第二十五話 遅かった理由
星が沈んだみたいな光だった。
広場の石畳のあちこちに、黒く濁った小さな灯りが落ちている。
白い灯りみたいに人を呼ばない。
ただ、暗さの底で静かに脈を打っている。
その中心近く、ひび割れた白い柱の根元に、人影が座っていた。
小さい。
細い。
肩の線だけで分かった。
エイルの足が止まる。
誰もすぐには動かなかった。
ロウも、イザも、サラも。
ガイアスでさえ何も言わない。
セヴランは短杖を握ったまま、広場全体を見ていた。
人影が、ゆっくり顔を上げる。
ミナだった。
髪は肩に届くくらいまで伸びていて、後ろで細くまとめられている。
紐の結び目は三つ。
母がよくそうしていた。
目元も、口の形も、怒る前に少しだけ顎を引く癖も変わらない。
けれど、その目だけは遠かった。
一人で長く暗い場所を見続けた人間の目だった。
「……お兄ちゃん」
白い灯りの中ではない。
確かにミナの声だった。
エイルの喉が震える。
返事をしようとして、うまく声が出ない。
十年ぶんの名前が、そこで詰まる。
ミナは少しだけ首を傾げた。
昔と同じように。
「……遅いよ」
その言い方で、ようやく声が戻る。
「ミナ」
呼ぶ。
今度は間違えない。
白い灯りに返すんじゃない。
本当にそこにいる妹の名を、ちゃんと呼ぶ。
ミナの目がほんの少しだけやわらいだ。
エイルは一歩、踏み出しかけた。
その瞬間、広場に沈んだ黒い灯りが一斉に脈を打った。
空気が薄く震える。
「そこまで」
ミナの声が、今度ははっきり強くなる。
エイルの足が止まる。
「これ以上来たら、崩れる」
「何が」
セヴランが問う。
声は低い。
ミナは足元の黒い灯りを見た。
「名前」
静かに言う。
「ここに沈めてあるやつ、全部」
広場の見え方が変わる。
黒い光は灯りじゃない。
沈められた名前だ。
白い方へ流れて消えないように、ここへ沈めて留めてある。
ロウが小さく息を吐く。
「まだ支えてるか」
ミナは頷く。
「うん」
サラが目を伏せる。
イザは黙ったまま、周囲を警戒している。
ガイアスだけが壁にもたれて、わずかに顔をしかめた。
エイルはミナから目を離せない。
「……何してるんだよ」
やっと出た声は掠れていた。
ミナは少しだけ困ったように笑う。
「見張ってる」
「あれを?」
エイルは黒い光を見る。
「うん」
ミナは言う。
「白いのに消されないように」
短い沈黙が落ちる。
セヴランが一歩前へ出た。
踏み込みすぎない距離で止まる。
「戻れないのか」
ミナは、今度はすぐに答えなかった。
広場の奥から吹く冷たい風が、髪の端だけを揺らす。
「今は、まだ」
その言い方に、エイルの胸が痛む。
「わたしが離れると、沈めた名前が浮く」
ミナは続けた。
「浮いたら白い方が拾う。そうしたら、消えた人も道も、全部、神託だったことにされる」
ラウルが息を呑む。
封印術師の顔から血の気が引く。
セヴランの目だけが、さらに冷えていく。
神託だったことにされる。
それが、この場所で行われてきたことだった。
白い灯りで誘い、
記録で塗り替え、
最後には“神の意志”という名前を貼る。
エイルは唇を噛む。
「どうして、お前が」
その問いに、ミナは少しだけ眉を寄せた。
昔、説明が面倒な時によくそうしていた。
「わたしが一番、ここを覚えたから」
簡単に言う。
けれど、その簡単さが何より重い。
秘密の道を見つけるのが好きだった。
印を残すのがうまかった。
白い灯りの嘘も、途中から見抜いた。
その全部を、神殿は利用した。
でもミナは、その利用されたものを今度は逆に使って、この広場を守っている。
「最初は逃げてただけ」
ミナは黒い光を見下ろしたまま言う。
「でも逃げた先で、名前が白い方へ寄っていくのを見た。だから残した。印も、道も、黒い方も」
エイルは何も言えなくなる。
可哀想だと思うより先に、すごいと思ってしまった。
それが余計につらい。
「じゃあ、どうすればいい」
ようやく絞り出す。
ミナは白い柱の向こうを見た。
広場の奥へ続く、半ば崩れた廊下だ。
「根を切る」
「根?」
「白い灯りの根っこ」
ミナは言った。
「上で記録をいじって、下で名前を寄せる場所。まだ残ってる」
セヴランの声が落ちる。
「どこだ」
ミナはそのまま答えた。
「写経室」
その名が、静かに広場へ沈む。
ロウとイザが顔を上げる。
サラは息を止めた。
ガイアスが小さく舌打ちする。
「やっぱりそこか」
エイルはミナを見る。
「お前は来ないのか」
聞きながら、答えは半分分かっていた。
ミナは首を振る。
「行けない」
やさしくもなく、突き放しもしない声だった。
「わたしはここ。お兄ちゃんが行く」
その言い方があまりにも昔のままで、エイルは思わず笑いそうになった。
「また人を使うのかよ」
ミナは少しだけ笑う。
「だって、お兄ちゃんはそういう時だけちゃんと来るから」
十年前の裏庭と同じ調子で言う。
それがどうしようもなく温かくて、どうしようもなく残酷だった。
その時だった。
白い柱の上部、ひび割れた断面の奥から、じわりと白が滲み始めた。
白い灯りとは違う。
もっと粘るような白だ。
光というより、染み出してくるもの。
イザが即座に弓を持ち直す。
「早い」
ロウも広場の奥を見る。
黒い灯りが一つ、二つ、かすかに揺れた。
ミナの顔色が変わる。
「上で触った」
低く言う。
「誰かが、白を動かしてる」
セヴランは迷わなかった。
「写経室へ行く」
短杖を握り直す。
「今すぐだ」
ロウとイザが同時に動く。
サラも灯具を高く上げる。
ガイアスが「一章の終わりで一番面倒なところが来たな」なんて言うはずもなく、珍しく何も言わず前を向いた。
エイルだけが、一瞬だけその場に残る。
ミナとの距離はまだある。
触れられない。
でも、このまま何も言わずに背を向けることもできなかった。
「ミナ」
呼ぶ。
ミナが見る。
「絶対、戻す」
子どもじみた言葉かもしれない。
でも今は、それ以外に言えなかった。
ミナは目を丸くして、それから少しだけ笑った。
「うん」
ほんの少し、昔の声になる。
「でも、まずは遅れないで」
その一言で、エイルの足が前を向く。
背を向ける。
今度は逃げるためじゃない。
奪い返すために。
広場の奥へ向かいながら、黒い光が背後で静かに脈を打つ。
白い柱からは、神殿の白がじわじわと広がってくる。
生きていた。
会えた。
でも連れて帰れない。
だから行くしかない。
その時、背後からミナの声がもう一度落ちた。
「お兄ちゃん」
エイルは足を止める。
振り返らない。
でも聞く。
「神罰なんて、最初からなかったよ」
広場の空気が張りつめる。
そしてミナは、はっきりと言った。
「村を焼いたのは、白門じゃない。
神殿が、自分たちで焼いたの」
こんにちは。改めまして麒麟児と申します。
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本作の一章は25話をもって終了となります。
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