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皇國の白き魔女  作者: 花園野リリィ
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第一章 異世界のゲーム ⑥

 ——花葬朽姫(かそうくちひめ)


 その名前を聞いた瞬間、世界が止まった。

 音が消える。千鶴の声も、風の音も、鳥の囀りも——すべて。耳の奥で、血の流れる音だけが響く——ゴウゴウゴウゴウ。

(う、嘘だ——)

 背筋を氷の刃が這い上がる——一本、また一本。

 肉を一つずつ切り刻んでいく。

 まるで身体に穴が開いたように、全身の温もりが地面に吸い込まれていく。

 膝が折れ、四つん這いになった。

 草の湿った感触が掌に伝わる。土の匂い。生々しい。握りしめると、爪に土が入り込む。現実の温もりがある。

(嘘だ。嘘だ。嘘だ!)

 ここが、『七女神大戦』の世界だと?

 前世で、何千時間もプレイした——あのゲームの。


 ——皇國。


 七つの国の中で、最も弱く、最も——悲惨な末路を辿る国。

(よりによって——ここに、転生したのか)

 青い芝生が、一瞬——枯れた荒れ地に見えた。

 焼け焦げた大地。骨が散らばる戦場。それが、この国の、未来。

「曉人さま、大丈夫ですか」

「⋯⋯」

 千鶴が俺の背中を擦ってくれる。

(嘘だろ……この世界は……あの『七女神大戦』の世界だったのか。よりによって、最弱国の皇國に転生したってことか……)

「曉人さま⋯⋯曉人さま」

 千鶴が俺の背中を擦ってくれる。

 リアルな感覚が——現実を突きつける。

(⋯⋯ストラテジーゲームの名もなき一般人に転生してしまったのか)

 脳裏にゲーム画面が浮かぶ——鮮明に。マップ上の小さな領土。

 皇國という文字。

 俺は皇國を好んで使っていた。それは弱い国と、施設で育った自分にリンクするものがあったからだ。

 このゲームには奇跡の力を与える女神がいる。

 そして、プレイヤーである俺も——神だ。

 皇國の民を導く、もう一人の神。

 それが俺を惹きつけた。

 俺の選択で、国は栄えもするし、滅びもする。

 絶対的な女神さえも——俺の選択次第で動かせる。


 父も母も知らない俺が、何者でもない俺が——神になれる。


 花葬朽姫と三十五歳で死ぬ代わりに奇跡が起きる契約を交わすことができる。

 プレイヤーの多くは序盤でその選択をする。

 俺もゲームでは、初手でそうする。

(まさか——もうこの世界では女神との契約を? だから早婚なのか? 三十五歳までに子孫を残すために——)

 色々と一気に繋がった。

(契約済みだとしても——皇國は弱い。軌道に乗るまでに最短でも十五年)

 重力が急に増したように、頭が重たい。額が冷たい芝生に触れた。

「曉人さま、曉人さまぁ!」

「⋯⋯」

「誰かいませんか、誰か来てくださいませ!」

 千鶴の手が俺の肩に触れた——温かい。だが、その温もりが、俺に恐怖を与える。


 これは現実だ。

 ゲームの電子ではない質感がある。

 汗腺がすべて開ききる。額から、首筋から、背中から——身体中から汗が噴き出す。


 頭の中で戦略画面が回転する。時間経過のグラフ。右肩上がりの曲線——それが皇國の成長速度。

 時間が経てば経つほど力を増すため、他国は初手で皇國を属国化する戦略をとる。

(白桜蔭家なんてゲームに登場しない。今は——何年何月だ? もし、開幕の年をすぎていたら)


 十年後か、五年後か、一年後か——半月後か、十日後か——いや、明後日か? 明日か?

 いや、数時間後にでも——《《戦争が起きる》》。


 記憶が溢れ出す——ゲーム内の敗戦画面。

 画面が暗転する。

 テキストだけが流れる。

「皇國の民の末路は酸鼻極まるものとなる」

 冷や汗が首筋を伝い、背中を這う。生地が肌に張り付く。

 脳内でマウスをクリックする音。メニューが開く映像が鮮明に蘇る。

 区域が「奴隷居住区」に変わる。

 監視塔のアイコン。邸宅の建設。

 性別・年齢別の育成プログラム。闘技場。愛玩用施設。労働用加工センター。

 数値が増える。効率が上がる。資源が最適化される。

 ゲームでは——ただの数字だった。クリック一つの選択だった。


 だが、この世界では——。


 指先が草を掴んだ。爪が土に食い込む。

 国是「敗戦国浄化」。バフ:統治効率+15%。

 国是「臣民管理強化」。デバフ:反乱率-20%。

 ゲーム内では——単なる数値だった。

 現実では——拷問、強制労働、民族浄化、組織的な性的虐待。

 その必要以上にリアルなゲーム設計に、孤独な俺の魂が強く惹きつけられた。


 それが、この世界ではある。

 記憶が堰を切った濁流のように溢れ出す。

 深夜の部屋。青白いモニターの光。マウスをクリックする。

 皇國の領土が、赤く染まっていく。


  『皇國は滅亡しました』


 画面が暗転する。

 その黒い画面に——俺の顔が映り込んでいた。

 口角が、上がっている。

(俺は——遊んでいたのか)

 弱い国を、わざと負けさせる。

 その過程を楽しんでいた。

 施設で虐げられた自分を、皇國に重ねて。

 そして、踏みにじっていた。

(違う——)

 脳内で、声が反論する。

(ゲームだ。ただの、ゲームだ! 誰でもやる。わざと負けさせて、また最初から——)

 俺は頭を振った。

(それに、救ったこともある。何度も、何度も——)

 だが——。

 その言い訳が空虚に響く。

 清香の顔が浮かぶ。五歳の小さな体。翡翠色の瞳。

 雪路の優しい手のひら。

 千鶴の琥珀色の瞳。

 彼女たちは、リセットできない。


 ゲームオーバーの画面の向こうに——本当に、死ぬ。


 喉の奥が、焼ける。

 胃液が逆流してくる。

 吐きそうだ。

「しっかりしてくださいませ!」

 俺は水の中にいるように、千鶴の声が遠い。

 喉が締まる。酸素が足りない。肺が小さくなったように、空気を取り込めない。

 心臓が暴れ馬のように跳ねる。ドクン、ドクン、ドクン——。

(もし皇國が敗れたら、清香や雪路は⋯⋯)

 画面上の「愛玩用」「労働用」「加工」という文字が、彼女の姿に重なる。

 胸が——潰れそうだ。

「顔色が悪いです! ゆっくりと息をしてください、曉人さま!」

 千鶴の必死の声が、霧を切り裂いた。

 息を吸う——無理やり。肺に空気を押し込む。一度、二度。

「す、すまない。ちょっと目眩がしただけだ」

 額に手を当てた。指先が濡れている。汗だ。冷たく、氷のような。

「本当に大丈夫ですか?」

 千鶴の澄んだ瞳が俺を見つめている——その視線には、打算なく、ただ純粋な心配の色だけが映っている。

 俺は彼女の顔を見た——改めて。

 琥珀色の大きな瞳。長い睫毛が影を落とす。幼さの残る柔らかな頬。桜色の唇。繊細な顎のライン。上品な鼻筋。

 整った顔立ちには、将来の美しさを約束する気品が宿っていた。


 その時——何かが、頬を滑り落ちた。

 眼帯だ。

 俺の右目を覆っていた眼帯が、ゆっくりと地面に落ちる。

「あっ! 曉人さまの眼帯が!」


 右目が——開いていく。


 閉じていた瞼が、まるで意志を持ったかのように持ち上がる。

 世界が変わる。

 まるで現実の上に、透明なガラス板が重なったかのように。別の層が見える。

 脳内に文字が浮かぶ——焼き付けられるように。


 ——未識眼(みしきがん)・残り三回——


 世界が——変わった。

 色が消えていく。 まるで古い映画のフィルムのように、すべてがセピア色に染まる。

(これは、どこだ?)

 石畳の広場。噴水の水音が軽やかに響いている。

 西洋風の建築物が、夕陽を浴びて赤く染まっている。

 男たちの笑い声が遠くから聞こえてくる。

 褐色の肌。白金の髪。高価な服に、宝石の輝いている。彼らが——何かを囲んでいる。

 足元に、何かが、いる。

 最初は、犬かと思った。

 四つ足で、首輪をつけていたからだ。

 だが——違う。

 それは人だ。手足がない男たちとは違う国の少女だ。

 肘から先、膝から先が、切断されている。

 裸体。

 背中に、焼き印が捺されている。

「ほら、メス犬、顔をあげてみろ」

 顔を見て、息が、止まった。

 千鶴だ。

 成長した彼女だ。

「これが私のペットだ。皇國でいう下級貴族の娘ということで、躾けるのに少し手間取ったが、なかなかだぞ」

 金髪の男の声が聞こえた——笑いながら。

「⋯⋯」

「ほら、メス犬、鳴いてみろ」

 面影は残っている。

 目が死んでいる。ガラス玉のように、光を反射するだけだ。

「ほら、鳴け」

 千鶴の唇が動いた。か細い声。

「⋯⋯ワン」

 男の靴に額を擦りつける。舌が伸びる。

(やめろ!)

 全身を何かが駆け巡った——熱い。怒りだ。いや、恐怖だ。両方だ。

 拳が勝手に握られる。爪が掌に食い込む。

「いや!」

 俺の叫びが空間を引き裂いた。

 視界が——弾けた。

 色が戻る。音が戻る。


 目の前に千鶴がいた——無傷の。生きている。心配そうに俺を見つめている。

 その姿が、先ほどの恐ろしい未来と重なる——二重写しのように。

 また、脳内に文字が浮かぶ。


 ——天算眼(てんさんがん)・回数無制限——


 右目から見える千鶴の姿が——変わった。

 通常の視界とは違う。

 彼女の周りに淡い光の粒子が舞っている——キラキラと。

 その上に数値が浮かんでいる——明確に。

 暗い未来を見せた右目が、今度は優しい光を放っている。

 千鶴が祝福されているように見えた。


 筋力: 7

 敏捷性: 13

 耐久力: 9

 知力: 15

 判断力: 13

 魅力: 17

 神くず:【刃羽の加護】


(なんだ、これは——)

 数字——?

 人を、数値で、見ている。

 またか。

 喉の奥に、苦いものが這い上がってくる。

 ゲームと、同じだっていうのか。この温もりや、風の春の匂いも偽物なのか。

(違う! これは現実だ!)

 だったら、千鶴の「魅力17」。「知力15」。

 その数字が、彼女を守るための、情報に思えた。

「曉人さま? 何があったのですか?」

 千鶴の声が耳に届いた——現実の。

 考えるより先に、身体が動いた。

 腕が、千鶴を抱きしめていた。

 温かい。生きている。

 心臓が動いている。ドクン、ドクン。

 彼女の鼓動が、俺の胸に伝わってくる。

(生きている——まだ、生きている)

 リムゾムの冷たくなっていった手とは違う。

「曉人さま!?」

 千鶴の驚いた声。

 だが、離せない。あの未来を絶対に、現実にはさせない。

「必ず——」

 震える声を絞り出す。

「必ず、守る」

 俺は、誓う。

 ゲームじゃない。遊びじゃない。

 これは——俺が生きる世界だ。

「君を。清香を。雪路を——この国の、すべてを」

「あ、曉人さま⋯⋯痛いです」

 戸惑いの声が耳元で囁かれる——吐息のように柔らかく。

 ハッと我に返った。

 腕を離す。慌てて一歩後退する。

「す、すまない。失礼なことをした」

 千鶴の頬が赤く染まった——桜色に。小さく首を振る。

「いいえ⋯⋯守ってくださるなんて、誰にも言われたことがなかったので⋯⋯」

 その時、屋敷からの声が、さらに近づいてきた。

「曉人さま! 千鶴さま!」

「こっちです。こっちに来てください!」

 足音が草を踏む音。複数の人間が走ってくる。

 感情が濁流のように渦を巻く。

 額から汗が滴り落ちる。顎を伝って。止まらない。

「すみません⋯⋯せっかくのお見合いを⋯⋯」

「いえ、また会えますか?」

 千鶴が尋ねてくる——その琥珀色の瞳が、真っ直ぐ俺を見つめている。

 俺は答えた——迷いなく。

「必ず」

 その一言に、全てを込めた。

 未来を変える。絶対に変える。

 あの光景を——現実にはさせない。


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