世界樹の下で、人間は場違いだった
世界が反転したと思った次の瞬間、
俺は――森の中に立っていた。
いや、森というより、
**森の中に“建っている”**と言った方が正しい。
見上げた瞬間、言葉が消えた。
「……でっか……」
空を貫くように伸びる、一本の木。
幹は山より太く、枝は雲を押しのけ、葉は空そのものを覆っている。
大きすぎて、
「木」という概念が追いつかない。
「……これが、ユグドラシル?」
俺が呟くと、肩のあたりにいたチムが頷いた。
「正確には、世界樹を中心にした神域一帯。
正式名称は――」
「言わなくていい」
即座に遮る。
「どうせ長いんだろ」
一瞬の沈黙。
「……世界樹統治圏」
「ほらな!!」
チムは悪びれない。
「ここが北欧神域。
八つある神域の中でも、比較的“秩序寄り”」
「比較的って言うな。怖えだろ」
安心させる気が一切ない。
改めて周囲を見ると、
巨大な根の間を縫うように、小柄な影が行き交っていた。
背は低く、肩幅が広い。
太い腕に、長い髭。
「……ドワーフ?」
「正解」
さらっと肯定されると、余計に現実感が薄れる。
彼らは石を運び、
金属を打ち、
設計図のようなものを広げて議論していた。
神話の世界なのに、
やっていることはやけに地に足がついている。
「……思ってたより、普通だな」
「神話生物も生活はするよ」
してほしくなかった。
その時、作業場の一角から声が飛んできた。
「おい」
低く短い声。
「そこの人間」
完全に種族名呼びだった。
「……はい?」
声の主は、年季の入ったドワーフだった。
「なんでここにいる」
ド直球すぎる。
俺は反射的にチムを見る。
「迷子?」
「迷子」
チムが即答した。
「もう少し嘘つく努力しろよ」
ドワーフは眉をひそめる。
「人間がここに来る理由は三つだ。
死んだか、連れてこられたか、迷い込んだか」
「全部嫌なんだけど」
「で?」
「迷い込んだ」
「……ふん」
鼻を鳴らされる。
「なら立ってないで働け。
邪魔だ」
「異世界初手が労働なのかよ……」
こうして俺は、
異世界初仕事:木材運び
をやらされることになった。
丸太は普通に重い。
「……っ、これ人間想定じゃねえだろ……!」
「持ててる時点で上出来だ」
別のドワーフが言う。
「普通の人間なら腰が砕ける」
「褒め方が怖えよ」
確かに重い。
でも、不思議と“限界”が少し先にある。
力が増えた感覚はない。
ただ、「無理だ」と思うラインが
ほんの少しだけ後ろに下がっている。
「……例外ってやつか」
小さく呟くと、チムが言った。
「自覚しすぎると危ないよ」
「なんで」
「調子に乗るから」
「もうちょい言い方考えろ」
作業場の奥では、
鍛冶の音が鳴り続けていた。
火花。
鉄の匂い。
汗と油。
神話の世界なのに、
全部がやけに現実的だ。
「……神は?」
思わず聞いた。
「ここにはいない」
チムはあっさり言う。
「神々は“上”だ」
指差された先――
世界樹のさらに上、枝の向こうに、
淡く光る領域が見えた。
「あそこが、神の領域」
「遠くね?」
「遠いね」
「助ける気ある?」
「あるけど、簡単には降りてこない」
妙に納得できる答えだった。
その時、近くのドワーフがチムを指差す。
「なあ、その獣は何だ」
「ペット?」
「魔物か?」
チムは胸を張る。
「ガイド役だよ」
「意味が分からん」
「だろうね」
俺は即答した。
どうやらこの神域では、
チムは“正体不明の謎生物”枠らしい。
休憩時間。
ドワーフたちは腰を下ろし、雑談を始める。
「最近、根の方が騒がしい」
「世界樹が軋む音がする」
「神々も、落ち着かんだろうな」
何気ない会話。
でも、どこか張りつめている。
その時――
ごくりと、
世界樹が鳴った気がした。
音じゃない。
振動でもない。
ただ、嫌な予感。
「……今、何か――」
俺が言いかけると、
ドワーフたちは一瞬だけ黙った。
「気のせいだ」
誰かが言う。
でも、
チムだけは空を見ていた。
「……まだ、だね」
「何が」
「ううん。なんでもない」
絶対なんでもない顔じゃない。
こうして俺の北欧神域での一日は、
働かされて、眺めて、不安だけ置いていかれる
という形で終わった。
神はまだ出てこない。
英雄でもない。
ただ――
世界樹の下で、
人間はやっぱり、場違いだった。
世界樹のはるか上。
霧の中、三人の男が並んで立っていた。
一本の槍を手にし、
片目を失った老いた男が、低く言う。
「……根が揺れた」
「気のせいじゃねえな」
雷のような気配をまとった大柄な男が、腕を組む。
「ラグナロクの時とは違うが……」
「嫌な揺れだ」
二人から少し離れた場所で、
剣を携えた見張り役が静かに報告する。
「異常は、世界樹の根元付近です」
「今のところ、被害はありません」
「だが」
槍の男が続ける。
「“完全に静か”とも言えん」
三人の視線が、
世界樹の根の奥へ向く。
「……封じていたものが、目を覚ましかけてる」
「そう考えるのが自然だな」
雷の男が、歯噛みする。
「まだ完全じゃねえのが救いだがよ」
「だからこそ、今は手を出さない」
槍の男は即座に言った。
「こちらが動けば、かえって刺激する」
「下手をすれば、神域ごと崩れる」
見張り役が頷く。
「現時点では、監視が最優先です」
一瞬の沈黙。
やがて雷の男が、別の話題を振った。
「……さっき来た人間は?」
「確認している」
槍の男が答える。
「祝福を持たない、外からの人間」
「想定外だが、脅威ではない」
「使えるか?」
「まだ判断できん」
正直な答えだった。
「だが、無関係とも言えない」
「世界が揺れ始めた時に現れた以上な」
見張り役が下界を見る。
人間と、小さな獣。
まだ何も知らず、世界樹の根元に立つ姿。
「……巻き込まれるな」
雷の男が、ぼそりと呟いた。
「それは、もう無理だろう」
槍の男は静かに言った。
「動き始めた以上、何かは起きる」
三人は、それ以上語らなかった。
今はまだ、静観の時。
だが確実に――
北欧神域は、次の局面へ向かい始めていた




