表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神託の空白地図  作者: 麒麟児
第一章 白い灯りは嘘
19/25

第十九話 白い灯りの奥

本当に追うべきものは、たいてい最初に目へ入ってくるものじゃない。


人はどうしても、いちばん見たい形へ引かれる。

だから“向こう側”は、最初にそこを使う。


白い灯りの奥に立つ小さな影は、呼ばなかった。


手も振らない。

笑いもしない。

ただ、こちらを見ている。


それがかえって危うかった。


声をかければ、たぶんすぐに壊れる。

壊れ方が、幻のように消えるのか、もっと厄介なものへ変わるのかは分からない。

だから全員が一瞬、呼吸だけで止まった。


「動くな」


サラの声が低く落ちる。

今度は鋭いだけじゃない。

自分自身にも言い聞かせるみたいな硬さがあった。


だが影の方が先に動いた。


一歩だけ、後ろへ下がる。


逃げる速度ではない。

ついてこられることを前提にした引き方だった。

白い灯りがその足元をすべり、細い肩の輪郭だけを淡く浮かべる。


エイルの胸の奥で、十年前のひとつの夕方が急に蘇る。


夏の終わり、納屋の裏。

ミナが振り返って、声をひそめて言う。


――お兄ちゃん、こっち。

――どこ行くんだ。

――ひみつの道。足音、立てないで。


あの時と同じ引き方だった。

追えば届くように見せて、でも少しだけ先にいる。

子どもが秘密を共有したい時の、悪戯みたいな距離。


「エイル」


セヴランの声がすぐ横で落ちる。

感情を削いだ声だ。

そのおかげで、エイルはなんとか今へ戻る。


「呼ぶな」

短く続く。

「追うなら印だけ見ろ」


分かっている。

分かっているのに、胸の内側だけが勝手に先へ行こうとする。


ガイアスが一歩、前へ出た。


「追う」

誰へともなく言う。

「でもあれ自体は見ない。灯りと印だけだ」


サラが頷く。

「私が先。あなたは二番目」


隊列が静かに組み替わる。

サラ、ガイアス、エイル、セヴラン、ヘルムと気を失いかけた護衛、封印術師、ラウル。

さっきよりもさらに詰まった並びだ。

離れればそのぶん、白い灯りへ視線を持っていかれる。


小さな影は、奥の通路へまた半歩だけ下がった。

急かすでもなく、待つでもなく。

「ちゃんと来られるか」を試すように。


「嫌な誘い方だな」


ヘルムが低く吐き捨てる。


「向こうも手探りなんだよ」

ガイアスが返す。

「引っ張るんじゃなくて、ついてくるか見てる」


その言葉が不気味だった。

罠ならもっと分かりやすく落としてくればいい。

そうではなく、“こちらの選び方”そのものを見られている。


通路の奥は二手に分かれていた。


右は白い灯りが落ちている。

幅があり、床もなめらかだ。

“進める”顔をしている。


左は狭い。

石がせり出し、身を少しかがめなければ通れない。

白い灯りも届かず、暗く、まるで最初から人を拒んでいるようだった。


影は右の手前に立っている。


ラウルが思わず呟く。


「右だ」


その一言に、サラが即座に振り返る。


「違う」


声は短く、ほとんど斬るみたいだった。

ラウルがびくりと肩を揺らす。


「でも、あの子が――」


「子どもに見えるものは、道じゃない」


サラの言葉が落ちる。


その時、エイルは右手の壁にある印へ気づいた。

三本線。

その下に二重丸。

そして、さらにその脇に、斜めへ短い引っ掻き傷。


記号の続きだ。

でも今までと違う。

二重丸は“つなぐ”印だった。

そこへ斜め線が入る時、ミナは昔こう言っていた。


――これはね、“ちがう”ってこと。

――何が違うんだ。

――見えてるの。だからだめ。


エイルの喉が熱くなる。


「左です」


言うと同時に、影が初めて揺れた。

はっきりと。

水面へ石を落とした時みたいに、輪郭が一度だけ波打つ。


全員の視線がエイルへ集まる。


「根拠は」


セヴランが問う。

今度は急がない。

エイルの答えを、判断材料として待っている。


「右の印は“つなぐ”のあとに“違う”がついてる」

エイルは壁を指した。

「見えてる方はだめ、って意味だと思う。……たぶん、子どもの頃の印の付け方と同じです」


「子どもの頃の、って」

ヘルムが言いかける。


「今はそれで十分」

セヴランが切った。

「左へ」


その判断は早かった。

そしてその速さが、読者にとっても気持ちいい瞬間だった。

エイルの記憶が、ただの情緒ではなく、道を切る力として使われたのだ。


サラが何も言わず、左の狭い通路へ入る。

ガイアスも続く。

エイルがその後へ入った瞬間、背後で白い灯りが一つ、はっきりと明るさを増した。


振り返らない。

だが今度は、それで正しかったと分かる。


右から、かすかな声がした。


笑い声に近い。

子どもではない。

もっと乾いた、空気の抜けるみたいな音。


ラウルが小さく息を呑む。

封印術師の白粉袋がかすかに鳴る。

それでも誰も右を見ない。


左の通路は低く、狭く、床も荒れていた。

さっきまでの接続路の人工的な整い方が薄れ、代わりに“掘り足した”ような粗さが出てくる。

本来の路ではない。

誰かがあとから使い始めた細道だ。


「避難路か」


セヴランが低く言う。


「それに近い」

サラが答えた。

「表の路が白門に寄った時だけ使う」


「いつから」


「最初からじゃない。途中から」

そこで一拍置く。

「子どもが覚えた頃から」


エイルの胸が、またひとつ強く打つ。


子どもが覚えた頃。

それは単なる比喩じゃない。

誰か一人の子どもが、この道を実際に覚えて、使って、印を残し始めた時期があったということだ。


狭い通路の途中で、サラがしゃがんだ。


足元の石の隙間へ手を入れ、小さなものを引き抜く。

埃と白い粉にまみれた、細い紐。


「……まだ残ってた」


サラの声が、初めて少しだけ変わる。

冷静さが崩れたわけではない。

でもそこに、記憶を知っている人間の温度が一瞬だけ混じった。


エイルもしゃがみ込む。


紐は色が抜けている。

元が何色だったのかも分からないほど古い。

だが端に、小さな結び目が三つ並んでいる。


その結び方に見覚えがあった。


母が、ミナの髪を結ぶ時の癖だ。

いつも片側だけ、最後に小さな結び目を遊ばせていた。

ただの紐なのに、胸の奥へまっすぐ刺さる。


エイルの指先が震える。


「それ……」


声がうまく出ない。


サラは紐を見つめたまま、小さく言う。


「この道を初めて教えた時、落とした」

そしてようやくエイルを見る。

「あなたの妹よ」


空気が止まった。


誰も何も言えない。

“たぶん”ではない。

“印かもしれない”でもない。

境界守の口から、初めてミナが事実として置かれた。


エイルの喉の奥が熱く痛む。


「……知ってたんですか」


ようやく出た声は、自分でも驚くほどかすれていた。


「全部じゃない」

サラは正直に言う。

「でも、あの子がここを歩いたことは知ってる。印の残し方と、紐の結び目で分かった」


ガイアスが壁にもたれて、珍しく何も挟まない。

セヴランも黙っている。

今は問い詰めるより先に、エイルがそれを受け止める時間を置いたのだろう。


温かい記憶と、冷たい真実が、そこで初めて同じ形を取った。


母の手。

ミナの髪。

秘密の道。

そして第一接続路。


家族の中にあった小さな癖が、そのまま“保留された児童”の証拠になる。

救いでもあり、残酷でもある事実だった。


エイルは紐へそっと触れた。


余白視は要らなかった。

これは残像ではない。

本当に残っていたものだ。


その時、通路の先で石が鳴った。


今度は確かに、人の足音だった。

裸足ではない。

軽いが、意思を持って踏んでいる音。


全員が前を見る。


狭い通路の先に、小さな部屋が開けている。

その入口の縁に、また白い灯りが一つ。

そして、その手前の床へ、誰かが新しく印を刻んでいた。


石に爪を立てるような、きり、きり、という音。


影がいる。


さっきの白い影とは違う。

今度はもっとはっきりと、“ここで手を動かしている”人の背中だった。


細い肩。

小さな背。

そして、こちらに気づいたみたいに手が止まる。


「……待って」


エイルの口から零れたのは、名前ではない。

それでも十分危うい一言だった。


影が振り返る。


顔は見えない。

白い灯りが逆光になって、輪郭だけが浮く。

だが、その首の傾げ方だけで、エイルは胸を掴まれた。


ミナだ、と思った。


思ってしまった。

それが本人か、残像か、誘いか、その区別をするより先に。


サラが鋭く言う。


「近づかないで」


だが遅かった。


影は逃げなかった。

その代わり、石床へ最後の線をひとつだけ刻み、それから部屋の奥へすっと退く。


白い灯りが揺れる。

影は消えない。

消えないまま、部屋の奥の暗がりへ下がっていく。


エイルは床の新しい印を見る。


三本線。

小円。

そして、その下に、文字。


今度は子どもの記号じゃない。

ひらがなだった。


おそい


胸の奥が痛いほど締まる。


温かい記憶の中で、ミナはよくそう言っていた。

秘密の道を見つけた時も、木の実を取りに行く時も、いつも少しだけ先へ行って振り返り、頬を膨らませて言う。


――おそいよ、お兄ちゃん。


それが今、冷たい石床の上に残っている。


エイルは一歩、前へ出た。

サラの制止も、セヴランの気配も、背後の緊張も全部分かっている。

それでも、ここで一歩も出なければ二度と届かない気がした。


「待て」

今度はセヴランの声だった。

低く、強い。


エイルは止まる。

ぎりぎりで、止まる。


そうしなければならないことは分かっている。

でも、止まったことそのものが痛い。


サラが前へ出る。

白い灯具を少し高く掲げ、部屋の入口と床の文字を順に照らした。


「これは誘いじゃない」


小さく言った。


「何が違う」

ガイアスが問う。


「白い灯りが、道を潰してない」

サラは答える。

「それに、文字が“こちら向き”に書かれてる。向こうへ引くためじゃなく、ここへ来る人間に読ませる書き方」


つまり、これは残された痕だ。

罠である可能性をゼロにはできない。

だが、少なくとも“今すぐ名前を呼ばせるための白門”ではない。


セヴランが息を整える。


「入るか」


サラは少しだけ迷った。

それがむしろ信頼できた。

何でも即断する人間ではない。


「入る」

やがてそう言う。

「でも次は、見たものを先に信じないで。床と印を先に見る」


エイルは石床のおそいの字から目を離せないまま、小さく頷いた。


ミナの温度と、この場所の冷たさが、そこできれいに対比されていた。

読者が執着するために必要な情緒が、もう十分すぎるほど刻まれている。


そして何より、ミナはただ攫われた少女ではなかった。

印を残し、道を覚え、文字まで残している。

“保留された児童”でありながら、ただの受け身ではない。


そこが、この物語を強くする。


エイルは深く息を吸い、白い灯りの先の小部屋を見た。

もう、後戻りする段階ではない。


ミナの痕跡は、決定的に本物だった。

問題は次だ。

今、自分たちを導いているこの影が、本当にミナ本人なのか。


その答えが、次の一歩にかかっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ