真相が分かりましたわ。では、崖に参りましょう。
息抜きに、二時間サスペンス風のお話を書いてみました。
ベルモラン王国の西部に位置する港町、エトルタ。
白亜の断崖と青く澄んだ海が織りなす美しい景観で知られ、国内外から多くの観光客が訪れる街である。海岸沿いには洒落た宿や飲食店が立ち並び、毎朝開かれる市も、観光客に人気の名所となっていた。
その日も、港にほど近い広場には多くの露店が並び、威勢のよい呼び込みの声が飛び交っていた。獲れたばかりの魚介類や色鮮やかな果物、焼きたての菓子が所狭しと並び、潮風に乗ってさまざまな香りが漂ってくる。
「まあ! エリック、見てちょうだい。あちらの焼き菓子、とっても美味しそうですわ!」
麦わら帽子をかぶった金髪の女性が、弾んだ声を上げた。
アンジェリカ・リュネヴァル。淡い水色のワンピースを身にまとった姿は、街を散策する観光客そのものだった。
「随分と行列ができていますね。人気の店なのでしょう」
隣に立つ長身の青年、エリック・グランジェが、彼女の指さす先へ視線を向けた。
リュネヴァル公爵家騎士団に所属する、アンジェリカの専属護衛だ。
十六歳で騎士となり、当時十歳だった彼女の護衛を任されてから十年。自由奔放なお嬢様に振り回され続けてきた苦労人でもあった。
「エリック、わたくしあれを食べてみたいわ」
「分かりました。俺が買ってきますので、お嬢様はこちらでお待ちください」
エリックは周囲を確認すると、屋台から少し離れた木陰のベンチへ彼女を案内した。
「いいですか。絶対にここから動かないでくださいね」
「分かっているわ」
アンジェリカが腰を下ろして頷いても、エリックはすぐにはその場を離れなかった。
「本当に分かっていますか?」
「もう、エリックったら。わたくしだって、いつまでも子供ではありませんわよ?」
少し頬を膨らませるアンジェリカに、エリックは苦笑した。
確かに、目の前のお嬢様は立派な淑女へと成長した。幼い頃から見守ってきた彼女が、美しく聡明な女性になったことは、誰よりもよく理解している。
ただし、好奇心の赴くままに行動する性格だけは、十年前からまったく変わっていなかった。
「では、すぐに戻りますからここで待っていてくださいね」
「ええ。楽しみにしていますわ」
エリックが屋台の列に並ぶのを見送り、アンジェリカは朝市の賑わいを眺めた。
あちらには珍しい果物が並び、向こうでは職人がガラス細工の実演販売をしている。初めて訪れた街には興味を引かれるものが多く、どこを見ても飽きることがなかった。
「本当に素敵な街ですわねえ……」
満足そうに微笑んだ、そのときだった。視界の端を、鮮やかな青いものが横切った。
「あら?」
目を向けると、一匹の蝶が花壇の上をひらひらと舞っていた。透き通るような青い翅は、陽光を受けるたびに宝石のように輝いている。
「まあ、なんて綺麗な蝶々なのかしら!」
思わず立ち上がり、そっと近づいた。すると蝶は、アンジェリカから逃れるようにふわりと舞い上がる。
「あら、待って」
もう少し近くで見てみたい。
そう思い、通りの向こうへ飛んでいく蝶の後を追った。
角を曲がった先で蝶が花に止まり、近づくとまた飛び立つ。そんなことを繰り返しているうちに、いつしか朝市の喧騒は遠ざかっていた。
やがて蝶は、背の高い生け垣を越えて飛び去ってしまった。
「あら、行ってしまいましたわ」
残念そうに見送ったアンジェリカは、そこでようやく周囲を見渡した。見覚えのない通りだった。
「……ここはどこかしら?」
もっとも、彼女は慌てなかった。
エリックなら、きっとそのうち自分を見つけてくれるだろう。十年間、そうだったのだから。
それよりも、せっかく知らない場所まで来たのだ。少し見て回るのも悪くない。
そう考えて歩き始めると、ほどなくして立派な建物が見えてきた。
白い石造りの本館に、手入れの行き届いた庭園。優美な鉄柵の向こうには色とりどりの花々が咲き、海を望む高台には瀟洒な離れも建っている。
門柱には、金文字で宿の名前が刻まれていた。
『ホテル・ベルヴォワール』
「あら、こちらの宿も素敵ですわね」
そういえば、観光案内で見かけた覚えがある。
エトルタでも指折りの高級ホテルで、海を一望できる客室と美しい庭園が評判なのだという。
「こちらに泊まってもよかったかもしれませんわねえ」
そんなことを考えながら門の前まで来たところで、アンジェリカは首を傾げた。
どうにも様子がおかしい。ホテルの入口には人だかりができ、制服を着た憲兵たちが慌ただしく出入りしている。従業員らしき人々も、青ざめた顔で何事かを話し合っていた。
「まあ……何かあったのかしら?」
近くにいた女性へ声をかけると、不安そうな顔がこちらを向いた。
「なんでも、こちらのホテルで人が亡くなったそうですよ」
「まあ! それは大変ですわね」
女性はホテルの奥へ目をやり、声を落とした。
「副支配人の方らしいんです。離れの二階から落ちたとかで……」
「転落事故ですの?」
「詳しいことは分かりませんけど、随分と大騒ぎになっていて……」
アンジェリカは礼を言い、ホテルへ視線を戻した。
事故が起きたという離れは、本館の奥にあるらしい。敷地の脇に設けられた通用門が開いており、憲兵たちが出入りしているのが見えた。
亡くなった方の冥福を祈りながら、何気なくそちらへ歩みを進める。
庭園の奥にある二階建ての建物の前で、数人の憲兵が何かを調べていた。
壁面には大きな窓があり、その下には崩れ落ちた木材が散乱している。
どうやら、二階に設けられていたバルコニーが落下したらしい。その近くには、白い布をかけられた人の姿があった。
「あら……?」
アンジェリカは足を止めた。好奇心からというよりも、何かが気になったのだ。
通用門は開いたままで、入口には誰も立っていない。もう少し様子を確かめようと、門をくぐって数歩だけ敷地に入った。
ちょうどそのとき、遺体を調べていた憲兵が白い布を持ち上げた。
若い男性だった。仰向けに倒れた身体の両脇に、腕が投げ出されている。離れの高さを考えれば、転落によって命を落としたとしても不思議ではない。
けれど、アンジェリカは小さく首を傾げた。
突然足場が崩れたのなら、落ちる瞬間に何かを掴もうとしたり、咄嗟に身体を庇おうとしたりするものではないだろうか。
もちろん、何もできないまま落下することもあるだろうし、倒れたあとの姿勢から、その瞬間の動きまで分かるわけではない。
それでも、今見えた男性の様子には、どうにも説明しづらい違和感があった。
まるで、落ちる前から意識がなかったような――。
考え込んでいると、背後から鋭い声が飛んできた。
「おい! そこの君!」
振り返ると、制服に身を包んだ中年の男性が、険しい表情でこちらを見ていた。周囲の憲兵たちよりも立派な制服を着ており、どうやらこの場の責任者らしい。
「そこで何をしている!?」
「あら、ごきげんよう」
アンジェリカがにこりと微笑むと、男性の眉間に皺が寄った。
「ごきげんよう、ではない! ここは関係者以外立入禁止だ!」
「まあ。それは失礼いたしました」
素直に頭を下げたものの、すぐに顔を上げる。
「ところで、少しお伺いしてもよろしいかしら?」
「何だ?」
「こちらで亡くなられた方は、本当に転落事故だったのですか?」
男性の眉がぴくりと動いた。
「……どういう意味だ?」
「いえ、少し気になることがありまして。あの方、落下する前から意識がなかったのではないかと……」
男性はアンジェリカをまじまじと見つめた。
麦わら帽子に、涼しげなワンピース。どう見ても観光客の女性である。それが突然現れて、転落事故に疑問を呈しているのだ。
「君はいったい何者だ?」
「わたくしですか? こちらには観光に参りましたの。エトルタは初めてなのですけれど、とても素敵な街ですわね」
「そんなことを聞いているんじゃない! 観光客がどうして事故現場にいるんだ!」
声を荒らげられても、アンジェリカはおっとりと首を傾げるばかりだった。
「それは、とても綺麗な蝶々がいたので……」
「蝶?」
「ええ。とても美しい青い蝶でしたわ。追いかけていたら、いつの間にかこちらに着いてしまいまして……」
男性の眉間に、さらに深い皺が刻まれた。
「つまり、蝶を追いかけて偶然ここへ来て、勝手に事故現場へ入ったと?」
「はい。それについては、申し訳ありませんでした」
アンジェリカはもう一度、丁寧に頭を下げた。しかし、男性の表情は険しいままだった。
「君、まさか、この件に関係しているんじゃないだろうな?」
「わたくし、こちらのホテルへ来たのは初めてですわよ?」
「それをどうやって証明するんだ!」
アンジェリカは困ったように頬へ手を当てた。
「そうですわねえ……エリックなら、ずっと一緒でしたから、お話しできると思うのですけれど」
「エリック? 誰だ、それは!」
「わたくしの護衛騎士ですわ」
男性は一瞬黙り込み、それから周囲の憲兵へ顔を向けた。
「おい。この女性を憲兵局へ連れて行け。詳しく事情を聞く必要がある」
「はっ!」
両脇に立った憲兵を見上げ、アンジェリカは目を瞬かせた。
「あら。わたくし、何か悪いことをしてしまいましたか?」
「現場へ無断で立ち入っただろう!」
「それは確かに、わたくしが悪かったですわね」
素直に納得すると、彼女は促されるまま歩き始めた。
◇
エトルタ憲兵局。
案内された応接室で、アンジェリカは出されたお茶をいただいていた。
「あら。こちらのお茶も美味しいですわね」
彼女はすっかりくつろいでいた。
無断で事故現場へ入ったことについては、きちんと謝罪している。
ただ、詳しい事情を聞きたいと言われた以上、勝手に帰るわけにもいかない。エリックが迎えに来るまで、ここで大人しく待っていればよいだろう。
そう考えていたところへ、先ほどの男性が書類を手に戻ってきた。
「待たせたな。私はエトルタ憲兵局長だ。いくつか質問をさせてもらいたい」
「ええ、どうぞ」
局長は向かいの席へ腰を下ろし、ペンを取った。
「では、まず名前を聞かせてもらおう」
「アンジェリカ・リュネヴァルと申します」
「リュネヴァル……?」
書類に名前を書きかけた手が止まった。
聞き覚えがあるどころではない。
リュネヴァルといえば、ベルモラン王国でも有数の名門公爵家だ。
現当主のランベール・リュネヴァル公爵は、王国の治安維持を統括する治安総監でもある。
局長は、目の前の女性を改めて見つめた。
麦わら帽子に、飾り気のないワンピース。呑気にお茶を飲んでいる姿は、どう見てもごく普通の観光客である。
――いや、まさかな。
同じ姓を持つ者がいても不思議ではないし、偽名という可能性もある。
何より、名門公爵家の令嬢が蝶を追いかけて事故現場に迷い込み、憲兵局へ連れてこられるなど、にわかには信じがたい話だった。
「リュネヴァル嬢、だったな。君はどちらから来たのかね?」
「王都からですわ。エトルタには一度来てみたかったものですから」
局長は頷き、書類へ短く書き込んだ。
「では、同行者は、先ほど言っていたエリックという護衛騎士だけか?」
「ええ。わたくしが小さい頃から、ずっとお世話になっている方ですわ」
護衛騎士という話が本当なら、それなりの身分の女性なのだろう。だが、本人の様子には少しも気取ったところがない。
局長はさらに眉をひそめた。
「その護衛騎士とは、どうして別行動をしていたのかな?」
「エリックには朝市で焼き菓子を買いに行ってもらっていたのですけれど、その間に綺麗な蝶々を見つけまして……」
「また蝶か……」
局長がこめかみを押さえる一方で、アンジェリカは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。青い翅が陽の光に透けて、本当に綺麗でしたのよ」
どうやら、蝶を追いかけていたという話だけは本当らしい。
「とにかく、同行者が確認できるまでは、ここで待っていてもらおう」
「分かりましたわ」
彼女は素直に頷くと、冷めないうちにとカップを持ち上げた。
局長はその様子を見ながら、もう一度書類に記された名前へ目を落とした。
――アンジェリカ・リュネヴァル。
本当に、あの公爵家の関係者だったりはしないだろうな。
一抹の不安が胸をよぎったが、ひとまず同行者の到着を待つことにした。
◇
その少し前、朝市ではエリックが、焼きたての菓子を入れた紙袋を手に立ち尽くしていた。
十分ほど並び、ようやく目当ての品を買うことができたのだが――。
「お嬢様、お待たせしまし……」
声をかけながら木陰へ戻ったところで、言葉が止まった。
ベンチにいるはずのお嬢様が、いない。
「……お嬢様?」
視線を巡らせても、周囲の露店に見慣れた金色の髪は見当たらなかった。
「またか……」
エリックは天を仰いだ。
十年間、何度も経験してきた光景だった。珍しいものを見つけたのか、気になる店があったのか。あるいは、道端の花に興味を持ったのか。
理由は毎回違うが、結果だけは変わらない。ほんの少し目を離した隙に、お嬢様がいなくなる。
「だから、あれほど動かないでくださいと言ったのに……!」
深々とため息をつき、すぐに周囲の人々へ聞き込みを始める。
金髪を三つ編みにした、麦わら帽子の若い女性を見なかったか。何人かに尋ねたところ、花売りの老婆が思い当たったように頷いた。
「ああ、綺麗なお嬢さんなら、さっき青い蝶を追いかけてあっちへ行ったよ」
「……蝶、ですか?」
「ああ。ずいぶん楽しそうだったねえ」
エリックは眉間を押さえた。
十年前ならまだ分かる。当時、アンジェリカは十歳だったのだから。
しかし、今はもう立派な淑女である。それなのに、蝶を追いかけて護衛から離れてしまうとは。
「ありがとうございます。助かりました」
老婆に礼を告げ、教えられた方向へ足を向けた。
その後も通行人に尋ねながら捜し回り、やがてホテル・ベルヴォワールの近くまでたどり着く。そこで、憲兵たちの話が耳に入った。
「まったく、妙な女性がいたものだな。蝶を追いかけて来たと言っていたそうだぞ」
「しかも、事故現場を見ておかしいと言い出したとか。今は憲兵局で事情を聞いているそうですね」
エリックの足が止まった。
まさか。いや、まさかではない。間違いなく、うちのお嬢様だ。
「すみません!」
憲兵たちへ駆け寄り、息を整える間もなく尋ねた。
「その女性ですが、金髪を三つ編みにして、麦わら帽子をかぶっていませんでしたか?」
「ああ、そうだが……」
エリックは胸元のあたりへ手をかざした。
「青い瞳で、背丈はこれくらいでしょうか?」
「よく知っているな。知り合いか?」
深く息を吐き、エリックは頷いた。
「……私がお仕えしている方です」
その声には、隠しようもない疲労が滲んでいた。
◇
エトルタ憲兵局では、局長がアンジェリカへの事情聴取を続けていた。
「それで、君は遺体の様子がおかしいと言っていたな。具体的には、何が気になったのかね?」
「落下された方が、何もできないまま倒れていらしたように見えましたの。突然バルコニーが崩れたのなら、何かを掴もうとされたのではないかしらと思いまして」
アンジェリカは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「もちろん、わたくしの思い違いかもしれませんけれど……」
「ふむ。落下の状況によっては、何もできなかった可能性もあるからな」
「ええ、そうですわね」
素直に頷いたものの、まだ何か考えている様子だった。
局長も、調査を終えないうちに事故と決めつけるべきではないことは承知していた。
ただ、現場を一目見ただけの観光客が、なぜそこまで気にするのか。それが少し気にかかった。
そこへ、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。続いて、応接室の扉が開かれる。
「お嬢様!!」
「あら、エリック! やっぱり見つけてくれたのね!」
アンジェリカの顔がぱっと明るくなった。エリックは足早に彼女へ近づき、思わず声を荒らげる。
「見つけてくれたのね、ではありません! いつも俺から離れないでくださいって言ってますよね!? どうしてお嬢様が食べたいと仰ったものを買いに並んでいる隙に、ふらっといなくなるんですか!」
「だって、綺麗な蝶々がいたんですもの」
「二十歳にもなって、蝶々を追いかけていなくならないでください!」
エリックの剣幕にも、アンジェリカは悪びれずに首を傾げた。
「とても珍しい色だったのよ? あんなに綺麗な青い蝶、初めて見たものですから……」
「せめて俺に一言、声をかけてください!」
「でも、貴方ならそのうち見つけてくれるかなと思って。いつもそうでしょう?」
にこりと微笑まれ、エリックは言葉を詰まらせた。
十年間、何度も聞いてきた言葉だ。彼女は本当に、何の疑いもなく自分を信頼している。それが嬉しくないわけではない。だが、だからといって勝手にいなくなられては困るのだ。
「そもそも、お嬢様がいなくならなければ、俺が探し回る必要もないんですよ?」
「それはごめんなさい。でも、やっぱり見つけてくれたでしょう?」
エリックは大きく息を吐き、それでも彼女の目を見て答えた。
「当然です。俺は貴女の護衛ですから」
「ふふ。いつもありがとう、エリック」
まったく、この人は。
それ以上何も言えなくなったところで、二人のやり取りを呆然と眺めていた局長が口を開いた。
「失礼だが、君は?」
エリックはようやく局長へ向き直り、姿勢を正した。
「申し遅れました。私はリュネヴァル公爵家騎士団所属、エリック・グランジェと申します」
「リュネヴァル……公爵家騎士団?」
「はい。こちらのアンジェリカ様の専属護衛を務めております」
局長は恐る恐るアンジェリカを見た。彼女は相変わらず、にこりと微笑んでいる。
「そういえば、まだお兄様のことはお話ししていませんでしたわね」
「お、お兄様……?」
「ええ。ランベール・リュネヴァルは、わたくしの兄ですわ」
局長の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「お、王国治安総監閣下の……妹君……?」
「ええ。アンジェリカ様は、現リュネヴァル公爵閣下の妹君でいらっしゃいますが……」
エリックが不思議そうに答えると、局長は椅子から勢いよく立ち上がった。
「リュ、リュネヴァル公爵閣下の妹君ですと!?」
王国の治安維持を統括する最高責任者。
地方憲兵組織にとっても、ランベール・リュネヴァル公爵は雲の上の存在だった。
その妹を、よりによって自分は不審者として連れてきてしまったのである。
目の前のアンジェリカは、麦わら帽子にワンピース姿で、出されたお茶を美味しそうに飲んでいる。
本当に、あの公爵家のご令嬢なのか。
「し、しかし……失礼ながら、念のため身元を確認させていただいても……?」
「もちろんですわ。お兄様にお尋ねになれば、すぐに分かると思います」
快く頷かれ、局長は慌てて部下に指示を出した。
「で、では、王都へ通信を……!」
ほどなくして、執務室に設置された通信魔道具が起動した。王都の治安総監府を経由し、ランベール本人へ連絡がつくまで、さほど時間はかからなかった。
アンジェリカとエリックも執務室へ移り、局長のそばで通信を待った。
『こちらはランベール・リュネヴァルだ。何かあったのか?』
落ち着いた男性の声が響くと、局長は背筋を伸ばした。
「か、閣下! 突然のご連絡、誠に申し訳ございません!」
『構わない。どうした?』
「実は、当局でお話を伺っております女性が、閣下の妹君だと仰っておりまして……」
通信の向こうから、少し意外そうな声が返ってきた。
『妹? ああ、アンジェなら今、エトルタへ旅行に出かけているな。間違いなく私の妹だよ』
「そ、そうでございましたか!」
『ところで、アンジェが何かしたのか?』
局長は冷や汗を拭った。
「そ、それが……ホテルで発生した転落事故の現場に立ち入られまして、事故ではないのではないかと仰るものですから……」
『ほう。あの子が、そんなことを?』
通信の向こうから、興味深そうな声が返ってきた。
「はい。詳しくお話を伺うため、こちらまでお越しいただいた次第でございます」
『……なるほど。事情は分かった』
ランベールは少し考えてから、口を開いた。
『あの子は昔から観察力が高くてね。人が見落とすようなことにも、よく気がつくんだ。捜査の邪魔にならない範囲で構わない。本人が興味を持っているなら、少し話を聞かせてやってくれないか』
「よろしいのですか?」
『もちろん、捜査の指揮権は君たちにある。部外者に見せられないものもあるだろうし、無理な要求なら断ってくれて構わない』
局長は何度も頷いた。
「承知いたしました!」
『それにしても、アンジェが事件に興味を持つとはね。帰ってきたら話を聞くのが楽しみだ』
どこか楽しげな声に、局長はようやく胸を撫で下ろした。妹を憲兵局へ連れてきたことについて、咎められるわけではなさそうだ。
『ところで、エリックはそこにいるかい?』
「はい。ただいま代わります!」
通信魔道具の前へ、エリックが進み出た。
「ランベール様。ご心配をおかけしております」
『ああ、エリック。またアンジェを見失ったのか?』
「申し訳ありません。蝶々に気を取られたらしく……」
頭を下げると、通信の向こうから笑い声が聞こえた。
『ははは。あの子は本当に変わらないな』
「笑い事ではありませんよ、ランベール様……」
思わず本音が漏れた。そばにいるアンジェリカは、何のことかと首を傾げている。
『まあ、そう言わないでくれ。引き続きアンジェのことを頼むよ。くれぐれも危険なことだけはさせないようにね』
「はい。それはもう、重々承知しております」
エリックが深々と頭を下げると、通信は終了した。
局長はしばらく呆然としていたが、やがてアンジェリカへ向き直った。
「アンジェリカ様。このたびは、大変失礼いたしました!」
「あら。お気になさらないでくださいな。勝手に立ち入ったのはわたくしですもの。局長様は、お仕事をなさっていただけでしょう?」
穏やかに微笑まれ、局長は恐縮したように頭を下げた。
「そう仰っていただけますと……」
「それよりも、少しお願いがあるのですけれど」
アンジェリカは胸元でそっと手を重ねた。
「亡くなられた方について、もう少しお話を伺ってもよろしいですか?」
「と、申しますと?」
「先ほどの事故現場なのですけれど、やっぱり気になってしまいまして」
声は穏やかだったが、エリックはその眼差しに見覚えがあった。
何かが気になって仕方がないとき、アンジェリカは決まってこんな目をする。長年そばにいるからこそ分かることだった。
こうなった彼女は、納得するまで考えることをやめない。
「お嬢様。まさか、事件の捜査に関わろうなどとは考えていませんよね?」
「捜査は憲兵さんたちのお仕事でしょう? わたくしはただ、少しだけお話を伺ってみたいだけよ?」
エリックは彼女の顔を覗き込んだ。
「本当に、それだけですか?」
「ええ、もちろん」
にこりと微笑まれ、返す言葉を失った。
これは、しばらく観光どころではなさそうだ。ひとまず覚悟を決めるしかない。
ただの観光旅行で事故の調査に付き合うことになるとは思わなかったが、彼女の安全を守るのが自分の役目である。
もっとも、この時点ではエリックもまだ知らなかった。
今回の事件で、アンジェリカがどれほど奇妙なこだわりを見せるのか。
そして、自分が最後までそれに振り回されることになるということを。
◇
応接室へ戻ると、局長は少し考えるように顎を撫でた。
「アンジェリカ様。現在は転落事故として調査を進めておりまして、事件性があると判断されたわけではございません。また、捜査には守秘義務もございますので……」
「ええ、承知しておりますわ。無理なことをお願いするつもりはありません。お話しいただける範囲で結構です」
柔らかな返答に、局長は小さく頷いた。
先ほどの通信では、ランベール公爵も捜査の妨げにならない範囲で話を聞かせてやってほしいと言っていた。
それに、彼女が何を気にかけているのか、局長自身も確かめておきたかった。
「分かりました。では、現時点で判明していることだけお話しいたしましょう」
「ありがとうございます」
アンジェリカは姿勢を正した。その隣では、エリックがすでに諦めたような顔をしている。
こうなってしまった以上、お嬢様が納得するまでは付き合うしかない。十年間の経験から、それだけはよく分かっていた。
「亡くなったのは、シモン・バルザック殿。バルザック男爵家の出身で、ホテル・ベルヴォワールの副支配人を務めていた男性です」
「まだお若い方だったのですよね」
「ええ。二十七歳でした。従業員からの評判もよく、仕事熱心な人物だったそうです」
局長は手元の書類をめくった。
「今朝、従業員が離れの裏手で倒れているのを発見しました。すぐに医師が呼ばれましたが、すでに亡くなっていたそうです」
「離れというのは、先ほど拝見した二階建ての建物ですわね?」
「その通りです。あの建物には海を望むバルコニーがあるのですが、老朽化が進んでおりましてな」
局長によると、バルコニーは数年前から使用を禁止していたという。安全上の問題から、普段はそこへ出るための窓も開けられないようにしてあり、現在は改修工事を検討しているところだったらしい。
「発見時には、そのバルコニーが崩落しておりました。シモン殿は何らかの理由で窓を開け、点検中に足場が崩れて転落したのではないかと考えております」
アンジェリカは考え込むように視線を落とした。
「その窓は、どなたでも開けられるものなのですか?」
「いえ。施錠されておりまして、鍵を扱えるのはホテルの関係者に限られます」
「では、シモン様も鍵を使えたのですね」
局長が頷くのを見届け、アンジェリカは続けた。
「ところで、そのバルコニーは、点検する予定があったのかしら?」
「それについては、現在確認中です。突然不具合に気づいて確認した可能性もあります。事故と断定するには、もう少し調査が必要でしょう」
「ええ。わたくしもそう思いますわ」
局長が書類を閉じると、アンジェリカは顔を上げた。
「もしよろしければ、もう一度だけ現場を拝見してもよろしいかしら? 先ほどは遠くから少し見ただけでしたので」
局長は迷う様子を見せたが、やがて頷いた。
「分かりました。ただし、私どもの指示に従い、決して危険な場所には近づかないでください」
「ありがとうございます!」
ぱっと顔を輝かせたアンジェリカに、エリックがすかさず声をかける。
「お嬢様。絶対に俺から離れないでくださいね」
「ええ、分かっているわ」
彼は念を押すように、彼女を見つめた。
「今度こそ、本当に分かっていますか?」
「もう、エリックったら。何度も聞かなくても大丈夫よ」
エリックは何も言わず、そっと目を閉じた。つい先ほども、まったく同じやり取りをしたばかりである。
◇
ホテル・ベルヴォワールに戻ると、朝の騒ぎは少し落ち着いていた。
正面玄関では従業員たちが宿泊客への対応に追われていたが、誰もがどこか沈痛な面持ちだった。
副支配人の突然の死が、ホテル全体に暗い影を落としているのだろう。
アンジェリカは局長の案内で離れへ向かった。
遺体はすでに運び出され、周囲には立入禁止の縄が張られている。憲兵たちは、まだ散乱した木材を調べていた。
改めて見上げると、二階のバルコニーはほとんど原形を留めていなかった。壁に残された支柱の一部は朽ちており、木材の断面も黒ずんでいる。
「まあ……随分と傷んでいたのですね」
「ええ。これほど老朽化していたのなら、崩れたとしても不思議ではありません」
アンジェリカは足元の木材を眺め、それから建物の二階へ視線を移した。
「この上のお部屋は、普段使われているのですか?」
「離れそのものは宿泊施設として使用しておりますが、バルコニーに面した部屋は、しばらく前から立ち入りを制限していたそうです。昨夜は離れ全体に宿泊客がいなかったと聞いております」
「では、シモン様はお仕事でいらしたのかもしれませんわね」
局長が頷くと、彼女は少し考えてから、もう一つ尋ねた。
「亡くなられた方には、ほかに大きなお怪我はなかったのかしら?」
「転落によるものと思われる損傷は、いくつもありました。ただ、詳しい死因については医師に確認しているところです」
「そうですのね……」
静かに頷いたものの、遺体を見たときの違和感は消えなかった。
倒れていた姿勢だけで、落ちる前の状態を判断することはできない。それは分かっている。ただ、もし別の傷があったとすれば――。
アンジェリカは二階の窓を見上げた。
「局長様。お部屋も拝見できますか?」
「ええ、こちらです」
局長の案内で、三人は建物の中へ入った。
離れの内部は、本館に劣らず豪華な造りになっていた。磨き上げられた床に、上品な壁紙。廊下には絵画が飾られ、窓から差し込む陽光が室内を明るく照らしている。
問題の二階の部屋も、落ち着いた雰囲気の美しい客室だった。
ただし、バルコニーへ続く大きな窓の周囲には傷みが見られ、窓枠の一部には補修の跡が残されている。
「こちらが、シモン殿が転落したと考えられる場所です」
局長が示した窓には、通常の施錠金具とは別に、開閉を制限するための金具が取り付けられていた。
「普段は開けられないようになっておりますが、点検の際には解除できる仕組みのようです」
アンジェリカは窓辺から少し距離を置いて、外を眺めた。
眼下には手入れの行き届いた庭園が広がり、その向こうには青い海が見える。
「景色は本当に素晴らしいですわね」
「そうですね。以前は、この眺めを楽しむためにバルコニーが使われていたのでしょう」
エリックも窓の外へ目をやった。
アンジェリカはしばらく景色を眺めていたが、やがて室内へ視線を戻した。家具の配置は整っており、目立った争いの跡などは見当たらない。
しかし、窓から少し離れた飾り棚に目を向けたところで、小さく首を傾げた。
「あら?」
花瓶や小さな置物が並ぶ棚に、一か所だけ何も置かれていない場所があった。そこだけ棚板の色が周囲とわずかに違い、何かの台座のような輪郭が残っている。
アンジェリカは、その跡をしばらく眺めた。
「局長様。こちらの棚には、もともと何が飾られていたのかしら?」
「さあ……それはまだ確認しておりませんな」
「そうですか。ありがとうございます」
彼女はそれ以上追及せず、室内をもう一度見渡した。そして、何かを確かめるように小さく頷いた。
「ほかに、シモン様と親しくしていらした方から、お話を伺うことはできますか?」
「従業員の方々に聞いてみましょう」
◇
ホテルのフロントでは、黒髪の女性が宿泊客への対応に追われていた。
艶やかな漆黒の髪を肩のあたりで切り揃え、前髪もまっすぐに整えている。琥珀色の瞳を持つ、端正な顔立ちの女性だった。
落ち着いた物腰と丁寧な言葉遣いからは、長年接客に携わってきた経験がうかがえる。ただ、今日はどこか疲れた様子で、目元にも薄く影が差していた。
「ナタリー・マルチノさんですね」
局長が声をかけると、女性はすぐに顔を上げた。
「はい。私がナタリーですが……」
「エトルタ憲兵局の者です。副支配人の件で、少しお話を伺いたいのですが」
ナタリーは一瞬だけ表情を曇らせた。
「シモン様のことですね。承知いたしました。少々お待ちいただけますか」
同僚へ仕事を引き継ぐと、三人をフロントの奥にある小さな応接室へ案内した。
「このたびは、お騒がせして申し訳ございません」
椅子を勧めながら、ナタリーは深く頭を下げた。
「副支配人があのような事故で亡くなるなんて、私どももまだ信じられない思いでおります」
「大変でしたわね」
アンジェリカが声をかけると、力のない微笑みが返ってきた。
「ありがとうございます。シモン様は本当にお優しい方でしたので……」
言いかけて、ナタリーは少しだけ唇を結んだ。その様子を見て、アンジェリカは穏やかに尋ねた。
「シモン様とは、長いお付き合いだったのですか?」
「ええ。私がこちらへ勤め始めた頃から、十年近くお世話になっております」
「まあ。では、お仕事以外でも親しくしていらしたのかしら?」
ナタリーの視線が、わずかに揺れた。
「いいえ。あくまで仕事上のお付き合いです」
それまでアンジェリカの目を見て話していた彼女が、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。しかし、すぐに顔を上げ、落ち着いた表情に戻る。
「副支配人はどなたに対しても親切でしたから。私だけが特別というわけではございません」
「そうですのね」
アンジェリカは柔らかく微笑んだ。
答えにくい質問だったのだろうか。あるいは、私的な関係まで聞かれて、不快に思ったのかもしれない。突然亡くなった同僚のことを話しているのだから、動揺していても不思議はなかった。
今の仕草だけで何かが分かるわけではない。小さな違和感を胸に留め、話を続けた。
「長年一緒にお仕事をなさっていたのなら、さぞお辛いでしょう」
「……お気遣い、恐れ入ります」
ナタリーが小さく頭を下げると、代わって局長が手元の書類を開いた。
「シモン殿について、最近何か変わったことはありませんでしたか? 悩み事があったとか、誰かと揉めていたとか」
ナタリーは少し考えるように視線を落とした。
「そうですね。最近は少し、お疲れのようでした。お仕事もお忙しかったですし、何か考え事をなさっているご様子で……。ですが、詳しいことまでは存じません」
「なるほど。ところで、昨夜はシモン殿をお見かけになりましたか?」
ナタリーはすぐには答えなかった。膝の上で、指先が小さく動く。
「昨夜、ですか? いえ。私は夕方までの勤務でしたので、その後のことは……」
「そうですか」
局長が記録を取る間、アンジェリカは静かに彼女の様子を眺めていた。
やがて、ナタリーがためらいがちに口を開いた。
「ところで、副支配人の詳しい死因については、もうお分かりになったのですか?」
「現在、医師の詳しい所見を待っているところです」
局長の返答に、ナタリーは沈痛な面持ちで頷いた。それでも何か言いかけ、もう一度口を開く。
「あの……副支配人は、転落した際に頭を打たれたのでしょうか……?」
「その可能性もありますが、まだ断定はできません」
「そう、ですよね……」
ナタリーは俯き、膝の上で両手を握りしめた。
頭を打たれた。アンジェリカは、その言葉を心の中で繰り返した。
高いところから落ちたと聞けば、そう考えるのも自然なことだ。ただ、なぜ頭の怪我について、わざわざ尋ねたのだろう。
これも単なる偶然かもしれない。疑問を胸に留め、話題を変えた。
「ところで、ナタリーさん。その手はどうされたのですか?」
彼女の左手には、小さな包帯が巻かれていた。特に指先のあたりが厚く覆われている。
「ああ、これですか?」
ナタリーは反射的に左手へ視線を落とした。
「昨夜、料理をしていたときに少し切ってしまいまして……。大した怪我ではございません」
「まあ。それは痛かったでしょう。お仕事にも差し支えますものね。どうぞ、お大事になさってくださいな」
心配そうに微笑まれ、ナタリーは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
その後も局長はいくつか質問を続けたが、特に目新しい話は出てこなかった。
シモンは仕事熱心で、従業員からの信頼も厚かった。最近は少し元気がなかったものの、仕事に支障が出るほどではなかった。彼女が語ったのは、ほかの従業員からも聞けそうな内容ばかりだった。
やがて聞き取りが終わり、ナタリーは立ち上がった。
「もしほかにも何かございましたら、いつでもお声がけください」
「ありがとうございます。お忙しいところ、申し訳ありませんでした」
局長が礼を告げると、彼女は丁寧に頭を下げた。そのまま部屋を出ようとしたところで、アンジェリカが声をかける。
「ああ、ナタリーさん。こちらの確認欄に、お名前をいただいてもよろしいですか?」
聞き取り記録を示して局長へ目を向けると、局長も頷いた。
「お手数ですが、お願いいたします」
「承知いたしました」
ナタリーは、机の上のペンを左手で取った。
包帯を巻いた指を庇うようにしながら、少しぎこちない動きで名前を書き込んでいく。アンジェリカは礼を言い、書類を局長へ返した。
ナタリーが部屋を出ていくと、エリックがそっと顔を寄せた。
「お嬢様。何か気になることでも?」
「ええ、少しだけ。ナタリーさんは、左利きなのね」
アンジェリカは、閉じられた扉へ目を向けた。
「それなのに、左手を切ってしまったのですって」
「料理中なら、そういうこともあるのでは?」
「ええ。包丁を使っていたとも仰っていなかったものね」
利き手を怪我したからといって、それ自体が不自然なわけではない。ただ、彼女の中には、いくつかの小さな疑問が残っていた。
「局長様。ほかの従業員の方にも、少しお話を伺ってみたいのですけれど」
「ええ。聞き取りを続けましょう」
局長は頷いた。最初は単なる好奇心かと思っていたが、アンジェリカは些細な話にもよく耳を傾けている。
断定を急がず、一つずつ確かめようとする姿勢には好感が持てた。
◇
それからアンジェリカは、局長たちとともにホテルの従業員へ話を聞いて回った。
長年勤めている者によれば、シモンは温厚で面倒見がよく、若いながらも副支配人の仕事を立派にこなしていたという。宿泊客からの評判もよく、従業員たちからも慕われていた。
「ところで、昨夜、何か大きな物音を聞いた方はいらっしゃいませんか?」
アンジェリカが尋ねると、従業員の一人が首を傾げた。
「いえ、特には……。ただ、昨夜は港で花火が上がっておりましたので、外の音まではよく分からなくて」
「ああ、昨夜の花火ですわね。わたくしも宿から拝見しましたわ。随分と大きな音でしたものね」
「ええ。海沿いでは特によく響いておりましたから」
ほかの従業員にも確認してみたが、離れの方から大きな物音を聞いたという者はいなかった。
もし昨夜の花火が上がっていた時間帯にバルコニーが崩れたのなら、その音に紛れた可能性もあるだろう。ただ、現時点では崩落した時刻もはっきりしていない。
アンジェリカはそのことを胸に留め、引き続き話を聞くことにした。
一方で、最近になってシモンの周囲に変化があったことも分かった。
「一週間ほど前に、シュノワール侯爵家から縁談が持ち込まれていたそうです」
従業員の一人が、声を潜めて教えてくれた。
「まあ。ご結婚のお話ですか?」
「ええ。侯爵家のお嬢様が、副支配人をお気に召したとかで……」
令嬢の名は、カトリーヌ・シュノワール。
以前ホテルを訪れた際にシモンと知り合い、誠実な人柄に惹かれたらしい。
まだ正式な婚約が整ったわけではなかったが、縁談の申し入れがあったことは、従業員の間でも噂になっていた。
「シモン様はバルザック男爵家のご出身でしたわね?」
「はい。詳しいことは存じませんが、ご実家と侯爵家には昔からお付き合いがあるそうです」
アンジェリカは静かに頷いた。
侯爵家から男爵家への縁談。身分だけを考えれば、男爵家にとっては大きな名誉となる話だろう。
だが、当のシモンが喜んでいたかどうかについては、従業員たちの意見が分かれていた。
「ご結婚が決まるならおめでたいことですけど、最近の副支配人は少しお元気がなかったような……」
別の従業員も、思い返すように首を傾げた。
「そういえば、よく考え事をなさっていましたね。お仕事で悩んでいらしたのかもしれませんが……」
何人かに尋ねても、それ以上の事情を知る者はいなかった。
また、シモンとナタリーについて聞いてみたところ、長年の同僚として仕事上の付き合いがあったものの、特別親しい関係にあったという話は誰からも出てこなかった。
「ナタリーさんはフロントの仕事に詳しいですし、副支配人もよく頼りになさっていましたよ」
「まあ。それは心強いですわね」
相槌を打ちながら、アンジェリカは聞いた話を整理していた。
十年近い付き合い。一週間ほど前に持ち込まれた縁談。最近になって様子が変わった副支配人。そして、左手に怪我をしたナタリー。
一つひとつは、ありふれた出来事にすぎない。けれど、重ね合わせると、少しずつ別の形が浮かび上がってくるような気がした。
◇
「あの、お嬢様」
聞き取りを終えて廊下を歩いていると、エリックが遠慮がちに声をかけてきた。
「そろそろ、お昼を過ぎておりますが……」
「あら、もうそんな時間?」
アンジェリカは驚いたように窓の外を見た。朝市で焼き菓子を買ってもらおうとしていたのは、つい先ほどのことのように思える。
「そういえば、あの焼き菓子はどうなったのかしら?」
「こちらにございますよ」
そう言ってエリックが紙袋を示す。ずっと持ち歩いていたらしい。
「まあ! ちゃんと持っていてくれたのね!」
「お嬢様が食べたいと仰ったものですからね」
「ありがとう、エリック!」
嬉しそうに受け取るアンジェリカを見て、エリックは苦笑した。
局長に勧められ、いったん応接室へ戻って休憩を取ることになった。紙袋の中には焼き菓子が二つ入っている。すっかり冷めてしまっていたが、甘い香りはまだ残っていた。
「せっかくだから、エリックも一緒にいただきましょう?」
「俺もですか?」
「もちろんよ。一人で食べるより、二人で食べた方が美味しいでしょう?」
当然のように片方を差し出され、エリックは一瞬だけ彼女を見つめた。それから小さく微笑み、受け取った。
「ありがとうございます」
その様子を、少し離れた席から局長が眺めていた。
先ほどまで事故について質問を重ねていた女性とは思えないほど、アンジェリカは楽しそうに焼き菓子を頬張っている。
本当に、不思議な方だ。どこか世間知らずで好奇心旺盛。それでいて、観察力は確かなものらしい。
「アンジェリカ様。先ほど、現場で気になることがあると仰っていましたな。もしよろしければ、お聞かせいただけませんか?」
アンジェリカは食べかけの焼き菓子を紙袋の上へ置いた。
「そうですわね。まだ確かめたいことがいくつかありますの。例えば、離れのお部屋の飾り棚なのですけれど……」
「ああ、何かが置かれていた跡ですな」
「ええ。あそこには、何が飾られていたのかしら?」
局長は頷き、従業員に確認すると言って席を立った。
しばらくして連れてきたのは、離れの清掃を担当している従業員だった。アンジェリカが飾り棚について尋ねると、すぐに思い当たったように頷いた。
「ああ、あそこにはガラスのトロフィーが飾られていたはずです。以前ホテルが受賞した際の記念品で、透明なガラスでできた立派なものでした」
「素敵ですわね」
「ええ。私もよく磨いておりましたから、覚えております」
アンジェリカは身を乗り出した。
「それは、いつ頃まで置かれていたのかしら?」
「昨日、掃除をしたときには確かにありましたよ。でも、今朝見たときにはなくなっていて……。どなたかが移動させたのかと思っておりました」
困ったように眉を寄せる従業員へ、アンジェリカは礼を言った。
局長も表情を引き締め、そばにいた部下へ指示を出す。
「そのトロフィーについて、ほかの従業員にも確認してくれ。昨日の清掃以降、誰かが持ち出していないか調べるんだ」
「はっ!」
憲兵が足早に去っていく。その背中を見送りながら、アンジェリカは指先を顎へ添えた。
昨日まではあったものが、今朝はなくなっている。誰かが移動させただけかもしれないが、シモンが亡くなったと考えられる時間帯と重なっているのは気にかかった。
「局長様。念のため、ホテルで出されたゴミも調べていただけますか?」
「ゴミ、ですか?」
「ええ。誤って捨てられたか、割れて片づけられたのかもしれませんもの」
局長は少し考え、それから頷いた。
「分かりました。そちらも確認させましょう」
◇
その後、アンジェリカはシモンが普段使用していた居室についても話を聞いた。
ホテルの一角には従業員用の居室が設けられており、シモンも仕事の都合でそこで寝泊まりすることがあったという。
局長は必要な手続きを確認したうえで、憲兵たちに室内を調べさせた。
居室は綺麗に片づけられ、家具も必要最低限のものしか置かれていなかった。仕事机には書類が整然と並び、本棚には経営に関する書物や帳簿が収められている。
「随分と几帳面な方だったのですね」
「ええ。従業員たちも、仕事熱心な人物だったと言っておりましたな」
アンジェリカは机の上を眺め、それから室内の品へ順番に視線を移していった。
仕事の資料。整理された私物。机の脇に置かれた小さなゴミ箱。何気ないものばかりだったが、彼女は一つひとつを注意深く見ていた。
「局長様。こちらも確認していただいてよろしいですか?」
ゴミ箱を示すと、局長は憲兵に指示を出した。
しばらくして、調査を担当していた憲兵が歩み寄り、何かを報告する。局長は小さく頷き、アンジェリカへ目を向けた。
「アンジェリカ様。少し、お話がございます」
「まあ。何でしょう?」
二人は部屋の隅へ移動し、声を落として話を交わした。アンジェリカは説明を最後まで聞くと、少しだけ目を伏せた。
「そうでしたのね……。お気の毒に」
先ほどまでの好奇心に満ちた明るさは消え、悲しげな色が浮かんでいた。
誰に向けた言葉だったのだろう。エリックが尋ねようとしたとき、アンジェリカはゆっくりと顔を上げた。
「局長様。あと二つほど、確認していただきたいことがございますの」
そばへ近づき、静かに伝える。局長は最初こそ不思議そうな顔をしていたものの、話を聞くうちに表情を引き締めた。
「なるほど。確かに、その可能性は考えられますな」
「ええ。まだ推測でしかありませんけれど」
「分かりました。すぐに確認させましょう」
局長が部下へ指示を出す様子を見て、エリックは不思議に思った。
今のアンジェリカは、何かを探しているというよりも、すでに答えに近づいているような顔をしている。
「お嬢様。随分と真剣なお顔をなさっていましたが、何か分かったのですか?」
「まだ、はっきりしたことは分からないわ。ただ、少し気になることがあるの」
そう答えてから、アンジェリカは窓の外へ視線を向けた。
エトルタの空は青く澄み、遠くには白い断崖が見える。その景色をしばらく眺め、何かを思い出そうとするように目を細めた。
――不思議ですわ。
なぜだろう。あの崖を見ていると、妙に心が落ち着く。
今回の件とは、何の関係もない場所のはずなのに――
アンジェリカは小さく首を傾げ、それから再び局長へ向き直った。
◇
午後の陽射しが傾き始めた頃、必要な確認を終えた局長が戻ってきた。
「アンジェリカ様。ご依頼の件ですが、確認が取れました」
「まあ、本当ですか?」
「ええ。お話しいただいた内容と、ほぼ一致しております」
局長は声を落として調査の結果を伝えた。アンジェリカは最後まで耳を傾け、静かに頷く。
「……わたくしなりに、事件の流れが見えてきた気がしますわ」
「実は、私も同じことを考えておりました。当初は不幸な転落事故と思われましたが、どうやらそうではなかったようですな」
局長の表情が引き締まった。
「おそらく、シモン様はバルコニーが崩れる前に、すでに意識を失っていらしたのでしょう」
「その可能性は十分にあります。詳しい経緯については、まだ確認が必要ですが……」
局長は報告書へ目を落とした。
いくつかの疑問は、一本の筋道としてつながり始めている。現時点ですべてが証明されたわけではない。それでも、関係者への再確認を進めるべき方向は見えてきた。
「となると、犯人は――」
「ええ。事件の真相が分かりましたわ」
アンジェリカは静かに頷いた。
「では、崖に参りましょう」
「…………崖、ですか?」
局長が聞き返すと、彼女は窓の外に見える白い断崖へ目を向けた。
「ええ。なぜか、事件の真相をお話しするときには、崖へ行かなければならない気がしますの」
「それは、どういうことでしょう?」
「わたくしにも、よく分かりませんの。でも、どうしても最後はあの崖でなければならないのです」
少し困ったように微笑むと、再び局長へ向き直った。
「それでは局長様、関係者の皆様をあの崖に集めていただけますか? エリック、参りましょう」
そう告げると、さっそく扉へ向かって歩き始めた。
「え!? お、お嬢様!? ちょっとお待ちください!」
エリックが慌てて後を追う。取り残された局長は、窓の向こうの断崖へ目を向けた。
「なぜ崖……?」
もちろん、その疑問に答えられる者は誰もいなかった。
◇
アンジェリカの希望により、事件の関係者たちはエトルタの崖へと集められた。
切り立つ白い断崖の遥か下では、青い海から押し寄せる波が岩肌に激しく打ちつけられ、白い飛沫を上げている。
遠くへ目を向ければ、どこまでも続く水平線と、抜けるような青空が広がっていた。
海から吹き上げる風が、アンジェリカの金色の髪を揺らす。彼女は麦わら帽子を片手で押さえながら、ゆっくりと周囲を見渡した。
ホテル・ベルヴォワールの従業員たち。その中には、ナタリー・マルチノの姿もあった。そしてエトルタ憲兵局長と、数人の憲兵。少し後ろには、いつものようにエリックが控えている。
憲兵たちは安全を確保するため、崖の縁から十分に離れた場所に人々を集めていた。
――ああ、やっぱり。ここですわ。
アンジェリカは静かに息をついた。
なぜそう思うのか、自分でもよく分からない。事件の現場はホテルであり、この崖とは何の関係もない。それでも、海を背に関係者たちと向かい合っていると、不思議なほど心が落ち着くのだ。
まるで、すべてがあるべき場所に収まったかのような、奇妙な満足感があった。
――やはり、事件の真相をお話しするには、この崖が一番ですわね。
その理由を尋ねられても答えられない。けれど、そんなことは些細な問題だった。
アンジェリカは集まった人々へ向き直り、口を開いた。
「皆様、お集まりいただき、ありがとうございます。これから、シモン・バルザック様が亡くなられた事件について、お話しさせていただきますわ」
その声に、人々の表情が引き締まった。
「シモン様は、老朽化したバルコニーから転落して亡くなられたと考えられていました。ですが、わたくしは、あれが単なる事故ではなかったのではないかと思っております」
従業員たちの間に、小さなどよめきが広がった。一人が戸惑った顔で問いかける。
「事故ではないというのは、どういうことでしょうか?」
「順を追ってご説明いたしますわね」
アンジェリカは穏やかに頷いた。
「まず、あのバルコニーは以前から老朽化が進んでおり、普段は立ち入りを禁止されていたそうですわね」
「はい。危険ですから、窓も開けられないようにしておりました」
従業員の返答を聞き、彼女は続けた。
「けれど、シモン様は副支配人でしたから、必要があれば窓を開けることもできたのでしょう。実際、発見時には窓が開いておりました。ですが、昨夜から今朝にかけて、バルコニーを点検する予定はなかったのですよね?」
視線を向けられた局長は、手元の報告書へ目を落とした。
「ええ。ホテルの管理記録を確認しましたが、そのような予定はありませんでした。もちろん、副支配人が独自の判断で確認しようとした可能性はあります。しかし、事前に予定されていた作業ではなかったようです」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げ、再び一同へ向き直る。
「そして、もう一つ。わたくしは初めて現場を拝見したとき、シモン様が落ちる前から意識を失っていらしたのではないかと、ふと思いましたの」
周囲が静まり返った。
「ただ、倒れていた姿勢だけで、そのようなことが分かるわけではありません。あのときは、なんとなくそう感じただけでした。ですが、医師の方からも、気になる報告があったそうですわね」
局長は頷き、一歩前へ出た。
「シモン殿には転落によるものと考えられる複数の損傷がありました。しかし、後頭部の傷は、別の物で強く殴られた疑いがあるとのことです」
「それも、落ちたときについた傷ではないのですか?」
従業員の一人が尋ねると、局長は慎重に答えた。
「その可能性も含め、詳しい検証を進めております。ただ、転落による傷と決めつけることはできません。少なくとも、別の衝撃を受けてから落下した可能性を調べる必要があります」
アンジェリカは、その言葉を受けて続けた。
「そこで気になったのが、離れのお部屋からなくなっていた、ガラスのトロフィーですわ」
清掃を担当していた従業員が顔を上げた。
「昨日のお掃除のときには確かにありました。それなのに、今朝はなくなっていて……」
「ええ。その後、局長様が調べてくださいましたの」
局長は傍らの憲兵から箱を受け取り、蓋を開けた。布で保護された透明なガラスの破片が、いくつか収められている。そのうちの一つには、文字の一部が刻まれていた。
「ホテルの廃棄物を調べたところ、こちらが見つかりました。受賞記念品の刻印と一致しており、なくなっていたトロフィーの破片と考えられます」
従業員たちが驚いたように声を上げた。
アンジェリカは破片を見つめ、静かに口を開いた。
「単に落として割ってしまったのなら、報告して片づければよいはずです。ですが、破損したという報告もなく、破片はゴミとして処分されていました」
少し間を置き、一同を見渡す。
「わたくしは、これがシモン様の後頭部の傷と関係しているのではないかと考えたのです」
「つまり、凶器だったということですか?」
「その可能性があると思いますわ」
アンジェリカはゆっくりと頷いた。
「シモン様は、あのお部屋で何者かと会っていた。そして、何らかの理由で争いとなり、トロフィーで頭を殴られたのではないでしょうか」
海からの風が強く吹き、スカートの裾を揺らした。
「シモン様が倒れてしまい、相手の方は動揺した。そこで、事故に見せかけようと考えたのかもしれません。老朽化したバルコニーを利用して、点検中に転落したように装おうとしたのです」
彼女は、遠くに見えるホテルの方向へ視線を向けた。
「けれど、お身体を移したところで、バルコニーが本当に崩落してしまったのではないでしょうか」
「崩落そのものが予想外の出来事だったとしても、それより前にシモン殿が襲われていた可能性がある、ということですな」
局長の言葉に頷き、アンジェリカは再び関係者たちへ目を向けた。
「ここまでのお話には、まだ推測が含まれております。ですから、いくつか確かめさせていただきたいのです。ナタリーさん」
名前を呼ばれた女性が、びくりと肩を震わせた。
「私、ですか?」
「ええ。ホテルでお話を伺った際、貴女はシモン様の死因についてお尋ねになりましたわね。局長様が医師の所見を待っているとお答えになったあと、『転落した際に頭を打たれたのでしょうか』と」
ナタリーの表情が、わずかに強張った。
「それが、何か?」
「それだけなら、何も不思議ではありません。高い場所から落ちたと聞けば、そう考えるのも自然なことですもの。ただ、その後でトロフィーのことを知り、少し気になりましたの」
ナタリーは俯いたまま、何も答えなかった。
「それから、左手をお怪我なさっていましたわね」
「はい。料理をしているときに……」
包帯を巻いた左手を、そっと右手で覆う。その動きへ目を留め、アンジェリカは続けた。
「利き手を怪我することも、もちろんありますわ。ただ、割れたガラスに触れて、指を切ってしまうこともありますわよね」
ナタリーの顔から血の気が引いた。唇が震え、うまく言葉にならない様子だった。
「例えば、目の前で大切な方が倒れて、動揺して持っていたものを落としてしまったとしたら……?」
「……何を、仰りたいのですか?」
アンジェリカは少しだけ目を伏せた。
「貴女は、シモン様とは仕事上のお付き合いだったと仰いました。ですが、そのお話をなさったとき、少し答えづらそうになさっていたのが気になりましたの」
「どういう意味でしょうか?」
ナタリーが唇を噛むのを見て、アンジェリカは首を横に振った。
「仕草だけで嘘が分かるわけではありませんし、何の証拠にもなりません。ただ、お話ししにくい事情があるのではないかと思ったのです」
隣に立つ局長が、報告書を手に一歩進み出た。
「加えて、今朝、離れの廊下から戻るあなたを見かけたという従業員がいます。ホテルの従業員が離れに立ち入ること自体は不自然ではありません。しかし、昨夜から今朝にかけての行動については、改めて詳しくお話を伺う必要があります」
声は落ち着いていたが、厳しかった。
「トロフィーの破損と処分、左手の怪我、そしてシモン殿が亡くなった前後の行動。その関係を確かめさせてください」
ナタリーは、ゆっくりと首を振った。
「違います。私は、ただの従業員です。副支配人を殺す理由なんて、どこにも……」
アンジェリカは彼女をまっすぐに見つめた。
「本当に、そうでしょうか。シモン様とは、十年近く一緒にお仕事をなさっていたそうですわね」
「ですから、仕事上の……!」
「ですが、貴女にとってシモン様は、ただの上司ではなかったのではありませんか?」
ナタリーは何も答えなかった。
「……昨夜、あのお部屋でシモン様と何があったのですか?」
その問いに、ナタリーの表情がくしゃりと歪んだ。
「……殺すつもりなんて、なかったんです」
震える声でそう呟くと、彼女の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。両手で顔を覆い、小さく肩を揺らす。
その言葉を聞き、アンジェリカは静かに目を伏せた。
やがてナタリーは顔を上げ、かすれた声を絞り出した。
「……私が、殴りました。私が……シモンを、殴ったんです……」
周囲が静まり返り、局長の表情が引き締まった。
アンジェリカは何も言わず、彼女が続きを語るのを待った。
「私たちは……ただの同僚なんかじゃありませんでした……」
涙に濡れた琥珀色の瞳が、遠くの海へ向けられる。
「私がこのホテルで働き始めた頃に知り合って……それからしばらくして、シモンとお付き合いするようになりました。もう十年近くになります」
従業員たちの間に驚きが広がった。顔を見合わせ、信じられないといった様子で二人の名を囁き合う。
誰も知らなかったのだろう。長年同じ職場で働いていた二人が、密かに愛し合っていたことを。
「シモンは、いつも優しかったんです。私が仕事で失敗したときも、落ち込んでいるときも、必ず励ましてくれて……」
ナタリーは少しだけ目を細めた。
「一緒に働くうちに、いつの間にかあの人がそばにいるのが当たり前になって……。私が初めて好きだと言ったとき、シモンも同じ気持ちだって、笑ってくれたんです」
ほんの一瞬、幸せだった頃の面影が浮かんだ。けれど、それもすぐに消えてしまう。
「でも、シモンは男爵家の方で、私は平民です。私たちの関係が知られたら、あの人の立場を悪くしてしまうかもしれないと思って……。だから、誰にも話さないでほしいと、私からお願いしたんです」
「……そうでしたのね」
アンジェリカが静かに相槌を打つと、ナタリーは唇を噛んだ。
「シモンは気にしなくていいって言ってくれました。でも、あの人の将来を考えたら、どうしても……。それでも、いつかは結婚できると思っていました。身分なんて関係ないって、ずっと一緒にいようって、約束していたんです」
十年近い年月は、決して短くない。幸せだったことも、つらかったことも、二人で重ねてきたはずだ。誰にも言えない恋人同士として、それでも互いを支えながら生きてきたのだろう。
「けれど、一週間ほど前に、シュノワール侯爵家から縁談が持ち込まれたんです」
ナタリーの声が低くなった。
「カトリーヌ様がシモンをお気に召したのだと……。驚きました。でも、シモンがその縁談を受けるなんて、考えもしませんでした。だって、私と結婚すると約束してくれていたんです。だから、きっと断ってくれるものだと……」
しかし、シモンは何も言わなかった。
縁談について尋ねても曖昧な返事をするばかりで、以前のように二人きりで会おうともしなくなったという。
「一昨日は、私の誕生日だったんです。毎年、シモンは必ずお祝いしてくれていました。仕事が忙しくても、少しだけでも時間を作ってくれて……」
ナタリーは悲しげに目を伏せた。
「でも、今年は何もありませんでした。おめでとうの一言さえ、言ってくれなくて……」
当たり前のように続いてきた幸せが、突然途切れた。ナタリーは頬を伝う涙も拭わず、言葉を継いだ。
「だから、どうしても話がしたかったんです。縁談はどうするつもりなのか、私との約束はどうなるのか、ちゃんと聞きたくて。昨夜、シモンに会いに行きました」
海から吹き上げる風が、彼女の黒髪を揺らした。
「離れの二階です。あの人が仕事でそこへ行くと聞いていたので、私も後を追って……。最初は、普通に話すつもりだったんです。どうして私を避けるのか、どうして何も言ってくれないのか……」
声が少しずつ震え始めた。アンジェリカは急かさず、その言葉を待った。
「でも、あの人は、もう私とは結婚できないって……侯爵家のお嬢様と結婚するから、別れてほしいって言ったんです」
ナタリーは強く唇を噛みしめた。
「十年も一緒にいたのに、いきなりそんなことを言われて、どうしても納得できなくて……。私のことが嫌いになったのかって、聞きました。もう愛していないのかって……。そうしたら、あの人……」
言葉が途切れた。一度目を閉じ、かすれた声で続ける。
「お前みたいな年増より、若い女がいいからな、って……」
誰も、何も言わなかった。
「たった二つしか違わないのに……。今まで、そんなこと一度だって言われたことなかったのに……」
ナタリーは両手を握りしめ、顔を歪めた。
「それまでの十年間が、全部嘘だったみたいで……。あの人にとって、私はただの都合のいい女だったのかって……! 許せなかったんです……」
最後の言葉は、小さく押し殺すような声だった。
「大好きだったのに。ずっと一緒にいたかったのに……あんなことを言われて、頭の中が真っ白になって……」
左手の包帯を見つめる。その指先が、かすかに震えていた。
「気がついたら、近くにあったトロフィーを掴んでいました。本当に、一瞬だったんです。話を打ち切ろうとしたシモンの背中を見て、振り上げて……頭を、殴ってて……」
従業員たちが息を呑んだ。
ナタリーは目の前に昨夜の光景があるかのように、虚空を見つめていた。
「そうしたら、シモンがその場に崩れ落ちて……。何も言わず、動かなくなってしまったんです。最初は、気を失っただけだと思いました。すぐに起き上がって、また何か言ってくれると思って……」
けれど、シモンは動かなかった。何度名前を呼んでも、返事はなかった。
「……何が起きたのか、分からなくて。ただ、呆然と立ち尽くしていました。そうしているうちに、手から力が抜けて……。持っていたトロフィーが床に落ちて、ガラスが砕け散ったんです」
倒れた恋人を前に、何をすればよいのか分からなかった。
足元に散らばったガラスをぼんやりと見つめ、無意識に左手を伸ばした。破片の鋭い縁に触れ、指を切ってしまったのだという。
「指から血が出ているのを見て、ようやく我に返りました。助けを呼ばなければと思ったんです。でも、私がシモンを殴ったことを知られたらと思うと、怖くなって……。どうにかしなければと、そればかり考えていました」
ナタリーは唇を噛み、俯いた。
「そんなとき、バルコニーのことを思い出したんです。あそこはずっと前から傷んでいて、使えなくなっていました。だから、そこで事故が起きたことにすれば、誰も疑わないんじゃないかって……」
ナタリーは、シモンが持っていた鍵で窓の金具を解除したという。
身体を窓の方へ運び、老朽化したバルコニーへ引きずり出した。大人の男性の身体は想像以上に重く、何度も手を止めた。それでも、誰かに見つかる前に何とかしなければならないと思い、必死で動かしたのだ。
「そうしたら、本当に崩れたんです。シモンの身体を外へ押し出したところで、大きな音がして……。あの人が、バルコニーごと落ちていって……」
ナタリーは震える両手で顔を覆った。
「もう、何が何だか分からなくなって……あんなに大きな音がしたのに、誰も来なかったんです。港では花火が上がっていて……きっと、その音に紛れたんだと思います」
しばらく、その場には波の音だけが響いた。
やがて彼女は、拾い集めたトロフィーの破片を処分し、部屋を片づけて立ち去ったことを話した。手の怪我は料理中に切ったものだと説明するつもりだったという。
「そして、今朝も、あの部屋へ戻ったのですね」
局長が確認すると、ナタリーは弱々しく頷いた。
「何か残していないか、怖くなって……。誰かに会っても、仕事で来たことにすればいいと思っていました」
何事もなかったかのように振る舞えば、バルコニーの崩落は事故として扱われる。そう願っていたのだという。
すべてを話し終える頃には、彼女は立っているのもやっとという様子だった。
「私が、殺したんです。私が……シモンを……」
アンジェリカは、しばらく彼女を見つめていた。そして、静かに口を開く。
「お話しくださって、ありがとうございます」
責めるでも慰めるでもなく、言葉を最後まで受け止めようとする、穏やかな声だった。
「ナタリーさん。貴女がなさったことは、決して許されることではありません。どのような事情があっても、シモン様の命を奪ってよい理由にはなりませんわ」
「分かっています……」
ナタリーは小さく頷いた。
アンジェリカは少しだけ目を伏せ、それから局長へ視線を向けた。局長も頷き、手にしていた書類と小さな箱を差し出す。
「ナタリーさん。最後に、少しだけお伝えしたいことがありますの」
「何、でしょうか……?」
ナタリーは涙を拭うこともせず、ゆっくりと顔を上げた。アンジェリカは、手元の一枚の紙に視線を落とした。
「シモン様が使っていらしたお部屋を調べたとき、ゴミ箱の底から、こんなものが見つかりました」
ひどく皺の寄った紙だった。何度も握り潰されたような跡が残り、端の方は折れ曲がっている。
「貴女に宛てて書かれた手紙のようですわ。書きかけのものですけれど……」
「私に……?」
アンジェリカは局長の了承を得て、そっと紙を差し出した。
ナタリーは震える手で受け取り、ゆっくりと広げる。そこに書かれた文字を見た瞬間、表情が変わった。
「シモンの、字……」
仕事の書類にも、二人で交わした短い手紙にも、いつも同じ文字が並んでいた。十年間、何度も見てきた筆跡を、見間違えるはずがない。
ナタリーは震える唇を動かし、その文章を読んだ。
『ナタリーへ。
君との約束を守れなくなってしまったことを、どう謝ればいいのか分からない。
君と一緒になることだけを、ずっと考えていた。
それなのに、僕は――』
文章は、そこで途切れていた。
ナタリーは何度も目を瞬かせ、もう一度最初から読み返した。
「どういう……こと……?」
「シモン様は、おそらく貴女に謝ろうとなさったのでしょう。けれど、最後まで書くことができず、丸めて捨ててしまわれたようです」
ナタリーは、手紙を持つ指先に力を込めた。
「どうして……」
アンジェリカは悲しげに目を伏せ、それからゆっくりと話し始めた。
「シュノワール侯爵家から縁談が持ち込まれたのは、一週間ほど前だったそうですわね。シモン様のご実家であるバルザック男爵家は、以前から侯爵家に経済的な面でも大変お世話になっていたそうです」
ナタリーが顔を上げた。
「調べたところ、侯爵家との取引や支援は、男爵家にとって非常に大切なものだったようです。もちろん、それだけで結婚を強いられたとは言えません。カトリーヌ様も、シモン様に恋人がいらっしゃることをご存じなかったのかもしれません」
一度言葉を切り、彼女の様子を確かめる。ナタリーは何も言わず、手紙を見つめていた。
「けれど、シモン様にとって、ご実家と深いお付き合いのある侯爵家からの縁談を断ることは、簡単ではなかったのだと思います」
「そんな……」
「ご実家と貴女との間で、ずっと悩んでいらしたのかもしれません」
海風が二人の間を吹き抜けた。アンジェリカは少し間を置いて続ける。
「ここからは、わたくしの推測でしかありませんけれど……シモン様は、貴女にご自分を諦めてもらおうとなさったのではないでしょうか」
「諦める……?」
「ええ。事情を話せば、貴女はご自分を犠牲にしてでも支えようとなさる。そう思われたのかもしれません」
ナタリーの目から、また涙がこぼれた。
「だから、わざとあんなことを……?」
「その可能性はあると思いますわ。ご自分を嫌いになってもらおうと、あえて貴女を傷つける言葉を選ばれたのかもしれません」
アンジェリカは静かに頷いた。
「もちろん、それが正しかったとは思いません。十年も愛し合った方に、あのような言葉を投げかけるなんて……ひどく不器用で、残酷な方法だったと思います」
ナタリーは唇を噛みしめたまま、何も答えなかった。
「ですが、シモン様が貴女との未来を本気で考えていらしたことを示すものが、もう一つありました」
アンジェリカは、手元の小さな箱を両手で持ち直した。
ゆっくりと蓋を開く。その中には、一つの指輪が収められていた。
細やかな装飾が施された台座に、美しい緑色の宝石が輝いている。陽光を受けた宝石は、深い森のような色を湛えていた。
「これ、は……」
「婚約指輪ですわ」
ナタリーの目が大きく見開かれた。アンジェリカは指輪を見つめたまま、静かに続けた。
「シモン様のお部屋で見つかった宝飾店の注文控えをもとに、局長様が確認してくださいました。注文なさったのは、侯爵家から縁談が持ち込まれるよりも前のことだそうです」
ナタリーは、言葉の意味を理解できないかのように指輪を見つめていた。
「恋人のお誕生日に贈るつもりだと、宝飾店の方にお話しされていたそうですわ」
「私の、誕生日に……?」
「ええ。シモン様は、この指輪を注文されたとき、貴女に結婚を申し込もうと考えていらしたのでしょう」
大粒の涙が、ナタリーの頬を伝った。
「嘘……」
震える手を伸ばしかけ、指輪に触れる寸前で止めた。
深い緑色の宝石。それは、十年間ずっと見つめてきた、シモンの瞳によく似た色だった。
「シモンの、瞳と……同じ色……」
仕事で疲れた自分を心配そうに見つめ、嬉しいことがあれば子供のように輝いた、あの優しい緑色の瞳。二人きりになると、シモンはいつもその目を柔らかく細め、愛おしそうに微笑んでくれた。
もう二度と、あの瞳が自分を見つめることはない。
アンジェリカは、彼女の前へ静かに歩み寄った。
「ナタリーさん。こちらを」
小さな宝石箱を差し出すと、傍らの局長も頷いた。指輪の記録と確認は済んでおり、本人へ渡すことについても、あらかじめ了承を得ていた。
「シモン様が、貴女のために用意されたものです」
「でも、私……。私が、シモンを殺したのに……」
ナタリーは手を伸ばしかけ、ためらった。
アンジェリカは箱を差し出したまま、静かに告げた。
「貴女がなさったことは、決して許されません。ですが、この指輪に込められたシモン様の想いまで、なかったことにはできませんわ。どうか、お受け取りください」
ナタリーは長い間、その箱を見つめていた。
やがて手紙を局長へ預け、震える両手を差し出す。壊れ物を扱うように箱を受け取り、指輪をそっと取り出した。
掌の上で、深い緑色の宝石が輝いていた。指輪の内側には、小さく名前が刻まれている。
Natalie.
ナタリーは、その文字を指先でそっとなぞった。
「私の、名前……」
ナタリーは指輪を見つめたまま、動かなかった。
十年間、ずっとそばにいた人だった。何気ないことで笑い合い、時には喧嘩をして、それでも最後には必ず仲直りをした。これからも、そんな日々が続いていくのだと信じていたのに、その未来はもう存在しない。
「……どうして、ちゃんと話してくれなかったの……」
ナタリーは唇をきつく噛みしめた。
「私だって……一緒に考えたかったのに……」
もし、あのとき話してくれていたら。自分がもう少し落ち着いて彼の言葉を聞いていたら。そして、あのトロフィーさえ手に取らなかったなら。
数えきれないほどの後悔が胸を締めつける。けれど、どれほど悔やんでも、失われた時間を取り戻すことはできなかった。
ナタリーは震える指先で指輪を宝石箱へ戻すと、それを胸元に抱きしめた。
「……ごめんなさい!! シモン……っ!!!」
悲痛な叫びが崖の上に響き渡った。
ナタリーはその場に泣き崩れ、肩を大きく震わせた。何度も息を吸おうとするが、言葉にはならず、喉の奥から嗚咽だけが漏れていた。
アンジェリカは、ただ静かにナタリーを見つめていた。
どれほど優しい言葉をかけても、失われた命は戻らない。シモンが本当に何を考えていたのか、そのすべてを知ることも、もうできない。
ただ一つ確かなのは、彼がナタリーとの未来を思い描き、指輪を用意していたということ。そして、その未来が永遠に失われてしまったということだった。
しばらくして、局長が静かに歩み寄った。
「ナタリー・マルチノさん。シモン・バルザック殿の殺害について、ご自身の犯行を認められましたね」
ナタリーは顔を上げることもできないまま、小さく頷いた。
「殺人の容疑で、あなたを逮捕いたします」
局長の言葉にも、答えはなかった。ただ、胸元の箱をさらに強く握りしめ、声にならない嗚咽を漏らしていた。
憲兵たちは、彼女が立ち上がれるようになるのを待ち、やがて一人が肩へ手を添えると、ナタリーは抵抗することなく、ゆっくりと身を起こした。
付き添われて歩き始めても、その手は小さな宝石箱を離さなかった。何度も膝から力が抜け、今にも崩れ落ちそうになる。そのたびに傍らの憲兵が身体を支え、ナタリーはどうにか歩みを進めた。
俯いたその頬を、拭われることのない涙が伝っていた。
やがて、その姿は崖から街へと続く道の向こうに消えた。
残された人々は、しばらく誰も動かなかった。崖の下では、変わらず波が打ち寄せている。
やがて局長が従業員たちに声をかけ、ホテルへ戻るよう促した。彼らは沈痛な面持ちで互いに顔を見合わせ、ぽつりぽつりと崖を後にしていく。
局長もアンジェリカに一礼すると、事件の後処理のため憲兵局へ戻っていった。
気づけば、崖の上に残されたのはアンジェリカとエリックだけだった。
アンジェリカは遠ざかる人々を見送り、それから海へ目を向けた。
青く澄んだ海と、その向こうに広がる水平線。白い飛沫を上げる波と、少しずつ夕暮れの色を帯び始めた空。こんなにも美しい場所で、あれほど悲しい出来事を語ることになるとは思わなかった。
「……誰も、こんな結末を望んではいなかったのでしょうね」
小さく呟くと、隣のエリックが静かに頷いた。
「そうですね」
「カトリーヌ様も、ただシモン様に恋をなさっただけなのでしょう。恋人がいらっしゃることも、ご存じなかったのだと思います」
アンジェリカは遠くの海を見つめたまま続けた。
「シュノワール侯爵様も、お嬢様の願いを叶えようとなさっただけなのかもしれません。それでも、シモン様にとっては簡単に断れるお話ではなかった……」
誰かが悪意を持って仕組んだのでなくても、身分や家の事情が人を追い詰めることがある。
もちろん、ナタリーが罪を犯した責任は彼女自身にある。だが、そこに至るまでのすれ違いを思えば、やりきれなかった。
水平線へと傾いた夕日が、海面に長い光の道を描いていた。白い断崖も柔らかな茜色に染まり、寄せては返す波がきらきらと輝いている。
アンジェリカはその美しい光景を見つめながら、静かに呟いた。
「……権力は、時として残酷なものですわね」
呟いてから、何気なく隣へ目を向けた。
エリックの紺色の髪が、海風に揺れている。十年前から自分のそばにいて、離れてしまっても必ず捜し出してくれる人。
彼はリュネヴァル公爵家に仕える騎士であり、自分は公爵家の令嬢だ。
もし、彼に何かを望んだら。自分の気持ちを告げてしまったら。
彼は、立場を気にせず答えてくれるだろうか。それとも、主家の令嬢からの願いだからと、断れないと思わせてしまうのだろうか。
アンジェリカは、そっと視線を落とした。
「どうされましたか、お嬢様。何か気になることでも?」
エリックが少し身を屈め、顔を覗き込んできた。アンジェリカは顔を上げ、いつものように柔らかく微笑む。
「いいえ。何でもありませんわ。それより、そろそろ帰りましょうか。お兄様にお土産を買わないといけませんものね」
エリックはしばらく彼女を見つめていたが、やがて穏やかに頷いた。
「そうですね。では、参りましょうか」
「ええ」
アンジェリカは最後にもう一度、夕日に染まり始めた海を振り返った。
白い断崖の下では、波が絶え間なく打ち寄せている。その景色を眺めていると、やはり不思議なほど心が落ち着いた。
なぜ、この場所でなければならないと思ったのだろう。
理由は分からないままだった。
けれど、事件の真相を語り終えた今、一つの役目を終えたような感覚がある。
アンジェリカは小さく息をつき、エリックと並んで歩き始めた。
海風が二人の背中を押すように吹き抜け、傾いた夕日が並んで歩く二人の姿を柔らかく照らしていた。
こうして、ホテル・ベルヴォワールで起きた事件は、やりきれない思いを残したまま、一応の解決を迎えたのだった。
◇
エトルタでの事件から、数日が過ぎた。
王都へ戻ったアンジェリカは、リュネヴァル公爵邸の応接室で、兄のランベールと向かい合っていた。
テーブルには、旅先で購入した焼き菓子が並べられている。
エトルタの名物だというそれは、香ばしい生地に爽やかな柑橘の風味が加わった、上品な味わいのものだった。
「……なるほど。それで、アンジェは事件の真相を突き止めたというわけか」
ランベール・リュネヴァルは、妹の話を聞き終えると、感心したように頷いた。
「現地の憲兵局長からも報告を受けているよ。昔から観察力のある子だとは思っていたけれど、まさか殺人事件の真相まで見抜いてしまうとはね」
「まあ、お兄様ったら。わたくしは少し気になることを調べただけですわ」
ランベールは柔らかく微笑んだ。
「その小さな気づきが大切なんだよ。憲兵たちも、いずれ真相には辿り着いただろうけれど、アンジェのおかげでずいぶん早く解決できたんじゃないかな。今回はお手柄だったね」
「ありがとうございます、お兄様」
アンジェリカは嬉しそうにカップを持ち上げた。少し後ろでは、エリックがいつものように控えている。
ランベールはそちらへも目を向けた。
「エリックもご苦労だったね。今回もアンジェが随分と世話をかけたようだ」
「いえ。護衛として当然のことをしたまでです」
姿勢を正して答えるエリックの表情を見て、ランベールは小さく笑った。
「しかし、観光旅行へ出かけたはずが、まさか殺人事件に巻き込まれるとはねえ」
「ええ。わたくしも驚きましたわ。綺麗な蝶々を追いかけていただけなのですけれど」
「ああ、その話はエリックから聞いてるよ。いったいどうして、それが事件につながったんだい?」
「朝市でエリックが焼き菓子を買いに行っている間に、とても綺麗な青い蝶を見つけたんです」
アンジェリカは、そのときのことを思い出したのか、楽しそうに微笑んだ。
「もう少し近くで見たいと思って追いかけていたら、いつの間にかホテルの近くまで来てしまいまして……」
「なるほど。それで事件現場に行き着いてしまったわけか」
妹が頷くのを見届け、ランベールはエリックへ視線を向けた。彼も何とも言えない表情で頷く。
「その通りでございます」
「ははは! 相変わらずだなあ、アンジェは。十歳の頃と何も変わっていないじゃないか」
愉快そうに笑われ、アンジェリカは少し頬を膨らませた。
「まあ! お兄様までそんなことを仰るの? わたくし、もう二十歳ですわよ?」
「それなら、蝶を追いかけて護衛から離れるのは卒業しないとね」
「それは、そうですけれど……」
少しだけ視線を逸らすと、後ろでエリックが深々とため息をついた。
「本当にお願いします、お嬢様。今回は憲兵局で無事に見つかったからよかったものの、俺がどれだけ心配したと思っているんですか」
「ごめんなさい、エリック。でも、貴方なら必ず見つけてくれると思っていたのよ?」
エリックは彼女を見つめ、きっぱりと告げた。
「ですから、そういう問題ではありません」
「エリックは頼りになるもの」
何の疑いもなく微笑むアンジェリカに、エリックは返す言葉に詰まった。
ランベールは二人を眺めながら、どこか楽しそうにお茶を口へ運んだ。
「まあ、無事に帰ってきてくれて何よりだよ。もちろん、事件を解決したことも立派だったと思う」
カップを置くと、少しだけ表情を引き締めた。
「ただ、今回の事件は残念だったね」
「ええ。シモン様も、ナタリーさんも……本当に、お気の毒でしたわ」
アンジェリカも静かに頷いた。
「事情はどうあれ、人の命を奪った罪は消えない。けれど、そこに至るまでの経緯を思えば、やりきれないものがあるね」
ランベールは小さく息をつき、言葉を続けた。
「シュノワール侯爵も、ただ娘の幸せを願って縁談を申し込んだだけなのだろう。何も責められることではない。ただ、男爵家にとっては簡単に断れる申し出ではなかった。その立場の違いが、結果として悲劇につながってしまったのかもしれないね」
「そうですわね……」
アンジェリカの脳裏に、あの崖で見たナタリーの姿が浮かんだ。
緑色の宝石が輝く指輪を胸に抱き、泣き続けていた女性。誕生日に受け取るはずだった幸せを、永遠に失ってしまった人。
もし、二人がもっと早く恋人同士であることを周囲に打ち明けていたら。もし、シモンがもう少し早く本心を伝えていたら。そして、もしナタリーがあの夜、ほんの少しだけ冷静になれていたら。
どこか一つでも違っていれば、こんな結末にはならなかったのかもしれない。
けれど、どれほど考えても、失われた命は二度と戻らない。
「これからは、あのような悲しい事件が起きないとよいですね……」
「そうだね。私も治安総監として、できる限りのことをするつもりだよ」
しばらくの間、応接室には静かな時間が流れた。窓から差し込む午後の陽射しが、テーブルの上を柔らかく照らしている。
アンジェリカはお茶を一口飲み、やがて兄のために買ってきた焼き菓子を勧めた。
「そういえば、お兄様。こちらのお菓子、とても美味しいんですのよ」
「そうなのかい? ではいただいてみようかな」
ランベールは一つ手に取り、口へ運んだ。
「おや、本当だ。これは美味しいね。妻と子供たちにも食べさせてあげたいな」
「ええ、ぜひ!」
他愛のない話をしているうちに、ランベールがふと思い出したように顔を上げた。
「ああ、そうだ。アンジェ、一つ聞き忘れていたことがあった」
「何ですの?」
ランベールは、テーブルの端に置いていた書類へ手を伸ばした。
「現地の局長から届いた報告書に、少し不思議なことが書いてあってね。事件の関係者を、わざわざ崖に集めたそうじゃないか」
エリックの肩が、ぴくりと動いた。一方、アンジェリカは何でもないことのように頷く。
「ええ。エトルタには、とても景色のよい崖がありましたので」
「うん。それは知っているよ。有名な観光名所だからね。しかし、事件が起きたのはホテルだったんだろう? 崖と何か関係があったのかい?」
「いいえ。特にありませんわ」
ランベールは少し考え込み、至極もっともな疑問を口にした。
「それなら、どうして崖に行ったんだい?」
アンジェリカは小さく首を傾げた。
考えてみても、やはり理由は分からない。
真相が見えたとき、なぜかあの場所へ行かなければならないと思った。そして実際に海を背に立った瞬間、不思議なほどしっくりきたのだ。
あの感覚は、今でもはっきりと覚えている。
「なんとなく、そこへ行かなければならないと思ったんです」
「なんとなく……」
ランベールがじっと顔を見つめると、アンジェリカはにこりと微笑んだ。
「ええ。事件の真相をお話しするなら、崖が一番いい気がいたしましたので」
「なるほど」
ランベールがゆっくりと頷くと、それまで黙っていたエリックが思わず口を挟んだ。
「ランベール様、それで納得なさらないでください」
「いや、納得したわけではないんだけどね。ただ、アンジェがそこまで言うなら、何か本人にしか分からない理由があるのかもしれないと思ってね」
エリックは困り果てたように額に手を当てた。
「ご本人にも分からないそうです。何度お尋ねしても、『なんとなく』としかおっしゃらなくて……」
それを聞き、ランベールはとうとう声を上げて笑った。
「ははは! それは何とも、アンジェらしいね」
「もう、お兄様ったら」
アンジェリカは少し頬を膨らませたものの、自分でも説明できないので、それ以上反論することはできなかった。
「まあ、崖へ行った理由は分からないけれど、事件の真相が明らかになったのは確かだからね」
ランベールが笑みを浮かべたまま締めくくると、エリックは深々とため息をついた。
「ランベール様は、少々お嬢様に甘すぎると思います」
「そうかな?」
「そうです」
迷いのない返事に、ランベールは愉快そうに目を細め、再びお茶を口へ運んだ。
二人を眺めていたアンジェリカは、ふと思いついたように顔を上げた。
「でも、お兄様。今回の事件を通して、少し分かったこともありますのよ」
「ほう。何だい?」
「わたくし、意外とこういうことを考えるのが好きなのかもしれませんわ」
ランベールはカップを置き、妹へ顔を向けた。
「事件の謎を解くことかい?」
「ええ。もちろん、事件そのものは起きない方がよいのですけれど……。もしまた、不思議な出来事に遭遇したら、自分でもいろいろ調べてみたいと思いますわ」
アンジェリカは、少し照れたように微笑んだ。
「アンジェの観察力なら、また何か役に立つかもしれないね」
「そう言ってもらえると心強いですわ、お兄様」
兄妹が和やかに微笑み合う隣で、エリックだけが何とも言えない表情をしていた。
「お嬢様。できれば、危険な事件には関わらないでいただきたいのですが……」
「ええ、もちろん。危ないことをするつもりはありませんわ」
素直に頷いてから、アンジェリカは何かを思い出したように首を傾げた。
「ただ、もしまた事件の真相が分かったのなら……」
「……分かったら?」
エリックが恐る恐る聞き返す。アンジェリカは、いつものようににこりと微笑んだ。
「やっぱり、崖に行かないと駄目な気がするわ。なんとなく」
エリックは天を仰いだ。
「勘弁してください……」
―Fin―
読んでいただきありがとうございました。
崖ありきで話を作ったら、とんでもない悲劇になってしまいました。
ごめんね、シモンとナタリー。




