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皇國の白き魔女  作者: 花園野リリィ
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第一章 異世界のゲーム ⑤

 日本庭園が一望できる白桜蔭家の応接間で、お見合いの用意が整えられた。

 隣の部屋から笛の音が流れてくる——澄んだ音色が障子を透して響き、空気を震わせる。

 座布団の縁を指先で何度も撫でる。絹の感触が滑らかすぎて、逆に落ち着かない。

(さっき、ちらっと見たけど生演奏だぞ。どんだけ金がかかってるんだ)

 背筋を伸ばす。肩甲骨を寄せる。丹田に力を込める——だが、膝の上の拳は、いつの間にか固く握られていた。

「曉人いいですか?」

 雪路の声に、喉が小さく動いた。

「はい」

 頷く。だが、その動きは人形のように硬い。


 ——消極的に見合いに挑む。


 心の中で、その言葉を繰り返す。爪が掌に食い込んだ。

 十歳だから早すぎる、とか——そういうことじゃない。

 本当の俺(曉人)がもし、戻ってきたら。

 知らない女が「婚約者です」と微笑んでいたら——。

 瞼を、ぎゅっと閉じた。

 閉じた目の暗闇に、知らない女が立っている。「婚約者です」と微笑んでいる。

 そのとき——あいつは、どんな顔をする?

 喉の奥が、苦く締まった。

 

 俺は——あいつの人生を、盗んだ。

 母親も、妹も、この家も——すべて、あいつのものだ。

 

(だったら、せめて——せめて、未来くらいは)

 俺は下唇を噛み締めた。痛みが罪悪感を薄めてはくれなかった。


「そろそろよ」

「はい」

 雪路に頷く。顔がこわばるのがわかる。

「お兄さま、気合が入ってますね」

「え? あ、うん」

 白桜蔭家からは雪路、俺、そして、ちょこんと脇に控える清香がいる。

 清香は静かに座っているが、聡明な瞳で分析しているに違いない。

(なぜか俺も監視されている気分だ……いや、あの目は、相手もその親も同時に値踏みするに違いない)

 俺はすでに喉が乾いて仕方なかった。

「それでは、白椿彪さまをお連れします」

「ええ、お願いします」

 女中が相手を呼んでくる。

 両親とともに、やってきたのは相手の少女も俺や清香と同じで、おかっぱ髪だった。どうやら、成人前の男女の髪型なのだろう。

 同じ髪型だからこそ、如実に美醜の差がはっきりとする。残酷なほどだ。

 最初に訪れたのは白椿彪家の令嬢、文菊(あやきく)だった。

 十歳とはいえ、背筋は一本の糸で吊られたように真っ直ぐで、視線は俺を通り越して遥か彼方を見据えている。

 髪が光を反射している——黒いはずなのに、青みがかって見える。整髪料か、それとも髪質の問題か。

 着物の襟元から覗く首筋——白い。異常なほど白い。まるで血が通っていないような白さだ。

(完璧すぎる。作り物みたいだ)

 彼女の目が俺を捉えた——その視線には、まるで商人が玉石を鑑定するような冷ややかさがあった。

「白桜蔭様、ご機嫌いかがですか?」

 彼女の挨拶は礼儀正しく完璧だったが、その声音には温かみがなかった。

「ありがとう、元気にしています」

 俺の返答に、彼女は薄く微笑んだ。

「落馬されたとか。馬術はお上手ではないのですね」

 文菊の唇が弧を描いた。しかし、目は笑っていない。

(初手で、嫌味かよ)

 俺は片頬を引きつらせながら、答えた。

「馬も乗り主の資質を見極めたのでしょうかね?」

「まぁ、面白いことを仰られる」

 文菊の扇が開き、口元を隠した。

(面白いだと? 本気で言ってるのか……それとも馬鹿にしてるのか? 読めない)

 俺たちの会話は続いた。

 文菊の視線が、俺の顔を這った。

 額——一拍。

 鼻筋——二拍。

 唇——三拍。

 そして、眼帯——四拍。

 まるで反物の織り目を一本ずつ確かめるように、彼女の瞳が俺の顔を区切っていく。

 喉の奥が、じわりと熱くなった。


(完全に白桜蔭家のスペックしか見てない目だ……)


 無意識に袴を掴んでいた。布が皺になる。指先が痺れるほど強く握りしめていたことに、数秒後に気づいた。


 前世の記憶が蘇る。

 小学校の校庭。女子たちが俺の前を通り過ぎるとき、視線を逸らした。あの頃はわからなかった——なぜ自分だけ避けられるのか。

 だが今ならわかる。きっと親が命じていたのだろう。

 施設の子と仲良くするなと。


 無意識に袴を掴んだ。布が皺になる。

 そのレッテルが《《施設の子》》から《《名家の長男》》に変わっただけだ。

 見られている——またあの感覚だ。人ではなく、記号として。

 俺と言う人間の前に記号という巨大な壁が聳えている。


 途中からは会話が途切れた。

 文菊の扇が静止し、彼女の両親の顔に薄い汗が浮かぶ。父親が咳払いをし、母親が娘の袖を引く。だが文菊は動じず、ただ庭を眺めるように視線を逸らした。


 二番目に訪れたのは白桃泉家の娘、桃子(ももこ)。襖が開いた瞬間、弾んだ声が部屋に飛び込んできた。

「失礼しまーす!」

 桃子は部屋に入るなり、きょろきょろと首を左右に振り、調度品を一つ一つ確認するように目を走らせた。座布団に腰を下ろす前に、壁の掛け軸の前で立ち止まり、小さく「へえ」と息を漏らす。

 桃子は十四歳とあって身体つきも大人びていたが、その仕草には飾り気がなかった。

 いきなり握手を求められた。

「曉人くん、はじめまして!」

「は、はじめまして」

 形式ばらない挨拶に、雪路の眉間に小さな皺が刻まれた。しかし俺の肩は、ほんの少しだけ下がった。

 しかし、それもすぐに落胆に変わった。

「私の夢はね、うちの織物店を皇國中に広げることなの! うちの織物はね、丈夫で色が綺麗だって評判なの。これを皇國中に広めて、白桃泉家の名を轟かせたいの」

 桃子の目が輝いた——まるで金貨の山を前にした商人のように。手が宙で小刻みに動き、指先が何かを数えるように折り畳まれていく。

「父と母は『女の子は控えめに』って言うけど、私は商才があるの。ねえ、曉人くんは私のような妻をどう思う?」

 彼女の率直さに、俺の口が半開きになった。頭の中で言葉を探すが、見つからない。

「その活発さは素晴らしい資質と思います」

「でしょ! わかってるなぁ。それにね、跡継ぎも大事よ! 商売繁盛のためにも、子宝は多い方がいいわ。だから、結婚したらすぐにでも励みましょうね!」

 桃子は満面の笑みで言い放った。頬が紅潮し、目が爛々と輝いている。

 俺の思考が——止まった。

「……ん? どういう意味ですか?」

 声が、掠れた。

 うなじに汗が滲んだ。


(すぐに、って——何を、励む?)


 膝の上で、両手が小刻みに震え始めた。


 俺の喉が小さく動いた。俺の返答に、桃子は余裕の微笑みを浮かべた。

「まだ、曉人くんはわからないか」

「いえ、わかります。逆にあなたは意味がわかって言ってますか?」

 思わず聞き返してしまった。

「もちろんよ。白桜蔭家と白桃泉家の未来のために、子どもをたくさんつくることは大事な『投資』じゃない」

(投資だと、確かに昔は子どもを労働力と見ていたらしいが、子供をなんだと思ってんだ。しかも言い方が生々しすぎるわッ!)

 奥歯を噛み締めないと、喉元から罵倒してしまいそうだ。

 俺の手のひらに、じんわりと汗が滲んだ。

 しかし、そんな俺の動揺を別の意味で解釈したようだ。

「あら? もしかして曉人くん、もうそういう《《情事》》に興味津々?」

 桃子は目を輝かせ、体を前に乗り出した。袖が俺の膝に触れそうな距離まで顔が近づく。

「いや、待てください」


 俺は毅然と拒絶した。


「ふふん、まあ、私の方がお姉さんだし、最初は私が導いてあげるから、安心してちょうだい」

 桃子は得意げに胸を張り、片目を閉じてウインクしてきた。その仕草は、まるで年上の遊女が客をあしらうようだった。

(リードだと? 何をリードする気だ……てか、この子、絶対意味わかってないだろ! わかってないと言ってくれ、じゃないと、怖い! ある意味一番怖い!)

 俺の背筋を、冷たいものが這い上がった。

 俺は桃子を止めるように、彼女の両親に目配せした。

 しかし、彼らの目は爛々と輝き、父親にいたっては座布団から浮きかけた。母親の手が膝の上で何度も擦り合わされ、乾いた音がした。

 雪路から断るときの言葉を聞いていた。

「春の花びらが舞うように、時が教えてくれるでしょう」

 そう言って微笑むと、桃子の眉がみるみるつり上がった。

 二組が部屋を去ると、全身から力が抜けていった。肩が落ち、首が前に傾ぐ。


(魂が吸い取られた気分だ……)


 女中たちが静かに部屋に入り、机の上の茶器を片付け始めた。立てかけてあった屏風が取り除かれ、より簡素な家具が運び込まれる。金の装飾が施された茶碗が、素焼きの質素なものに置き換えられていく。

 どうやら、家の格によって家具などに差があるようだ。

 次の相手はかなり格下なのだろう。調度品からもわかるし、雪路は最初に白蝋梅(はくろうばい)家は学識が深いが財政が厳しいと評していたとおりなのだろう。

 それなら、さらに両親も前のめりにくるのではないだろうか。

(相手に納得させるよりも断るほうが、数倍疲れるなんて知らなかった。すでに大手の商談よりも疲れるのに⋯⋯こりゃ、きっと最後も⋯⋯骨が折れるぞ⋯⋯)

 深く息を吐く。肺の奥まで使い果たしたような脱力感があった。俺の中では白椿彪家の文菊、白桃泉家の桃子をそれぞれの評価は固まっていた。

 だが、俺の隣で背筋を一本の糸で吊られたように伸ばし、微動だにせずに座っている妹の評価を聞いてみたくなった。

「どうだった?」

「どちらも駄目ですね」

 清香の答えは、一刀両断だった。

 それには雪路も同意見らしく頷いている。

「文菊さんは表向きは礼儀正しいですけど、お兄さまを見下していました。あの方はきっと結婚後もお兄さまを立てることはできないでしょう。女の四徳である『従順』『貞節』『内助』『柔和』のすべてに素養がありません」

「五歳だよな?」

「はい」

 清香の瞳が俺を捉えた——その目には、疑問の余地などないという確信が宿っていた。

「⋯⋯」

「それに、白椿彪家は最近、朱家の令息と密会を重ねていると聞きます。きっと二股をかけています」

 雪路も頷いて評価を述べた。

「文菊さんは美しいけれど、心の獣を飼い慣らせていなかったわ。いずれ、自分の獣に振り回されて大きな問題を起こすでしょう」

「桃子さんは?」

「商家の活気はありますが、抑えが利かないでしょう。金勘定が露骨過ぎます。それになにより⋯⋯品がありません」

 母親の評価に清香はうんうんと頷いている。

 清香と雪路の会話を聞きながら、俺は気づいた。

 

(これは——データ分析だ)

 

 文菊の視線の動き。

 桃子の指先の動き。

 言葉の抑揚。呼吸のタイミング。二人の両親との関係性。

 すべてを観察し、パターンを見つけ、予測している。

 それは——前世で、俺がやっていたことと、同じだ。

 

(恐ろしい。この二人、天性のアナリストじゃないか)

 

 《《この二人の彗眼は、俺にも向けられているということだ》》。

 背筋が、ゾクリと震えた。


 女中たちが準備を整え、最後の訪問者を迎える準備が整った。

(この世界で生きるなら、もっと相手を見抜く目を磨かないといけないってことか)

 どうやら、結婚一つも政治の一つのようだ。

 そう思いながら、俺は次の候補者の到着を待った。

(残るは白蝋梅家か……財政難らしいし、一番ガツガツ来るんじゃないか? もう勘弁してほしい)

 俺は投げやりな気分だったが、約束の時刻になっても白蝋梅家の一行は現れなかった。

「遅いわね」

 雪路の眉間に縦の線が刻まれた。

「格下の家が主家を待たせるなんて⋯⋯いえ、お兄さまの貴重な時間を奪うなんて、無礼ではありませんか?」

 清香の声が低く沈み、膝の上の拳が固く握られた。

 さらに十分ほど過ぎたところで、白蝋梅家の使用人らしき年配の女性が慌てた足音とともに現れた。

 着物の裾が乱れ、額には汗が滲んでいる。

「大変申し訳ございません!千鶴(ちづる)お嬢さまが……お庭で迷子の小鳥を見つけられたとかで⋯⋯」

 使用人は床に額をこすりつけるようにして平伏し、肩が小刻みに震えていた。

「屋敷のどこかにいるはずなのですが」

 俺の体が勝手に動いた。

「庭を見てみましょう」

 なぜそう言ったのか自分でもわからなかったが、じっとしているのが嫌だったのかもしれない。

 襖を開けた瞬間、緑の匂いが鼻腔を満たした。

 湿った土と、苔の青臭さ。そこに混じる、微かな花の甘い香り。

 深呼吸をする——肺の奥まで冷たい空気が入り込んでくる。身体の芯が、ほんの少しだけ軽くなった。

 足が、砂利を踏む。ザク、ザク、ザク——その音が規則正しく響くたび、さっきまでの窒息しそうな応接間の空気が、少しずつ剥がれ落ちていく。

 石灯籠が木漏れ日を受けて、影を池に落としている。水面が風に揺れるたび、光の粒が散らばって、また集まる。

 大きな櫻の木の下に来たとき、何かが視界の端に入った。小さな影が空を切り裂いて落下する。

(なんだ、鳥の巣箱か? いや、これは……下駄。なんでこんなところに?)

 それは女性用の小さな下駄だった。見上げると——。

「あっ!」

 木の上に一人の少女がいた。十二歳ほどの少女が、高さ五メートルほどの太い枝に腰掛け、体を限界まで伸ばしている。

「危ない!」

 思わず声が出た。

 少女の肩が跳ね、顔が下を向いた。

「あ、白桜蔭さま⋯⋯」

 彼女の口元が弧を描いたが、その目は申し訳なさそうに揺れている。着物の裾がたくし上げられ、太腿の半分まで露わになっている。髪も乱れ、簪が今にも落ちそうに傾いていた。その姿は、これまで会った礼儀正しい令嬢たちとは全く違っていた。


 俺は彼女の純粋さに、思わず見入ってしまった。


(なんだ、この子……さっきまでの二人とは全然違う)

 自然と口が開いていた。

「あなたが白蝋梅家の?」

「はい、白蝋梅千鶴です」

「何をなさっているのですか、危ないですよ」

「あの、小鳥の雛が巣から落ちてしまっていて⋯⋯」

 彼女の両手が開かれた。そこには小さな雛鳥が羽毛を震わせ、弱々しく鳴いていた。

「大丈夫よ、すぐに兄弟のところに戻してあげるからね」

 まるで赤子に語りかけるような口調だ。

 彼女の琥珀色の瞳には、計算も打算もなく、ただ純粋な優しさだけが宿っていた。

「大人を呼んできます」

「いえ、こんな姿を見られては⋯⋯どうか、白桜蔭さまだけにお留めください⋯⋯」

「でも、とっても危険だよ」

「大丈夫です。私、木登りは得意ですから⋯⋯ただ、はしたない恰好なので、あまり見ないで頂きたいのです」

 千鶴の手が着物の裾を引っ張り、露わになった太腿を隠そうとする。しかし、体勢が不安定で、風に揺れるたびに裾がまた持ち上がってしまう。

 頬が桜色に染まっていく。

「申し訳ない」

 俺は慌てて視線を地面に落とした。片方の下駄だけが草の上に転がっていた。

 下駄を履いた彼女が俺の脳裏のなかで、軽やかに歩く。着物の裾が風に揺れる。


 俺の視線は——再び千鶴に惹き寄せられる。


 巣が見えた。

 落ちた兄弟を呼ぶように、巣の雛たちが小さな嘴を開き、甲高い声で囀っていた。

「待っててね、すぐに返してあげるからね」

 千鶴が体を伸ばした。指先が巣に向かって伸びる——あと少し、あと数センチで届く。

しかし、その瞬間、彼女の足が滑った。

「きゃっ!」

 千鶴の片手が枝を掴んだが、もう片方の手は小鳥を守るように胸に押し当てられている。体が傾き、重心が崩れる。足が虚しく宙を掻いた。

 俺の目に、その光景がスローモーションのように映った。千鶴の着物が風に煽られ、髪が弧を描いて舞う。その瞬間、千鶴の背中から布を引き裂く音——バリバリという鈍い音が響いた。

 布を引き裂く音——バリバリという、生々しい響き。着物の背が裂け、そこから、光が溢れ出した。

 透明な翼。

 いや、透明という言葉では足りない。それはまるで、この世のすべての光を吸い込み、そして解き放つ結晶のようだった。

 一枚一枚の羽根が陽を受けて七色に輝き、その表面を無数の細い脈が走っている。脈が——脈打っている。生きているように。

 美しい——。

 その言葉すら、陳腐に思えた。

「⋯⋯」

 息が、できない。

 喉の奥で何かが詰まったまま、俺はただ、見上げていた。

 羽根が震えた——大きく、バサッと上半身裸になった少女が浮かび上がる。

 その振動に合わせ、空気が歪む。

 スパン——。

 桜の細枝が、音もなく切断された。

 スパン、スパン、スパン——。

 見えない刃が、次々と枝を断ち切っていく。

 美と、死が——同じ翼から生まれている。

(危ない。あれに触れたら危ない!)

 そう思いながら、俺は足が動かなかった。

 陽の光を受けて羽根がステンドグラスのように七色に輝き、それが虹色に脈打つように輝く。

「大丈夫ですか!」

 俺は驚愕の声を上げた。

 羽根が広がると同時に、千鶴の周囲の桜の細い枝が次々と——スパン、スパン、スパンと乾いた音とともに切断されていく。

 風切り音とともに、まるで見えない刀で斬られたかのように枝が落下していった。

「離れてください! 危ないです」

 俺は千鶴を見上げたまま、後退する。

 千鶴が透明感溢れる翼を震わせている。羽根一枚一枚が微かに振動し、空気を切り裂いていた。

 すると、千鶴の翼が大きく羽ばたいた——一度、二度。

 その動きに合わせ、周囲の枝が次々と切断され、風が竜巻のように渦を巻いていく。

桜の葉が舞い散る中、残っていた着物も切り刻まれていく。

 裂けた着物の隙間から覗く彼女の肌は、陽光を受けて真珠のように白く輝き、神々しくも危うい輝きを放っていた。乳房の慎ましい膨らみ、肩や腰の細さが俺の網膜に焼き付く。

 千鶴は慎重に体を傾け、雛を巣の縁に置いた。小さな命が巣の中に転がり込む。それを確認すると、羽根を広げてゆっくりと地上に降りた。


 ——天使だ。


 風の力で舞い上がった緑色の葉が彼女の周りをひらひらと舞い、まるで祝福するかのように彼女を包み込んでいた。神話から抜け出した生き物のような光景だった。地面に足をつけるやいなや、千鶴は素早く身を翻し、桜の幹の後ろに隠れた。小動物のような素早さだった。

 その背中の翼は見る見るうちに薄れていき、やがて完全に消えた。

「⋯⋯千鶴さん、大丈夫ですか?」

 俺は駆け寄りながら尋ねた。

「は、はい⋯⋯」

 弱々しい返事が幹の向こうから聞こえる。声が震えていた。

 翼の美しさに見とれていた俺だったが、ふと彼女の現状に気づき——頬に熱が集まる。

 翼が出現した際、彼女の着物は背中から完全に裂けた。

 背中全体と尻の谷間までもが露わになっていたのだ。

「あの⋯⋯着物を⋯⋯」

 言葉が喉に引っかかった。口が開いても、音が出てこない。

 前世の倫理観を持つ俺にとって、それは見てはいけないものだった。だが——見てしまった。見るべきではなかった。だが、目に焼き付いて離れない。

「み、見ましたか?」

 慌てて顔を左右に振り乱した。

 自分の髪が頬を叩く——ツヤツヤとした感覚。

「いや、その⋯⋯ほとんど見ていない」

 嘘をついた俺の声が裏返り、最後の音節が妙に高くなった。

 脳裏に焼き付いた千鶴の半裸が蘇る——拒否しようとしても、映像が鮮明に浮かび上がってくる。

「嘘です⋯⋯絶対見ています」

 千鶴の声は震え、最後のほうは泣きそうに細くなっていた。

「本当です。翼に気を取られていたんです」

「この力が出るといつもこうなってしまうんです。だから私は⋯⋯」

「とりあえず、上着を着てください」

 俺は自分の羽織袴(はおりはかま)を脱いだ。深緑色の絹地に白桜蔭家の紋が織り込まれた正装用の上着だ。目を固く閉じ、腕を伸ばして幹の陰に差し出した。布が風に揺れる音が聞こえる。

 小さな手が、俺の手に触れた——その指先はひんやりと冷たく、か細い。

 その指先から伝わる温もりに、心臓が早鐘を打つ。

「ありがとうございます⋯⋯曉人さま」

 その声には、恥じらいと感謝が混じっていた。吐息のように柔らかく、耳に優しく響く。

「さきほどは、不思議な力だね」

「曉人さまは『神くずの力』をご存知ありませんか?」

 どうやら、この世界ではこのような現象は珍しくないようだ。

(この世界は魔法まであるのか。なんでもありなんだな?)

 喉の奥で、乾いた笑いが引っかかった。

 ここは、過去の日本でもなかったようだ。

「聞いているかもしれないけど、落馬してからこっちの常識が抜け落ちているんだ」

「まぁ⋯⋯では、あの翼を見てどう思われましたか? 怖かったり奇妙だと思いませんでしたか?」

「いや⋯⋯怖くなんかない。むしろ美しかった。まるで天使のようだと思ったよ」

「⋯⋯」

「本当ですか?」

「ええ、本当です」

 桜の幹の反対側で、小さく息を飲む音が聞こえた。

「両親からは、女神さまからの授かった能力とは言え、気味が悪いものだから隠すようにと言われています」

 ——冷たい。

 その声が、あまりにも冷たくて——俺の胸の奥が、凍りついた。

 冬の夜。施設の、廊下。誰もいない食堂で、一人で食べる冷めた夕食。

(ああ⋯⋯)

 知っている。

 この冷たさを、俺は、知っている。

 隠せと言われる。近づくなと言われる。お前は、普通じゃない。ここにいていい存在じゃない。

 この子も同じなのか——。

 

 喉の奥が、熱くなった。

 目の奥が、じんわりと滲む。


 しかし、それよりも気になる単語を聞いた。

「女神?」

「はい。世界を司る七女神の一人、花葬朽姫(かそうくちひめ)さまの加護だと言われています」

「なんだと——花葬朽姫だって!?」

 俺の声が大きくなった。喉の奥から、思わず声が弾け出た。


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