第一章 異世界のゲーム ⑥
それは『七女神大戦』の皇國の守護神の名前そのものだった。
俺の中で背筋が凍り、全身の血が一気に引いていくような感覚に襲われた。呼吸が浅くなり、視界が狭まる。
「曉人さま、大丈夫ですか」
「⋯⋯」
俺は芝生の上に四つん這いになった。
(嘘だろ……この世界は……あの『七女神大戦』の世界だったのか。よりによって、最弱国の皇國に転生したってことか……ストラテジーゲームの名もなき一般人に転生してどうしろって言うんだよ)
ゲームの記憶が鮮明に蘇る。
皇國は花葬朽姫と三十五歳で死ぬ代わりに奇跡が起きる契約を交わすことができる。
プレイヤーの多くは序盤でその選択をする。
(それでも、皇國は弱い。軌道に乗るまでに最短でも十五年はかかる)
俺は目眩を覚えた。
「曉人さま、曉人さまぁ!」
「⋯⋯」
「誰かいませんか、誰か来てくださいませ!」
千鶴が俺の肩に触れる。
時間が経てば経つほど力を増すため、他国は初手で皇國を属国化する戦略をとる。
(白桜蔭家なんてゲームに登場しない。時期はいつだ? もしこれが本編ですでに数年経過していたら目も当てられないぞ)
ゲーム内の敗戦国への仕打ちを思い出し、冷や汗が背中を伝う。
画面上では、皇國は滅亡しました。
皇國の民の末路は酸鼻極まるものとなるというメッセージのみが表示される。
区域が奴隷居住区に変わり、監視官を配置するための邸宅が建設される。
性別や年齢によって異なる奴隷育成プログラム。闘技場での娯楽の提供。特に愛玩用や労働用など、用途別の「加工」施設。敗戦国の民を「資源」として効率的に管理するシステム。ゲームでは単なる数値上の最適化として淡々と選択していたことが、この世界では恐るべき現実となる。
国是として選べる「敗戦国浄化」や「臣民管理強化」といった政策の裏に隠された非道さもある。ゲーム内では単なるバフとデバフの調整でしかなかったが、現実世界ではそれは拷問、強制労働、民族浄化、そして組織的な性的虐待という名の地獄を意味するのだろう。
「しっかりしてくださいませ!」
千鶴の心配そうな声が遠くから聞こえてくる。
酸素が足りなくなったように、喉が締め付けられる感覚。
パニックに近い状態だった。
(もし皇國が敗れたら、清香や雪路は⋯⋯)
想像するだけで胸が締め付けられた。
「顔色が悪いです! ゆっくりと息をしてください、曉人さま!」
千鶴の必死の声で我に返った。深く息を吸い込む。
「す、すまない。ちょっと目眩がしただけだ」
俺は額の汗を拭った。
「本当に大丈夫ですか?」
千鶴の澄んだ瞳には純粋な心配の色が宿っていた。あらためて千鶴の顔を見た。
琥珀色の大きな瞳に長い睫毛、幼さの残る柔らかな頬に桜色の唇。繊細な顎のラインと、上品な鼻筋。整った顔立ちには、将来の美しさを約束する気品が宿っていた。
先ほどの彼女の羽ばたきで皮紐が切れたのか、俺の右目を覆っていた眼帯が滑り落ちた。
「あっ! 曉人さまの眼帯が!」
千鶴が驚いて指さした。
俺の右目が開いていく。
閉じていた瞼が自然と上がり、世界が違って見える。
まるで現実の上に別の層が重なったかのようだ。
——未識眼・残り三回——
その文字が脳内に浮かんだ瞬間、視界が暗転していく。
まるで古い映画のような映像で異国の光景が広がる。
美しい西洋を思わせる建築物がそびえ立つ広場だった。黒い肌と金髪の身なりのいい男たちが談笑している。その足元には——。
手足を肘と膝から先で切断され、裸のまま首輪を付けられた少女がいた。
それは間違いなく千鶴だった。
成長した彼女の顔は面影を残していたが、その目はガラス玉のように輝きを失い、虚ろに虚空を見つめている。
彼女の体には所有者の印と思しき焼き印が刻まれていた。
「これが私のペットだ。皇國でいう下級貴族の娘ということで、躾けるのに少し手間取ったが、なかなかだぞ」
金髪の男が笑いながら仲間に語りかける声が聞こえた。
「ワン、ワン」
千鶴は悲しく鳴くと、短くされた二本足で立ち上がり、男の手を舐めはじめた。
恐怖と怒りが俺の全身を駆け巡った。
「いや!」
俺は叫び、意識が現実に戻る。
すると、千鶴が目の前で俺を心配そうに見つめていた。その姿が、先ほどの恐ろしい未来と重なる。
——天算眼・回数無制限——
右目から見える千鶴の姿は、通常の視界とは異なっていた。
彼女の周りには淡い光の粒子が舞い、その上には数値が明確に浮かんでいる。
筋力: 7
敏捷性: 13
耐久力: 9
知力: 15
判断力: 13
魅力: 17
神くず:【刃羽の加護】
「曉人さま? 何があったのですか?」
千鶴は心配そうに俺を見つめていた。
俺は思わず千鶴の肩を掴んだ。
「絶対に守るから!」
自分でも驚くほど強い声だった。
千鶴の未来に見た光景を、絶対に現実にはさせない。そう心に誓った。
「え⋯⋯」
千鶴は驚きの表情を浮かべた。
「あなたを、そして皇國を守る。必ず」
俺は彼女を抱きしめていた。小さな体が震えているのを感じた。
「曉人さま⋯⋯」
戸惑いの声が耳元で囁かれる。
俺は我に返り、慌てて千鶴から離れた。
「す、すまない。失礼なことをした」
千鶴は顔を赤らめ、小さく首を振った。
「いいえ⋯⋯守ってくださるなんて、誰にも言われたことがなかったので⋯⋯」
その瞬間、屋敷からの声がさらに近づいてきた。
「曉人様! 千鶴様!」
「こっちです。こっちに来てください!」
足音が近づいてくる。
動悸が収まらず、俺は滝のような汗を流し続けた。
「すみません⋯⋯せっかくのお見合いを⋯⋯」
「いえ、また会えますか?」
千鶴が尋ねてくる。
俺は確かな口調で答えた。
「必ず」
その約束には、必ず未来を変えなくてはいけないという決意が込められていた。