表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神託の空白地図  作者: 麒麟児
第一章 白い灯りは嘘
8/25

第八話 正規ルートは二度迷う

人は嘘をつく時、言葉より先に足を急がせる。


森の切れ間を抜けた先で、道はまた二つに割れていた。


右は尾根沿いへ緩く登る細道。左は樹林の縁を回り込むように低地へ落ちている。どちらも獣道程度の幅しかないが、踏み跡の濃さで言えば右の方がまだ“人が通っていそう”に見えた。

そして、そこに立っている古びた石の道標も、矢印は右を指している。


ヴァルセイン →


刻まれた文字は浅く、風化も進んでいる。

けれど、それが逆に厄介だった。古い道標は、それだけで“本物らしく”見える。


ガイアスは道標の前で立ち止まり、振り返った。


「さて」


その一言だけで、隊の足が揃って止まる。


「ここから先、正規ルートは二度迷う」

ガイアスは石の矢印を親指で指した。

「で、これは一回目だ」


補助神官が露骨に嫌そうな顔をする。


「道標があるんですよ。公式の刻印も残っている。これを無視するんですか」


「残ってるから怪しいんだろ」

ガイアスは平然としている。

「こんな場所で、風雨に晒されて、十年二十年経って、それでも綺麗に“行き先だけ”読める石なんてな」


封印術師が黙ったまま石標へ近づく。

指先で刻みをなぞり、爪で苔を少し削り落とした。

すると矢印の下から、別の刻み痕が浅く浮かぶ。


本来の向きは右ではない。

矢印は一度削られて、上から掘り直されている。


誰もすぐには声を出さなかった。


風もないのに、頭上の枝葉がかさりと鳴る。

道標ひとつで、いま自分たちがどれほど脆い地図の上を歩いているかが露わになる。


「誰が直した」


護衛の一人が低く言う。


「さあな」

ガイアスは肩をすくめる。

「神殿か、地図師か、境界守か、それ以外か。道をいじる理由があるやつはだいたい全部候補だ」


「候補が多すぎる」


セヴランが短く切った。


彼は石標の前へ立ち、矢印の削り痕と、その下の地面の擦れを見比べる。

ついで右道と左道、それぞれの入口に視線を走らせた。


「意図的な改竄だな」


「でしょうね」

ガイアスは素っ気なく返す。

「で、ここで見分ける」


「何を」


補助神官の声は少し上ずっていた。

ガイアスはそこで初めて、その男の方をまともに見た。


「誰が先に安心したがるかを」


空気が一段、乾く。


補助神官は顔を強張らせた。

まだ若い。祈詞を覚えたての神学校上がりに見える顔で、こういう現場には本来向いていない。だが向いていないことと、無関係であることは別だ。


「意味が分かりません」


「分からなくていい」

ガイアスは笑いもせず言う。

「こういう分岐で“道標があるなら右だろう”って真っ先に言うやつは二種類しかいない。怖がってるやつと、早く着かせたくないやつだ」


護衛の片方が鼻で息を鳴らした。


「そんな言いがかりで人を見るのか」


「言いがかりで死なないなら、安いもんだ」


エイルはそのやり取りを黙って聞きながら、左道の縁を見ていた。


右は“選ばれやすい”顔をしている。

乾いていて、道標があり、尾根へ上がるぶん視界も広そうだ。人間が安心する要素が揃いすぎている。


左は違う。低く、暗く、見通しが悪い。

だが余白視の奥では、左の方にだけ古い踏みしめの名残がある。足跡や車輪痕ではない。もっと前、村が村として扱われる前からそこにあった“続き”の気配だ。


エイルは石標へ近づいた。

セヴランが止めはしなかったが、視線だけは外さない。


刻みの下端へ指先を置く。

石は冷たい。けれどその冷たさの奥に、ごく薄い熱のような残像があった。削り直された矢印の下から、別の向きが浮く。


左ではない。

それより少し外れた、今は草に埋もれて道に見えない場所。


「……道が三本あった」


思わず口にすると、全員の視線がこちらへ集まった。


「何だと」


セヴランの声が低く落ちる。


「元の刻みは右でも左でもないです。もっと外側。今は塞がれてる」

エイルは石から手を離し、草むらの一角を指した。

「たぶん、昔の道」


ガイアスが目を細める。


「やっぱり見えてるな」

彼はゆっくりその草むらへ歩き、靴先で草を払った。

下から現れたのは石だった。自然石ではない。人の手で平たく削られた、古い敷石の角。


誰かが小さく息を呑む。


道は消えていたのではない。

埋められていただけだ。


「三本目が本筋か」

セヴランが言う。


「本筋だったかもしれない」

ガイアスは訂正する。

「今も通れるかは別だ。埋めたやつがいるなら、通らせたくない理由がある」


「そして右は偽装か」


「たぶんな」


たぶん、でここまで判断するしかないのが、今いる場所の厄介さだった。


補助神官が唇を湿らせる。


「……なら、左でも右でもなく、埋もれた道を掘り返すべきでは?」


その提案自体は自然だった。

だがガイアスは一瞬だけ、面倒そうに目を細めた。


「掘ってどうする。掘った瞬間に向こうからも見えるぞ」


「向こう?」


「道の外側」


またその言い方だ。

だが今は誰も笑わない。


セヴランが短く指示を出す。


「右は切る。左を暫定採用。三本目の痕跡は記録しておく。現地から戻った後、必要なら再調査だ」


妥当な判断だった。

けれど、その判断が下った瞬間、補助神官の肩がほんのわずかに強張ったのを、エイルは見た。


ほんの一瞬。

だが、驚きではなく“計算違い”の硬さに見えた。


ガイアスがそれも見ていたのかどうかは分からない。

ただ、何も言わず先頭へ戻り、左道へ入っていく。

隊もそれに続いた。


左道は最初の数十歩こそ歩きづらかったが、すぐに地面の感触が変わった。

表面は柔らかい土なのに、その下に直線的な硬さが走っている。土に埋もれた旧道の上を歩いているのだと、足裏で分かる。

踏み出すたび、見えない石の列が確かに続いている。


「歩きやすい……」


護衛の一人がぽつりと呟いた。


ガイアスが前方から返す。


「だから言ったろ。見た目で選ぶと二回迷う」


少しだけ、隊の空気が戻る。

少なくとも今は、左を選んだのが間違いではなかったと感じられる程度には。


だが、その安心は長く続かなかった。


森がふっと薄くなり、小さな空地に出たときだった。

そこには朽ちた小屋が一軒、半ば倒れた状態で残っていた。巡礼路の荷継ぎ小屋か、見張り番の詰所か、今となっては分からない。屋根は落ち、壁板も半分以上剥がれている。

だが不自然なのは、その前に残る足跡だった。


新しい。


雨もないのに、やけにはっきりと土へ残っている。

しかも一人や二人ではない。複数が行き来した痕だ。


セヴランが手を上げ、隊を止める。

護衛が前へ出て、封印術師が後方を確認する。


「野営の跡は?」


「ない」

護衛が答える。

「火を使った形跡もない」


ガイアスは小屋へ近づき、足跡をしゃがんで見る。

指先で土をつまみ、匂いまで確かめた。


「古くない。半日……いや、今朝だな」


「誰だ」


「それが分かるなら、案内人なんかやってねえよ」


いつもの返しだが、今回は少しだけ鋭かった。


エイルは小屋の壁板に目を留めた。

剥がれた板の内側、乾いた木目の上に何かが引っ掻かれている。


近づいて指を置く。


文字ではない。

いや、文字になりかけた痕だ。急いで書き、途中でやめたような、短い線と角の連なり。

余白視の奥でそれが少しだけ整う。


もどれ


一瞬そう見えた。

だが次の瞬間、線は崩れ、別の読み方を示す。


とまれ


どちらだ。

戻れか。止まれか。

書いた人間の手自体が揺れていたみたいに、意味が定まらない。


「何かあるか」


セヴランが背後へ来る。


「文字かもしれません。でも……読めない」


「呪か、警告か」


「たぶん、そのどっちもになりきれなかったものです」


自分で言っていて曖昧だと思う。

けれど本当にそうとしか言えなかった。


ガイアスが小屋の裏手を見て戻ってくる。


「一人、ここで立ち止まってる」

彼は足跡の流れを指した。

「残りは通過。だが一人だけ、こっち向いて長くいた」


「小屋を見張っていた?」


「いや」

ガイアスは首を振る。

「道を、だな」


道を見張る。

つまり、自分たちを待っていたか、自分たちのような何かを待っていた。


そのとき、補助神官が小屋の脇で小さく声を上げた。

全員の視線が集まる。


彼の足元には、古びた奉納札が落ちていた。薄い板札で、半分は腐って文字も消えている。

だが中央に残った一文だけは妙にはっきりしていた。


白門に祈るな


空気が一斉に張り詰める。


補助神官の顔は青ざめていた。

祈りを職とする人間にとって、“祈るな”という禁句はそれだけで強い。

しかも白門。これまで断片的にしか出ていなかった言葉が、ここで形になって現れた。


セヴランが札を受け取り、表裏を確認する。

板は古い。だが表面だけが妙に新しく見える。最近、誰かが字をなぞった可能性が高かった。


「誰が置いた」


誰にともなく落ちた問いへ、答えはない。


ガイアスが低く言う。


「ここ、使われてるな」


「何に」


「忠告の受け渡しに」

彼は奉納札を顎で示した。

「見るやつだけ見ればいい形で残してある。立て札にもならない、ただの落とし物に見せかけてな」


「境界守か」


セヴランの問いに、ガイアスは曖昧に肩を動かす。


「かもしれないし、違うかもしれない。だが少なくとも、親切なやつばかりじゃない」


エイルは奉納札を見つめた。

白門に祈るな。


祈るな、ということは。

祈ってしまう何かがあるということだ。


白い門が“見える”だけではなく、人を引き寄せるのなら。

ミナがもしそこへ触れたのなら。

接続反応あり、という文言の意味も、少しだけ違うものとして立ち上がってくる。


「先を急ぐ」


セヴランが言った。

短いが、今度は迷いがない。


「ここで立ち止まる方が危険だ。足跡の主が戻る前に抜ける」


隊は再び動き出す。

だが小屋を離れる直前、ガイアスがエイルの横を通りながらごく小さく言った。


「見分けろって言ったろ」


「何を」


「今ので、誰が札を見る前から白門って言葉に反応したか」


そう言われて、エイルは一瞬だけ足を止めそうになった。


補助神官は声を上げた。

それは自然な反応だった。

封印術師は眉をひそめた。セヴランは観察した。

護衛たちは意味が分からず警戒した。


では、“反応した”のは誰だ。


思い返す。

奉納札が見つかった瞬間、その前に。


補助神官ではない。

彼は本当に見てから驚いた。

護衛でもない。


一人だけいた。

小屋の壁の方を、札が見つかる前から見ていた人間。


封印術師。


エイルは振り返る。

中年の術師は何食わぬ顔で荷を担ぎ直し、隊の中央へ戻っている。

だが、ほんの少しだけ歩幅が速い。


「……気づいたか」


ガイアスは前を向いたまま言う。


「確証はないです」


「今はそれでいい。確証なんて、たいてい遅れてくる」


森の先、空の色が少しだけ鈍く変わる。

まだ昼なのに、夕方みたいな灰色が混じり始めていた。


左道は確かに“本筋”を踏んでいる。

けれど、それは安全を意味しない。

むしろ、本当にヴァルセインへ近づき始めたからこそ、隠していたものも、待っていたものも姿を見せ始めているのだ。


隊の中に、着きたい者と着かせたくない者がいるかもしれない。

道の外側にも見張りがいる。

白門へ祈るなという札が置かれている。

そして封印術師が、見つかる前からその札の場所を知っていたかもしれない。


情報は増えている。

だが増えた分だけ、道はさらに細くなっていく。


前方でガイアスが右手を上げた。

次の分岐だ。


今度は道そのものではなく、

**“地図にない分岐”**が現れようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ