第十五話 北側の嘘
村が嘘をつくとき、最初に狂うのは中心ではない。
たいていは、誰もよく覚えていない外側から順に、少しずつ形を変える。
井戸跡を離れて北へ回り込むにつれ、ヴァルセインの“偽物らしさ”はむしろ濃くなっていった。
焼け跡の家並みは一見しただけなら村に見える。
石垣があり、家の骨組みがあり、道幅も人が二人並んで歩ける程度には保たれている。
だが、その一つひとつが、エイルの記憶と微妙に噛み合わない。
本来なら畑へ抜ける細道があるはずの場所に、焼けた納屋がある。
納屋だった場所には、壁の薄い住居跡がある。
井戸から北へ向かうはずの緩い坂は、今は逆にわずかに下っていた。
どれも“間違いだ”と叫ぶほどではない。
だが、故郷を足場にして育った身体には、そのずれが骨の裏側で分かる。
「この辺り、前はもっと開けてたはずなんです」
エイルが低く言うと、ガイアスは先頭のまま肩越しにだけ返した。
「村そのものが配置を入れ替えてる」
それから少しだけ間を置く。
「いや、正確には“村に見えるように”入れ替えてる、か」
セヴランが周囲を見回しながら問う。
「北側に何があった」
「祠へ続く細道です」
エイルは答える。
「村の子どもはあまり近づくなって言われてた。……でも、家はこんなに詰まってなかった」
そう。詰まりすぎているのだ。
村北側の家並みは、本来ならもっとまばらだった。風が抜けて、冬は寒いと大人たちが言っていた。
だが今目の前にある焼け跡は、必要以上に家と納屋が密集している。村に見せかけるために、家の数を増やしたみたいに。
「数を盛ってるのか」
ヘルムが嫌そうに呟く。
「数というより、視線を詰まらせてる」
ガイアスは言った。
「見通しが悪い方が、入口は隠しやすい」
その一言で、全員の意識がまた“入口”へ戻る。
井戸跡の下に、ずれた四角い枠。
白い門の輪郭。
村の中心に埋め込まれた第一接続路。
だがセヴランはそこへ飛びつかなかった。
今はまだ、村の外装がどこまで偽装されているかを見極める段階だ。
その慎重さが、逆にこの場の均衡を保っていた。
北側の一角で、ガイアスが足を止める。
「これだな」
指差した先にあるのは、半分だけ焼け残った長い建物だった。
家というより、物置か作業小屋に近い。屋根は片側が落ち、壁板は黒く縮れている。
だが奇妙なのは、その焼け方だった。
正面はよく焼けているのに、裏へ回るほど煤が薄くなる。
火が回ったというより、“前からだけ焼いた”みたいな残り方だ。
封印術師もそれに気づいたらしい。
壁際へ寄り、板の継ぎ目に白粉を落とす。
粉は下へ落ちず、一部だけ横へ流れた。
「……ここもだ」
彼は低く言う。
「下に空きがある。井戸ほど大きくはないが、接続の痕が残ってる」
エイルは長屋の位置を見て、喉の奥に冷たいものを感じた。
「ここ、納屋じゃない」
「何だ」
セヴランが問う。
「祠へ行く道の途中です。建物なんてなかった」
エイルは壁板を見つめたまま言う。
「少なくとも、こんな大きいのは」
つまりこの長屋は、“あったもの”ではなく“置かれたもの”だ。
村北側の視界を塞ぎ、祠への細道を隠すために。
ガイアスが建物の周囲を一周しはじめる。
足元を見て、壁の傾きを見て、落ちた梁の向きを見る。
その姿は案内人というより、解体屋か盗掘屋に近かった。
「裏、見てくる」
もう一人の護衛がそう言って、建物の北側へ回った。
セヴランは止めなかった。
止めるほど離れてはいないし、見通しも完全には切れていない。
それに、ここで全員が一か所に固まる方が危うい。
エイルは建物の正面へ近づいた。
焼けた壁板の一枚、その高さが妙に低い。納屋にしては人の手の跡が多く、住居にしては扉がない。
指先を触れかけたところで、セヴランが言う。
「一人で触るな」
「すみません」
反射的に手を引く。
だがその一瞬で、余白視の奥に残像が浮いた。
壁ではない。
扉だ。
しかも外へ開く扉ではなく、内側へ滑る戸口。
「これ、壁じゃなくて」
言いかけた、その時だった。
建物の裏へ回った護衛の声が飛ぶ。
「おい、こっちに戸口が――」
そこで途切れた。
声が切れたのではない。
途中で“吸われた”みたいに、最後の音だけがきれいに消えた。
全員が動く。
ヘルムが真っ先に駆け、セヴランが短杖を抜き、エイルも反射的に建物の角を回った。
北側の裏手は狭い空き地になっていた。焼けた柵、崩れた石積み、灰の溜まった地面。
そこに人影はない。
さっきまでいたはずの護衛だけが、きれいに消えていた。
「……っ」
ヘルムが低く息を呑む。
足跡はある。
建物の裏手まで来た跡。
そこで一度立ち止まり、右へ一歩。左へ半歩。
そして、その先がない。
壁の前で終わっている。
まるで、壁の中へ入ったみたいに。
「扉だ」
エイルの口から出た。
建物裏手の壁板、その一面だけ焼け方が浅い。
しかも板の木目が、他の面と逆向きになっている。
正面で見た“置かれた長屋”の違和感が、ここで一気に形になる。
ガイアスが舌打ちした。
「やられたな。表じゃなく裏に口があったか」
「引き込まれたのか」
ヘルムの声は低いが、怒気が滲んでいる。
「いや」
ガイアスは足跡の終点をしゃがんで見る。
「自分で一歩入ってる。呼ばれたか、開いたか、そのどっちかだ」
エイルは壁板へ近づき、今度はセヴランの制止を待たずに指先を置いた。
ざらり、と感覚が裏返る。
木の板ではない。
薄い偽装の皮だ。
その向こうに、冷たい石の縁がある。
井戸跡の下で感じた四角いずれと同じものが、ここではもっと縦に近い形で立っている。
視界の奥に、裏手の空き地ではなく別の景色が重なる。
狭い回廊。
石の壁。
横へ伸びる白い線。
そして、その入口のすぐ内側で、誰かが転んでいる。
さっきの護衛だ。
生きている。
少なくともまだ、死体ではない。
「中です」
エイルは息を荒くして言った。
「すぐ向こう。倒れてる」
セヴランが一歩前へ出る。
「確かか」
「見えました」
ガイアスが低く笑う。
笑いというより、ようやく答え合わせが来た時の短い息だった。
「井戸は蓋だ。こっちが今の口らしいな」
封印術師が白粉を振る。
粉は壁板の前で一瞬留まり、それから縦長の輪郭に沿って沈んだ。
「接続面が立っている……」
彼は苦い顔で言う。
「横の路に対して、こちらは出入口だ。井戸跡のずれが本流なら、ここは迂回の補助口に近い」
補助口。
つまり、井戸跡だけでは出入りしづらい時に使う別口。
村の北側に偽装長屋を置いて、祠道ごと塞いでいた理由もそれで繋がる。
ラウルが青ざめた顔で後ずさる。
「戻りましょう。今ならまだ――」
「戻ってどうする」
ヘルムが振り返り、ほとんど睨みつけるように言った。
「中に一人いる」
ラウルは言い返せない。
だが、その顔には恐怖だけでなく、もっと別の焦りが混じっていた。
入られることそのものを恐れている顔だ。
セヴランは全員を見渡した。
「選択肢は三つ」
声は静かだった。
「一つ、この場で封鎖を試みる。二つ、撤退して増援を待つ。三つ、今すぐ入って連れ戻す」
誰も口を開かない。
けれど、答えはもうほとんど決まっていた。
増援を待てば、この入口はたぶんまたずれる。
封鎖を試みても、中にいる護衛は切り捨てることになる。
なら残るのは一つだけだ。
セヴランが言う。
「入る」
短く、確定の声だった。
エイルの心臓がひどく速くなる。
とうとう来た。
白門の向こう。
第一接続路の内側。
ミナが“保留”された場所に、今度はこちらが踏み込む。
「先頭は俺」
ガイアスが言う。
「こういう半開きは、入り方間違えると口ごと閉じる」
「中央に護衛一名と司書」
セヴランは即座に継ぐ。
「封印術師は私の後ろ。ラウルは最後尾、ヘルムがつけ」
その配置に、誰も異を唱えない。
ラウルだけが小さく言った。
「僕は……」
「最後尾だ」
セヴランの声は低いまま、完全に切った。
「勝手に列を離れるな」
ラウルは唇を噛んで頷く。
エイルは内ポケットの封書と地図片を確かめ、肩掛け袋の口を縛り直した。
戻れる保証はない。
だが記録を落とすわけにはいかない。
建物裏手の“壁”が、朝の光の中で少しだけ白く見え始める。
門が開きかけているのではない。
こちらが“入口だ”と認識したことで、偽装が薄れてきているのだ。
ガイアスが壁板の縁へ手をかける。
木を掴む動作なのに、指先は確かに別の感触を捉えていた。
彼は振り返らずに言った。
「入ったら、最初の十歩は絶対に振り返るな」
「理由は」
ヘルムが問う。
「村が外に残るからだよ」
ぞくりとする説明だった。
だが今は、その意味を確かめに来ている。
セヴランが短杖を握り直す。
「行くぞ」
そして次の瞬間、ガイアスが“壁”を横へ押した。
焼けた板張りのはずの一面が、音もなく薄れていく。
向こうに現れたのは、灰の空き地ではない。
冷たい石壁と、下へ半歩ぶん落ちる白い縁。
空気がひとつ、深いところから流れ出してくる。
ヴァルセインの外側ではない。
第一接続路の入口が、今、自分たちの前で開いていた。




