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神託の空白地図  作者: 麒麟児
第一章 白い灯りは嘘
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第十六話 第一接続路

入口というものは、たいてい“入る瞬間”より、“振り返れなくなった瞬間”の方がはっきり覚えている。


ガイアスが押した“壁”は、開いたというより薄れた。


焼けた板張りの黒が、水へ墨を落とした時みたいに静かに褪せていき、その下から別の輪郭が浮かび上がる。白い縁。石の框。外へ開く扉ではなく、横へずれた接続面。

村の裏手に立っていたはずなのに、その向こうから流れてくる空気は外気ではなかった。


湿っている。

冷たい。

そして、妙に古い。


土の匂いではない。

石の匂いでもない。

長いあいだ誰にも触れられずに閉じていた場所が、たった今こちらを思い出した時の匂いだった。


「十歩」


ガイアスが言う。

振り返らないまま、ただ前を見ている声だ。


「入ってから十歩は、何が見えても後ろを見るな。音がしてもだ」


「理由は」

ヘルムが低く問う。


「まだ村の形が後ろに残る」

ガイアスは答えた。

「外と中のどっちを本物だと思うか、そこで試される」


誰も言い返さない。


言い返すだけの言葉が、この入口の前ではあまり意味を持たなかった。

焼けた村の裏手。灰の空き地。倒れた柵。

それらは確かにさっきまで背後にあったはずなのに、今はもう、“まだある”と断言することさえためらわれる。


セヴランが短杖をわずかに上げた。

白く細い灯が先端にともる。眩しさはない。暗闇の輪郭だけを少しだけ明確にするための光だ。


「順に入る。ガイアス、護衛、司書、私、封印術師、最後尾ラウル」

落ち着いた声で言う。

「途中で名前を呼ぶな。返事をするな。止まるなら前方の肩だけを見ろ」


エイルは喉の奥を湿らせる。

足が進まないわけではない。

むしろ逆に、自分の身体のどこかがこの先へ急いでいる気さえした。

井戸跡の下で見た白い輪郭。

祠石に残った手形。

みつけて。

その全部が、入口の向こう側で一本の線になろうとしている。


だからこそ、ここで焦れば終わる。


ガイアスが一歩、白い縁を跨ぐ。

次にヘルム。

そしてエイルの番が来る。


足を上げる。

白い縁は石にも見えるし、光にも見える。

靴裏が触れた瞬間、ひやりとした感覚が足首まで一気に立ち上がった。

冷水ではない。

けれど、長い眠りの底へ足首だけを差し入れたみたいな冷えだった。


踏み込む。


視界が一瞬だけ白く引き伸ばされる。


眩しいのではない。

村の裏手と、自分の身体の位置と、足元の感覚が、全部一歩ぶんずれて重なる。

気持ち悪さが喉元まで上がる。

だが次の瞬間には収まった。


中は狭い通路だった。


幅は大人二人が並ぶには少し足りない。

壁も床も白っぽい石で組まれているが、白いのは色ではなく、長い間光を失って冷えていたせいのように見える。ところどころに細い継ぎ目があり、その線の一部だけが微かに青く沈んでいた。

上へ伸びる入口ではない。

むしろ、村の裏手からほんの少し下へ落ち込み、そのまま横へ伸びている。


接続路。

入口ではなく、“道”なのだと、一歩入っただけで分かった。


エイルは数えながら進む。


一歩。

二歩。

三歩。


後ろを見ない。

見たくなる。

背中にまだ“村”が張りついている気がする。灰の匂い、外気、焼けた柱の輪郭。

それが今どんな顔をしているのか、確認したい衝動が首の筋を引く。

だが前にはヘルムの背。

少しずつ揺れる外套の裾だけを見る。


四歩。

五歩。


後ろで、何かがきしんだ。

木が鳴る音。

村の裏手の壁板が戻る音に似ていた。

いや違う。

これはもっと近い。耳元で、誰かが息を吐く時の小さな掠れだ。


六歩。


「……お兄ちゃん」


声。


ミナだった。


耳のすぐ後ろで、十年前のままの呼び方が落ちた。

泣いていない。

助けを求めてもいない。

ただ、自分を確かめるような高さで。


七歩。


喉が勝手に震えかける。

返事をしたい。

せめて振り向きたい。

だがその衝動の方が、今はむしろ“自分ではない何か”に近いと分かる。

これは聞こえてはいけないタイミングで聞こえすぎている。


八歩。


前のヘルムの肩が、一瞬だけ固くなる。

彼にも何か聞こえているのだろう。

だが振り返らない。

そうしてくれるだけで、こちらも踏みとどまれる。


九歩。


沢の音がした。

仮営地の沢。

昨夜ずっと聞いていた水音。

ありえない。

入口からまっすぐ入ってきたなら、背後に残るのは村だけのはずだ。


十歩。


そこで初めて、ガイアスが止まった。


「いい」


声は前からだった。

そのたった一言だけで、張りつめていた何かが少しだけ切れる。


エイルは息を吐き、ようやく肩の力を抜く。

振り返る。


村の裏手は、もうそこになかった。


入口はある。

だが向こうに見えるのは焼け跡の空き地ではなく、白く濁った壁の向こうに沈む影だけだ。外の景色が消えたのではない。

こちらがもう、“村の裏側”ではなく“接続路の入口側”へ立ってしまったのだ。


ラウルが最後に入ってくる。

顔色は悪い。

だが生きている。

少なくとも今のところ、誰も入口で失われてはいない。


「点呼」


セヴランが低く言う。


全員が順に手を上げる。

ガイアス。ヘルム。エイル。セヴラン。封印術師。ラウル。


六人。


全員いる。


その確認が、妙にありがたかった。


「護衛は」

ヘルムが周囲を見回す。

「どこだ」


入口のすぐ内側で倒れているはずだった。

エイルが壁板越しに見た残像では、たしかにそこにいた。

だが今、通路の見える範囲には誰の姿もない。


ガイアスが舌打ちする。


「少し滑ったな」


「何が」

ラウルの声は掠れている。


「位置だよ」

ガイアスは前方を見たまま言う。

「入口から見えた内側と、実際の内側が少しずれてる。よくある」


よくある、で済ませてほしくない話だったが、ここではもうそういう種類の苛立ちに意味がない。


通路は前方へ緩く下っている。

途中で左右へ細い溝が切られ、水ではなく淡い光のようなものが流れていた。灯りではない。

石の継ぎ目に沿って、ごく薄い青が沈んでいるだけだ。

それでも完全な暗闇よりはマシで、壁の輪郭はかろうじて読める。


「罠は」


セヴランが問う。


封印術師がしゃがみ込み、白粉を足元へ散らした。

粉は床の上に丸く落ちる。

今のところ、吸われる感じはない。


「入口直後は安定している」

封印術師は答える。

「ただ、路として“生きている”」


「生きている、とは」


ラウルが小さく訊いた。


「応答がある、という意味だ」

封印術師は壁へ視線を向ける。

「完全な遺構ではない。向こう側とのやり取りがまだ残っている」


向こう側。

それがどこを指すのか、ここではもう誰も具体的には問わない。

問えば、かえって輪郭を与えてしまう気がした。


ヘルムが床を見た。


「足跡」


通路の先に、浅い擦れがある。

一人分。

靴底の形で分かる。さっき消えた護衛のものだ。


しかも、その足跡は途中で転んでいない。

壁に引き込まれたのでもない。

普通に歩いて、この先へ進んでいる。


「自分で行ってる」


ヘルムの声に、怒りと焦りが混じる。

仲間を“奪われた”のではなく、自分で一歩踏み込んだという事実が、一番たちが悪い。


ガイアスが足跡の向きを見た。


「呼ばれたな」


「そう断定できるのか」


セヴランが問う。


「できるね。迷ったやつの足はもっと荒れる。こいつは一回止まって、それから選んで歩いてる」

ガイアスはしゃがみ込み、足跡の最初の位置を指す。

「ここで一瞬だけ迷って、次で決めてる。呼ばれたか、見えたか、そのどっちかだ」


エイルはその位置を見つめた。

たしかに、最初の一歩だけが浅い。

その次からは一定の歩幅で整っている。

“入りたくて入った”足だ。


「追うしかない」


ヘルムが低く言う。


セヴランはすぐには頷かない。

通路の幅、壁の継ぎ目、足元の溝、薄い青の流れ。

その全部を見てから、短く命じた。


「追う。ただし足跡から外れるな。司書は中央。何か見えても声にするな、まず合図しろ」


「はい」


エイルは頷き、胸元の紙を確かめる。

封書。地図片。下書き紙。

こんな場所へ紙を持ち込むのが正しいのかどうかは分からない。

だが記録しなければ、ここで起きることはまた“なかったこと”になる。


進み始める。


通路の壁は、近くで見ると白くない。

むしろ薄い灰色だ。

ただ、その表面に極細の線が幾重にも走り、遠目には白く見えるだけだった。

自然の石ではない。

誰かが意図して削り、組み、接続の境界として整えた人工の路だ。


十歩ほど進んだところで、左の壁面に浅い傷が見えた。

エイルは思わず視線を止める。


爪で引いたような線。

三本。

その下に、小さな円。


外の荷運び道の杭にあった記号と同じだ。


「同じ印です」


小声で言うと、セヴランが止まる。

封印術師も壁へ寄る。


「外縁だけではないのか」


封印術師が呟く。


「道案内じゃなくて、区切りだな」

ガイアスが言った。

「誰かが“今どっち側か”を数えるために残してる」


「誰が」


ラウルの問いは半ば独り言だった。


答えはない。


だがエイルはその記号を見ているうち、妙な感覚に襲われた。

これはただの標識ではない。

誰かが迷わないために残したものだ。

そして、その誰かはたぶん“大人の字”ではない。


「……子どもの記号みたいです」


気づけばそう言っていた。


全員がこちらを見る。


「どういう意味だ」


セヴランが問う。


「文字になる前の印です」

エイルは壁を見つめたまま答える。

「言葉で場所を覚える前に、自分だけ分かる形で残すような……」


言いかけて止まる。

ミナも昔、よくやっていた。

文字がまだ難しかった頃、家の裏の石や木に、自分だけ分かる記号を作って遊んでいた。大人には意味不明で、本人だけが“ここは秘密の場所”だと分かるような印。


喉が詰まる。


「続けろ」


セヴランの声は低いが急かさない。


「……子どもが、自分で道を覚えるために残したみたいに見えます」


その言葉が落ちた瞬間、ラウルが小さく首を振った。

否定ではない。

“それを言うな”に近い反応だった。


エイルは見逃さない。


「何ですか」


ラウルはすぐに顔を上げた。


「いえ、ただ……そんな子どもが、こんな場所を一人で歩いてたなんて」


言い訳にしては苦しい。

だが今ここで追う話ではない。

セヴランもそれ以上は触れず、通路の先へ視線を戻した。


さらに進む。


通路はまっすぐではなく、ゆるやかに右へ折れていた。

村の真下を横切るというより、外縁から内側へ潜り込みながら中心へ寄っていく感じだ。

井戸跡の下にあった横ずれの四角い枠が本流なら、ここはそこへ合流するための補助路なのだろう。


足跡はまだ続いている。


そして折れ角の手前で、やっと護衛を見つけた。


壁にもたれて座り込んでいる。

倒れたというより、そこで力が抜けて座り込んだような形だ。

剣は抜いていない。

呼吸はある。

ただ、目だけが開いたまま焦点を失っていた。


「おい」


ヘルムが真っ先に駆け寄る。

肩を掴み、二度揺する。

護衛は反応しない。

口が半開きになり、唇のあいだから乾いた息だけが出ている。


エイルも近づいた。


男の目は何かを見ている。

だがそこに映っているのは、この通路ではない。

もっと明るい、もっと遠い場所を見ている目だ。


「聞こえるか」


セヴランがしゃがみ込み、低く声をかける。

反応はない。


封印術師が脈を取る。


「命はある。だが意識は引かれている」


「どこへ」


ラウルが掠れた声で言う。


封印術師は答えない。

答えようがないのだろう。

だが、その沈黙自体が十分に不穏だった。


エイルは護衛の手元に気づく。

右手が、床へ何かを書いた形のまま止まっている。


「待ってください」


しゃがみ込み、床を見る。


石の上に、指でなぞったような浅い線がある。

一文字ではない。

言葉にもなっていない。

ただ、同じ形が二度繰り返され、最後だけが崩れていた。


これは文字を書く人間の跡ではない。

見たものを、そのままの形で残そうとした跡だ。


余白視の奥で、それが少しだけ整う。


円。

その内側に、縦の裂け目。

白い門。


護衛は、消える前に見たものを床へ残そうとしたのだ。


そのすぐ下に、もう一つだけ線がある。


横へ伸びる短い線。

その先に、小さな点。


「……右」


思わず口にすると、ガイアスが即座に反応した。


「折れ角の向こうか」


護衛が見たものは、通路の先ではなく、右へ折れた先にあった。

そしてその“門”は、ここではなくさらに奥を指している。


セヴランが立ち上がる。


「護衛は?」


ヘルムが短く答える。

「運べる。だが意識が戻るかは分からん」


「戻す手段は」


封印術師は首を振る。

「ここでは無理だ。引き戻すなら外だ」


つまり、この場で撤退するか、護衛を担いで先へ進むかの二択になる。

そして今までの経験上、入口に近い方が必ずしも安全とは限らない。


ガイアスが折れ角の先を見たまま言う。


「戻るなら今だ。進むなら、もう“村の下”に入る」


セヴランは迷わない。


「進む」

短く言った。

「ここまで来て、道だけ見て帰る意味はない。護衛は交代で担ぐ。司書、前に出ろ」


「僕ですか」


「お前が見たものが今は一番使える」


冷たいが、正しい。


エイルは立ち上がり、折れ角の先を見た。

壁の向こうに、何があるのかまだ見えない。

だが護衛が残した門の形と、その右を指す短い線だけが確かな記録としてそこにある。


ミナの声はまだ聞こえない。

だからこそ、逆に怖い。


この先で本当に呼ばれたら、自分は返事をしないでいられるのか。

足元だけを見ていられるのか。


答えはない。

けれど、もう進むしかない。


エイルは通路の折れ角へ向かって一歩踏み出した。


白い石の壁が、かすかに呼吸するみたいに冷たかった。

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