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神託の空白地図  作者: 麒麟児
第一章 白い灯りは嘘
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第十三話 夜明け前の出立

夜明けは、闇が薄くなるより先に、人の顔から嘘を剥がしていく。


結局、仮営地では誰もまともに眠らなかった。


火は小さく保たれたまま、三度ほど薪を足されただけで夜を越えた。沢の向こうから声が返ってくることはもうなかったが、その代わりに、暗がりのどこかで何かがこちらの起きている気配を確かめ続けている感じだけが最後まで消えなかった。

目に見える敵の方がまだましだ、と護衛の一人が小さくぼやいた時、誰も否定しなかった。


夜のあいだに増えたものがあるとすれば、疲労よりも沈黙だった。


補助神官ラウルは火のそばからほとんど動かず、祈詞を唱えるふりをしながら、実際には何か別のことを考えている顔をしていた。封印術師は術具の点検を繰り返し、寝るより先に白粉の残量を確かめていた。ガイアスは途中一度だけ姿を消したが、誰にも何も言わずに戻ってきて、何もなかったようにまた火の外縁へ座った。

セヴランは一晩中、誰かを問い詰めることもせず、逆に誰にも気を抜かせなかった。


夜明け前、空の色がまだ藍と灰のあいだで揺れている頃に、彼は立ち上がった。


「出る」


それだけで全員が動く。

誰も異を唱えない。

たぶん、待つより進む方がまだ理解できる恐怖だった。


焚火は水をかけず、砂で殺した。煙を立てるな、とガイアスが言ったからだ。沢の湿り気が強いこの場所では、水をかければ白い煙が長く残る。誰に向けた目印になるのかは分からないが、少なくとも今の自分たちは、何かを知らせる側より知られたくない側だった。


荷をまとめるあいだ、エイルは昨夜の紙片のことを考えていた。


祈るな。探せ。


白門に祈るな。

ではなく、もっと直接的な命令。

しかもラウルの足元へ落ちた。

偶然ではない。だが、それがラウルへの警告なのか、自分たち全員への誘導なのかはまだ分からない。


毛布を畳んでいると、すぐ横でヘルムが低く言った。


「顔色が悪い」


「そっちもです」


「俺はいつもこうだ」


そう返して、小さく鼻で笑う。夜を越えたせいか、昨日より少しだけ声が近かった。


「今日、中へ入るんだよな」


「たぶん」


「たぶん、か」

ヘルムは剣帯を締め直しながら続ける。

「入るなら入るで、誰が前に出るか決めとけよ。妙なもんが見えた時、全員が一斉に止まるのが一番まずい」


実務の話だった。

こういう時、護衛は頼りになる。目の前で起こることを感情より手順で捌こうとする。


「先頭はガイアス、真ん中にセヴラン執行官、後ろに封印術師ですかね」


「いや」

ヘルムは首を振る。

「村の中は、その並びだとたぶん隊の“目”が前に寄りすぎる。後ろが死ぬ」


後ろが死ぬ。

遠慮がない。だが間違っていない気がした。


「じゃあどうするんです」


「司書、お前が真ん中だ。見えるやつは、前にも後ろにも手が届く場所に置いた方がいい」


エイルが答えるより先に、後ろから声が落ちた。


「同感だ」


セヴランだった。


いつの間に近づいたのか分からない。彼は荷の最終確認を終えたらしく、外套の留め具を直しながらこちらへ来る。


「今日の隊列を変える」

全員へ向ける声で言った。

「先頭はガイアス。第二に護衛。中央に司書と封印術師。後方に私と残りの護衛。補助神官は荷と一緒に中央寄りだ」


ラウルが一瞬だけ顔を上げる。


「中央、ですか」


「問題があるか」


「いえ」


返事は早い。

だが“いえ”の前に一拍あった。

エイルはその遅れを覚える。


セヴランは何も言わず視線だけで受け流し、さらに続けた。


「村へ入ったあとは、勝手に名前を呼ぶな。見つけたものに対して“誰だ”とも言うな。確認は位置か形で行え」


ガイアスが小さく鼻を鳴らす。


「覚えがいいじゃないか」


「お前が夜のうちにうるさかったからな」


セヴランの返しは平坦だ。

だがその会話だけで、夜のあいだに二人が何かしら話していたことが分かる。

完全に手を組んだわけではない。

それでも、互いに役立つ情報を切り売りする程度の折り合いはついたらしい。


出発直前、ガイアスが沢沿いの暗がりから戻ってきた。

靴に泥がついている。夜のうちに姿を消していた理由を、誰も聞かない。

聞かない代わりに、セヴランが一言だけ確認した。


「増えていたか」


「一つだけ」

ガイアスは答える。

「仮営地の外周、見張りの足跡が増えてた。人間のじゃない。だが昨夜よりは近い」


「寄ってきてるのか」


ヘルムが顔をしかめる。


「違うな」

ガイアスは首を振った。

「こっちが近づいてるんだよ」


その方が、たぶん正しい。


空がようやく薄青くなるころ、隊は仮営地を離れた。


朝の冷えた空気は夜の湿り気をまだ引きずっていて、草の先が濡れている。歩けば裾が冷たくなり、足元の土は静かに靴へまとわりつく。

それでも昨夜より視界があるだけで、少しだけ現実へ戻れた気がした。


実際には、見えるからこそ分かる違和感も増えていた。


仮営地からヴァルセイン外縁へ戻る道は、昨日の帰路と同じはずだった。

だが半刻も歩かないうちに、エイルはそれに気づく。沢の曲がり方が違う。

昨日は左へ回り込んでいたはずの流れが、今朝はもっと手前で石を噛んでいる。護岸の岩の数も合わない。


「ガイアス」


呼ぶと、先頭の背中が少しだけ振り返る。


「沢、昨日と違いませんか」


「違うよ」

あまりにもあっさりした返答だった。

「だから朝のうちに出た」


「それを先に言え」


後ろからヘルムが吐き捨てる。


「言ったら安心するのか?」


「しないが、腹は立つ」


「なら同じだろ」


まるで会話になっていない。

だがそれでも、こうして口が動いている間はまだ人間の側にいる気がした。


ヴァルセイン外縁が見える位置まで戻る前に、隊はもう一度だけ止まった。


昨日見つけた里程標の“ヴァ”の文字。

そこを通るつもりだったのに、同じ目印がない。

代わりに、少し南寄りの斜面に、似た形の苔むした石が立っている。


「移ったんじゃない」

ガイアスが言う。

「こっちがずれた」


同じことだ、とエイルは思いかけたが、たぶん違う。

石が動いたのではなく、自分たちが“同じ場所の別の縁”を歩かされているのだ。


セヴランが地図を広げる。

昨夜、自分で線を引き直した簡易図だ。

それと目の前の地形を照らし合わせ、すぐに折り畳む。


「地図は使わない」

判断は早い。

「目印と歩数だけで進む」


封印術師が眉を寄せた。


「危険だ」


「今さら紙の安全に賭ける方が危険だ」

セヴランは切り捨てる。

その言葉に誰も反論できなかった。


やがて、林の向こうに再びヴァルセイン外縁の石垣が見えた。


朝の村は、昨日夕方に見たそれとは違っていた。


白い灯りは消えている。

だがその代わりに、焼け跡の輪郭が昨日より“静か”だった。

静かすぎる、と言った方がいい。昨日は灯りがあったぶん、向こうにも何かの呼吸がある気配がした。

今朝の村は、それさえない。

ただの焼け跡を演じることに徹しているような静けさだった。


「昨日より嫌だな」


ヘルムが低く言った。


「同感です」


エイルもそう返す。

朝の光の中で見る方が、かえって偽物めいている。


外縁の石垣近くまで来たところで、ガイアスが立ち止まり、地面をしゃがんで見た。

すぐ横にセヴランも並ぶ。


「足跡が消えてる」

ガイアスは言う。


昨日あったはずの、小さな裸足に近い足跡。

たしかにそこにはもう何もなかった。土は少し乾き、踏み跡だけを都合よく消したように平らになっている。


「風で消えた感じじゃない」


エイルが言うと、ガイアスは頷く。


「“戻された”な」


「何が」


「村の入口がだよ」

彼は立ち上がる。

「昨日は向こう側がちょっとだけこっちへ滲んでた。今朝は引っ込んでる」


つまり昨夜見た白い灯りは、ただの幻ではない。

接続が実際に浅く開いていたのだ。

そして今は閉じかけている。


「なら今が入る時か」

セヴランが言う。


ガイアスは珍しく、すぐには返事をしなかった。

村を見て、石垣を見て、入口脇の祠石を見たあとで、低く答える。


「今しかない」

そこで一拍置く。

「ただし、門を探すな。村を見ろ」


意味が分からないようでいて、分かる。

“門”そのものを探し始めると、たぶん向こうに名前を渡すことになる。

だからまずは村としての違和感から追え、ということだろう。


隊が入口前へ整列しかけた、その時だった。


補助神官ラウルが小さく声を上げた。


「待ってください」


全員が彼を見る。


ラウルは自分でもこの場で止めるとは思っていなかったような顔をしていた。

だが口に出してしまった以上、もう引けない。


「このまま入るのは危険です」

彼は言う。

「せめてもう一度、外縁の祈祷を正式手順で」


ガイアスが露骨に顔をしかめる。


「正式手順ねえ」


セヴランはラウルをまっすぐ見た。


「理由は」


「……昨日の灯りは、呼び込みの類かもしれません」

ラウルは少し言葉を選びながら続ける。

「外縁での灯火現象は、古い禁足地ではしばしば“祈りを向けた者から先に引かれる”前触れとして――」


「誰に聞いた」


セヴランの問いがその説明を真ん中で断ち切る。


ラウルが止まる。


「今のは、神学校の教本にはない」

セヴランの声は低い。

「どこで知った」


補助神官の顔から血の気が少し引いた。

一瞬だけ、視線が封印術師の方へ滑る。

ほんの一瞬。

だがそれで十分だった。


封印術師は無表情のまま視線を逸らす。

ガイアスが鼻で笑う。


「ようやく線が出たな」


ラウルはすぐに頭を下げた。


「……失言でした」


「違う」

セヴランは切る。

「今のは失言じゃない。知っている人間の言い方だ」


空気が一段張る。


護衛たちの位置が自然に変わる。

誰も剣を抜かないが、半歩ずつラウルと封印術師の逃げ道を狭める形になっていく。


エイルは心臓が少し速くなるのを感じながら、ラウルの顔を見ていた。

怯えているのは本当だ。だがその怯えは、ただ未知が怖い人間のそれではない。

何かを知っていて、それを口にした瞬間に自分の立場が崩れることを恐れる顔だった。


セヴランが一歩前へ出る。


「ラウル。ここで全部話せ」


補助神官は唇を噛んだ。

喉が動く。

言うべきか、黙るべきか、その一瞬の計算がはっきり見える。


「今ここで黙るなら、お前は“知らない者”としてではなく、“隠している者”として扱う」


静かな声だった。

だが最終通告としては十分だった。


ラウルは目を閉じる。

数秒。

やがて、観念したように息を吐いた。


「……白門についての古い覚え書きを見ました」

声は掠れていた。

「大神殿の正規文書じゃありません。地方封印課に回ってきた、破棄予定の写しです。そこに、“祈りを向けるな。探せ”と同じ意味の警句がありました」


エイルの胸の奥で、昨夜の紙片が冷たくつながる。


「誰から渡された」


ラウルはもう一度、ほんのわずかに視線を横へ流した。

今度は誰の方か、全員が見た。


封印術師だった。


沈黙が落ちる。


封印術師は表情一つ変えずに立っている。

だがその無表情が、もはや無関係の顔には見えなかった。


ガイアスが小さく舌打ちした。


「だから言ったろ。同行者の中にいるって」


セヴランの視線が封印術師へ向く。


「説明しろ」


ようやく、村へ入る前に、同行者の中の“知っていた側”が表へ引きずり出される

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