第十七話 折れ角の先
曲がり角の向こうにあるものは、たいてい“正体”ではない。
正体に見えるよう、こちらへ差し出された一枚目の顔だ。
エイルが折れ角へ足を踏み出した瞬間、通路の空気がまた少し変わった。
冷たさは同じだ。
けれど、入口からここまでの石の冷えとは質が違う。
さっきまでは“閉じていた場所の温度”だった。
今はもっと生きている。
人が出入りしていたわけではないのに、何かがここを通り、ここで止まり、ここから先へ意識を向けている気配がある。
通路は右へ折れたあと、急に幅を増していた。
大人二人が並ぶには足りない狭さだった道が、ここからは四人でも歩ける程度に広がっている。壁の石も同じ白灰色だが、継ぎ目が細かい。通路というより、何かの前室に近い造りだ。
床の両脇を流れていた淡い青の筋は、ここでいったん左右へ分かれ、壁の奥へ吸い込まれている。
「広間か」
ヘルムが、意識のない護衛を肩へ担ぎ直しながら低く言った。
「いや」
ガイアスは前方を睨んだまま返す。
「待合だな。門の前の」
門。
その言葉を聞いた瞬間、エイルの喉の奥がひどく乾いた。
前室の奥は、完全な直線ではなかった。
部屋に見えるのに、どこか“部屋として閉じていない”。
正面の壁が少し斜めにずれ、その左右に半端な柱が立ち、床には石を継ぎ足したような四角がいくつも沈んでいる。
最初からこの形だったのではなく、何度も接続を組み替え、そのたびに閉じ、埋め、残した痕だと一目で分かる。
壁際の一つに、白い灯りが浮かんでいた。
焚火でも灯具でもない。
昨日、村の奥で見た白い灯りと同じ質だ。
手のひら大の光が石の窪みに静かに沈み、その周囲だけを淡く照らしている。
「……あれ」
ラウルが声を漏らしかける。
「喋るな」
セヴランの制止が早い。
ラウルは唇を噛み、慌てて黙った。
エイルは白い灯りの下を見た。
そこには壁の記号がある。
三本の短い線と、小さな円。
外の荷運び道の杭、通路の壁、そしてここ。
同じ記号が、節目ごとに繰り返されている。
しかも今度は一つではない。
壁沿いに三つ。
床の継ぎ目に一つ。
正面の斜めの壁に二つ。
誰かが何度も通って、迷わないように、あるいは誰かを導くために残した跡だ。
「記号が増えてる」
エイルが小さく言うと、封印術師がすぐ横へ来た。
「同じものか」
「はい。でも……」
エイルは目を細める。
「場所ごとに少し違います。数え方というより、順番みたいに見える」
「順番?」
「こっちが一つ、あっちが二つ、向こうが三つ。……子どもが自分だけ分かる道順を作る時みたいな」
言葉にしながら、胸の奥が軋む。
ミナも昔、家の裏から祠へ行く抜け道に、自分だけ分かる印を作っていた。大人には意味不明で、本人だけが「こっち」と分かる並べ方。
もしこれが同じ発想なら、この道を覚えていたのは、やはり子どもだ。
セヴランが前を向いたまま問う。
「どちらだ」
「正面です」
エイルは答えた。
「でも正面の壁が壁じゃない」
それは見れば分かる種類の違和感だった。
斜めの壁は、周囲と同じ石を装っているのに、継ぎ目だけがわずかに柔らかい。正確には、壁として閉じるための縦線ではなく、横へ滑るための重なり方をしている。
「また偽装か」
ヘルムが吐き捨てる。
「この村は嘘しか置いてないのかよ」
「嘘ってのは、本物を隠すために必要なだけ置くんだ」
ガイアスは淡々と返した。
「置きすぎるのは、だいたい焦ってた時だな」
焦っていた。
十年前の神罰。入口偽装。封鎖未完。
その全部が一気に頭の中で繋がりそうになる。
その時だった。
正面の“壁”の向こうで、何かが動いた。
気配ではない。
影でもない。
確かな人の動き。
斜めの継ぎ目の奥を、白いものがすっと横切ったのだ。
全員の呼吸が止まる。
セヴランの短杖が上がる。
ヘルムは護衛を担いだまま、もう一方の手を剣へかける。
封印術師が白粉の袋を握り直し、ラウルは今にも祈りへ逃げそうな顔で硬直していた。
ガイアスだけが低く言う。
「……やっぱりいたか」
その声は驚きではなく、待っていたものを確認した時の音だった。
もう一度、動く。
今度はもっとはっきり。
白い外套の裾。
細い脚。
人の身のこなしだ。
だが歩いているのに、足音がしない。
斜めの壁の継ぎ目、その少し手前で、影が止まった。
「そこまで」
声が落ちた。
女の声だった。
若い。
だが若さより先に、長く黙っていることに慣れた人間の声に聞こえる。
壁ではないはずの斜面の一部が、そこだけ少し薄くなった。
白灰色の石の向こうから、一人の女が姿を現す。
白い外套。
外套というより、砂や灰に紛れるための布を何枚も重ねたような粗い装いだ。背は高くない。二十前後に見えるが、目の奥だけがもっと長く生きている。
腰には短い刃物と、小さな灯具。
左腕には、あの三本線と円の記号を編み込んだ細い紐が巻かれていた。
彼女が一歩前へ出ると、斜めの壁はまた“ただの壁”へ戻る。
「それ以上寄ると、その人は戻れない」
視線はヘルムが担ぐ護衛へ向いていた。
「戻れない、とは何だ」
セヴランの問いは鋭い。
だが叫ばない。
相手がこちらを試している以上、声を荒げるのは悪手だと知っている。
白い外套の女は答える。
「見たものへ体の向きが残ってる」
簡潔だった。
「そのまま無理に引き戻すと、今度は名の方が置いていかれる」
名。
またその言葉だ。
ヘルムが低く唸る。
「意味が分からん」
「分からなくていい。今は肩を動かすな」
女は一歩だけ近づく。
「その人はまだ、半分しか向こうを見てない」
向こう。
誰も問い返さない。
問わなくても、ここでその言葉が指す先は一つしかない。
ガイアスが壁にもたれず、しかし武器にも手をかけずに立っていた。
「サラ」
初めて名前が出た。
白い外套の女――サラは、そこでようやくガイアスをまともに見た。
「遅い」
それが最初の一言だった。
「急いで来たら、もっと余計なの連れてきてた」
ガイアスは肩をすくめる。
「この人数で済んでるだけ褒めろよ」
「褒める理由がない」
会話は短い。
だが、この二人が初対面ではないことだけははっきり分かった。
少なくとも、互いの言い方を分かっている。
セヴランが間に入る。
「説明を求める。お前は何者だ」
サラは視線をセヴランへ移す。
その目は冷たいのではなく、警戒に長く晒された人間の目だった。
「境界守」
短く名乗る。
「ここより先が崩れないよう、見張ってる」
ラウルが小さく息を呑んだ。
境界守。
紙片や奉納札でだけ匂わされていた名が、ここで実体を持つ。
「昨夜の紙片も、お前か」
セヴランが問う。
「一枚は」
サラは答える。
「もう一枚は違う」
祈るな。探せ。
左を見ないで。
二人ずつ、は正しい。
その全部が同じ送り手ではなかったということだ。
エイルの背筋が冷える。
見張っている者は一つではない。
誘導してくる手も、少なくとも二つはある。
「違う、とは誰だ」
ヘルムが食い気味に問う。
「知ってるなら、こんなところで立ってない」
サラはそっけなく返した。
「向こう側に寄ったやつか、こっち側で寄せたい誰かか。どっちでも、今は同じ」
彼女の目がエイルへ向く。
まっすぐだった。
だがミナのように呼ぶ気配はない。
ただ、値踏みするでもなく、確認する視線。
「あなたが見つけたの」
問われているのは井戸跡の入口だろう。
エイルは頷く。
「……たぶん」
「たぶんで十分」
サラは言う。
「見つけられる人は少ない」
その一言だけで、周囲の空気が少しだけ変わる。
エイルを“使える道具”として見ているのか、“危うい鍵”として見ているのか、その両方かもしれない。
だが少なくとも、無関係な人間だとは思っていない。
セヴランが本題へ戻す。
「護衛を戻せるか」
サラはヘルムの肩の上の男を見る。
目の焦点、口元、指先。
それから通路の右奥へ視線を走らせる。
「今なら」
小さく言った。
「でも、ここで名前を呼んだ人がいるなら難しい」
全員が黙る。
名前は呼んでいない。
少なくとも声にはしていない。
だが“心の中で呼んだ”場合はどうなのか、誰も自信を持てなかった。
「処置は」
封印術師が問う。
サラは灯具を腰から外した。
昨日、村の奥で見た白い灯りと同じ種類の光だ。
ただし近くで見ると、それは火でも術具でもなく、白く濁った薄い石の欠片を小さな枠へ嵌め込んだものだった。
光るのではない。
“向こうから漏れている”感じの灯り。
「これを目の前に置く」
サラは言う。
「向いてる先をこっちへ戻す。目じゃなくて、体の傾きを」
説明は分かるようで分からない。
だが彼女は分からせようとしていない。手順だけを渡している。
ヘルムが護衛をゆっくり地面へ下ろす。
サラはその前へ膝をつき、灯具をそっと置いた。
白い光が、護衛の開いた瞳に映る。
最初は何も起きない。
だが数秒後、男の呼吸が一度だけ大きく乱れた。喉がひくりと鳴り、目がかすかに震える。
やがて、瞳がようやく“ここ”を映し始めた。
「あ、……?」
掠れた声だった。
ヘルムがすぐに肩を掴む。
「戻ったか」
護衛は何度か瞬きし、それからひどく困惑した顔になる。
「俺……今、村の中に……」
「どこまで見た」
セヴランが問う。
男は答えようとして、顔をしかめた。
記憶が掴めないのだろう。
「白いのが、いて」
言葉は途切れ途切れだった。
「井戸の向こうで、手を振って……家の方へ……いや、違う、下か……」
エイルの胸がきしむ。
白いの。
手を振る。
それがミナだったのか、ミナに見せられた別のものだったのか、今の時点では判別できない。
サラは立ち上がり、灯具を回収した。
「だから言った」
誰にともなく言う。
「見たものへ向きが残る」
ガイアスが顎をしゃくる。
「で、どうする。ここで引き返させる気はないだろ」
サラは即答しなかった。
代わりに、通路の右奥――護衛が示した先を一度だけ見る。
「本当は戻ってほしい」
やがてそう言った。
「でも、もう井戸を見つけたなら無理」
ラウルが怯えたように問う。
「なぜです」
「入口が人を覚えるから」
サラは言う。
「見つけた人間と、見つかった事実、その両方を」
ぞくりとする。
ヴァルセインの井戸跡はもう、自分たちを覚えたのだ。
だから引いて終われる段階を過ぎた。
セヴランが一歩前へ出る。
「案内しろ」
命令ではない。
だが拒否を前提にしていない声音だった。
サラはその目をまっすぐ見返す。
「条件がある」
「言え」
「祈らない。呼び返さない。見えた子どもに名前をつけない」
一つずつ区切るように言う。
「それから、道の印は私が読む。勝手に触らない」
ガイアスが小さく笑う。
「最後だけ私情が入ってるな」
「あなたに言ってるの」
サラは切り返す。
「前に一本、余計な印を動かした」
「結果オーライだったろ」
「三人消えた」
その軽口に返された数字だけが重い。
沈黙が落ちる。
やがてセヴランが頷いた。
「条件は飲む」
「司書にも徹底して」
サラの視線がエイルへ向く。
「あなたが一番呼ばれやすい」
冷たい言い方ではない。
事実をそのまま置いただけだ。
だからこそ否定できない。
エイルは小さく頷く。
「分かりました」
本当に分かったのかどうか、自分でも怪しい。
けれどここで、それ以外の返答はなかった。
サラは正面の“壁”の脇へ寄り、白い灯具を一つ高く掲げた。
すると斜めの石壁の奥、さっきまでただの継ぎ目にしか見えなかった一角が、淡く青い線を返す。
そこに道がある。
右ではない。
さらにもう一段、下へ。
「白門は正面に見せる」
サラは言った。
「でも本流はたいてい、見せたい門の横にずらしてある」
井戸跡もそうだった。
白い輪郭は正面に立ち上がったが、本当のずれは下へ横に滑っていた。
エイルは深く息を吸う。
村の裏手から入り、前室を抜け、いままた一つ、偽装を剥がした。
そのたびに近づいているのか、遠ざかっているのか、もう分からない。
それでも進むしかない。
サラが灯具を下げ、通路のさらに奥へ足を踏み出した。
「次は止まらないで」
振り返らずに言う。
「そこは、止まると遅れる」
遅れる。
置いていかれる、ではなく。
その言葉が妙に怖かった。
セヴランが短く命じる。
「続け」
そして隊は、境界守の女を先頭に、第一接続路のさらに奥へ進み始めた。




