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神託の空白地図  作者: 麒麟児
第一章 白い灯りは嘘
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第十話 ヴァルセイン外縁

故郷というものは、近づくほど懐かしくなるとは限らない。


むしろ本当に失われた場所ほど、近づいた時に最初に浮かぶのは懐かしさではなく違和感だ。


古い荷運び道は、里程標を過ぎたあたりから急に静かになった。


それまでかろうじて聞こえていた鳥の声が消え、沢の流れも遠のく。風そのものはあるはずなのに、枝葉の鳴る音だけが薄い。

隊の足音と荷擦れの音だけが、やけに乾いて前へ流れていく。


「ここから先、声を落とせ」


セヴランが言った。

命令というより確認に近い低さだったが、誰も逆らわない。


エイルは歩きながら、道の両脇を見ていた。

木立の並び。下草の密度。地面の起伏。どれも見覚えがありそうで、少しずつ違う。


ヴァルセインへ続く外縁の林は、もっと疎らだったはずだ。

子どもの頃は、村の裏からここへ入って木の実を拾った記憶がある。夏には蝉がうるさく、冬は風が抜けてやけに寒かった。

だが今の林は、音を吸っている。木々の間隔も妙に均等で、人が手を入れて揃えたみたいに見えた。


「……変だ」


気づけば声に出ていた。


前を歩いていたセヴランが振り返る。


「何が」


「木の間隔です。こんなに揃ってなかった」

エイルは周囲を見る。

「村の外れはもっと乱れてた。道だって、こんなに真っ直ぐじゃない」


ガイアスが少しだけ歩調を緩めた。


「記憶と合わないか」


「全部じゃないです。でも……」

エイルは言葉を選ぶ。

「昔の村に“似せた別の配置”みたいに見える」


ガイアスは鼻で小さく笑った。


「いい兆候じゃないな」


「どこがですか」


「まだ村の顔をしてるってことだ」


意味が分かるようで分からない。

だが少なくとも、この男は“外縁で村の輪郭が保たれていること”自体を警戒している。


道はやがて緩い下りへ変わった。

林が切れ、前方に開けた地形が見え始める。谷ではない。村が一つ収まる程度の低地だ。

その縁で、ガイアスが手を上げた。


全員が止まる。


「見ろ」

彼は前を顎で示した。

「ここからが外縁だ」


木々の隙間の先に、ヴァルセインがあった。


――いや、ヴァルセインだったはずの場所が。


最初に見えたのは焼け跡ではない。

低い石垣だった。村の外周を区切っていた古い石積み。ところどころ崩れているが、形はまだ残っている。

その向こうに、黒く傾いた家屋の骨組みがいくつか。屋根は落ち、壁板は焼けて失われ、柱だけが虫の脚みたいに残っていた。


そこまでは、想像とそう変わらなかった。


おかしいのは、その“残り方”だ。


十年風雨に晒された焼け跡なら、もっと崩れる。

柱は倒れ、石垣も苔に埋もれ、家と家の境目さえ曖昧になるはずだ。

だが目の前の村は、破壊されたままの形を、あまりに几帳面に保っていた。


家屋の間隔。

井戸があるはずの空き地。

祠があったはずの小高い場所。

焼けたまま、位置だけが整いすぎている。


まるで誰かが「ここにかつて村がありました」と示す模型を作って、そこへ灰をかぶせたみたいだった。


「……違う」


エイルの口から落ちた声は、自分でも驚くほど小さかった。


「何がだ」


セヴランが問い返す。


エイルは低地を見つめたまま答える。


「井戸の位置が違う」

喉が少し乾く。

「それと、あの家。うちの隣だった納屋の場所にあるはずなのに、向きが逆です」


誰もすぐには何も言わない。


ただ、ガイアスだけが少しだけ目を細めていた。

それは驚きではなく、確認の顔だった。やはりそう見えるか、という種類の。


「懐かしいか?」


不意に聞かれた言葉が、ひどく遠くから来たように思えた。


エイルは首を振る。

懐かしい、という感情にまだ辿りつけない。

胸にあるのはもっと冷たいものだった。


「知らないです」

自分でも驚くほど素直に、そう言っていた。

「故郷のはずなのに、知らない場所に見える」


その一言で、隊の空気がまた少し変わった。

ここは焼けた村ではない。

少なくとも、“エイルが失ったヴァルセインそのもの”ではない可能性が出てきたのだ。


セヴランが低く命じる。


「外縁で止まる。誰も勝手に入るな。先に境界と封印を確認する」


護衛二人が左右へ散り、封印術師が前へ出る。

補助神官は祈りの文句を小声で繰り返し始めたが、その声にさっきまでの形はなかった。言葉で自分を縛っていないと足が竦みそうな人間の声だった。


封印術師は村の入口らしき切れ目――石垣が途切れ、道が一本だけ中へ伸びる場所へしゃがみ込んだ。

術具袋から白粉と薄い金属片を取り出し、地面へ並べる。祓いでも測量でもない、封印点検の手順だ。


白粉は風もないのに片側へ寄る。

金属片の一つが、地面へ置いた途端に微かに震えた。


「……閉じていない」


封印術師が言う。

その声には、これまでの無口さより濃い苛立ちがあった。


「神罰処理後の最終封鎖記録では、外縁封印は完了しているはずだ」


「嘘ですか」


補助神官が訊く。


「少なくとも、今見えている形とは一致しない」


セヴランが短く息を吐く。

記録と現地の不一致。ここまで来てなお、紙の方を信じられる人間はもういない。


ガイアスは入口の脇の地面へ小石を二つ置き、靴の爪先で軽く線を引いた。

それから振り返りもせず言う。


「ここから先は、焼け跡じゃない。閉じ損ねた道の上だ」


エイルはその言葉に引かれるように一歩だけ前へ出た。

石垣の切れ目。

かつて村道だった場所。

今は灰色の土と焼けた木片が伸びているだけだ。


だが足元の地面に触れた瞬間、余白視の奥で別の景色が立ち上がる。


焼け跡ではない。

夕暮れの村だ。

家々の窓に明かりがあり、井戸のそばに桶が置かれ、遠くで犬が吠えている。

その中を、ひとつの小さな影が走っていく。


ミナ。


呼ぶより先に像が揺らぐ。

影はただの過去ではない。

こちらへ振り返った。

目が合った、と思った瞬間、胸の奥を冷たいものが貫く。


お兄ちゃん、まだ入っちゃだめ。


確かにそう聞こえた。


音ではない。

耳で聞いたわけではない。

だが余白の奥に残った声として、それははっきり形を持っていた。


エイルは反射的に息を呑み、半歩退く。


「どうした」


セヴランの声がすぐ近くで落ちる。

気づけば、彼はいつの間にか右斜め後ろへ立っていた。監視でもあり、支えでもある距離。


「今、声が」


そこまで言って、エイルは口を閉じた。

誰の声か、言えば何かが壊れそうだった。


だがセヴランはそれ以上を待たなかった。


「中からか」


「……分かりません」

嘘ではない。

向こうから聞こえたのか、自分の記憶がこちらで形になったのか、その境目がもう曖昧だった。


ガイアスが振り向く。

彼の顔からはさっきまでの軽さが消えていた。


「名を呼ばれたか」


その問いは真っ直ぐすぎた。


エイルは答えない。

答えれば、もう一段深いところへ引き込まれる予感があった。


ガイアスは舌打ちした。


「まだ挨拶の段階だな。なら大丈夫だ」


「大丈夫の基準がおかしいだろ」


護衛の一人が低く言う。

しかしその文句にも、もう勢いはない。


セヴランは入口の前に立ち、村の奥を見渡した。

黒く傾いた柱。落ちた梁。焼けた地面。

そして、そのさらに奥に見える、村の中心だったはずの空き地。


「今日の目的は外縁確認と接続異常の有無だ」

彼は全員へ向けて言う。

「深部へは入らない。外周を半周し、記録と照合した後、日没前に仮営地へ戻る」


もっともな判断だった。

もっともであることが、かえってひどく物足りなく感じられる。

村の中へ入りたい。確かめたい。

そう思う自分がいることに、エイルは少し遅れて気づく。


十年間、戻りたいとは思わなかった。

思えば壊れるだけだと知っていたからだ。

それなのに今は、その壊れた場所が自分を呼んでいる。


「……待て」


封印術師が唐突に言った。


彼は入口左脇の祠石へ近づいていた。石垣の内側に半ば埋もれる形で立つ、小さな四角柱だ。

村ごとの封印や境界処理では、こうした石柱に封印文を刻むことがある。


「祠石か」


セヴランが歩み寄る。


「そのはずだが」

封印術師は顔をしかめる。

「刻みが合わない」


エイルも近づいた。


石柱の表面は煤と苔に覆われている。

だが擦れた一面だけ、線のようなものが残っていた。文字というより、複数の術式が上から重ねられ、最後に削られた跡だ。


「何が合わないんですか」


エイルが聞くと、封印術師は珍しく素直に答えた。


「通常の封鎖文なら、閉・断・鎮の三系で終わる」

指で線をなぞる。

「だがここには途中まで“伏”が入っている。隠蔽系だ。焼却処理だけの村に使う文じゃない」


隠蔽。


その一語だけで、村の空気がさらに冷えた気がした。


セヴランは短く言う。


「つまり」


「封じただけじゃない。見つからないようにもした」

封印術師の声は低い。

「少なくとも、最初の術者はそういう意図だったはずだ」


ガイアスが鼻で笑う。


「だから言ったろ。村じゃなくて顔だって」


顔。

ヴァルセインという“見せるための形”。

その下に、別のものを隠すための。


エイルは石柱へ手を伸ばした。

セヴランが止めるより先に、指先が煤の下へ触れる。


視界が揺らぐ。


石柱は今より高く、削りも新しい。

刻まれているのは術式だけじゃない。下端の目立たないところへ、小さな指が泥で触れたみたいな跡がある。

子どもの手。

しかも、それは石柱へ“偶然触れた”形ではない。

自分から、印を残すみたいに押し当てられている。


ミナ。


今度は確信に近かった。

掌の小ささ、指の開き方、その不格好な置き方。幼い頃のミナが、土遊びのあとによく壁や柱へ手をついて叱られていた記憶と重なる。


「エイル」


今度はセヴランの声に、はっきりした制止が混じっていた。

だがエイルは石から手を離せない。


手形の下に、さらに何かある。


文字だ。

幼い筆跡。

爪か小枝でなぞったような浅い線。


みつけて


そこまで読んだ瞬間、石柱の向こう、村の奥で何かが灯った。


全員がそちらを見る。


焼け跡のはずの村の中心。

家々の骨組みのあいだ。

そこに、一つだけ小さな灯りがある。


焚火ではない。

提灯でもない。

もっと静かで、白い、手のひらほどの光。


補助神官が息を呑み、護衛の一人が低く罵った。

封印術師は即座に白粉を撒く。

セヴランの短杖が上がる。

ガイアスだけが、最初からその灯りが出ることを知っていたような顔で目を細めた。


「誰だ」


護衛の問いへ、誰も答えない。


白い灯りは村の奥で揺れもせず、ただそこにある。

生き物の気配ではない。

だが物でもない。

それは“ここに来い”でも“入るな”でもなく、ただ自分たちに見つかるために置かれている感じがした。


エイルの指先が、石柱の上で微かに震える。

みつけて。

その文字の残響が、まだ消えない。


「戻るべきだ」

封印術師が言う。

「外縁確認だけで十分だ。これは記録対象を超えている」


「同感だ」


セヴランも短く答える。

だがその視線は灯りから外れない。


ガイアスが静かに言う。


「いや、まだ外縁だよ」

その声はいつになく低かった。

「本当に危ないのは、あれが消えたあとだ」


まるで合図を待っていたみたいに、その直後だった。


白い灯りがふっと揺れた。


そして、もう一つ、奥の奥で灯る。


二つ。

少し間を置いて、三つ。

焼け跡の村の奥に、ありえない灯りが点々と生まれていく。


まるで、夜の村に人の気配が戻るみたいに。


エイルは息をするのも忘れて見つめていた。

これは過去の残像か。

向こう側の灯か。

それとも、十年間閉じきらなかった村が、今まさにこちらへ滲み出してきているのか。


分からない。

けれど一つだけ確かなことがある。


ヴァルセインは死んでいない。


焼かれて終わったのではなく、

終われなかったまま、道の下でずっと灯を残していた。


セヴランが低く命じる。


「全員、下がれ。視線を切るな。隊列を崩すな」


誰も逆らわない。

逆らえる空気ではなかった。


エイルは最後にもう一度だけ石柱へ視線を落とす。

みつけて。

幼い字の残像は、もう薄れかけていた。


灯りが増える前に読めたのは、それだけだ。

だがそれだけで十分だった。


この村の中に、誰かが自分へ残した痕がある。

それが過去の残響でも、閉じ損ねた接続の向こう側でも。

自分はもう、ただ外から見て帰るだけでは終われない。


隊が後退を始める中、ガイアスがごく小さく言った。


「ほらな。先に村がずれる」


その声を聞きながら、エイルは焼け跡の中に生まれた白い灯りの数を数えた。


四つ。

五つ。

六つ。


そして、その六つ目の灯りのすぐそばで、一瞬だけ人影のようなものが立った気がした。


小さい。

細い。

こちらを見ている。


瞬きした時には、もういない。

だが、いなかったとは言い切れなかった。

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