空想ハチミツティー
ショートショート風の小説です。
世にも奇妙な物語風の小説です。
私が勤める企業もここ最近、めっきり業績を上げ、私自身もそれにつれて忙しくなってきていた。主に外国の家具を日本に輸入して販売する企業に勤めているのだが、最近の外国家具ブームが始まる前から、我が社には先見の明があった。三年ほど前から北欧の国のとある家具デザイン企業などと繋がりを持ち、そこから多く、安く家具を仕入れることが出来たのだ。そしてその北欧製の家具が、日本の中で、我が社の予想以上のヒットとなったものだから、会社の経営も右肩上がりに良くなっている。だから、私の勤める販売促進部の仕事も、倍以上に増えたのだった。しかしそれはそれで、私にとっては嬉しいことなのだ。会社の経営が危ういのに忙しいなんて状況とは違い、ランナーズハイの様に、仕事が楽しいと言う状態が続いている。
とはいうものの、ここ最近は、連日会社に泊まりっぱなしという状態になっていた。二週間ほど、私は一向に我が家に帰れていない。
どうせ独り身であるのだから、家に帰ったところで誰も迎えてはくれないのだが、しかし時期を見計らって家に帰らないと、とも思うのだ。なにせ請求書の支払いやら、部屋の掃除やらを済ませなければいけない。
「そろそろ帰るかあ」
そんなことを思い、喫煙室の中で、椅子にもたれながらそう呟いたのを後輩に聞かれていた。
「あー、そういえば先輩、会社に泊まりっぱなしですもんね」
後輩の塩見が、眠そうな顔をして私に笑いかけてきた。
「そうなんだよ。まあ別に女がいるわけでもないから、あんまり帰る気もしないんだよな」
「そう言うの駄目っすよ。家っていうのは、人が居ないとどんどん駄目になっていきますからね。変な虫とかも住み着きますし」
「おい、怖いこと言うなよ。俺、虫って苦手なんだから」
「まあ二週間ぐらいじゃそんなに変わらないと思いますけど、でも流石にそろそろ家に帰った方が良いんじゃないですかね。もうそろそろ仕事もひと段落つきますし」
「うーん……そうだなあ。じゃあ、今夜あたりはちょっと家に帰ってみるかなあ」
「先輩も彼女が出来れば、もっと家を大切にすると思うんすけどねー」
「あいにく俺はお前みたいに所帯を持つ気はないんだよ。仕事一筋」
「なんか早死にしそうっすね」
「うっせ」
そう言って、お互いに疲れた顔で笑いあう。後輩と軽口を叩くと、やはり気分が安らぐのが感じられた。私の所属する販売促進部はイメージとは違い、営業成績で争うなどのぎすぎすした感じはなく、人間関係も良い。だから何となく居心地がよくなってしまうんだなと、そんな妙な感想を抱いている。しかし、今夜こそはしっかり帰ろう。そう心に決めて、私は煙草の吸殻を灰皿の中に落とした。
「じゃあ、そろそろ仕事に戻るか」
「うへぇ」
塩見が嫌そうな顔したので、私は笑いながら彼の背中を叩いた。
それと同時に、塩見が何気なく私の方を振り向いて訊ねてきた。
「あっ、そいえば先輩。俺がお土産にあげた紅茶の味、どうでした?」
「ああ、あの不思議な味のする紅茶か。うん、最初はどうかと思ったが、だんだん癖になってきたよ。今じゃ結構ハマってる。」
「そうですか。あれ、スリランカで麻薬って言われるほどに人気な紅茶なんですけど、紅茶好きの先輩にそう言って貰えてうれしいです。あれ俺も気に入って、毎月仕入れるようにしたんで、良かったらこれからも分けてあげますよ」
「そうか、そりゃ嬉しいな」
「いいんです。社内でも好評みたいだし、先輩も近所の人にあげてみたら、冷え切ったご近所づきあいも解消されるかもしれませんよ」
「お前はいつも一言多いんだよ」
そう言って笑い合いながら、私はもう一回、彼の背中を大きく叩いた。
午後八時。
今日は思ったよりも早く、仕事に一区切りつけることが出来た。
書類の作成も終わり、私は部長や後輩に声をかけてから、帰宅をすることにした。
会社のある駅から電車で三駅分。私の住む町はこんなにも近くなのに、二週間も帰らないだなんて、思えば不思議な感じもする。
地元の駅に着いてから、とりあえず駅前のスーパーで適当に惣菜を買い、暗い住宅街の帰路を歩いた。
我が家への道のりを十分ほど進む。
複雑な路地の最後の角を曲がると、そこには聳え立つようにしてマンションが建っている。十二階建ての、中所得者向けのマンションだ。私はここの九階に住んでいる。
久しぶりに帰った我が家を、私は仰いでみる。
午後九時と、まだ遅くはない時間帯なのだが、仕事をしている単身者が多いのか、九階には数えるほどしか灯りは点いていなかった。九階にある七部屋の内、二部屋しか灯りが付いていない。右から三番目、三号室に住む市村さんの家庭と、七号室に住む家庭の灯り……と、そこで私はとても奇妙な違和感に取り憑かれることとなった。
七号室? 七号室は、私の住んでいる部屋ではないか……。
さすがに二週間帰っていないと言えども、私は自分の部屋番号は忘れていないつもりだ。七〇七号室。なんとなく覚えやすいし、そもそも自分の部屋番号など、よほどの事じゃない限り忘れはしないだろう。
では問題は、なぜ私が住む七〇七号室の部屋の明かりが点いているのだろうか、と言う事だ。もしかして二週間前に、私が電気を消し忘れて部屋を出て来てしまったのだろうか。いや、変に几帳面な自分の性格からして、それは考えづらい。鍵の施錠や、電気の消し忘れ、コンセントの抜き差しなどについては細かく何度も確認するので、まさか自分がそんな単純なミスを犯すとは思えない。
ではいったい誰が……?
私は、なんだか急に恐ろしいものを感じて、背筋が凍える感覚を味わった。
もしや、私の部屋に誰かが住みついているのだろうか。誰かが勝手に入り込んでいるのだろうか。もし棲みついたり待ち伏せしていたりするのが、殺人者や頭のおかしい奴だったら……。そう考えると恐ろしい。私にとって合鍵を渡す人物などいなかったし、渡した記憶もない。だから、部屋に明かりが点いているのは、非常におかしい事なのだ。
私は混乱しながらも、しかし自然に足が我が家に向くのが分かった。
とりあえず近くで確認してみようじゃないか。
いきなり警察に電話したところで、邪険に扱われるかもしれない。
私はそう思い、意を決して七〇七号室へと上がることにしたのだ。
七階に上がって自らの部屋の前に立っても、やはり灯りは点いたままだった。私の見間違いでもなく、リビングとダイニングの灯りがそこに灯っている。表札も、間違いなく【稲葉】と言う私の苗字が記されていた。
どうしよう、やはり警察に連絡するべきだろうか。
どうしていいか分からずに、私が部屋の扉の前で無防備に迷っていると、いきなり扉のノブが音を立てて回されるのが分かった。私は思わず身をすくませて、後ずさる。しまった、待ち伏せされていたのか。しかし私に逃げる暇など与えずに、扉は無情にも開かれた。中から人影が飛び出すのが、まるでスローモーションのようにして見え、走馬灯に近い、様々な思いが私の胸をよぎっていった。
さすがに私は、無防備過ぎたのかもしれない。
そんな後悔が頭をよぎった瞬間。
「お帰りなさい。あなた」
中から出てきた人物が、私の顔を見ながら、晴れやかな笑顔でそう言った。
だ、誰だろうこの見知らぬ女は。頭のおかしいストーカーか何かだろうか。
私は思わず腰が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
そんな私の様子を見て、前に立った女はおかしそうに私を指差して笑った。
「なーに? ふふ、いきなり飛び出したからってそんなに驚かなくてもいいじゃない。ほら、ご近所さんに見られると恥ずかしいから、さっさと中に入って。ご飯出来てるから。スーツはベッドの上に放りっぱなしにしちゃ駄目よ。ちゃんとハンガーにかけてね」
そう言って女は、浮き浮きとした足取りで、部屋の中に戻っていった。
私は尻もちをついたまま、状況が分からずに、混乱していた。
そして先程の驚きで足が震え、立ち上がることが出来ない。
鼓動が早鐘を打つように響いて、おさまらない。
私はそれから一分ほど、彼女が再び心配そうな顔で見に来るまで、狐につままれたような気持ちで、閉じた扉を眺めていたようだった。
「いただきます」
私がそう言うと、女はきらきらとした瞳で、私の事をじっと見て微笑んだ。
「うんっ、召し上がれ!」
なんだか食べづらい。
結局訳が分からぬまま――有無を言わせない不思議な雰囲気も手伝って――私は彼女の作った食事と共に食卓に着いていた。さすがに何もせずに家に入るだなんて、自分でも頭がおかしいと分かっている。こんなのは異常事態なのだから、はっきりとこの妻気分の女を追い出すか、警察に連絡すべるきなのだ。もちろん、それはわかっているのだ。
しかし、私は彼女を追い出すことも、問い詰めることもしなかった。なぜなら、女は私の理想をそのまま具現化したかのような器量の良い美人だったし、その声、雰囲気、全てが、私の心を自然に癒してくれるような穏やかなものを持っていたからだ。
だから私はこの、世にも奇妙な状況に流されてしまっている。
「まーくん、おいしい?」
女は小首を傾げながら、可愛らしくそう訊ねてきた。
「あ、ああ……美味い。うん」
「良かった! あのね、そのお浸しにした小松菜、三号室の市村さんから頂いた物なの。さっき私も食べたんだけれど、すごいシャキシャキしてて美味しかったなあ」
「え、市村さん……? なぜ? と言うか、何にも言ってなかったか? 市村さんは。その点…君を見て、不審がったりとか」
私がそう言うと、女はポカンとした表情を浮かべた後に、抑えきれない様子で爆笑し始めた。
「あはは! もう今日の、まーくんおかしいよ! 私の事を君って言ったり、ドアの前で尻もちついたり、私と市村さんの奥さんが仲良いこと知ってて、からかったり。もー、最近のまーくんはユーモアのセンスがあるよね!」
女はそう言いながら、私の頬に着いたお浸しの汁を、指で拭ってくれた。しかし、なぜ彼女は俺の名前を知っているのだろう。いや、まあそれくらいは調べられるのかもしれないが。
「でもやっぱり、いつも通り凛って呼んでくれると嬉しいな。まーくんに呼び捨てにされるのって、なんか嬉しいんだよね。ほら、私って最初、まーくんに相手にされてなかったじゃん。三回くらい振られたし。でもやっと、紆余曲折あって、私たち結婚出来たわけだし。呼び捨てで呼んでもらえると、はれてまーくんの妻になれたんだなって。なんかそう思えるんだよねぇ」
私は彼女と出会ったことなど無いし、結婚した事実なんてあるわけがない。この女は虚言癖を持っているのだろうか。さも当たり前の様に、私の妻を気取っているが、この凛と言う女は何者なんだろう。それに市村さんに小松菜を貰ったと言うのは本当なのだろうか。いや、明らかに嘘だろう。市村さんの奥さんは私と同年代らしいが、ほとんど挨拶ぐらいしか交わさない仲だ。夫の方もほとんど姿を見せないし、私と市村家に交流など無いはずだ。この女は先ほどから、ばれるような嘘を吐き続けて、私の妻を演じ続けて、何がしたいのだろう。
いや、正直に言えば、こんな美しくて優しい妻がいる気分に浸れるのなら、騙されたい気もするが……。だが新手の結婚詐欺かも知れないし、男をたらし込んで金目のものを奪ったり弱みを握る手口の犯罪者かも知れない。やはり、追い出すべきなんだろう。常識で言えば。
そんなことを考えながら夕食を咀嚼していると、インターホンの音が甲高く鳴らされるのが聞こえた。
「はいはーい」
凛と名乗った彼女は、パタパタとスリッパを鳴らしながら、玄関へと向かった。まるで私の妻として当然の義務みたいにして。
そしてすぐに玄関から、女性同士の姦しい声が聞こえてきた。
「あら、市村さんの奥さん!」
「凛ちゃん。どう? 小松菜イケてたでしょ!」
「うん、すごくおいしかったよ。わざわざありがとうね。まーくんも珍しくおいしいって素直に言ってくれて」
「そうなんだー。正行さんはいい人だよねー。ウチの夫なんて、野菜なんか全然食べないの。もうすぐパパになるって言うのに、好き嫌いなんかしちゃって。恥ずかしいの」
「あはは。でもそうかー、幸恵さん、お腹もうだいぶ大きくなってますもんね!」
「うん、もう八か月なの」
「無事に生まれるといいですね」
私はまたもや、混乱し始めていた。果たして市村さんの奥さんは妊娠していただろうか。一か月前にゴミ捨ての際に会ったような気もするが、別にお腹は膨らんでいなかった気がする。いや、問題はそこだけじゃない。彼女は何故、当たり前みたいに凛を受け入れ、旧知の中でもあるかのように会話しているのだろうか。なぜ彼女は、俺と凛が当然の夫婦であるかのように、会話を進めているのだろうか。俺の頭がおかしくなってしまったのか? 仕事のし過ぎで、狂ってしまったのか?
頭が割れるように痛んでいる。
なんなんだ。この状況は。
俺はすっかり食欲まで失せてしまった。
「あれ、もう食べないの?」
会話を終えて戻って来たらしい凛が、少し心配そうな声音で私に声をかけてきた。
「あ……ああ、少し疲れてるのかもしれない。頭が痛いし、なんかすごい混乱してて。なあ、俺たちって、その、変なことを聞くが、本当の夫婦……なのか?」
凛は私の言葉に対して、いよいよ本格的に心配するような様子で、上目遣いで見つめてきた。
「ど、どうしちゃったの? え、もしかして仕事の疲れで、一時的に記憶喪失になってる? そういうの、前にテレビでやってたよ?」
「いや、そうじゃない。ただ、なんとなく、ほら、あれだ、久しぶりに家に帰ってきて、なんだか様子がおかしかったから、それに雰囲気も変だし……というか、俺は結婚なんて……」
「あ、ああ! 確かにそうだね。私がまーくんに内緒で勝手に部屋の内装を変えちゃったから。ごめん、でもこれは二週間も家に帰って来ないで、私を寂しくさせたまーくんへの仕返しも込めてるんだよ。でも、うん、ちょっと落ち着かなかったかな、まーくんも仕事で疲れてるのに」
やさしい目をして、凛は私に近づいてくる。
「今日は早く休んだ方が良いよ。毎日、仕事仕事で疲れてるんだよ」
凛はそう言って、座っている私の後ろから、優しく抱擁をしてくれた。
「お疲れ様っ」
「あ、ああ……」
彼女からはほんのり紅茶の、鼻をくすぐるような、心を落ち着かせる香りが漂ってきた。
ああ……なぜ紅茶の香りなんだ? 私の忙しい日々の唯一の癒しであり、昔から好きな紅茶の香りを纏って……。ああ、まずい……すごい落ち着く……。
俺は思わず目を閉じて、彼女の優しい抱擁に身を任せた。
彼女の髪から漂う、安らぐ紅茶の香り。
紅茶依存症とまで言われた私の大好きな、この香り。
それは心休まる暖かさを私にもたらした。
なぜ彼女から、この香りがするのだろう…………。
それから数分間ずっと抱きしめられて過ごした。
そっと私から離れた彼女は、囁くように私の耳元で喋った。
「お風呂入れてくるから、ちょっと待ってて。あ、薬箱の位置は変えてないから、早めに頭痛薬を飲んだ方が良いと思う。あと、まーくんの好きな紅茶、入れてあげるから。今日は蜂蜜も入れてあげるね」
私は目を瞑り、うとうととしながら、彼女の柔らかくたおやかな声を聴いていた。椅子にもたれたまま、先程の心から安らぐような凛の感触を感じ続けていた。もうこのまま騙され続けてもいいかもしれない。いつの間にか奇妙な世界へ入り込んでしまった感覚と共に、その世界の温かさに、つい私は呑み込まれてしまうような、そんな気分に浸ってしまっていた。
それから、私と凛の夫婦生活が始まったのだ。
なぜか周囲の人物たちは、凛が私の妻であると、認識しているようであった。私に女っ気がないとからかっていた後輩の塩見でさえ、唐突に、私が所帯を持っていると言う風に記憶をすり替えられてしまった様子で、私に接してくるのだった。
「いやー、凛さんみたいな奥さんがいると、やっぱ家に帰るのが楽しみになるんじゃないっすか?」
私と凛が出会った翌日に、喫煙室で彼は唐突にそう訊ねてきたのだった。私は、なぜ塩見が凛の事を知っているのか、そもそも何故、まるで世界が塗り替えられてしまったように、皆が皆、私と凛が夫婦であると思い込んでいるのか。その理由が全く分からなかった。
「お前、凛を見たことあるのか?」
「やだなー、先輩。結婚式に俺も居たのに」
「結婚式? 俺と凛のか?」
「当たり前じゃないっすか。先輩仕事のし過ぎでボケちゃったんじゃないっすか?」
職場の他の人々や、私の知人友人たちも、当然、私と凛が夫婦であることを当然として接してきた。こうなると、まるで私がおかしくなってしまったみたいだ。本当に凛と私が夫婦であり、私がそれを忘れてしまったかのように。私からしたら、唐突に姿を変えた世界の方がおかしいのに、まるでその世界に入り込んでしまった私がおかしいかのように。
それでも、私は凛との生活を受け入れた。と言うか、むしろそれは幸福な生活だった。彼女の紅茶の香りも、作る料理も、心の純粋さも、全てが私を包んで温めてくれた。
そんな唐突に変わった生活が、三年ほど続いたころ。異変が起きた。
この生活になってから、是が非でも仕事を切り上げて毎日家に帰るようになっていたから、その日も私は午後十時に家へと帰りついた。
そして扉を開けて、中へと入る。夕食の香りと、彼女特有の紅茶の香りが、私の家特有の匂いとして、鼻をくすぐってくる。
「ただいま」
「お帰り! 今日も遅いのねー」
「ああ、明後日プレゼンがあるから、ちょっと資料の作成でね。まあ残りは家でもできるから大丈夫なんだが」
「あんまり無理はしないでね」
「ああ、ありがとう」
妻の相変わらずの気遣いに、疲れが癒される感覚を覚える。
夕食の席について、キッチンの方を覗き込んでみるが、しかし妻の姿は見えかった。いつもなら冷めた料理を温めるためにキッチンに居るはずなのだが。先ほどもそこから声がしていたし、はて風呂のお湯を淹れにでも行ったのだろうか。
と、そんなことを考えていたら突然に目の前に夕食が現れた。私は思わずのけぞって驚いてしまう。まるでマジックでも見るように、夕食がぱっと、瞬間移動してテーブルに現れたのだった。
「ふふふ、あなたっていつも驚くわねえ。また疲れてるんじゃないの?」
向かいの方からそう声がして視線を挙げたが、しかしそこに妻の姿はなかった。
私は内心首を傾げながら、また奇妙なことが起こっていると感じ始めていた。
「なあ凛。驚かすのは止めてくれ。どこにいるんだい?」
「あなたこそ何を言ってるの? 目の前に座っているじゃない。そんなにきょろきょろして、私の姿でも見えなくなってしまったの?」
いつも通りの、優しい妻の声音が聴こえる。だが、やはり姿は見えなかった。確かに声は向かいの席から聞こえるのだが、紅茶の匂いも、彼女の息遣いもそこから感じられるのだが、しかし何故か姿を捉えることだけは出来なかった。
そしてこの日を境にして、私は妻の姿を捉えることが出来なくなったのだった。
しかし私に周囲の人物たちは、今までどおり妻の姿が見えるものとして、姿形がある物として、当たり前のように接していた。事実、妻は存在しているらしかった。見えはしないが、扉が勝手に開閉したり、食事が運ばれてきたり、会話をすることが出来る。妻の魂だけは、そこに存在している。なので私としては、なぜ姿が見えなくなったのかは、あまり気にしなかった。そもそもが奇妙な始まりだったのだ。異常なことが起こったとして、驚きはするものの、もうありのままに受け入れるしか、正常な思考を保って生きていく術は無いように感じられたからだ。
妻の姿が見えなくなってから、さらに七年後。
妻がよく咳をするようになった。体調が悪いと訴えるようになった。私は妻を励ますが、しかし妻の体を撫でさすってやることも、抱きしめて慰めることも出来ない。最近は、触れることまでできなくなってしまっていた。しかし声は伝わる。言葉で励ますことが出来る。私は、妻の看病をしてやれない自分を不甲斐なく思いながら、しかし何とか妻が体調の悪い時は、言葉で彼女を慰めることに、専念していた。
「最近、変なニュースが多いのねえ。」
最近の妻は、外出することも少なくなり、ソファーに寝ることが多くなっていた。だが私が休日の時は、こうやって二人並んでソファーに座って、テレビを見たり映画を見たりしながら過ごしているのが専らだ。
「ああ、自殺者が増えたり、各国で変な事件が起こっているらしい」
「怖いわねえ」
「ふふっ」
私が笑うと、妻の顔が近づいてくるような気配があった。
「何笑ってるのよぉ」
「いや、自分の体調が悪いのに、他の心配をするんだって思って」
「当たり前じゃない。私は滅んでいく自分の体よりも、世界の良く末の方が心配だし、気になるの」
「お前は不思議な奴だなあ」
「もう、からかわないでよっ!」
その妻の子供っぽい怒り方に、私の方が慰められる心地がしたのだった。
「最近、奥さん体調悪いんですって?」
ある日会社で、塩見からそう訊ねられた。お互いにもう、職場では人の上に立つ立場の人間になっている。
「お前、どこからそんな話聞いたんだよ」
「いや、俺の妻が、凛さんとたまにお茶してるじゃないですか。そこから俺の耳にも入ってくるんですよ」
「ああ、そうだったか」
「なんか最近、先輩は上の空ですね。まあこの室内じゃ先輩が一番偉いわけですから、怒る人はいないですけど、あまり気を抜いてると上層部に見られて小言を言われますよ。凛さんが心配なのはわかりますけど。と言うか、先輩も体調悪そうですよね」
「なあ、塩見。一つ変なことを話していいか?」
「な、なんすか。先輩……いきなりシリアスな顔になったりして」
「いや……うん、やっぱりいいわ」
「なんなんですか。まああまり深く悩むようでしたら、ちゃんと誰かに相談した方が良いと思いますよ。僕じゃ頼りないでしょうし、誰かに語った方が良いですよ」
「いや、お前が頼りないとかじゃないんだが……」
周囲には、きっと私の苦しみや焦燥感、そしてこの状況に置かれた立場というものが、きっと一ミリだって理解できないだろう。私は、姿の見えずままに老いていく妻に対して、少しずつ弱っていく妻に対して、何をすればいいのだろうか。そんなことを、誰にも相談できるはずはなかった。
妻が入院したらしい。
私は市村さんの奥さんから連絡を受けて、すぐさま病院に向かった。どうやら買い物帰りに郵便受けの前で倒れているところを彼女が発見して、救急車を呼んでくれたらしい。
病室には、六つほどベッドがあり、そこには凛の姿はもちろん、誰の姿もなかった。
市村さんの奥さんが私の背後に立って、涙を流しながら告げた。
「肺結核で倒れたらしいんです。私が見つけた時も、血を吐いていらして。それに、もともと心臓の病気も持っていらしたんでしょ? 恐らく正行さんはいつかこうなることは覚悟していらしたんでしょうが、私はもう悲しくて……」
そのまま嗚咽を繰り返して、奥さんは俯いてしまったようだった。
しかし、その並ぶベッドのどこに妻が居るのか、私にはまるで分らなかった。ただその病室には紅茶の香りだけが漂っていた。私は、何故かその香りを嗅いで、落ち着くことが出来た。妻の柔らかい声が、抱きしめられたときの感覚がよみがえってきたように、想起された。
「まーくん。大丈夫だよ。私を受け入れてくれてありがとう」
どこかから、窓の外からそんな声が聞こえたような気がした。
私はよく分からないが、涙を止めることが出来なかった。
別に泣きたくもないのに、何故か、目から涙が次々に溢れて、止まらなかった。
その病室では、紅茶の香りだけが漂っていた。
その香りだけを残して、彼女は消えてしまった。
完全に。
私は、見えない彼女に対して。消えてしまった彼女に対して、心の中で祈った。
彼女はきっと、私に幸せを与えるための精霊だったのだ。この短い十年間を、彼女は精一杯、私に尽くしてくれて、そしてはかなく消えていった。理由も分からないし、正確に彼女が何であったのか、何のためのこんなことをしたのか。現実を塗り替えてまでこんなことをしてくれたのか、一切わからない。だが、私は彼女のために祈った。
――次の彼女の人生が幸福でありますように。次の人生では、僕らが生まれた時から会えますように。
窓から風が吹き込んで、白いカーテンが揺れた。
僕は膝を折って、死んでしまった彼女の事を悲しんだ。何故か、そうしなければいけないような、思いっきり泣かなければいけないような気分に私は陥っていた。私は顔を覆って、泣き続けた。妻を失った悲しみが、見えない彼女が風に乗って消えてしまったような、どうしようもない慟哭が私を絶え間なく襲ってくるのだ。
あれから数年。
私は紅茶の香りをかぐたびに、不思議な彼女の事を思い出す。
あれは幻だったのか。現実だったのか。
あれから世界は元のように動いている。
そしてみんな心から当たり前のように消え去った私の愛した人は、私の心の中にだけずっと残っている。
あの香りと共に。
愛された記憶と共に。
私自身、かなりの紅茶好きです。紅茶は麻薬だと思う。
実際に紅茶の葉には中毒性のある物質(?)が入っているらしいですね。
名称は忘れましたが、なんかあったと思います。カフェインとは別に。
一時期、紅茶が好き過ぎて確か中学校の時期にいろいろ研究したのですが、ほとんど忘れました。恐らく的外れの研究だったと思いますけど。
もし本当に麻薬みたいな紅茶もあったらどうしよう。幻覚を起こさせたりする紅茶とか。
感想や批評などありましたら頂けると嬉しいです。