十
廃ビル周辺に0課の戦闘部隊を配置するべく指揮を執っていた安倍は、少し離れた位置に立っているビルを見上げた。鬱蒼として仄暗い、なんとも嫌な空気を纏っている。
今頃、鳴海と高橋は二人してビルに入っている頃だろう。
鳴海には辛い役目を押し付けている。その想いは安倍の手のひらに爪を喰い込ませるのに充分であった。
確かに鳴海には“五月”という使命があるし、自分が直接手を下すことは立場も、彼女自身の力すらもが許すことではないだろう。
しかし、鳴海はまだ若い。自分のように長い時を生きているわけでもないし、彼と高橋は随分と親しくなっていたように思う。そんな相手を自分の手で討つ。そのことの意味が分からないほど安倍はもうろくしていないし、酷薄になってもいない。
自分の立場が酷く無意味なモノに感じて仕方がない。若人に手を差し伸べることすらも出来ないとは。
と、耳に装着しているヘッドセットから配置完了を知らせる通信が聞こえてきた。
(いかん、ワシは自分の仕事をせんとのう。鳴海は強い。きっと大丈夫じゃ)
小さく頭を振って部下に待機の通信を入れる。もしも万一の事態が起きるのならば、彼等を動かし鬼を討たねばならない。
その時、ビルから火薬の炸裂する音が響いた。
思わずビルに駆け出しそうになるが、部下の手前。指揮官が取り乱すことは許されない。部隊に待機の指示を再び告げると、彼女はビルを見つめ、祈るように両手を組んだ。
「無事でいてくれ……」
神など信じる者次第。自分が以前言ったことだが、今は本当にいてくれと、願わずにはいられなかった。
*
拳銃だと認識したときには鳴海は反射的に床を蹴って横に転がった。右に跳んだか左に跳んだか、分からない。それぐらい咄嗟の行動だった。
「いい反射能力だね。心臓の辺りを狙ったんだけど」
右腕が猛烈な熱を持ってるような錯覚を覚える。二の腕の辺りに赤いシミがどんどん広がっていく。
撃たれた。
片膝の姿勢のまま傷口を強く抑え、銃口を向けている高橋を睨む。
「ちっ……。そんなモン持ってるなんてね」
「おかしな話ではないだろう? 僕だって警官みたいなものじゃないか」
「そんなモン持った警官なんざいねーよ」
高橋が持っているのは日本の警察官に正式に支給される回転式拳銃、ニューナンブではなかった。勿論、一部の私服警官やSP等はその他の自動拳銃を持つことがあるが、彼の握るものはそれらの持つどれにも該当しなかった。
鳴海も男なので多少銃に関しては興味があるし憧れる気持ちもある。そんな彼の記憶には似たものが存在している。
確かトカレフと言ったか。暴力団関係者が扱うものとして著名な銃だったはずだ。
「これは押収品倉庫から拝借したものさ。僕が犯人だと気付いた以上、そこら辺も分かってるんだろう? でも参考までに聞いていいかな? 何故僕が犯人だと分かった」
「簡単な話だ。ここで初めてアンタと戦った時。俺がここに来ることを知っていたのは俺と安倍さんを除けばアンタしかいない。そうなるとここに訪れた鬼はアンタだという可能性が高くなる。俺が売人に接触することなったのはかなりイレギュラーな事態だからな」
成る程、と高橋は小さく首を縦に振る。
「だが確証はなかった。情報を盗む方法はいくらでもある。もし俺たちから情報を盗んだ奴が警察関係者にいて、そいつが鬼とグルであるようならそいつを先ず探す必要がある」
「だがそんな奴はいなかった。そうなったら、ここに君が来ることを知っていた僕だけが、犯人と確定してしまう。そういう訳か」
先を継いで高橋が喋ってしまった。
「理解が早くて助かるぜ。あんたが犯人なら、売人共が警察に先回りするように次々に殺されていったのも納得だ。なんせ警察関係者なんだからな。それから、日拳使ってたのも逮捕術の癖だろ? アレは技術の一端に日拳のモノが使われてる」
そこで鳴海は顔をしかめた。喋るだけで傷に響く。
「……安倍さんはそこから先もしっかり調べててくれたぜ。アンタが売って回ってた薬、それも押収品倉庫からちょろまかしてたんだろ? 成る程、もともと検察官だったら証拠品として押収してきたものを誤魔化すなんざお手の物って訳だ」
「やれやれ、君は中々頭が回るようだ」
「半分は安倍さんのおかげだ。……その安倍さんからアンタが0課に来た話も少しだが聞いた。えらく成績優秀だったからってお偉いさんから紹介されたらしいな。もしかしてそれも……」
「正解。全部裏取引さ。最初は驚いたよ? 0課なんて噂ぐらいでしか聞いたことなかったからね。少しずつ人間から乖離していく自分のことがバレたんじゃないかって。まあ、それは杞憂だったみたいだけどね。おかげで、自分について知りたいことが色々知れたよ。」
「残念だ。アンタとは仲良くやれそうだったってのに」
「僕もだよ。弟がいればこんな感じかな、位には思ってたんだよ?」
高橋が拳銃を捨てた。カツン、と音を響かせ黒い塊が床を転がる。
「その眼。たぶん銃なんか正面から撃っても無駄なんでしょ」
鳴海はビルに入ったその時から“眼”を起動させていた。だから気付かれぬよう常に高橋の前に立っていたのだ。最も、銃で撃たれるとは考えていなかったから無意味だったが。
「だから、直接嬲り殺しにすることにするよ」
そう言った高橋の影から触手のように影が伸びてゆく。それは彼の全身に巻きつき、少しづつ形を為していった。
そう、鬼の形に。
やがて影が薄れていき、ヤツが姿を現した。
「その右腕ではもう戦えまい。大人しくしていれば、一瞬で終わらせてやる」
虫の羽音のような、不快な声で、鬼が言った。
「勘違いしていないか」
この状況、強気に言ったのは鳴海だった。
「なに?」
「俺の武器が右腕だけだと思ってたのか」
左腕で傷口を押さえたまま、右腕で足元の影に触れた。片膝を着いているので難なく届く。
そして叫ぶ。
「全武装解放! 来い、鎧鬼!」
その叫びと同時に影が触手のように伸び、右腕に。いや、全身に巻きついていく。
それは鳴海の全身に巻きつくと高橋の起こした現象を再現するように、鬼のような形を形成していった。
立ち上がると同時に両腕を払うように開くように払う。影の残滓を散らして、ソレが姿を現す。
「さあ、鬼退治だ」
鳴海の満月のように輝く双眸が、目の前の邪鬼を捉えた。