第十二話 見張りの夜
夜を見張るというのは、暗闇の中の敵を探すことではない。
本当に厄介なのは、暗闇の方が先にこちらを数え終えているかもしれないことだ。
仮営地の火は、日が完全に落ちる前に二つへ分けられた。
一つは煮炊きのための火。
もう一つは見張りのための、できるだけ低く、長く保つ火。
ガイアスの指示だった。大きな火は安心をくれるが、同時に位置を渡す。だからここでは、暖を取る火より、輪郭だけを保つ火の方が大事らしい。
護衛の一人がぼやいた。
「火まで正規ルートを外れるのかよ」
「外れた方が燃えることもある」
ガイアスは枝を折りながら答えた。
「そういう場所だ」
誰もその意味を聞き返さない。
聞いて分かる種類の話ではないと、ここまで来れば全員が知っていた。
見張りは二人一組、三交代で組まれた。
一の見張りがセヴランと護衛。
二の見張りがエイルともう一人の護衛。
三の見張りがガイアスと封印術師。
補助神官ラウルは炊事と祈祷の補助、緊急時は起こして合流という名目で、表向き見張りから外されている。
表向きは、だ。
エイルは焚火のそばで毛布にくるまりながら、その決め方そのものを頭の片隅で反芻していた。
ラウルを外したのは、若くて怯えているからか。
それとも逆に、見張りに立たせない方が都合がいいと誰かが判断したのか。
イルザの封書を読んでから、すべての並び順に意味があるように見えてしまう。
それが正しいかどうかはともかく、もう“気のせい”だけでは済ませられなかった。
一の見張りに立つセヴランの背中が、低い火の向こうで時々揺れる。
座っているように見えて、実際にはほとんど動きを止めていない。視線、足の向き、短杖を持つ手の位置。
この男は、止まっている時ほど周囲を見ている。
護衛の方は、最初こそ何度か小さく欠伸を噛み殺していたが、沢の向こうで二度目の石の音がしてからは眠気も飛んだらしい。
火の明かりの外を見つめる目が、少しだけ本気になっている。
エイルは眠るふりをしながら、音を数えていた。
焚火の爆ぜる音。
沢の水。
木々の軋み。
遠くで小さく鳴く夜鳥。
それから、ときどき混ざる、どれにも似ていない擦過音。
布が枝に触れるような。
裸足が湿った土を撫でるような。
それが近づいては離れ、一定の距離を保って仮営地の外縁を回っている。
一人ではない。
少なくとも二つ。
いや、三つかもしれない。
ただ、人の数として数えようとすると途端に輪郭が崩れる。ガイアスが言っていた“音を数えろ”の意味が、少しずつ腹へ落ちていった。
やがて、一の見張りの交代時刻が来た。
セヴランが火のそばへ戻り、エイルの肩を軽く叩く。
「起きろ」
眠っていなかった、と返すのはやめた。
そんなことはたぶん、触れなくても分かっている。
毛布を払って立ち上がる。夜気は思った以上に冷え込んでいた。沢から上がる湿り気が足元へまとわりつき、火から三歩離れるだけで一気に体温を奪ってくる。
交代相手の護衛は、昼間に何度か文句を言っていた男だった。
名をたしか、ヘルムと言ったはずだ。三十前後、口は悪いが足場の悪い場所では一番先に荷を持っていた男。
「眠れたか」
火の向こうへ歩きながら、ヘルムが低く聞く。
「全然」
「だろうな」
それだけで終わる。
余計な慰めはない。
こういう時の方が、かえって助かる。
見張り位置は仮営地の東側、沢へ下りる斜面の手前だった。
低い火を背にし、正面は沢、右手は林、左手は荷の置き場。
何か来るなら沢沿いか、林の陰。そういう想定らしい。
ヘルムは腰を下ろさず、立ったまま周囲を見た。
「昼の分岐の時から思ってたが」
ぼそりと言う。
「あんた、見えてるんだろ」
直接的だった。
エイルは少しだけ間を置いてから答える。
「普通よりは、消されたものが見えるだけです」
「普通じゃないって意味では十分だ」
ヘルムは鼻で息を鳴らす。
「嫌な言い方になるが、今は助かる」
嫌な言い方、と自覚してから口にするあたり、この男は雑に見えて線を引くタイプなのだろう。
「聞かないんですね。どう見えてるのか」
「聞いたところで俺には使えん」
あっさりしている。
「知りたいのは、あんたが“今夜も使える状態か”だけだ」
合理的だった。
それでいて、妙に優しい聞き方でもある。
「使えます」
「ならいい」
会話はそこで切れた。
しばらくは、音しかなかった。
沢。
火。
風。
それから時折、木の陰で止まる気配。
ヘルムはそれらをいちいち言葉にしない。
言葉にしないが、聞こえていないわけでもない。肩の向きと武器へかかる手の角度が、たびたび微妙に変わる。
「昼、封印術師を見てたろ」
不意に、ヘルムが言った。
エイルは視線を向ける。
「見てましたか」
「見張りってのは、見る仕事だ」
夜目を凝らしたまま、彼は続けた。
「俺も少し気になってる。札が出る前から、あいつだけ小屋の方を気にしてた」
やはり見ていたのは自分だけではない。
「じゃあ、どうしてセヴラン執行官に言わないんです」
「確証がないからだ」
短い返答。
「それに、あの人はたぶん、気づいてる」
エイルは少し黙った。
たしかにセヴランは、気づいていない顔ではなかった。
「なら、泳がせてる」
「だろうな」
ヘルムはそこで初めて、ほんの少しだけ笑った。
乾いた、短い笑いだ。
「そういうの、嫌いじゃない。面倒だが」
その言葉のあとだった。
沢の向こうで、水音が変わった。
流れそのものは同じなのに、そこへ別の音が重なる。
誰かが水の中へ足を入れたときの、浅い掻き分け音。
だがこの冷え込みで、わざわざ沢へ入る人間がいるとは思えない。
ヘルムが手を上げ、エイルへ動くなと示す。
自分は半歩だけ前に出る。
剣を抜くまではしないが、いつでも抜ける位置。
水音は二度。
三度。
それから止まる。
火の明かりは沢まで届かない。暗がりの向こうは、音の位置だけでしか追えなかった。
エイルは息を浅くし、耳だけをそちらへ向ける。
一歩ぶん、近い。
人の重さではない。
だが獣とも違う。
裸足に近い、軽い足。
その瞬間、沢の向こうから小さな声がした。
「……ねえ」
凍る。
子どもの声に聞こえた。
いや、“子どもの声として聞き取りやすい高さ”で響いた。
それが本当に声だったのかどうか、確信できない種類の音だ。
ヘルムが即座に低く言う。
「返すな」
エイルは答えない。
答えられない。
喉が勝手に締まっていた。
「……ねえ」
二度目。
今度は少しだけ右から聞こえる。
沢の正面ではない。
音の位置が、人間の歩幅ではありえない速さでずれている。
ヘルムが剣を半ば抜いた。
同時に、仮営地中央からセヴランの声が飛ぶ。
「視線を上げるな!」
起きていたのか、それとも最初から眠っていなかったのか。
声だけで全員を立たせる響きだった。
火の向こうで人が動く音がする。
補助神官の祈り、封印術師の術具の金属音、ガイアスの舌打ち。
仮営地は一瞬で“眠りかけた野営”から“現場”へ変わった。
「沢から離れろ」
今度はガイアスの声。
「音は餌だ!」
ヘルムがエイルの腕を引き、火の側へ後退させる。
沢の方は見ない。
見れば、たぶん声の主を探そうとしてしまう。
それでも耳だけは聞いていた。
さっきの声が、今度はもっと遠くで繰り返される。
「ねえ」でもあり、「おい」でもあり、あるいはただの水音でもある曖昧な高さ。
誰かの知っている呼びかけ方へ、聞く側の頭が勝手に寄せてしまう種類の音だ。
火の周りへ戻ると、セヴランはすでに短杖を構えていた。
封印術師は白粉を沢側へ撒き、粉の流れを見ている。
補助神官ラウルは祈詞を唱えながらも、明らかに沢ではなく別の場所を見ていた。林の奥、火の届かない左側。
まただ、とエイルは思う。
この男は音より先に、“どこを見るべきか”を知っている顔をする。
「来るか」
セヴランが低く問う。
ガイアスは焚火の外縁、暗がりとの境目に立っていた。
さっきまでどこで寝ていたのか分からないくらい、動きに迷いがない。
「来ない。試してるだけだ」
彼はそう言う。
「今夜はたぶん、名を呼ばせたいんだよ」
「誰に」
「そりゃ、呼ばれたくなるやつにだ」
その答えに、補助神官ラウルの肩がぴくりと動く。
ほんのわずか。
だが焚火の光の中では、その小さな反応の方が沢の向こうの声よりよほどはっきり見えた。
セヴランも見ていたはずだ。
けれど今は何も言わない。
まずは場を崩さないことを優先している。
沢向こうの声はやがて遠ざかった。
最初からそこにいなかったみたいに、音だけが薄れて消える。
残ったのは沢の流れと、火の爆ぜる音、それに人間の呼吸だけだ。
しばらく誰も喋らなかった。
やがてセヴランが短杖を下ろす。
「全員、位置を戻せ。ただし見張りは一人増やす」
その視線がラウルをかすめる。
「補助神官も起きていろ」
ラウルは一瞬だけ顔をこわばらせた。
だがすぐに頭を下げる。
「……はい」
その返事が少し遅れたことを、エイルは覚えておいた。
緊張が完全には解けないまま、見張りは続行となった。
今度はヘルムだけでなく、セヴランも東側へ残る。
ガイアスは沢向こうを見ないまま、焚火へ背を向けて座った。
まるで視線まで数えているみたいな座り方だった。
「今の、何だったと思います」
小さくセヴランへ問うと、彼はすぐには答えなかった。
「声そのものに意味はない」
やがて低く言う。
「意味を与えるのは、聞いた側だ」
「でも、誰かの声に聞こえた」
「そうだろうな」
否定しない。
それだけで十分だった。
「君には何に聞こえた」
エイルは口を閉じる。
答えたくなかった。
答えれば、それが本当に“呼ばれたもの”になる気がした。
セヴランはそれ以上を求めなかった。
「なら言うな」
その一言は冷たい命令ではなく、救命具に近かった。
「少なくとも今夜は」
火の向こうで、ラウルがようやく座り直す。
彼の目はまだ一度も沢の方を見ていなかった。
代わりにずっと、左手の林の奥を気にしている。
ヘルムもそれに気づいたらしく、ぼそりと呟く。
「やっぱり、あいつだな」
「断定するな」
セヴランは即座に切る。
「まだ使える」
まだ使える。
その言葉の選び方が、この男らしかった。
信じるか疑うかではなく、今どの程度まで機能するかで人を見る。
見張りの残り時間は長かった。
もう沢向こうから声はしない。
だが、その代わりに林の奥で時々、誰かが枝を避けるような小さな音がした。
一つ。
二つ。
増えない。
減らない。
ただ、いる。
エイルはイルザの封書の文面を思い返していた。
もし、“白い門”に呼ばれるようなことがあれば、名で返事をしないこと。
やはり、十年前にも同じことが起きていたのだろうか。
ミナは呼ばれたのか。
それとも、応じたのではなく“反応した”だけなのか。
答えはまだない。
だが今夜、自分たちの仮営地の外を回っている何かは、村の灯りと確実につながっていた。
交代の鐘代わりに、セヴランが火へ新しい薪を一本投げた。
炎が少し大きくなり、周囲の顔を順に照らす。
ヘルム。
ガイアス。
封印術師。
ラウル。
そしてセヴラン。
同行者たちはここにいる。
それでも、“ここにいるもの”が本当に全員かどうか、自信はなかった。
その時だった。
ラウルの足元へ、どこからともなく小さな紙片が転がってきた。
風ではない。
投げ込まれたでもない。
斜面の上から、乾いた葉に混じって滑り落ちてきた形だ。
全員の視線がそこへ集まる。
ラウルが最初に拾おうとした。
だがその手より少し早く、ガイアスが靴先で紙片を押さえる。
「触るな」
静かな声だった。
けれどラウルの肩が明らかに強張る。
セヴランが近づき、短杖の先で紙片をひっくり返した。
薄い紙だ。奉納札ではなく、記録紙に近い。
その表に、急いで書いた一行だけが残っている。
祈るな。探せ。
火がぱち、と鳴った。
誰もすぐには喋らなかった。
“白門に祈るな”ではない。
今度は、もっとはっきりこちらへ向けられた言葉だ。
しかも落ちた位置は、なぜかラウルの足元。
セヴランが紙片を拾い上げる。
表裏を確認し、火へかざす。透かしても追加の文字は見えない。
「誰に向けたものだと思う」
問いは全員へ向けられていた。
だが誰も答えない。
ラウルだけが、ほんの一瞬遅れて言った。
「……分かりません」
その“分かりません”が、今日一番信用ならなかった。
セヴランは紙片を畳み、火へくべずに自分の外套へしまう。
「今夜はもう眠るな」
全員へ向けた声が落ちる。
「夜明けを待って動く。村へは予定を早めて入る」
早める。
つまり今夜の“試し”で、待つ方が危険だと判断したのだ。
ガイアスが小さく笑う。
「ようやく話が早い」
セヴランは答えない。
ただ、焚火の向こうの暗がりを見ていた。
エイルは胸の奥で、さっきの紙片の文言を繰り返す。
祈るな。探せ。
それは警告なのか。
誘導なのか。
それとも、昔どこかで同じ選択を迫られた誰かの後悔なのか。
分からない。
分からないまま、夜はまだ終わらない。
けれど少なくとも一つだけ、今はっきりしたことがある。
ヴァルセインの外縁まで来ているのは自分たちだけではない。
見張っている者、誘う者、探させたい者。
そのどれかが、今も火の外側でこちらの反応を読んでいる。
そして同行者の中にもまた、読まれる前から知っていた顔がいる。
夜明けはまだ遠い。
だが、もう待つ時間ではなくなり始めていた。




