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神託の空白地図  作者: 麒麟児
第一章 白い灯りは嘘
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第二十一話 石棚の下

本当に大事な道は、たいてい大人の都合では作られていない。


石棚の下に口を開けた暗い落ち口は、最初に見た時よりもずっと狭く見えた。


白い灯りの偽装を切ったあとで現れた“本物の下り”は、子ども一人が身を滑らせてようやく通れる程度の幅しかない。四角く切ってあるわけではなく、石棚の土台をずらした裏側に、あとから人が削り広げたような粗さがあった。

第一接続路の本流というには頼りない。

だが、ここまで残ってきた印がすべてこの隙間を指している以上、外れではない。


サラが灯具を下げ、落ち口の内側を照らす。


「階段じゃない」

低く言った。

「斜路。途中で一段だけ折れる。荷は下ろして順に」


ヘルムが担いでいた護衛を見下ろす。


「こいつは」


「今は連れて行ける」

サラは即答した。

「ただし背負うな。引きずるな。向きだけ合わせて滑らせる」


言葉の意味が一瞬分からなかった。

だが彼女は石棚の横から、古い金具に巻きついた細い鎖を引き出してみせた。

白灰色の錆に覆われているが、形はまだ残っている。小さな滑車のようなものもある。


「最初から運ぶための口か」


封印術師が言う。


「人より先に、箱をね」

サラは石棚の裏を見上げたまま答えた。

「子どもと、道具と、記録」


その三つが並ぶことの冷たさに、エイルの胸がまたひとつ沈む。


白門誘導盤。

大神殿の搬送箱。

保留された児童。

全部がこの細い補助口へ繋がっていたのだ。


セヴランが短く指示を出す。


「護衛を先に下ろす。ヘルム、補助。封印術師、鎖の状態を見ろ。ラウルは後ろで火を隠せ。光を立てるな」


ラウルが小さく頷く。

従順に見える。

だが従順すぎること自体が、まだ安心材料にはならない。


エイルは石棚の縁へ手を置いた。

冷たい石の下から、もっと古い温度が返ってくる。

人の手。

小さな爪。

石を削るように何度も触れた跡。

ミナもここへ手をかけていたのだと思うと、指先がひどく重くなった。


「司書」


セヴランの声で顔を上げる。


「先に印を見ろ。下で散るな」


「はい」


返事をし、落ち口の脇へ視線を走らせる。


三本線。

小円。

その下に、短い横線が二つ。


順番だ。

しかも“降りる”ための。

ミナは昔、納屋の裏の梯子を降りる時にも同じような印を使っていた。二本線は“いっこずつ”の意味だった。

一気に飛ぶな。順番に降りろ。

そういう子どもなりの約束。


「一人ずつです」

エイルが言う。

「急がない方がいい。……この印、たぶん“順番に”って意味です」


サラが一瞬だけエイルを見た。

それから何も言わず、護衛の体の向きを直す。


「聞いた通りに」


やがて護衛は鎖で簡易固定され、斜路へ沿ってゆっくり下ろされていった。

意識はまだ朦朧としている。

それでも途中で暴れないだけ、救いだった。


次にガイアス。

その次がサラ。

エイルは三番目に降りることになった。


落ち口へ身を入れた瞬間、上の空気がひどく遠くなった。


狭い。

肩を少し斜めにしないと通らない。

斜路の石は磨かれているわけではないが、長年の出入りで角だけが丸くなっていた。

人のためというより、運ばれる“何か”のための道だ。

それがたまらなく嫌だった。


途中で一度だけ折れる。

そこで壁に手をつくと、また印がある。

三本線。

小円。

その脇に、爪で掻いたみたいな短い字。


いたい


息が止まる。


石へ爪で書いたような、不揃いなひらがな。

古い。

けれど読める。


痛い。

たった三文字が、胸の奥へ真っ直ぐ刺さる。


ミナが残したものかどうか、断言はできない。

でも、この印の連なりの中でその文字を見ると、断言できないことの方が残酷だった。


「どうした」


下からガイアスの声が来る。


「……文字があります」


「読めるなら覚えろ。あとで吐け」


“吐け”という乱暴な言い方が、逆にありがたかった。

今ここで立ち止まってしまえば、本当に進めなくなる。


エイルは文字を一度だけ目に焼きつけ、さらに下へ滑る。

やがて斜路が終わり、足元が平らな石へ変わった。


下の空間は、想像していたより広かった。


通路ではない。

小さな作業場に近い。

石棚が左右にあり、箱を載せるための浅い台がいくつか残っている。中央には細い溝。そこへ白い灯りがわずかに沈み、部屋全体の輪郭をぼんやり浮かべていた。

天井は低いが、圧迫感はない。

むしろ、昔ここで何度も人が立ち止まり、荷を下ろし、何かを書き留め、また上と下を往復した気配が濃い。


大神殿の実務だ。


神託でも神罰でもない。

ただの運用の部屋。


その生々しさが、かえって腹の底を冷やす。


護衛は壁際へ寝かされていた。

まだ意識は戻りきっていないが、呼吸はさっきより落ち着いている。


サラが言う。


「ここは中継所。上で偽装して、ここで分けて、下へ送る」


「何を」


ヘルムが問い返す。


サラは石棚を見る。

答える前に、エイルの視線もそこへ引かれた。


棚の上に、小さな木片が残っている。

腐りかけた札だ。

表面の字は消えかけているが、余白の奥ではまだ読める。


――上 / 誘導盤

――下 / 保留室


喉が焼けた。


「保留室……」


エイルが呟くと、封印術師がすぐ横へ来る。


「読めるのか」


「はい。上と下の振り分けです。……保留室って」


「子どもを置く部屋だろ」

ガイアスが淡々と言う。

「名前を柔らかくしただけで」


ラウルが青ざめて一歩退く。

その反応が遅すぎる。

驚いているのか、知っていたものが実在してしまったから怯えているのか、その区別が曖昧な顔だ。


セヴランは壁際の棚へ手を伸ばした。

そこには薄い石板が何枚か差し込まれている。書記板に近い形状だ。


「これも記録か」


エイルが頷き、慎重に一枚を受け取る。

表面は削れている。

だが指先を置いた瞬間、残像が立った。


――第一接続路 中継所

――保留対象 収容後、白門誘導盤の応答率上昇

――対象児童の自発的な道順記憶を優先利用


エイルは息を止めた。


ただの犠牲者ではない。

ただ閉じ込められていたのでもない。


“自発的な道順記憶を優先利用”。


ミナが残したその印は、神殿に利用されていた。


温かい記憶と冷たい真実が、そこでひどく無惨に繋がる。


秘密の道を作るのが好きだった。

印を残すのが得意だった。

誰にも見つからない抜け道を覚えるのが、あの子は本当にうまかった。


その無邪気な才能が、そのままここでは“実務”として使われていたのだ。


「何てある」


セヴランの声が低く落ちる。


エイルは石板から目を離せずに答える。


「ミナ……じゃなくて、保留対象の“道順記憶”を使ってます」

喉がひりつく。

「白門誘導盤の応答率が上がるって。……神殿は、この子が道を覚えるのを前提に運用してた」


ヘルムが吐き捨てるように言う。


「子どもを道具にしたってことか」


「最初からそうだろう」

ガイアスの声は低かった。

「違う顔をしてただけで」


セヴランの顔からさらに血の気が引く。

怒りが冷えたとき、この男はたぶん一番危ない。


「他には」


エイルは次の石板へ指を移す。


――保留対象は白い灯りを“嘘”と認識

――誘導盤の効果、当該児童には低下

――以後、当人の残す印を追跡管理すること


胸が強く打つ。


ミナは分かっていた。


白い灯りは嘘。

それを、神殿側の記録が認めている。

つまりミナは途中から誘導盤に騙されなくなり、自分の印で本当の道を作り始めたのだ。


エイルは思わず笑いそうになった。

こんな場所で。

こんな酷い記録の上で。

それでも、ミナらしいと思ってしまったから。


「……やっぱり」

小さく漏れる。


「何だ」


セヴランが問う。


エイルは石板を握ったまま言った。


「ミナは、ただ閉じ込められてたんじゃない」

初めて、自分からその名を出した。

でも今は、呼ばれるためではなく、記録を返すための名前だった。

「騙されないように、自分で道を残してた」


サラが静かに頷く。


「だから今も印が残ってる」


そしてその一言が、読者の情緒をさらに深く掴む。


ミナは可哀想なだけの少女じゃない。

接続路の中で、自分の頭で理解し、自分の手で反抗し、自分だけの道しるべを残してきた。

それが今、十年越しに兄を導いている。


エイルは石板をめくる。


その裏に、別の短い記録があった。


――保留対象、再収容不能

――中継所北側補助路へ逸走

――追跡時、印改竄あり


再収容不能。


喉の奥で何かが跳ねる。


「逃げてる……」


今度はヘルムでもガイアスでもなく、ラウルが呟いた。

自分でも口にしてしまったことへ驚いたみたいに。


そうだ。

ミナはここから逃げたのだ。

少なくとも一度は。

神殿の手から外れ、補助路へ逸走し、印まで改竄して追跡を撒いた。


その事実は、熱かった。

絶望の中のカタルシスとして十分に強い。


「どっちだ」


セヴランが即座に問う。


エイルは石板の最後の行を追う。


北側補助路。

ここへ来る前に入った狭い脇道。

だが部屋の中を見ると、もう一つだけ、北へ抜ける低い口がある。石棚の裏手に半ば埋もれていて、普通なら気づかない。

そしてその床へ、またあの記号が残っていた。


三本線。

小円。

二重丸。

その先に、新しい引っ掻き傷。


「こっち」


今度は迷わない。


エイルは石棚の裏の低い口を指した。

「保留室じゃない。逃げ道です」


サラが近づき、灯具を低く差し込む。

白い灯りが照らした先に、小さな文字がある。


まだ しろくない


誰かが息を呑む。


また、ひらがなだ。

しかも今度は少し筆圧が強い。

“白い灯りは嘘”と同じ手だが、こちらの方が新しい。


まだ白くない。

つまり、この先はまだ誘導盤の嘘が届いていない。

本物の路に近いということだ。


「……すごいな、あの子」


ヘルムがぽつりと言う。

誰も否定しない。


その瞬間、部屋の奥――保留室の方から、かすかな音がした。


石を爪で引っ掻く音。

きり、きり、と細い。


全員がそちらを見る。


保留室へ続く暗い口の向こう、白い灯りが一つ、また勝手に灯っていた。

中央ではなく、奥の床で。

しかも今度は、灯りの手前に“何か”が置かれている。


人形ではない。

布の束。

いや、髪紐だ。


エイルの喉が詰まる。


さっきサラが拾った結び目三つの紐と、同じ結び方。

母の癖。

ミナの髪。


白い灯りは嘘だ。

でも今、置かれた髪紐そのものは本物に見える。


サラが低く言う。


「見たいものを混ぜてくる」


「でも本物が混じってる」

エイルはほとんど反射で返していた。

「完全な偽装じゃない。ミナが通った痕の上に、向こうが嘘を被せてる」


それが答えだった。


白い灯りは嘘。

でも嘘は、ゼロから作るより本物の痕跡に被せる方が強い。

だからこそ厄介なのだ。


セヴランが短く判断を下す。


「保留室は切る。北側補助路を優先する」

その目が鋭くなる。

「本物の痕跡を辿る。向こうが見せたい方じゃない」


エイルの胸の中で、熱がもう一段上がる。


これはただの追跡じゃない。

神殿の欺瞞を剥がし、白い灯りの嘘を見切り、ミナが残した“本物の道”だけを選び取る戦いだ。


それは、読者が最も気持ちよくなれる種類の構図でもある。


エイルは石板と床の文字を素早く写し取り、最後に一行だけ付け足した。


白い灯りは嘘 / 本物は印


自分の手で書くその一行が、この作品の象徴になる。

読者の記憶にも残るはずの言葉だった。


サラが北側補助路の入口へ身を屈める。


「次は狭い」

振り返らずに言った。

「でも、ここから先は本当にあの子が通った道」


エイルは深く息を吸う。


ミナは逃げた。

騙されないように印を残した。

神殿の運用を逆手に取って、自分の道を作った。

そして今もなお、その痕跡は兄を奥へ導いている。


温かい思い出が、ただ壊されただけじゃない。

冷たい真実の中でなお、反抗の形で生き残っていた。


それがたまらなく、救いだった。


エイルは石棚の裏の狭い口へ足を向けた。


この先にいるのが、本人か、残像か、あるいはその両方かはまだ分からない。

でも少なくとも、“本物に近い道”へは入った。


なら、もう迷わない。

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