開始
西暦2080年、東京。
20年前に起きた悲惨なロボット戦争の教訓により、この世界では人間のロボット化とAIの大量生産が禁じられている。
かつて人類は、超長寿命の実現に成功した。
だがその代償として、人口はほとんど減らなくなり、地球は深刻なエネルギー不足と食糧不足に直面した。
その打開策として宇宙開発が推し進められたが、現実には、宇宙や他の惑星で生きたいと望む人間などごくわずかだった。
その反省から、AI、ロボット、そして超長寿命技術は、世界各国で厳しく制限されるようになった。
だが、そうした機械技術の制限に真っ向から反対する勢力がいる。
特殊犯罪集団――A-EYE。
彼らは、不老不死を望む人間たちを巧みに利用しながら、「目」を集めている。
その真の目的は、いまだ謎に包まれていた。
――ある日のこと。
東京都内の総合病院、その地下で事件は発生した。
「これで本当に……僕たちを不老不死にしてくれるんですね?娘も一緒に……」
中年の男は、目の前に立つ異形の存在へ、震える声で問いかけた。
不気味な青い身体を持つその生命体は、静かにうなずく。
「もちろんだ。私たちに身体を預ければ、お前たちは救済される。」
「では……お願いします……」
男は深く頭を下げた。
「これからは自由な世界で生きられる。怪我や病に苦しむこともない。」
そう言いながら、その生命体は異様な形状の刃物を取り出す。
男の顔が、こわばった。
「……何をする気だ……?」
「おとうさん……?」
幼い少女が、声を震わせながら、不安げに父を見上げる。
次の瞬間、刃は少女の目に向かって伸びていった。
「痛い……!痛いよ、お父さん……!」
「やめろ!私の、たった一人の娘に何をする!?」
男の絶叫が地下に響く。
だが、刃の動きは止まらなかった。
「やめろ……よせ……!」
生命体は、あまりにも平然とした声で言った。
「これがお前の娘の残りだ。これからは、この目だけで生きることができる。
思想信条については、こちらで書き換えさせてもらうがな。」
「は……話が違うぞ……!
思想も信仰も自由で、脳や身体は冷凍保存して、いつでも戻れると……!」
生命体は男の言葉を遮るように、静かに告げた。
「私たちは、A-EYEだ。」
「……A-EYE……だと……?」
「お前の最後の晩餐は、この肉片と血だ。
さあ、お前も肉体との別れを告げよ」
「ああぁッ……!!」
男もまた、その目を奪われた。
地下には、湿った音と、かすかな嗚咽だけが残る。
生命体は、転がる肉片を見下ろしながら、淡々と語った。
「私たちの行いは残酷に見えるかもしれない。だが、肉体と別れる瞬間の記憶は消える。
残るのは、たった二つの目だけだ」
青い光が、その輪郭を不気味に照らす。
「人類は、肉体の終わりを迎えるのだ」
人間の目ほど、精密で、美しく、魅力的なモノは存在しない。
「相変わらず、キミは残酷だよねぇ。ブラッド?」
背後から、甲高い声がした。
振り返ると、そこには小型のロボットが立っている。
ブラッドと呼ばれた青い生命体は、低く応じた。
「ロボットは、1人につき2台まで。生産数も厳しく制限されている」
「正確には……目、だよね?」
「その通り。人間の目は、コンピューターでは再現できないほど精密だ。
映像機器が一秒間に1000ヘルツを描画できる。しかし、人間の目はその遥か上をゆく。
多くの人間は、一秒間に1億を超える処理が可能だ。」
「生物が10億年かけて積み上げてきた性能は、伊達じゃないってことだね!」
「そして、その目を兵力として使うのだ。」
ブラッドの声に、冷たい確信が宿る。
「東京に駐留する軍人は20万人。そのうち、軍事利用されている目は半数の10万。
ならば5万人分の肉体さえ確保できれば、軍にも十分対抗できる」
小型ロボットは嬉しそうに跳ねた。
「計画完了まで、あと少しってことだね!」
ブラッドは、血の跡を見つめたまま告げる。
「計画の遂行まで――あと100人。」
それは、二週間前の出来事だった。
国内でも指折りの資産家と、その娘がロボットに肉体を奪われた。
世界中で報じられた、あまりにも有名な事件だ。
現場に残されていたのは、わずかな肉片と骨だけだった。
だが、あれは氷山の一角にすぎない。
今この瞬間も、どこかで肉体を奪われている人がいるかもしれない。
関連する行方不明者は、全国で4万人を超えるとされている。
わずか10ヶ月で4万人以上が犠牲となり、その数は交通事故による死傷者さえ上回っていた。
しかしながら、A-EYEを封じ込める方法は、まだ見つかっていない。
過去の資料から判明しているのは、A-EYEのリーダーがブラッドという存在であること。
そして、その補佐役として、マークリーと呼ばれる小型ロボットが確認されていることだけだ。
さらに東京のどこかには、大量の“目”を保管するための施設が存在すると噂されている。
しかし公安ですら、その正確な位置も実態も、何一つ掴めてはいない。
――ここは、エーアイ対策本部。
「エース、また遅刻かー!君のせいでみんな待ちくたびれてるよ!」
聞き慣れたロボットの声がした。
「違う。遅刻したのは俺のせいじゃない。ナナイレの豚焼肉弁当が、あまりにも美味すぎるのが悪い」
「そんな言い訳、2020年の東京で言ったら即クビだよ?
感染症が流行してたあの時代、数分の遅刻を何回かしただけで終わりだったらしいし。
エースに刑事なんて、とても務まらないよ」
「ゴースト。もう平成や令和みたいな窮屈な時代じゃない。今は自由な2080年だ」
こいつは俺のロボット、ゴースト。見た目はそれなりにかわいいが、とにかく出来が悪い。
この国では、2歳の時点で発育状態を診断し、その子供に適したロボットが与えられる。
しかし不思議なことに、その時の記憶だけは今も妙にはっきり残っていた。
『あれ? この子、死んだ目をしているね。
きっと社会に適応できないだろうし……僕が面倒を見てあげるのも悪くないかも!』
正直、子どもの頃は、こいつは初期不良なんじゃないかと本気で疑っていた。口が悪すぎるのだ。
「エースはボクのことを出来が悪いって言うけど、ボクはロボット計算コンテスト全国10位の実力なんだから!」
「そのコンテスト、参加人数は何人だ?」
「えーっと……2万人くらい?」
「たった12人だろうが!」
多少出来が悪いのも、それはそれで面白い。人間だって同じだ。
だが、一つだけ疑問がある。
「もう、エースはすぐそうやってキツく言う!ボクは女の子なんだから、もっと丁寧に扱ってよね!」
なぜロボットに性別など持たせたのか。そんなものを採用している国は、世界中を探してもここくらいのものだ。
というか、普段からキツいのはお前の方だろう。
「エース! 本日、新たな事件が発生した模様です!」
「ああ。詳細を教えてくれ」
声を張り上げながら駆け込んできたのは、刑事補佐のジュリー。二十二歳の若手だ。
以前ここにいた刑事からは、かなり優秀な期待株だと聞いていたが――
「すみません! 事件の書類を持ってくるの、どちゃんこ忘れてました!!めちゃくちゃ申し訳ないです!!」
全然話が違う。
「いったん支部に戻りますので、42分ほどお待ちくださーい!!」
「あ、ついでにロボット用香水も買ってきてよ。レディースのやつね」
「メッセージにメモしといてくださーい!!」
果たして、この3人が本部の中核で、A-EYEの問題は解決するのであろうか。
――2時間後。
「42分と言っておきながら、1時間58分も待たされたわけだが……」
「すみません……電車の乗り換えが苦手で……」
「まあいい。いや、よくはない。ひとまず今日の事件をまとめてくれ」
「はい!国際展示広場で、アイドルグループの公演中に不審物が見つかったとの報告がありました!」
「いつものパターンなら、狙われるのは18時から19時だろう。ゴースト、十七時には現場へ向かうぞ」
「イエッサー!」
仕事が始まれば、この三人は一応ちゃんと噛み合う。
……始まるまでが、いつも大変なのだが。
――A-EYE TOKYO。
「はーい、ブラッド。今日の標的に関するデータだよ!」
「ほう。今回のターゲットは米国人か。実に興味深い……」
ブラッドは表示された情報を見つめる。
「国民平均の目の描画力が1億2000万Hzに対して、彼らは1億6000万Hzに達する個体もいる。
東京制圧後の戦略にも役立つであろう。」
「ボクの1600倍以上の動作ができるんだから、すっごいよね!」
「兵力が5万を超え、東京を支配できた暁には、お前にも目を分け与えてやろう」
「わーい!楽しみ!ゲームでプロになれたりしてぇ……ぅぉほぉ~!」
――東京国際展示広場。
アメリカで人気を誇るアイドルグループの公演が始まり、会場は熱狂に包まれた。
同時にこの一帯は、A-EYEが頻繁に出没する危険区域でもある。
対策本部は、イベントルーム控え室に何者かが侵入したという情報を受け、捜査を開始していた。
――イベントの控え室に、警報が鳴った。
「何だお前らは……?」
「あまり手荒な真似はしたくないが……今日この場で10人は連れていこう」
「キャー! 何するの!?」
「おい、お前! うちらに何する気だ!」
ブラッドは怯えるアイドルたちを値踏みするように見回す。
「なんだ、このガキは。平均値の高い米国人のくせに、こいつの目は1億Hzを下回っている。性能不良には興味がない」
冷たく吐き捨て、別の少女へ刃を向ける。
「それとも、ただの肉片になりたいのか?」
「何をする……やめろッ……!」
「そこまでだ!」
低い声が割って入る。
「我が名はエース。A-EYE対策本部のトップだ」
「……邪魔者か」
「悪いが、これでお前は終わりだ」
その緊迫を壊すように、ゴーストが目を輝かせた。
「ねえ、あれがマークリー?うちのリボンとおそろいなんだけど!」
「あれ?あの子がゴースト?ほんとだ、おそろいじゃーん!」
「ねえねえ、そのリボンどこで買ったの?」
「サトーヨーカドーだよー!」
「えー! ボクもなんだけど!ねえ、このあとよかったらショッピングに――」
(げんこつ)
「ゴースト、いい加減にしろ」
「うぅ……令和じゃ放送できない……」
ブラッドは呆れたように息をつく。
「まあ、邪魔が入ったなら仕方がない。さっさと目だけ奪って帰るぞ」
ブラッドが不気味な刃を振り上げた瞬間、エースは床を蹴った。
乾いた銃声が三発、展示ホールの天井に響く。
一発はブラッドの手元を狙い、もう一発は足元、最後の一発は背後の照明を撃ち抜いた。激しい閃光とともに、ステージの一角が暗闇に沈む。
「観客を避難させろ!ジュリー!」
「はいっ! みなさん、出口は左側です!押さないで、走らないで、でも急いでくださーい!」
「どっちなんだよ!」と誰かが叫んだが、その混乱すら人の流れを作る。
ジュリーは案外こういう時に強い。
ブラッドは闇の中でも平然としていた。
「なるほど。少しは頭が回るようだな、刑事。」
「お前らと世間話をする気はない。観念するんだな」
エースは低く構える。ブラッドの狙いは人間そのものではない。
正確には「目」だ。だからこそ、視線の動き、首の角度、呼吸の乱れ、その全てが武器になる。
一方で、ゴーストはマークリーを見ていた。
「ねえ、本当にサトーヨーカドーの何階で買ったの?」
「……キミ、今その話する?」
「だって大事じゃない?」
マークリーが首をかしげる。その一瞬、ゴーストの瞳に青白い線が走った。
「でもね、もっと気になることがあるんだ。」
「何かなぁ?」
「キミ、ロボットのくせに、“目”の動きが人間みたい。」
マークリーの笑みが、ぴたりと止まった。
その瞬間だった。
ブラッドの腕が、あり得ない角度で伸びる。刃が一直線に、アイドルの一人の顔へ向かった。エースは飛び込んだが、間に合わない。
――と思った次の瞬間、ゴーストがその前へ滑り込んだ。
金属のこすれる高い音。
刃はゴーストの頬をかすめ、リボンを切り落とした。
「ゴースト!」
「えへへ、ボクだってたまには役に立つでしょ。」
そう言った声は、少し震えていた。
エースはその隙を逃さず、ブラッドの懐へ踏み込む。
肘で胸部を打ち、ひねりを加えて床へ叩きつける――はずだった。
だがブラッドの身体は軽すぎた。いや、違う。軽いのではない。
中身が空洞なのだ。
「何だ……?」
エースの手がブラッドのコートを裂く。そこにあったのは筋肉でも骨でもない。
青く脈打つ、無数の管と、中央に浮かぶ二つの眼球。
「やっと見えたか。」
ブラッドは笑う。
「私たちは肉体を捨てた先にいる。」
その言葉とともに、周囲の非常灯が一斉に赤へ変わった。控え室の壁が開き、奥から青い液体の入ったカプセルが何本も現れる。
中には――目だけが浮かんでいた。
会場の誰かが悲鳴を上げる。
「保管庫……!?」
ジュリーが息をのんだ。
「臨時回収所だ。」
ブラッドは立ち上がる。
「あと100人で計画は完遂する。だが今日で、その数字はもっと縮まる。」
「させるか!」
エースが銃を向けた瞬間、マークリーが小さな手を振った。
ぷつん、と会場の音が切れる。
遅れて、激しい耳鳴りが襲った。ゴーストが膝をつく。
「う、そ……音波じゃま……」
「ボク、計算は苦手だけど、妨害は得意なんだぁ!」
マークリーがぴょん、と跳ねる。その背中のパネルが開き、青い針が無数に飛び散った。
エースは身を伏せ、ジュリーを庇う。
数本が壁に突き刺さり、鉄を溶かす。
「うわっ、これめっちゃ危ないやつですねー!」
「他人事みたいに言ってる場合か!」
ブラッドはその間にアイドルの一人の首を掴んだ。
「離せ!」
「選ばせてやろう、刑事。」
ブラッドの声は静かだった。
「この女1人か、この場にいる100人か。」
「何……?」
「私を撃てば、この会場の冷却装置を止める。ここは地下だ。酸素供給も落ちる。3分で地獄になるぞ。」
ジュリーの顔色が変わる。
「本当かどうか、確認を……!」
「待て。」
エースはブラッドから目を離さない。
「あいつは嘘をついてない。」
「どうしてわかるんですか……?」
「目が笑ってない時のほうが、ああいう奴は本気だ。」
数秒の沈黙。
その時、ゴーストがふらつきながら立ち上がった。
切れたリボンが床に落ちている。なのに彼女は、それを拾おうともしなかった。
「エース。」
「下がってろ、ゴースト。」
「ねえ、ボク、ずっと気になってたんだ。」
いつもの軽い声ではない。
「どうしてボクだけ、二歳の時のことを少し覚えてるのかなって。」
ブラッドの視線が、初めて揺れた。
ゴーストは一歩、また一歩と前に出る。
「診療室。白い光。小さな椅子。誰かが言った。
『この子は死んだ目をしている』って。」
エースの胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「その後で、もう一つ声がしたの。」
ゴーストはブラッドを見た。
「『なら、その目は使えるかもしれない』って。」
空気が止まる。
ジュリーが小さく、「まさか……」とつぶやいた。
マークリーがあわててブラッドの足元へ隠れた。
ブラッドは、ゆっくりと刃を下ろした。
「記録の消去が不完全だったか。」
その一言で十分だった。
エースはゴーストを見る。ゴーストは笑おうとして、失敗した顔をしていた。
「ボクさ……A-EYEに、いたことあるの?」
ブラッドは答えない。
だがその沈黙そのものが、答えだった。
次の瞬間、展示ホール全体が揺れた。どこかで爆発音。非常灯が消え、真っ暗になる。
警報だけがけたたましく鳴り響く。
「エース!」ジュリーの声。
「全員、床に伏せろ!」
暗闇の中で、誰かが走る気配。エースは勘だけで前へ飛ぶ。指先が何かに触れた。細い腕。ゴーストだ。
「離すな!」
「う、うん……!」
その瞬間、別の手がゴーストを強く引いた。
「きゃっ!」
「ゴースト!」
エースは反射的にその腕をさらに強くつかみ、自分の方へ引き寄せる。ほとんど同時に、ブラッドの青い影が闇の中から迫った。
一瞬だけ非常電源が戻る。
赤い非常灯に照らされていたのは、ブラッドに奪われかけたゴーストを、エースが胸元へ引き戻す姿だった。
ブラッドの手が空を切る。
「なんてヤツだ……」
「コイツは返してもらうぞ、ブラッド!」
エースは低く言い放ち、ゴーストを背後へかばった。
ブラッドはわずかに目を細める。
「返す、だと? それは元より、こちら側のものだ」
「ふざけるな!」
エースが銃を向ける。今度はゴーストが射線から外れている。
だが、ブラッドは薄く笑った。
「刑事。お前には二つの謎が残る」
壁際の非常扉が、重い音を立てて開いた。その先には地下搬送路へ続く暗い通路がのぞいている。
「A-EYEはなぜ目だけを残すのか」
ブラッドの声が、冷たく響く。
「そして――お前はなぜ、2歳の時の記憶を“持っていない”のか」
エースの表情が凍りついた。
「……何を言った?」
その問いには答えず、ブラッドは一歩後ろへ下がる。だがその時だった。
背後で、かすかにうめく声がした。
「うぅ……今、何が起きてたの……?」
エースが振り返る。
ゴーストはその場にへたり込み、ぼんやりとした目で周囲を見回していた。ついさっきまで自分が口にしていた言葉を、まるで初めから存在しなかったかのように忘れている。
「ゴースト、お前……」
「え? ボク、何か変なこと言ってた?」
その顔には、恐怖と混乱だけが浮かんでいた。
さっきまでブラッドに向けていた視線の鋭さも、2歳の記憶に触れた時の張りつめた空気も、きれいに消えている。
ブラッドはそれを見て、初めてわずかに口元を歪めた。
「やはり、まだ不完全か」
「……一体何をした!?」
エースが怒声を飛ばす。だが次の瞬間、通路の奥から激しい爆発音が響いた。
熱風が吹き込み、非常扉が半ばまで閉じかける。
ジュリーが駆け寄ってくる。
「エースさん!この先、隔壁が下ります!
今ならまだ逃げられますけど――」
「逃がすか!」
エースは引き金を引いた。銃声が闇の中で大きく響く。
だがブラッドは身をひるがえし、弾丸は扉の縁に当たった。
「次に会う時までに、少しは思い出しておけ」
それだけを残し、ブラッドは暗い搬送路の奥へ消えた。
直後、非常扉が轟音とともに閉まる。
会場に残ったのは、耳鳴りのような警報音と、焦げた金属の匂いだけだった。
静寂の中、ゴーストが床に落ちていた自分のリボンを見つける。
「あれ……ボクのリボン……切れてる」
エースはしゃがみ込み、それを拾ってゴーストに手渡した。
「怪我はないか」
「う、うん……たぶん。でも、なんだか頭がぼーっとして……」
ジュリーも息を切らせながら二人のそばへ来る。
「いったい今のは……?さっき、ゴーストさん、何か大事なことを話していた気が……」
「覚えてないよぉ……」とゴーストは眉をひそめた。
「ほんとに、今、何が起きてたの……?」
エースは答えなかった。
ブラッドの言葉が、頭の中で何度も反響していた。
2歳の時の記憶。
ゴーストの過去。
そして、自分が“持っていない”記憶。
全部が一本の線でつながりかけている。
だが、核心に触れた瞬間だけ、誰かが意図的に切り落としているようだった。
その時、エースの端末が震えた。
非通知の着信。
画面には、1行のメッセージが浮かび上がる。
――「目の保管施設を知りたければ、20年前の戦争記録を見ろ。最初に肉体を失ったのは、お前の母親だ。」
エースは息をのんだ。
「……母親……?」
ジュリーが、表情を変える。
「何か来たんですか!?」
だが、次の瞬間にはメッセージは自動的に消去されていた。
ゴーストが不安そうにエースを見上げる。
「ねえ、エース……ボク、なんだか嫌な予感がする」
遠く地下のどこかで、重い金属扉の閉まる音が響く。
それはまるで、東京のさらに深い場所で、まだ見ぬ何かが静かに動き始めた合図のようだった。




