第六話 焼けた村の名簿
遠ざかる景色ほど、記憶の中では近づいてくる。
大神殿の尖塔が背後の霞へ溶けていっても、エイルの胸の奥ではむしろヴァルセインの輪郭が濃くなっていた。焼けた家並み、黒く倒れた柵、火の粉の向こうで揺れる人影。
だが不思議なことに、思い出そうとすればするほど、村の形は曖昧になる。
井戸はどこにあった。
村外れの祠へ続く道は、最初からあんなに狭かったか。
自分の家の裏手に、小さな石畳なんてあっただろうか。
記憶の中の故郷が、少しずつ別の地図へ滑っていく。
それが気味悪かった。
街道は朝のうちはまだまともだった。大神殿の巡礼路は石畳がよく整えられ、里程標も道標も一定の間隔で立っている。左右には春浅い草地が広がり、ところどころに巡礼者のための小祠がある。
だが半刻も進むころには、何かが少しずつ狂い始めた。
里程標の数字が、前のものと合わない。
二里進んだはずなのに、次に現れた標は一里半を示していた。
護衛の一人が首をひねり、補助神官が帳面を見直す。だが言葉にすると縁起が悪いのか、誰も“おかしい”とは口にしない。
「だから言ったろ」
先頭を行くガイアスだけが、振り返りもせずに言った。
灰外套の背中は相変わらず頼りなく見える。だが馬の扱いは手慣れていたし、分岐へさしかかるたびに迷いなく進路を変える。
信用はできないが、道は知っている。
その一点だけで十分厄介だった。
「まだ一回目だ」
ガイアスは続ける。
「二回目で本当に迷う」
護衛の一人が露骨に顔をしかめる。
セヴランは何も言わない。ただ進路変更のたびに周囲の地形と里程標の位置を確認し、黙って頭の中で修正しているようだった。
エイルは荷馬車の揺れに合わせて、膝の上の帳簿を押さえた。
持ち出したのは写しだけだが、それでも紙の重みは奇妙に現実的だった。地図が揺らぎ、道標が狂っても、こういう紙だけは自分の手の中で重さを変えない。
だからこそ、紙に嘘を書かれると厄介なのだ。
昼前、隊は街道脇の小さな中継祠で最初の小休止を取った。
屋根付きの井戸と石の祭壇があるだけの、巡礼者向けの簡素な休息所だ。かつては奉納板がびっしり掛けられていたらしいが、今は半分以上が風化して字を失っている。
石の長椅子に荷を下ろすと、護衛たちは先に水筒を確認し、補助神官は祈りの文句を小声で唱えた。封印術師は何も言わず、方位針だけを見ている。
針は北を指しているのに、彼の顔は面倒そうだった。
「ここで記録を見るのか」
声はすぐ横から落ちてきた。
顔を上げると、セヴランが井戸の石縁に片手を置いて立っている。
日差しの下でも、この男の顔からは余分な温度が削られているように見えた。
エイルは帳簿を膝へ開いたまま答える。
「止まれるうちに。着いてからだと、現地のものに引っ張られそうなので」
「賢明だな」
褒めたようには聞こえなかったが、否定でもない。
セヴランはそれ以上口を挟まず、井戸の周囲を一巡して異常がないか確認し始める。
エイルは写しの束から、ヴァルセイン関連の神罰記録を抜き出した。
昨夜まで禁書庫で見ていた時より、外の光の下では紙が妙に薄く見える。まるで記録そのものが、地下の闇に置かれていた時より脆くなったみたいだった。
最初に開くのは、神罰執行後の焼死者名簿。
形式は整っている。
村長、村長妻、長男、次女、農具番、巡回番、老女、旅籠の主人。
名前があり、年齢があり、死亡確認欄に丸印がある。誰が何人死んだか、上へ報告するために必要なだけの情報が並ぶ。
だが、数が合わない。
エイルは戸籍控えの写しを隣へ置き、指で順に数えていく。
戸籍では四十九名。
焼死者名簿は四十六名。
行方不明者として別掲されているのが二名。
合わせて四十八。
一人足りない。
もちろん、こういう帳簿では記載漏れ自体は珍しくない。
だが、ヴァルセインのように村ごと神罰認定された事案で、一名だけ綺麗に消えるのは不自然すぎた。
エイルは頁をめくり、行方不明者欄を見た。
老巡礼者、身元不明。
村外れの木樵、遺体未確認。
ミナはいない。
最初からそこに期待していたわけではない。
それでも実際に名がないのを見ると、胸の奥へ冷たいものが沈む。
死者としても残らない。行方不明者としても扱われない。
ただ一人ぶんの空白だけが、数の上に残っている。
エイルは指先を紙へ置いた。
昼の光の下では余白視は弱い。石や古紙に比べて、清書された写しは残像が浅い。
それでも、何度も同じ行をなぞるうち、名前の並びの奥に薄い揺れが生まれた。
死者名簿の末尾。
本来ならそこへ一行追加されるはずだった位置。
何かが書かれかけて、削られている。
――ミ
――ヴァ
そこまで見えたところで像が崩れる。
だが十分だった。
「残ってたか」
独り言のように呟くと、背後で軽い笑い声がした。
振り返ると、いつの間にかガイアスが長椅子の背へ腰掛けている。
林檎はもう食べ終えていて、代わりにどこから拾ってきたのか、細い枯れ枝を指先で弄んでいた。
「司書ってのは道だけじゃなく死人の数まで数えるんだな」
「あなたみたいな案内人は、数えないんですか」
「消えた数は数えるよ」
ガイアスは肩をすくめる。
「死んだ数より、消えた数の方が後で厄介だからな」
その言い方が妙に引っかかった。
「ヴァルセインのことを知ってるんですか」
「“知ってる”の定義による」
彼は枯れ枝で地面へ円を描いた。
「俺が知ってるのは、あの辺りに近づいた地図師が二人と、封印術師が一人と、荷運びが三人、二年のうちに消えてるってことくらいだ」
数え方が生々しい。
しかも村のことではなく、“近づいた人間”の数だ。
「消えた?」
「記録から消えたのもいるし、普通に戻ってこなかったのもいる」
「普通に、って何ですか」
「普通は、死んだなら死体が出るだろ」
軽い口調のまま、妙に冷たいことを言う。
ガイアスはそこで枝を折り、地面へ放った。
「で、何人足りない」
エイルは一瞬迷った。
だがこの男は、隠された数字の匂いを嗅ぎ慣れている顔だった。
「一人」
「子どもか」
エイルは顔を上げた。
ガイアスは笑っていない。
「どうして」
「村ごと焼くような時は、大人はだいたい揃えて死者にする。後で面倒だからな。足りなくなるのは、鍵になるやつか、見つからないやつか、その両方だ」
鍵になるやつ。
胸の奥で、イルザの言葉と昨夜の手形がつながる。
願いを真実と混ぜるな。
それでも、ミナの顔だけがどうしても浮かぶ。
セヴランが戻ってきたのは、その沈黙の最中だった。
彼はガイアスを一瞥したあと、エイルの開いた帳簿へ視線を落とす。
「何か出たか」
「人数が一人合いません」
セヴランはすぐに横へ立ち、戸籍控えと死者名簿を見比べた。
数字の把握が速い。指で追うまでもないらしい。
「誰だ」
「名簿の残り方から見ると、たぶん村人です。外来者じゃない。……子どもの可能性が高い」
エイルはそこまで言って止まる。
ミナの名は出さない。まだ出すべきではない気がした。
だがセヴランは、ごく短く息を止めた。
気づいたのだろう。ヴァルセイン姓を持つ生き残りが目の前にいて、一人足りない子どもがいる。その連想は難しくない。
「続きを見ろ」
短い命令だった。
エイルは次の書面を開く。
神罰執行後の処理区分一覧。死体回収、埋却、焼却、封印、接収。
村ごと処理された案件では、最終的に何をどこまで持ち帰ったかを示す文書だ。
そこにも、やはり綺麗すぎる整い方がある。
しかしその中段、収容物一覧の欄に一箇所だけ不自然な余白があった。周囲はぎっしり埋まっているのに、その一行だけ広すぎる。
指先を置く。
像は浅い。だが今度は文字ではなく、区切り線の下に隠された別欄が浮いた。
――収容対象外
――保
――接続
ノイズが強い。
呼吸を整え、もう一度だけなぞる。
――保留
――接続反応あり
目の奥がずきりと痛む。
昨夜、戸籍控えの下で見たものと同じ文言だ。
「……何だ」
セヴランの声が低く落ちる。
エイルは言葉を選べなかった。
「保留、です」
喉が少し引き攣る。
「接続反応あり、と」
風が吹いたわけでもないのに、祠の奉納板が一枚だけ小さく鳴った。
その薄い音が、場の空気を一段冷やす。
ガイアスが笑うでもなく舌打ちした。
「やっぱり鍵の方か」
「何を知っている」
セヴランの視線が鋭く向く。
だがガイアスは肩を竦めるばかりだ。
「知ってるんじゃなくて、そういう消され方には型があるってだけだ。神殿でも地図師でも、拾っちゃいけないやつを拾った時は“死体”にしない。持ち帰るか、残すか、隠すか、そのどれかだ」
「接続反応とは何だ」
「俺に聞くなよ。そういう綺麗な言葉に直してきたのはそっちだろ」
その返しに、セヴランの眉間がごくわずかに寄る。
感情を表に出さない男だが、今のは明確に不快だった。
エイルは帳簿へ視線を戻した。
保留 / 接続反応あり。
その文言の下にあるはずの対象名が、どうしても読めない。削り方が深い。
だが“無かった”のではない。確かに書かれ、そして消された。
胸の中で一つの結論が形になりかける。
ミナは死者として処理されなかった。
行方不明者でもない。
何かに“反応した”ため、別扱いになった。
そこまで辿り着いた瞬間、紙面の余白から別の線が立ち上がる。
文字ではなく、幼い指で引っ掻いたような細いカーブ。
ミナが字を覚え始めた頃、いつも名前の“ナ”をうまく曲げられず、変な線を残していたことを、エイルは突然思い出した。
息が止まる。
「……エイル」
セヴランの声が少し近い。
無意識に紙へ身を乗り出していたらしい。
エイルは我に返り、手を離した。
像は一瞬で崩れる。
残るのは、写しの上に整然と並ぶ綺麗な文字だけだ。
「大丈夫か」
「はい」
嘘だった。
胸の奥は大丈夫ではない。
だがここで崩れるわけにはいかない。
セヴランは数秒だけエイルを見ていたが、深追いはしなかった。
代わりに帳簿を一枚取り上げ、自分の外套の内ポケットへ差し込む。
「それは」
「私が持つ」
「必要です」
「必要だからだ」
有無を言わせない調子だった。
だが取り上げたのは原本ではなく写しだ。すべてを遮断するつもりではないらしい。
ガイアスが井戸の縁から飛び降りる。
「そろそろ出た方がいい。ここ、正規街道の節目だから、人の目と道の目が両方集まる」
「道の目、とは何だ」
封印術師が初めて口を開いた。
中年の男で、道中ずっと無口だったが、今だけはさすがに気になったらしい。
ガイアスは空になった林檎の芯を指で弾き、道端へ転がした。
「見てりゃ分かる」
その言い方と同時だった。
街道脇に立つ里程標が、かすかに音を立てた。
石が鳴るはずはない。
だが実際に、乾いた擦過音がしたのだ。全員の視線がそちらへ向く。
里程標は何の変哲もない石柱に見えた。だが次の瞬間、その影だけがわずかにずれた。
陽の角度では説明がつかない程度に。
石柱の影が、石本体より先に半歩ぶん横へ滑ったのだ。
護衛の一人が息を呑む。
補助神官が短く祈詞を漏らす。
封印術師は顔をしかめ、すぐに方位針を確認するが、針は平然と北を指していた。
「一回目」
ガイアスが言う。
声には勝ち誇りではなく、確認の冷たさがある。
「次で本当に迷う。行くぞ」
休止は終わりだった。
隊が慌ただしく荷をまとめ直す中、エイルは最後にもう一度だけ死者名簿の写しを見下ろした。
整った行。整った数字。整った死。
その中に一人ぶんだけ、どうしても埋まらない余白がある。
紙の上では、誰か一人が綺麗に消されていた。
だが余白視の奥では、その消えた場所の方が、他のどの名前よりも強く残っている。
ミナ。
声には出さない。
出せばたぶん、これまでなんとか保っていた距離が壊れる。
帳簿を閉じ、荷へ戻す。
そのとき、内ポケットの奥の封書が指先に触れた。イルザの控え。
現地に着くまで開けるな、と言われたもの。
まだ開けない。
だが、そこにもきっと同じ余白が残っている。
消された村、接続反応、保留扱いの誰か。
禁書庫の地下に閉じ込められていた断片は、今、自分と一緒に街道を進んでいる。
荷馬車が再び動き出す。
車輪が石畳を離れ、少し柔らかい土を踏む。
里程標の影は、もう元の位置へ戻っていた。だが誰も近づいて確かめようとはしない。
正規街道はまっすぐ前へ延びている。
それでも、この道が本当にヴァルセインへ繋がっているのか、エイルにはもう分からなかった。
分かっているのは一つだけだ。
故郷は、ただ焼かれて終わったのではない。
誰か一人を“保留”したまま、十年間、道の下で閉じきらずに残っていた。
その誰かが妹であるなら。
その余白に今さら辿り着こうとしているのが自分なら。
ヴァルセインへ向かうこの旅は、帰郷ではなく、記録から外れた一人分の名を拾いに行くためのものになる。
前方で、ガイアスが馬の手綱を引きながら左手を上げた。
道は次の分岐へ入るらしい。
「次から正規ルートを外す」
彼は振り返って言う。
「ここから先は、街道の方が嘘つくからな」
街道が嘘をつく。
禁書庫でなら比喩として聞き流せたその言葉が、外では妙に現実味を持つ。
セヴランは短く指示を飛ばし、隊列を組み替えた。護衛が前後へ散り、封印術師は荷馬車の中央へ寄る。
その間にエイルは、胸元の紙へそっと一行だけ書き足した。
保留 / 接続反応あり
その下に、少し迷った末にもう一つ。
死者ではない
書いた瞬間、それが希望なのか、もっと悪い可能性なのか、自分でも分からなくなった。




