第二十四話 保留階
白い灯りがいちばん危ないのは、暗い場所で光るからじゃない。
人がいちばん守りたかった形を、いちばん静かな顔で返してくるからだ。
保留階へ下る道は、街路というより骨の中へ潜る感覚に近かった。
地下都市の石畳をしばらく進んだあと、ロウは崩れた列柱の脇で足を止めた。
そこには階段があるわけではない。
ただ、床の一部だけがゆるく下へ傾き、左右の壁が内側へ寄って、視界そのものを押し込めるような狭さを作っている。
「ここから下」
ロウは振り返らずに言った。
「保留階は“見せるための白”が一番濃い。だから先に決めておく」
誰も答えない。
答えなくても、その先にあるのが楽な場所ではないことは分かっていた。
イザが黒布で絞った灯具をひとつ、石床の上へ置く。
ほとんど光を漏らさない灯具だったが、そこから滲むわずかな暗い灯りが、逆に周囲の白を消すように見えた。
「見るのは三つだけ」
彼女は淡々と言う。
「足元。前の肩。黒い灯り」
一拍置く。
「白い灯りの中に“人の顔”が浮いたら、もう見ない」
ヘルムが小さく吐き捨てる。
「顔が浮くのかよ」
「浮く」
ロウが代わりに答えた。
「家族だったり、神官だったり、子どもだったり。だいたい、今その人間がいちばん返事したい顔だ」
エイルの喉が少しだけ強張る。
ミナ。
その名を胸の中で転がしただけで、この先の白はたぶんそこを突いてくる。
分かっている。
分かっているのに、完全には防げない。
セヴランが割れた印章のない短杖を握り直した。
「切る基準は」
ロウは少しも迷わない。
「名前を返したら切る。白へ足を入れても切る。立ち止まって三息以上、前を見失っても切る」
冷たい。
だが、それくらいじゃないと全員が落ちるのだろう。
ラウルが青い顔のまま言う。
「……切る、って、本当に置いていくんですか」
「置いていけないやつが一人出ると、列が全部止まる」
サラの声は低かった。
「保留階は、止まった人間から順に“待ってる側”になる」
その説明は短いのに、ぞっとした。
待ってる側。
白い灯りの中に立つ側。
つまり、自分で歩く人間から、他人を呼ぶ像へ変わるということだ。
ガイアスがいつもの軽さで言う。
「だから止まるなって話だな」
そしてエイルへちらりと視線を寄こす。
「兄貴分、ここからは“思い出す”と“思い出させられる”を間違えるなよ」
その言い方が、妙に効く。
雑なのに、すごく大事なことを言っていた。
列が整う。
ロウ。
イザ。
サラ。
ガイアス。
エイル。
セヴラン。
ヘルムと護衛。
封印術師。
ラウル。
下る。
最初の十歩は、ただの狭い傾斜だった。
石の床。湿り気。壁の冷たさ。
だが二十歩目で、空気が変わる。
白い。
光っているのではない。
暗闇の中に、白いものだけが多すぎるのだ。
左右の壁に浅い窪みがいくつも並び、そのひとつひとつに、手のひら大の白い灯りが沈んでいる。
まるで祈りの灯火の列。
あるいは、誰かの寝顔を照らすための夜灯。
優しそうに見える。
だから危ない。
エイルは足元を見る。
石床の端。
黒い灯具の薄い影。
前を行くガイアスの外套の裾。
白を見るな。
白い灯りは嘘だ。
その言葉を心の中で繰り返す。
すると、左右の窪みに沈む灯りが、少しだけ“ただの白”へ戻る。
意味を持たせなければ、まだ耐えられる。
通路の幅がさらに増した。
保留階は、地下都市の中でも異様な造りをしていた。
左右に小部屋がいくつも並ぶ。
部屋というより、仕切られた待機室。
石の寝台のような台。
壁際の細い棚。
そしてどの部屋にも、白い灯りが一つずつ。
大神殿の病室にも似ている。
孤児舎の寝所にも似ている。
そう見えてしまうように作られているのだと、エイルはすぐに分かった。
「神殿の実務だな」
封印術師が低く言う。
声には嫌悪が滲んでいた。
「保護と収容を同じ顔でやっている造りだ」
たしかにそうだった。
保留。
収容。
誘導。
全部を“世話”に見せるための白。
壁際の小部屋のひとつ、その床に、また印があった。
三本線。
小円。
その脇に、短い縦線が二つ。
エイルの足が止まりかける。
「見るな」
すぐ後ろのセヴランの声が落ちる。
強くはない。
だが、止まりかけた意識をきれいに前へ戻すには十分だった。
「……印です」
「後で吐け。今は進め」
その言い方が、少しだけ荒い。
でもむしろ、その荒さに助けられる。
ここで優しくされる方が危ない。
さらに進む。
白い灯りが増える。
小部屋の数も増える。
そしてやがて、それが始まった。
右手の白い灯りの中で、誰かが座っているように見える。
最初は気のせいだと思った。
でも次の部屋では、今度は寝台の縁に小さな足がぶら下がっている。
その次では、壁にもたれて本を読む横顔。
白い灯りの中に、生活の輪郭だけが差し出される。
返事をしたくなる。
確かめたくなる。
生きているのか、何をしているのか、どうしてここにいるのか。
だから白い灯りは嘘なのだ。
「……ミナ」
ラウルが、前のどこかで小さく漏らした。
全員の空気が一瞬で張る。
エイルの心臓も跳ねた。
だが次の瞬間、違和感が勝つ。
ラウルはミナを知らない。
にもかかわらず、その名を口にした。
セヴランの声が刃のように落ちた。
「ラウル」
ラウルがびくりとする。
足はまだ白へ入っていない。
だが顔が右の部屋へ向いている。
「前を見ろ」
低い。
短い。
それだけなのに、命令として完璧だった。
ラウルははっとしたように首を戻す。
肩で荒く息をしている。
「す、すみません」
「何を見た」
「分かりません……」
ラウルの声が震える。
「子どもが、座ってて……でも、顔が、知ってる子に見えて」
「知ってる子?」
ヘルムが怪訝そうに言う。
ラウルは自分でも混乱しているらしい。
白い顔のまま、言葉を探す。
「僕の……じゃない。たぶん、神学校の頃の……」
そこまで聞いて、エイルははっきり分かった。
白い灯りは“本当に知っている顔”を出しているわけじゃない。
知っているはずの輪郭だけをつぎはぎして、“返事したくなる顔”を作っている。
「ミナじゃない」
気づけば、エイルが言っていた。
ラウルへ向けて。
そして自分自身へ向けても。
「白い灯りは、本人じゃない」
ラウルがその声へ反応して、ようやく視線を前へ戻す。
助かった。
ぎりぎりで。
ロウが振り返りもせず言った。
「次で止まったら切る」
情け容赦がない。
だが、そうでなければ列は保てない。
保留階の中ほどで、通路は広場のように少しだけ開けた。
円形ではない。
長方形に近い空間。
中央には白い灯りが落ちていない。
代わりに、床へ黒い焼け跡のようなものが走っている。
「ここで止まる」
ロウがようやく足を止めた。
「止まるのか」
ヘルムが眉をひそめる。
「ここだけはな」
ロウは床の黒い筋を顎で示す。
「白を切った跡だ」
エイルは息を呑む。
白い灯りが嘘なら、それを切った痕がここに残っている。
誰かが。
おそらく何度も。
サラが膝をつき、黒い筋へ手を触れた。
「古い……でも一つだけ新しい」
その言葉に、全員が近づきかける。
だがロウが手を上げて制した。
「寄るな。順番に見る」
エイルが最後尾に近い位置から、黒い筋を見る。
石床の白灰色に、ひび割れたような細い黒。
その一本だけが、たしかに新しかった。
まだ煤の粒が残り、引き裂いたような形を保っている。
「これ、誘導盤の切断痕だな」
封印術師が低く言う。
「しかも最近だ」
「最近ってどのくらい」
セヴランが問う。
封印術師は少し迷い、それでも答える。
「数日……いや、もっと近い。昨日か、一昨日でもおかしくない」
昨日。
地下都市の空気が一段近くなる。
イザが静かに言った。
「ミナよ」
その断定は、今度は誰も否定できなかった。
ミナはつい最近までここにいた。
白い灯りを切り、保留階を通り、さらに奥へ進んだ。
置き影だけじゃない。
行動の痕跡として、現在形に近いところにいる。
エイルの胸が熱くなりすぎて、逆に少し冷える。
近い。
近すぎる。
だからこそ、ここで焦れば終わる。
その時だった。
広場の左右の小部屋で、白い灯りが一斉に強くなった。
一つ。
二つ。
三つ。
小さな部屋という部屋の中に、人影が立ち上がる。
子ども。
女。
神官。
老人。
それぞれの輪郭は違うのに、どれも“見た瞬間に知っている気になる”顔をしている。
「伏せろ!」
ロウの声が飛ぶ。
全員が反射で身を低くする。
その一瞬で、広場の空気が変わった。
白い灯りはもう静かじゃない。
囁く。
呼ぶ。
名になりきる前の音で、こちらの輪郭を撫でてくる。
エイルは床を見る。
黒い切断痕。
三本線。
小円。
そして、その先に小さく刻まれた文字。
みぎじゃない
息が詰まる。
ミナだ。
こんな最悪の白の中でも、床へだけはちゃんと本物を残している。
「右を切って!」
エイルが叫ぶ。
「床に文字がある、右じゃない!」
セヴランが即座に反応した。
「全員、左壁へ!」
命令が走る。
ヘルムが担いだ護衛ごと左へ寄り、サラとイザが黒布灯具を低く並べる。
ロウは短い刃物で右手側の白い灯りを一つ叩き落とした。
白い石片が砕け、部屋の中の人影が一つ、煙みたいに崩れる。
その光景が、強烈な決め絵になった。
白い灯りが砕け、偽りの顔が音もなく崩れる。
黒い灯具だけが床の本物の文字を照らし出す。
「もう一つ!」
エイルは床を追う。
「左壁沿い、その先に下る印!」
サラが先に走り、壁際の床へ灯具を落とす。
そこには、たしかに三本線の下に、小さな下向きの矢印みたいな傷があった。
「ここ!」
ロウが白を切り、セヴランが列を押し込む。
ラウルが危うく右の白へ顔を向けかけたが、ヘルムが外套を掴んで無理やり引いた。
「前だけ見ろ!」
怒鳴り声。
でも今は、それが一番正しい。
左壁の床板の一枚が、サラの足先でずれる。
下に細い階段が出た。
保留階の白が最も濃い場所の、そのさらに脇腹へ隠すように。
ミナの印がなければ絶対に見つからない入口だった。
「降りる!」
ロウが先に飛び込む。
イザ、サラ、ガイアス。
エイルも続こうとして、ふと広場を振り返りかける。
白い灯りの中、一つだけ、動かない影があった。
小さな女の子。
他の像みたいに揺れない。
ただ、立っている。
顔は見えない。
でも、右手だけが少し上がる。
呼んではいない。
引いてもいない。
ただ、「そっちでいい」とでも言うように。
エイルの胸が締まる。
「行け!」
背後からセヴランの声。
それで我に返る。
階段へ飛び込む。
最後尾でセヴランが床板を戻す。
白い灯りの囁きが一段、遠くなる。
狭い階段を下りきった先で、全員がようやく息をついた。
上から白は届かない。
ここは暗い。
でも本物の暗さだ。
ロウが低く言う。
「今の広場を越えたら、もう保留階は終わりだ」
ガイアスが壁へ背を預ける。
「だが面倒さは増えたな」
「どういう意味ですか」
ラウルの声はまだ震えている。
イザが前方を見たまま答える。
「星沈みの広場は、白い灯りが少ない代わりに、声が近い」
その言葉と同時に、前方の暗闇がゆっくり開けていく。
広い。
今までで一番広い空間だ。
天井は高く、どこまで続くか分からない。
中央には沈んだ石畳の広場があり、そのあちこちに、白い灯りではなく、黒く濁った光が小さく落ちている。
星が地面へ沈んだみたいだった。
星沈みの広場。
そして、その広場の中心近くに、一本だけ立っている白い柱があった。
門ではない。
でも門の残骸みたいに見える。
その柱の根元に、誰かが座っている。
今度は、白い灯りの嘘には見えなかった。




