表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神託の空白地図  作者: 麒麟児
第一章 白い灯りは嘘
6/25

第六話 焼けた村の名簿

遠ざかる景色ほど、記憶の中では近づいてくる。


大神殿の尖塔が背後の霞へ溶けていっても、エイルの胸の奥ではむしろヴァルセインの輪郭が濃くなっていた。焼けた家並み、黒く倒れた柵、火の粉の向こうで揺れる人影。

だが不思議なことに、思い出そうとすればするほど、村の形は曖昧になる。


井戸はどこにあった。

村外れの祠へ続く道は、最初からあんなに狭かったか。

自分の家の裏手に、小さな石畳なんてあっただろうか。


記憶の中の故郷が、少しずつ別の地図へ滑っていく。

それが気味悪かった。


街道は朝のうちはまだまともだった。大神殿の巡礼路は石畳がよく整えられ、里程標も道標も一定の間隔で立っている。左右には春浅い草地が広がり、ところどころに巡礼者のための小祠がある。

だが半刻も進むころには、何かが少しずつ狂い始めた。


里程標の数字が、前のものと合わない。


二里進んだはずなのに、次に現れた標は一里半を示していた。

護衛の一人が首をひねり、補助神官が帳面を見直す。だが言葉にすると縁起が悪いのか、誰も“おかしい”とは口にしない。


「だから言ったろ」


先頭を行くガイアスだけが、振り返りもせずに言った。


灰外套の背中は相変わらず頼りなく見える。だが馬の扱いは手慣れていたし、分岐へさしかかるたびに迷いなく進路を変える。

信用はできないが、道は知っている。

その一点だけで十分厄介だった。


「まだ一回目だ」

ガイアスは続ける。

「二回目で本当に迷う」


護衛の一人が露骨に顔をしかめる。

セヴランは何も言わない。ただ進路変更のたびに周囲の地形と里程標の位置を確認し、黙って頭の中で修正しているようだった。


エイルは荷馬車の揺れに合わせて、膝の上の帳簿を押さえた。

持ち出したのは写しだけだが、それでも紙の重みは奇妙に現実的だった。地図が揺らぎ、道標が狂っても、こういう紙だけは自分の手の中で重さを変えない。

だからこそ、紙に嘘を書かれると厄介なのだ。


昼前、隊は街道脇の小さな中継祠で最初の小休止を取った。


屋根付きの井戸と石の祭壇があるだけの、巡礼者向けの簡素な休息所だ。かつては奉納板がびっしり掛けられていたらしいが、今は半分以上が風化して字を失っている。

石の長椅子に荷を下ろすと、護衛たちは先に水筒を確認し、補助神官は祈りの文句を小声で唱えた。封印術師は何も言わず、方位針だけを見ている。

針は北を指しているのに、彼の顔は面倒そうだった。


「ここで記録を見るのか」


声はすぐ横から落ちてきた。


顔を上げると、セヴランが井戸の石縁に片手を置いて立っている。

日差しの下でも、この男の顔からは余分な温度が削られているように見えた。


エイルは帳簿を膝へ開いたまま答える。


「止まれるうちに。着いてからだと、現地のものに引っ張られそうなので」


「賢明だな」


褒めたようには聞こえなかったが、否定でもない。

セヴランはそれ以上口を挟まず、井戸の周囲を一巡して異常がないか確認し始める。


エイルは写しの束から、ヴァルセイン関連の神罰記録を抜き出した。

昨夜まで禁書庫で見ていた時より、外の光の下では紙が妙に薄く見える。まるで記録そのものが、地下の闇に置かれていた時より脆くなったみたいだった。


最初に開くのは、神罰執行後の焼死者名簿。


形式は整っている。

村長、村長妻、長男、次女、農具番、巡回番、老女、旅籠の主人。

名前があり、年齢があり、死亡確認欄に丸印がある。誰が何人死んだか、上へ報告するために必要なだけの情報が並ぶ。


だが、数が合わない。


エイルは戸籍控えの写しを隣へ置き、指で順に数えていく。

戸籍では四十九名。

焼死者名簿は四十六名。

行方不明者として別掲されているのが二名。

合わせて四十八。


一人足りない。


もちろん、こういう帳簿では記載漏れ自体は珍しくない。

だが、ヴァルセインのように村ごと神罰認定された事案で、一名だけ綺麗に消えるのは不自然すぎた。


エイルは頁をめくり、行方不明者欄を見た。


老巡礼者、身元不明。

村外れの木樵、遺体未確認。


ミナはいない。


最初からそこに期待していたわけではない。

それでも実際に名がないのを見ると、胸の奥へ冷たいものが沈む。

死者としても残らない。行方不明者としても扱われない。

ただ一人ぶんの空白だけが、数の上に残っている。


エイルは指先を紙へ置いた。


昼の光の下では余白視は弱い。石や古紙に比べて、清書された写しは残像が浅い。

それでも、何度も同じ行をなぞるうち、名前の並びの奥に薄い揺れが生まれた。


死者名簿の末尾。

本来ならそこへ一行追加されるはずだった位置。

何かが書かれかけて、削られている。


――ミ

――ヴァ


そこまで見えたところで像が崩れる。

だが十分だった。


「残ってたか」


独り言のように呟くと、背後で軽い笑い声がした。


振り返ると、いつの間にかガイアスが長椅子の背へ腰掛けている。

林檎はもう食べ終えていて、代わりにどこから拾ってきたのか、細い枯れ枝を指先で弄んでいた。


「司書ってのは道だけじゃなく死人の数まで数えるんだな」


「あなたみたいな案内人は、数えないんですか」


「消えた数は数えるよ」

ガイアスは肩をすくめる。

「死んだ数より、消えた数の方が後で厄介だからな」


その言い方が妙に引っかかった。


「ヴァルセインのことを知ってるんですか」


「“知ってる”の定義による」

彼は枯れ枝で地面へ円を描いた。

「俺が知ってるのは、あの辺りに近づいた地図師が二人と、封印術師が一人と、荷運びが三人、二年のうちに消えてるってことくらいだ」


数え方が生々しい。

しかも村のことではなく、“近づいた人間”の数だ。


「消えた?」


「記録から消えたのもいるし、普通に戻ってこなかったのもいる」


「普通に、って何ですか」


「普通は、死んだなら死体が出るだろ」


軽い口調のまま、妙に冷たいことを言う。

ガイアスはそこで枝を折り、地面へ放った。


「で、何人足りない」


エイルは一瞬迷った。

だがこの男は、隠された数字の匂いを嗅ぎ慣れている顔だった。


「一人」


「子どもか」


エイルは顔を上げた。

ガイアスは笑っていない。


「どうして」


「村ごと焼くような時は、大人はだいたい揃えて死者にする。後で面倒だからな。足りなくなるのは、鍵になるやつか、見つからないやつか、その両方だ」


鍵になるやつ。


胸の奥で、イルザの言葉と昨夜の手形がつながる。

願いを真実と混ぜるな。

それでも、ミナの顔だけがどうしても浮かぶ。


セヴランが戻ってきたのは、その沈黙の最中だった。

彼はガイアスを一瞥したあと、エイルの開いた帳簿へ視線を落とす。


「何か出たか」


「人数が一人合いません」


セヴランはすぐに横へ立ち、戸籍控えと死者名簿を見比べた。

数字の把握が速い。指で追うまでもないらしい。


「誰だ」


「名簿の残り方から見ると、たぶん村人です。外来者じゃない。……子どもの可能性が高い」


エイルはそこまで言って止まる。

ミナの名は出さない。まだ出すべきではない気がした。


だがセヴランは、ごく短く息を止めた。

気づいたのだろう。ヴァルセイン姓を持つ生き残りが目の前にいて、一人足りない子どもがいる。その連想は難しくない。


「続きを見ろ」


短い命令だった。


エイルは次の書面を開く。

神罰執行後の処理区分一覧。死体回収、埋却、焼却、封印、接収。

村ごと処理された案件では、最終的に何をどこまで持ち帰ったかを示す文書だ。


そこにも、やはり綺麗すぎる整い方がある。

しかしその中段、収容物一覧の欄に一箇所だけ不自然な余白があった。周囲はぎっしり埋まっているのに、その一行だけ広すぎる。


指先を置く。


像は浅い。だが今度は文字ではなく、区切り線の下に隠された別欄が浮いた。


――収容対象外

――保

――接続


ノイズが強い。

呼吸を整え、もう一度だけなぞる。


――保留

――接続反応あり


目の奥がずきりと痛む。

昨夜、戸籍控えの下で見たものと同じ文言だ。


「……何だ」


セヴランの声が低く落ちる。


エイルは言葉を選べなかった。


「保留、です」

喉が少し引き攣る。

「接続反応あり、と」


風が吹いたわけでもないのに、祠の奉納板が一枚だけ小さく鳴った。

その薄い音が、場の空気を一段冷やす。


ガイアスが笑うでもなく舌打ちした。


「やっぱり鍵の方か」


「何を知っている」


セヴランの視線が鋭く向く。

だがガイアスは肩を竦めるばかりだ。


「知ってるんじゃなくて、そういう消され方には型があるってだけだ。神殿でも地図師でも、拾っちゃいけないやつを拾った時は“死体”にしない。持ち帰るか、残すか、隠すか、そのどれかだ」


「接続反応とは何だ」


「俺に聞くなよ。そういう綺麗な言葉に直してきたのはそっちだろ」


その返しに、セヴランの眉間がごくわずかに寄る。

感情を表に出さない男だが、今のは明確に不快だった。


エイルは帳簿へ視線を戻した。

保留 / 接続反応あり。

その文言の下にあるはずの対象名が、どうしても読めない。削り方が深い。

だが“無かった”のではない。確かに書かれ、そして消された。


胸の中で一つの結論が形になりかける。


ミナは死者として処理されなかった。

行方不明者でもない。

何かに“反応した”ため、別扱いになった。


そこまで辿り着いた瞬間、紙面の余白から別の線が立ち上がる。

文字ではなく、幼い指で引っ掻いたような細いカーブ。

ミナが字を覚え始めた頃、いつも名前の“ナ”をうまく曲げられず、変な線を残していたことを、エイルは突然思い出した。


息が止まる。


「……エイル」


セヴランの声が少し近い。

無意識に紙へ身を乗り出していたらしい。


エイルは我に返り、手を離した。

像は一瞬で崩れる。

残るのは、写しの上に整然と並ぶ綺麗な文字だけだ。


「大丈夫か」


「はい」


嘘だった。

胸の奥は大丈夫ではない。

だがここで崩れるわけにはいかない。


セヴランは数秒だけエイルを見ていたが、深追いはしなかった。

代わりに帳簿を一枚取り上げ、自分の外套の内ポケットへ差し込む。


「それは」


「私が持つ」


「必要です」


「必要だからだ」


有無を言わせない調子だった。

だが取り上げたのは原本ではなく写しだ。すべてを遮断するつもりではないらしい。


ガイアスが井戸の縁から飛び降りる。


「そろそろ出た方がいい。ここ、正規街道の節目だから、人の目と道の目が両方集まる」


「道の目、とは何だ」


封印術師が初めて口を開いた。

中年の男で、道中ずっと無口だったが、今だけはさすがに気になったらしい。


ガイアスは空になった林檎の芯を指で弾き、道端へ転がした。


「見てりゃ分かる」


その言い方と同時だった。


街道脇に立つ里程標が、かすかに音を立てた。


石が鳴るはずはない。

だが実際に、乾いた擦過音がしたのだ。全員の視線がそちらへ向く。

里程標は何の変哲もない石柱に見えた。だが次の瞬間、その影だけがわずかにずれた。


陽の角度では説明がつかない程度に。

石柱の影が、石本体より先に半歩ぶん横へ滑ったのだ。


護衛の一人が息を呑む。

補助神官が短く祈詞を漏らす。

封印術師は顔をしかめ、すぐに方位針を確認するが、針は平然と北を指していた。


「一回目」


ガイアスが言う。

声には勝ち誇りではなく、確認の冷たさがある。


「次で本当に迷う。行くぞ」


休止は終わりだった。


隊が慌ただしく荷をまとめ直す中、エイルは最後にもう一度だけ死者名簿の写しを見下ろした。

整った行。整った数字。整った死。

その中に一人ぶんだけ、どうしても埋まらない余白がある。


紙の上では、誰か一人が綺麗に消されていた。

だが余白視の奥では、その消えた場所の方が、他のどの名前よりも強く残っている。


ミナ。


声には出さない。

出せばたぶん、これまでなんとか保っていた距離が壊れる。


帳簿を閉じ、荷へ戻す。

そのとき、内ポケットの奥の封書が指先に触れた。イルザの控え。

現地に着くまで開けるな、と言われたもの。


まだ開けない。


だが、そこにもきっと同じ余白が残っている。

消された村、接続反応、保留扱いの誰か。

禁書庫の地下に閉じ込められていた断片は、今、自分と一緒に街道を進んでいる。


荷馬車が再び動き出す。

車輪が石畳を離れ、少し柔らかい土を踏む。

里程標の影は、もう元の位置へ戻っていた。だが誰も近づいて確かめようとはしない。


正規街道はまっすぐ前へ延びている。

それでも、この道が本当にヴァルセインへ繋がっているのか、エイルにはもう分からなかった。


分かっているのは一つだけだ。


故郷は、ただ焼かれて終わったのではない。

誰か一人を“保留”したまま、十年間、道の下で閉じきらずに残っていた。


その誰かが妹であるなら。

その余白に今さら辿り着こうとしているのが自分なら。


ヴァルセインへ向かうこの旅は、帰郷ではなく、記録から外れた一人分の名を拾いに行くためのものになる。


前方で、ガイアスが馬の手綱を引きながら左手を上げた。

道は次の分岐へ入るらしい。


「次から正規ルートを外す」

彼は振り返って言う。

「ここから先は、街道の方が嘘つくからな」


街道が嘘をつく。

禁書庫でなら比喩として聞き流せたその言葉が、外では妙に現実味を持つ。


セヴランは短く指示を飛ばし、隊列を組み替えた。護衛が前後へ散り、封印術師は荷馬車の中央へ寄る。

その間にエイルは、胸元の紙へそっと一行だけ書き足した。


保留 / 接続反応あり


その下に、少し迷った末にもう一つ。


死者ではない


書いた瞬間、それが希望なのか、もっと悪い可能性なのか、自分でも分からなくなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ