思った!? ざ~~んね~~ん!」
ソレは嘲る。
「お楽しみ前に逃げるなんてダメダメだぞぅ?」
ソレは迫る。
「……て」
「んん? なんだい?」
「……助けて。……助けて。許して……。」
最早少女に残されたのは命乞い、ただそれだけだ。
尻餅をついた姿勢のまま、ただ恐怖に見開いた目で相手を見上げ、許しを請うた。
ソレはきょとんとした顔をしていたが、やがて顔いっぱいに裂けた口を三日月のように歪めて笑った。
「なるほど、なるほど、死にたくないのね」
ソレは大仰に頷いた。
助かるのか?
少女は僅かな希望を願った。
「ぎぃっひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!」
突然、ソレは腹を抱え大笑いを始め、ひとしきり笑った後、言った。
「そうか、そうか」
しかし少女は分かっていた。
「じゃあ見逃してあげてもいいかな~~?」
今しがた理解したばかりだ。
「ほら、立って。逃げて!」
少女は立ち上がり、逃走を試みる。
しかし。
立ち上がれなかった。
足首から先が切り落とされたから。
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ!! それじゃ逃げられないね~~~!」
痛みと恐怖の中、少女は「ほらね」、と呟く。
やっぱり絶望しかなった。
諦観の笑みを浮かべた少女は、空に浮かぶ三日月よりも怪しく光る、愉悦の笑みを浮かべるソレの目を見つめた。
「んん~~。いい眼だ」
ソレが振り下ろす巨大な刃。
それが少女の見た最期の景色だった。
*
「いけないな~。追いかけっこが楽しくて、人目につく場所まで来てしまった……」
ソレは足元に転がる少女だったものを見下ろし、頭をかいた。
上背は二メートル程も在りそうな大男。見事な逆三角形を描く体はまるで熊の様。しかし熊とは決定的に違い、手には巨大な、それはもう巨大な刃物を携えている。
ソレは三日月を三つ貼り付けたような不気味なほどの笑顔を浮かべると、少女を回収すべく足元へ向けて手を伸ばす。
後は、中身を売り捌くだけ。
おぞましい想像をしながら伸びる手は、しかし彼女には届かなかった。
「!」
それはきっと、少女の無念が呼び寄せた最期の望み。誰かに、この悪意を止めてくれと願う最期の祈り。
車のヘッドライトの明かりが迫った。
ソレは反射的に森の茂みへと姿を隠したが、少女の亡骸を回収できなかった。
このままでは“黒い鬼”が自分を始末しに現れるかもしれない。
まことしやかに噂されているその存在に怯えたソレだったがしかし、一瞬の後には。
「ぎっひひひ……」
不気味な笑いを闇に響かせ、ソレは森の暗がりに消えた。